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 投稿番号:100468 投稿日:2003年02月28日 09時36分31秒  パスワード
 お名前:皇竹
平信兼・滝野城:本姓平氏俗姓関・柳瀬

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

先日三重県飯南町にある、
平信兼が義経に攻められ自刃したと言われる滝野城へ行って来ました。
三重県松阪市より国道166号線を西へ約1時間弱。
道の駅、「飯高駅」で有馬野の所在を聞く。
櫛田側に架かる黄色い橋を渡れば有馬野の集落。
お寺を探して訪ねたらそのお寺が信兼の菩提寺と言われる浄源寺であった。
若奥様とおばあちゃんに話をきく。
平信兼が籠もった滝野城はこのお寺の裏手の山であった。
可なり急登だったので、
しばらく登山を中断していたわが身にはつらかった。
杉と桧の林を20分ほど登ると切り開かれた山頂に出た。
そこに金刀毘羅宮が祀られてあり、春秋に祭事が執り行われている。

皆さんにお見せしなければと思い、
写真は撮ってきましたが、ここに載せるやり方を忘れてしまいました。
明子さん、お願いです。
下記HPに掲載しましたので出してもらえませんか。
ご足労かけて申し訳ありません。
http://www3.starcat.ne.jp/~iseheisi/s-takinojoato.html
念のためやり方も教えておいてください。

この先、まだ40分ほど西へ行くと波瀬という集落へ行きます。
この辺に以外や以外、源氏に関する遺跡が伝わっているのです。
この先霧氷で有名な高見山を超えればもう奈良県です。

[27]なかにし@お世話係さんからのコメント(2003年03月01日 19時42分39秒 ) パスワード
  

皆様こんにちは、お世話係です。
いつも「平家物語を熱く語る」をご利用いただきありがとうございます。
服部明子さんのご依頼で写真を掲載いたします。




[28]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時35分21秒 ) パスワード
  

平信兼終焉地・有馬野の集落



三重県の中南部に位置する松阪市から、国道166号線が西に走り、
飯南郡飯高町を経て、
峻険高見峠(高見山1,249m)を越え奈良県桜井市に通じている。

この高見山に源を発する一級河川櫛田川は国道に沿って東に蛇行し、
松阪市松名瀬から伊勢湾に注いでいる。

別名和歌山街道とも言われ、大和文化と伊勢文化の接点でもあった。

この川の流域中上流部は古くから川俣谷と呼ばれ、
ここに伊勢平氏の猛将平信兼の終焉の地がある。

飯南町有馬野に築かれた。

この高城山(写真右方の山)は土地の人たちは「たかんじょ」と呼び、
険しい山上にあって杉や桧の尾根を登ると、頂上は300平方米位の平坦地があり、
一隅に金刀比羅宮の小祠が祀られている。
[29]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時38分19秒 ) パスワード
  

滝野城合戦:滝野城跡に祀る金刀毘羅宮



源頼朝が平氏追討を進めるにあたり、最も危惧したのは平氏の本拠地伊賀、伊勢の動向であった。

元暦元年(1184)三月には伊賀の守護に大内惟義を任じ、
伊勢へは大井兵衛次郎実春を差し向けて平氏残党の追捕を命じた。

五月に入ると頼朝の従弟にあたる志太三郎先生義広が源氏に叛いて、伊勢の羽取山で合戦ご行われた。

同年六月には信兼が同士を募り、
上総介忠清、富田進士家資、家能、家清入道、平田太郎家継、信兼の子息三人等と共に、
伊賀平田城に三百余人を集めて挙兵、伊賀守護の大内惟義と戦い惟義を敗退させた。

六月十九日には、驚いた頼朝が差し向けた加藤五景員父子、山内首藤経俊等と伊賀、伊勢の平氏方と
合戦が行われたが、この合戦で信兼方の武将九十余人が討たれて、七月十九日には戦いは終わったが、
敗れた信兼と子息三人は姿を消した。

この戦いに敗れた信兼は二ヵ月後、飯高郡高城山に築かれた滝野城に籠もって挙兵した。


元暦一年(1184)八月十一日、義経は、信兼が西海の平家に呼応すると聞き、伊勢三郎義盛をして滝野城を攻めた。

信兼は従う郎党百余人と共に城内に籠もりよく戦ったが、衆寡敵せず城に火をかけて信兼以下自害した。(源平盛衰記)

