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投稿番号:26163 投稿日:1998年10月01日 02時06分50秒
お名前:なかにし
 

平家物語の雑談 その3(のコピー)

キーワード:平家物語 平家蟹

コメントの種類:歴史


( Date: 1998年 6月 11日 木曜日 11:44:31 PM)


 赤間神宮の平家蟹が教経ですか? いんこさんが書いておられる「平家蟹の絵」って、赤間神宮のサイトの宝物館のページにも掲載されている「平家蟹」の青っぽい絵ですかねぇ? あれは左側が知盛さんで右側が教経さんです。 どっちがいんこさんのおっしゃるところの蟹顔か?って言われるとよくわかんないですけど (^^;)。

 でも、あの平家蟹の絵、平家一門を描いた絵の中では一番好きです。 2番目に好きなのは「新潮古典文学アルバム・平家物語」のカバーに描かれた知盛さんです。どちらもぶにょぶにょ太った公卿の姿でなく、勇ましい姿で私の理想の知盛さんにぴったりです。




いんこさんからのコメント(1998年10月01日 02時07分13秒)
 

( Date: 1998年 6月 12日 金曜日 2:21:36 PM)

はじめましてでございます。服部さんに、こちらのHPを教えていただいて遊びに
来させてもらいました。服部さんありがとうございます。
中西さんよろしくお願いいたします。

(笑)なんだか教経や知盛の「蟹顔」の事が話題になっていますが、すみません
私、赤間神宮のサイトには行ってみたんですが、HPで絵は何故かみれなかったん
です。おかしいなあ。「蟹顔」ってのは服部さんが平家物語のHPで最初に表現
されてて、面白いので私もそのまま使わせてもらったのでございます。
持ってる本で赤間神宮の絵を見てたんですが、どれなのかよくわからなくて(とほほ)
多分、変な顔は教経だろうと勝手に予測したわけです(爆) いいかげんなこと書いて
すみませーん。てへへ(笑ってごまかす)
なかにしさんも服部さんもとてもお詳しくていらっしゃいますねえ。
まだまだ平家に関しては未熟な私なので、こちらで色々と教えて下さい。
よろしくお願い致しますっ。ははーっ。ぺこり


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 02時07分38秒)
 

 いんこさん、いらっしゃいませぇ (^_^)。管理人のなかにしです。

 赤間神宮のサイトで絵が見られなかったとのことですので、私が知ってる「平家蟹」の絵を紹介するページを準備しました。

 よくよく見ると、知盛さんよりも、教経さんよりも、安徳帝が一番「蟹顔」に見えるような気がします。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時08分04秒)
 

( Date: 1998年 6月 13日 土曜日 4:08:12 AM)

今日は6月13日だから太宰 治の入水した日ですよね。私は桜桃忌というのは黄桃忌つまり黄色い桃だ
とばかり思っていたトンチンカンです。名古屋の住宅街のド真ん中に畑のあった我が家の桃の木は白桃が
実を一杯つける頃だったので勘違いしてしまったのです。サクランボのことですよね。私はこの程度の国
語力です。ちなみに桃の木はご近所からの「虫が飛んで来る」との苦情で切ってしまいました。

さて今日は金曜日で私の休みの日なので日本の原始メール友達に「義経はオウム真理教の松本智津夫に相
当」との中西さんの説を紹介しました。目的の為には手段を選ばず水夫達をまず射殺した義経という人は
身内に水夫がいたであろう土地の人達には良く思われるはずが無いですよね。「ろくな死に方はしないだ
ろう」って。無差別大量殺人ですか。まさに的確な表現ですね。

安徳天皇は実は女の子だったという説を読んだことがありますが、宗盛が傘屋のセガレだった説、同様私
には信じられません。でも安徳天皇の肖像画って女の子の顔ですよね。「平家蟹」は男の子の顔ですが。
今アクセスして見たのですが^_^ 実は私も蟹顔です。(^^;

さて「歴史と旅」6月号に憤慨しているうちにヤット後白河法皇が大原へ建礼門院を訪ねた理由が1つ分
かりました。無能な人間が権力を振り回すとこうなるという結果に自分で気が付いた、からでしょう。ま
さか自分の策に自分の首が締められるとは!こうなるんだったら平家を身近に置いとけば良かった、って
自業自得に目が醒めてやっと建礼門院を訪ねる気になったのでしょう。同行した公卿殿上人達さえ本当は
建礼門院の落ちぶれた姿に涙しただけでは無く実力者の源氏の世には自分達の落ちぶれて行く将来が見え
たのでしょう。後白河法皇は自分も「頼朝」には負けた、と認めたのだと思います。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時08分50秒)
 

( Date: 1998年 6月 13日 土曜日 9:54:33 PM)

建礼門院右京大夫と平 資盛の事を書きたいと言っておきながら全然その日が来てないですね。ごめん
なさい。

1)彦島には義経や梶原景時の記念になるものが何故か無いことについて
愛知県春日井市にも梶原景時の領地があったのですが私は全く知りませんでした。梶原景時を好きな人
って先ずいないし、土地の者にも良い領主ではなかったということと思います。例えば愛知県吉良市の
あの悪名高い人は吉良あたりでは名君として今でも尊敬されています。日本の戦史上最大の天才とされ
る義経が平家を滅ぼしたその地で跡を留めていないということは全く尊敬に値しない人物だったと思わ
れたからでしょう。水夫を先ず射殺した義経の戦法を、正々堂々戦わなかった、と彦島の人には認めら
れなかったからでしょう。また屋島での「弓流し」の話や壇の浦での「八艘跳び」の話は源氏の大将と
して「為朝の甥ともあろう者が。。。」とか「逃げ回って。。。」とか、どこが天才だって言うんだと
の反発もあったのではないでしょうか。彦島の人達の共感を得られなかった義経の跡はこうして排除さ
れたのだと思います。
2)彦島で平家は何をしたかったのか
「君住めば ここも雲井の月なれど なほ恋しきは 都なりけり」 平 行盛
木曾義仲に追われ九州に新天地を求めて落ちて行った平家ですが維義に追い出されて波の上にしか居場
所がなくなりました。天皇と3種の神器があるのだから「こちらが正当な天皇」との誇りで瀬戸内海に
君臨するつもりだったのではないでしょうか。それで東の屋島と西の彦島を押さえたのだと思います。
確かに水島や室山では勝ちをおさめて「これなら!」と京都奪還も夢ではないと希望を持ったことでし
ょう。まず京に近い屋島に安徳天皇の行在所を作り、近々京に戻れると思っていたと思います。彦島は
押さえの拠点で充分、まさか屋島が落ちるとは思っていなかったことでしょう。
3)彦島を選んだ理由とは?
彦島は西に東に流れの早い潮流渦巻く人を寄せ付けない島だったのですか。やっぱり守るに固い天然の
要害だったのですねぇ。平家にとって最後の砦だったのでしょうね。だから壇の浦で決戦をすることに
したのですねぇ。
4)彦島に人が多く住まなかった理由とは?
黄泉の国伝承面白かったです。イザナミ、イザナギの話を思い出しました。人が1度足を踏み入れたら
2度と生きては戻れない島と思われていたのかもしれませんね。1つには潮の流れ。もう1つは異人が
住んでいたのかも。日本に伝わる鬼や天狗の話。なんだか結び付いていくような気がします。
5)源氏と平家の決定的な差とは
平家って最後の最後まで美が伴ないますよね。壇の浦で戦い破れたあとの海の様子、そこに輝く落ちゆ
く夕日にさえ。戦い方にしても生活にしても。「滅びの美学」という言葉は平家にしか使えないですよ。
一方源氏は血の気が多くサイギ心が深くそして裏ワザが得意。武士の伝統的な戦い方を引っ繰り返し、
一の谷でも屋島でも背後から襲って勝利を得るんですものね。壇の浦では水夫を先ず射殺したなんて。
これで天才義経と呼ばれるのは中西さんには許せないし、武士道を尊んできた筈の日本人の意識にも反
してますよね。勝つ為には手段を選ばなかった義経をどう思うかでその人の人間性が見えてしまいます
ね。那須与一も屋島で扇を射落とした後、称賛して舞を披露する平家の侍を射殺していますものね。
源平合戦とは日本の政治形態を変えただけでなく日本人の美意識も変えてしまった戦いだったのですね。

いんこさんからのコメント(1998年10月01日 02時09分17秒)
 

( Date: 1998年 6月 13日 土曜日 10:24:09 PM)