伊賀、伊勢における平氏の反抗はその後も続き、建任四年(1204)の若菜五郎盛高等による三日平氏の乱まで続いた。

信兼の子伊豆山木判官兼隆は頼朝挙兵の時討たれ、京都に潜伏していた兼衡、信衡、兼時の三人は、義経により謀殺された。
[30]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時40分04秒 ) パスワード
  

信兼の菩提寺・浄源寺



信兼の菩提寺は現飯南町有馬野字神原であるが、位牌などは消失しており、
過去帳の一部に元暦元年、
俗名柳瀬和泉守平信兼卿「壽元院殿歓帆誉道喜大居志」との記帳がある。
[31]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時42分03秒 ) パスワード
  

神原神社



同地に村社神原神社がある。

由緒記によれば、神原鷹民山城主平信兼は城中に三宝荒神を祀り、深く信仰していた。

元歴元年(1184)落城の後神原村・野々口村の人たちは上川の上に社殿を新築し、
神原村、野々口村の氏神として敬った
とある。
[32]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時44分48秒 ) パスワード
  

平信兼:

平信兼は伊勢平氏の流をくむ貞季流に属し、
本貫地は鈴鹿郡昼生荘にあり、関信兼とも言われている。

しかしその生年ははっきりしない。

若くして都に出て、平氏一門として北面の武士となって活躍した。

久壽二年(1155)、時の権力者藤原頼長の行列に矢を射かけるという意気盛んな若者であった。
鳥羽法皇から万一の時には、宮中へ召すべき五人の武士の一人に義朝らと共に挙げられた。
ちなみにあとの3人とは源義康、頼政、平実俊である。

翌年の保元の乱には80余騎を従え天皇方に味方し、乱後、平康弘の処刑を命ぜられるが、
戦功により出羽守(1156)に任じられ、その後も河内守(1161-1171)和泉守(1172-1180)を歴任する。

和泉守としては1183-1184に二度目の勤務が有るので、その後伊勢の所領へ帰ったのは、一の谷合戦(1184/2)の後と思われる。

信兼の伊勢の所領としては前述の昼生荘の外に、
近衛家領一志須賀荘領所、醍醐寺領一志曽根荘、波出御厨、須賀荘「信兼党類領」等があって、
伊勢地方では可なりの力を持っていた。

もともとこの川俣谷は1006年平維衡が伊勢守になって以来、
維衡流維盛らの足跡を残している(太神宮諸雑事記、兵乱記)ところである。

壽永二年(1183)七月の平氏都落ちに加わらず、一の谷敗戦後頼朝の代官、義経に合力したのは腑に落ちない事である。

都落ちに加わらず伊勢に兵力を温存したのは、宗盛との間で何らかの約束事があったのか。
後方撹乱をやる、或いはもし西国で平家が滅びた場合でも平家再興を図るようになど。

逆に全く平家の総大将となった宗盛を信頼してなかったのか。

しかしいずれにしても何処かでシナリオが狂い、悲しい結末になってしまった。


以上飯高郡史、飯南町史を参考にしました。
[33]服部 明子さんからのコメント(2003年03月02日 01時53分30秒 ) パスワード
  

以上
皇竹さまのサイト http://www3.starcat.ne.jp/~iseheisi/s-takinojoato.html
より、こちらに転載いたしました。


管理人の中西さま
写真を取り込んでくださいましてありがとうございました。
ぺこり

とてもきれいに転載出来、満足しております。(^^)
[34]皇竹さんからのコメント(2003年03月02日 09時18分35秒 ) パスワード
  

私からも重ねてお礼申し上げます。
[38]玉瀧秀男さんからのコメント(2014年10月10日 09時35分48秒 ) パスワード

最近自分のル−ツを探していましたところ、服部明子様の投稿は大変興味を持ちました。玉瀧姓は姓氏家系大辞典を見ると伊賀国阿拜郡玉瀧庄より起こり、平信兼の裔にてと有り、大変驚いています。
服部様が行かれた信兼の菩提寺・浄源寺・神原神社・滝野城等へ是非一度訪ねてみたくなりました。
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