「平家蟹」の絵、見ました。ありがとうございます。なんとも不思議な絵(?)ですね。いつ頃、誰が描いたものなのですか?
わたしはヴィジュアル面的な平家はあまりよく知らないのです。これからもこちらで色々な平家関連の絵の変わった絵(?)の
ことなど教えてくださいませ。知盛と教経の間に寝っ転がってる?(笑)人物は誰ですか??
彦島と赤間神宮にはぜひ行ってみたいです。

「義経、松本ちづお説」(笑)面白いですね。子供の頃に読んだ平家物語の中には那須与一の話はただの美談としてしか載って
ませんでした。後にちゃんとした(?)平家を読んで、扇を射た後に、与一の技に感心して舞いを踊っている平家方翁を射殺して
たのを知って、ムカツキ(笑)ました。これは義経が命令したと「平家物語」にはありますよね。本当なのかどうかは解らない
ですが、なんとなく義経なら言いそうな気がします。私の中では無神経な男ってイメージが強いし・・・一種の天才だとは思い
ますが、人間としてはっきり言って義経って苦悩があまり感じられないのです・・(あ、生意気言ってますね私・・すみません)
義経好きな方ごめんなさい。別に大嫌いではないんですけど。

「歴史と旅」6月号、私も買いましたっ。
後白河法皇の大原御幸はなかったっていう説もありますが、「玉葉」やその他の日記類に載ってないから行ってないっていうのも
わかんないような気がします。宗盛が生け捕られて都に帰ってきた時にわざわざ見にいったイヤナ奴(笑)ですものねぇ。それは
日記に書いてあるから大原に行ってれば絶対に載ってるはずってありますが・・。法皇のことだから宗盛の時みたいにバレないように
ズル賢く立ち回って行ったかもしれないし(笑)。服部さんがおっしゃってるように法皇も少しは挫折感を抱いて大原に行ったのだったら
ザマアミロ(^O^)ですね。ふふふ とか言って後白河法皇のファンの方いらしたら又ごめんなさいです。
なんか子供みたいなことばっかり書き込んでますね私。すみませーん。てへへ(また笑ってごまかす) お騒がせいたしました。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 02時09分55秒)
 

( Date: 1998年 6月 13日 土曜日 11:52:13 PM)

 いんこさん、こんばんは。

 「平家蟹」は森田暉平という人が鎮魂のために描いたものだそうです。赤間神宮発行の図録によると高さ193cm,横120.5cmだそうです。けっこうおおきいですね。この作者は、琵琶法師を題材とした鎮魂画も作成されたそうです。森田暉平氏がいつ頃のどういう人かはよくわからないので調べてみます。ご存じの方おられましたら教えて下さい。ねっころがってる人は教経さんに斬られた源氏側の誰かでしょうか。

 後白河も末期に頼朝派に周りを固められたときはみじめだったでしょうねぇ。私だったら・・・やはり、義理の関係とはいえ娘が近くにいれば遊びに行くかも(笑)。ま、末期を見ればかわいそうな人ではあると思います。

 義経については、世間ではあまりによく伝えられすぎてると思います。年少者向けの読み物などは私が見た限り、完全に悲劇の美男子に祭り上げられています。義経の好きな方に言わせると「そういう時代だったのだから仕方ない」という返事が戻ってきますが、どういう時代であろうと戦に関係のない人を壇ノ浦に限らず戦のたびに大勢殺していますし、いんこさんも描かれていますが、扇の的のセンスのない行為といい、ちょっと違うと思います。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時10分21秒)
 

( Date: 1998年 6月 14日 日曜日 4:20:13 AM)

「平家蟹」の絵を私は鎌倉時代以降江戸時代までに描かれた絵とばかり思っていました。本当、よく
見ると二人の間に刀を杖に*起き上がろうとする*武士が描かれてますね。私は平家方の武士だと思う
のですが。案外森田氏の御先祖だったりして。(お2人には*倒れている*武士に見えるのですか?)

私は来年鬼が笑おうとも春には休暇を取ります。絶対に彦島と赤間神宮に行くのだ。会社から3泊位
ホテル代を出して貰えるから下関で1泊して伊賀で1泊して。。。と考え中です。

義経ってナーンか明かるいですね。分かってないというか。思慮が足りないというか。ノコノコ奥州迄
行ってしまうし。父親が同じなら自分は頼朝と同等の兄弟と思い込んでいるし。頼朝にとって母親が違
う上、美貌で父の愛人になった下女の生んだ腹違いの弟なんて「下僕の1人」でしかない、と思ってい
ることが全く分かっていない。こういう明かるさ?「ノーテンキ」ぶりも当時の日本人の感覚には無か
ったんじゃないかと思います。普通、発想の違う人間って日本では社会から追われるのに(秀吉同様)
義経は愛されているから天性の明かるい性格だったのかしら?義経の実際の姿はチビでデッパらしいの
にイメージとしては美男子で女にもてるタイプに変わってる。虚像が愛されるスター性では日本1の男
なのでしょう。トクな人です。


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 02時11分13秒)
 

( Date: 1998年 6月 14日 日曜日 7:25:07 PM)


 安徳帝、二位の尼(だと思う)、知盛さん、教経さん、の表情は執念というか、怨念というか、そういうものを感じる姿ですが、間の倒れている人には、そういった恨み辛みが感じられません。ですから、源氏では? 来年の春確かめましょう (^_^)。

 しかし、いんこさんから話題に出るまではそれほど気にしたことはなかった絵なんですが、こうしてよく見るといいですよ。これは。この執念の表情が知盛さんや教経さんにはふさわしいです。


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 02時13分14秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 0:23:07 AM)

なかにしさん、服部さん、お世話になってます。こんばんわ。
「平家蟹」の絵のこと色々教えて戴きありがとうございます。この絵は
赤間神宮の本でないと載ってないんでしょうか。載ってる本がほしいです。
なんだかひかれる絵ですね。倒れている人物が何故かとても気になりまする。
知ることができてうれしいです。本当にここのHPは勉強になりますっ。
絶対に私も彦島、赤間神宮にいきますぞ!! ほほほ

絵と云えば、佐久間智代が「平家物語」シリーズの漫画の中でふれている
菊池契月が描いているという敦盛と経正の絵も見たいのですが、画集とか
出てるのでしょうか・・もし、御存じでしたら教えてくださいませ。
京都市立美術館に絵はあるということですが、いつも公開してるかどうか
わからないし・・

教経のことなんですが、本当は一の谷で死んでるっていう説(?)がありますよね。
やっぱり、「玉葉」や「吾妻鏡」にそう書いてあるからという・・・
ああ、でも私はそうは思いたくないです。しくしく。やっぱり教経には壇の浦で
華々しく死んでて欲しいんですー。(勝手な女ですかねえ)「新平家物語」の中の
教経がとても好きなので乙女(笑)の夢を壊さないでほしいです。(TOT) よよよ


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時13分45秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 10:58:01 AM)

私は今日仕事中に義経の事を考えておりました。他の皆さんは対アルゼンチン戦で盛り上がっていたと
いうのに。結論としては、ヤッパリ性格が壊れていたんだろう、と思うのです。あの明かるさで何をし
ても許されると思っていたのではないか。秀衡でしたっけ?オヤジさんの方。あの人が生きてた時は大
きな態度で居候していられたと思うのですが兄弟間のゴタゴタもあったわけだからオヤジさんが亡くな
ってからは自分が転がり込むにはマズイんじゃないかと普通の人は考えると思うのですが。自分の兄の
頼朝と藤原家が自分の事で争うようになってはマズイと普通の人なら考えると思うのですが。義経とい
う人は人間の心の中の計算は全く思考回路に入っていない人のようです。「弓流し」で弱い弓を使って
いるのを敵に知られたくないような人物が弓の事には見栄を張って、正々堂々戦うことには頓着せず裏
をかく手は次々と考えつく。義経のような人は精神分析学の方ではどういう診断になるのでしょうか?


越智裕 さんからのコメント(1998年10月01日 02時14分35秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 11:53:33 AM)

 なんだかみなさん義経についての話題で盛り上がって(?)いますね。
確かに、義経は大量虐殺者であり、時代の流れを読み切れなかった人物ではあります。頼朝の意図も分からず、
後白河法皇に利用され、奥州の藤原氏にも迷惑かけっぱなし。静御前も幸せにすることもできず・・・
結局、周りに不幸を運んできただけの疫病神男ような気もします。(そして一番割を食ったのは平家一門と安徳帝・・)
ただ、一般的に流布している悲劇の英雄的な描かれ方をしているぶん、本家の「平家物語」での義経を見ると
幻滅の度合いが大きくなってしまうような気も。
でも、本家の平家物語と言うモノも歴史書ではなく、「かたりもの」であり長い時間をかけて作られた「ものがたり」
であるわけです。つまり真実のみを述べてあるわけではない、と言うことです。
こういってしまうと、歴史上の人物に関して語ることは無意味なように思えますが、少なくとも平家物語にかかれている
ことがすべて真実なわけではないと認識した上で歴史上の人物を語るべきではないかと思うのですが。
生意気なことを言ってます。すいません。

越智裕 さんからのコメント(1998年10月01日 02時15分05秒)
 

 すみません。先ほどのコメントの続きです。
一気に一つのコメントで収まらなかったのは専門学校の授業中だったせいです。
少し冷静になって自分のコメントを見ると、いささか感情的になっているようで恥ずかしく思います。
どうも、私は個人的に思い入れのある人物についてだと贔屓の引き倒しになってしまう傾向があるようです。
扇の的の「御状」のことについても、中学の頃、古典の授業であの命令についてどう思うかと聞かれたとき、つい、
「あの命令は義経が出したものではなくて、別の人が出したのだ」と言ってしまい、先生の失笑を買ってしまったことがあります。
判官贔屓もここまでくると病気ですね。
でも、平家物語が鎌倉幕府成立の後にできたものとするなら、やはり、反逆者義経をけなさざるを得なかったのでは?
と考えてしまうのですが。(こんなところがもう判官贔屓、贔屓の引き倒し))


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時15分34秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 4:58:27 PM)

私も、あの御ジョウ(無料のプログラムなので漢字が無いのです)は義経からの命令では無いと思って
います。1)伊勢三郎義盛はウサンクサイ男であるから自分の考えでも義経からの命令にしたのじゃな
いかと思うのです。それにこういうことって私の職場でもありますから。平安時代でも第2次世界大戦
の時代でも間に入る人が「天皇からの」だの「上さまからの」と下の者に命令してきたのが日本の歴史
の「真実」だから。2)伊勢三郎義盛とあの平家の侍のことを考えると個人的な恨みから「アイツもや
ってやれ」と那須与一に吹き込んだのだと思います。伊勢三郎義盛はどんな人物だったか誰もご存知の
通りだから書かないけれどアノ平家の侍は伊賀の家長の弟でしょ。弟といっても50を過ぎた老人だけ
ど。片や伊賀の名家の人間vs伊勢の馬の骨。そして伊賀の家長は六条院の弓のコンペで優勝した人物
で、その弟が誉め讃えて舞をプレゼントしたわけです。もしかすると家長が見ていて「なかなかの腕前
だ」と誉めてそれで弟に当たる老人が舞を披露したのかも知れません。その上源氏に付いた伊賀や伊勢
の人間は伊賀や伊勢では平家に対して浮き上がれない故の嫉妬や反発や敵意があって源氏に馳せ参じた
のだからモトモト伊勢三郎義盛には何とかして平家に対して鼻をあかしてやりたいという本心があった
と思います。私はここに伊勢三郎義盛の姑息さを感じ取って「御ジョウ」は義経からのものではない、
と思いました。
本当は義経からの御ジョウだったかも知れませんが物語を読む楽しさって行間を読むことでもあると思
います。現実には私の職場では自分に納得のいかない命令を受けた時ただちに「命令」したとされる人
物に直接問い返しに行きます。「あなたがこんな命令を出す筈が無いと思う」「私はこんなこと自分の
信念に対して出来ません」と言う権利があります。那須与一は「御ジョウ」と信じて射殺したのかしら
?それとも与一自身平家の美意識を解さない別な世界の武士だったのかしら。この章は義経、義盛、与
一3人の力関係や心の中を私に考え込ませてしまいます。私以外に「御ジョウ」は義経が出したもので
は無い、という人がいて嬉しかったです。

いんこさんからのコメント(1998年10月01日 02時16分04秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 8:52:25 PM)

もちろん覚一本「平家物語」は歴史書ではありません。フィクションが多く
含まれた語り物でしょう。そこのところは私はもちろん自覚しております。
他の皆さんも私ごときが言うのも僭越ですが、義経の事など暗黙の合意の上で
色々お話されているのだと思います。
私は清盛と教経が好きなのですが、清盛は「平家物語」では驕れるものの代表
ですね。でも私の好きな清盛像は他の文献によるところが大きいのです。

那須与一の御状の事はきちんとした推量もせずにふざけた書き方をしてしまい
すみません。
好き嫌い、倫理感は別にして、義経はやはり戦術の天才だなあと色々な文献
から読む限りでは私は思います。天才というのは良きにせよ悪しきにせよ
既成概念を破って成功をおさめる人でもあると思うので。屋島前後の彼の戦い
方を見て(?)いても、「扇事件」(笑)の時に御状を出して舞っている侍を打た
せたのが事実なら(あくまでも仮定ですが)現代人の倫理感は別にして戦略的、
戦術的には非常に効果的だったとは思います。やはり平家側に与えるショックは
そうとうなものがあったでしょうから。義経軍側の複雑な人間関係や御状は
義経が出したものではないという説もあるのは知っていますが、義経が戦いに
勝つことのみを考えてあの頃動いていたなら充分にあり得るのではないかな
という私の浅はかな考えなのでした。

歴史というものはその時その時の時代の状況によってさまざまに評価が変わって
いくものだと思います。確たる証拠というものはない世界です。だから百人いれ
ば百人それぞれの歴史観があるのだと思うので、学者やプロの物書きじゃなければ
自由に想像して楽しめるからこそ歴史は面白いのだと私は思うのです。色々な人
の意見が聞けることがまた自分の想像をふくらませてくれます。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 02時17分16秒)
 

( Date: 1998年 6月 15日 月曜日 11:23:35 PM)


 越智裕さん、こんばんは (^_^)。

>教経のことなんですが、本当は一の谷で死んでるっていう説(?)がありますよね

 冷凍技術もない時代に生首を運ぶのだから、実際の所、首を取ったときに勘違いしてしまうと、その後は訂正することは不可能でしょうね。>いんこさん

 私は吉川英治の「新平家物語」がもっとも史実に近いのではないかと思うのですが、それによると、「首間違いだった」ということになっています。

 やっぱ歴史は自分なりに解釈して楽しむのが良いですよね。で、今時は、こんな電子会議室でお互いの意見交換もできて楽しさ100倍かと思います。史実を追求する部分と、想像する部分を上手に切り分けて楽しみましょう (^_^)。

 その点では、越智さんの先生の「失笑」がどういう意図なのかよくわかりませんけど、学校の先生というのはおもしろい歴史をおもしろくない年表暗記として教えなければならない気の毒な仕事だと思います。もっとも、一人の先生が指導する領域は非常に広いですから(私なんかは平家物語の屋島〜彦島だけ熟読していれば自分の満足は得られる ^^;)、歴史上に登場する一人一人について熟考するゆとりは先生自身にもないんでしょうね。

 菊池契月が描いているという敦盛と経正の絵・・・京都市立美術館ですか。手元には見あたらないですねぇ。今度、見にいこっと・・・


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 02時17分53秒)
 

( Date: 1998年 6月 17日 水曜日 1:29:07 PM)

知章が死んだのは16才(現代の年齢では)もしかすると14才だったかも知れないとの話にホっとし
ました。というのはここの一家は16才で子供が、それも男子が?生まれているようなので知章の子供
はどうしたのだろうと気になっていたのです。14才なら未だ目覚めていなかったのかしら?と余計な
心配の後に安心?をしました。
知盛さまの子供は私は3人(知章に知忠に知宗)しか知らなくて、この中で知章だけ子供の話が出て来
ないわけだから、壇の浦で敗れてから土に埋められたか水に沈められたかして殺されたのかしらと気に
なっていたのです。

敦盛の16才も中には13才説があるようで13才だったら熊谷直実に殺すのはしのびないと思われた
のは納得がいきます。私は歌舞伎の敦盛の写真を見て(役者がいい年のオジサン)「息子に似てるから
殺せない」というのが信じられなかったのです。16才だったら敵として充分憎しみを持つのじゃない
かと思うのです。でも13才だったら、人として「ギョッ」としたと思います。「未だ子供じゃないか」
って。そうすると出家の話が素直に信じられるのです。

中西さんは男性として中学3年あたりの男の子にどんな感情を持つのでしょう?

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 02時18分29秒)
 

 以上は旧電子会議室からのコピーです。各発言は旧電子会議室の発言をそのまま移動しています。もともとの発言のタイムスタンプはコメントの先頭行に書いてあります。また、メールアドレスは個人のメールアドレスを第三者が公開することは支障があるので、便宜上WS彦島のメールアドレスを使用しています。

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