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 投稿番号:100382 投稿日:2002年10月10日 00時43分06秒  パスワード
 お名前:服部 明子
小烏丸:平安期最高の宝剣:清盛頼盛の確執

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

頼盛一族が平家であるのに頼盛の子供達はさして高くない位に甘んじているので
その理由を知りたかったのですが
takahiro さまとメール交換している内にある事が分かりました。

そのご報告です。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 00時46分49秒 ) パスワード
  

清盛が弟の中でも忠度を可愛がった理由とも通じます。

忠度が熊野から来て京の都で肩が狭いからかばったのであろう
と思っていましたが
このかばい方は頼盛に対するあてつけだったのでは?
と穿った思いに変化して行きました。

その原因が「小烏丸」の存在だったのでは?と。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 01時06分06秒 ) パスワード
  

takahiro さまより小烏丸のURLを教えて頂きました。
詳しくは↓へどうぞ。
http://member.nifty.ne.jp/bintaro/touken/kogarasu.htm



<小烏丸 こがらすまる>


平安時代の刀で長さは約63p。

平家に代々伝えられた宝剣で、
その特徴は刀身の先端から半分以上が両刃になっていることで、
これを鋒両刃作(きっさきもろはづくり)と呼ぶそうです。

最初は固有名詞でしたが後に鋒両刃作りの刀剣を一般的に小烏丸太刀と
呼ぶようになったそうです。

振り下ろして切ったり突いたりも出来るそうです。



伝説としては桓武天皇(781〜806)が東の空を拝んでいると、
八尺(240p)もある大きな鴉(八咫鴉)が飛来し、
「私は伊勢大神宮より、剣の使者として参りました」と
1振りの剣を残して飛び立ったそうです。

天皇は
「大霊鳥(鴉)の羽から出てきた剣であるから、小烏丸と名付けよう」と言い
宝物として保管されるようになったと言うことです。

つまり小烏丸は、霊鳥を介して天皇家に授けられた神剣であるという意味です。


その後小烏丸は、天皇家を守護するものとして宮中にありましたが、
平将門の反乱鎮圧のために任命された平貞盛に節刀として授けられ、
以来平家の家宝となりました。


その後、壇ノ浦の合戦後行方不明になったとされていますが、
一方では、小烏丸という剣が皇室御物として保管されているそうです。


詳しくはURLで全文を御覧下さい。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 01時13分35秒 ) パスワード
  

忠盛(清盛・頼盛兄弟の父)がこの小烏丸の太刀を頼盛に譲ったというのです。

小烏丸は天皇から征夷大将軍に与えられた名誉の節刀ですから
平家の嫡流の自分こそが受け継ぐ家宝と思っていたであろう
清盛にはこの剣が頼盛に渡ったという事で面白くなかったと思います。


ここで謎が浮かんで来ます。
何故忠盛は頼盛に相続させたのでしょう?
[4]takahiroさんからのコメント(2002年10月10日 01時39分52秒 ) パスワード
  

服部明子様

 こちらは「小烏丸」ではなく、同じく平家の宝刀「抜丸」についてですが、
 忠盛が「抜丸」を、清盛ではなく頼盛に相伝したことにより、二人の不仲
 の原因となったとの記載が、「平治物語」(待賢門軍事)にあります。

  http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hei8.html

  上記「平治物語」現代語訳からの、抜粋です。

 この太刀を抜丸というわけは、故刑部卿忠盛が、池殿で昼寝していらっしゃ
 ったときに、池から大蛇があがってきて忠盛を飲み込もうとする。この太刀
 が枕の上に立っていたが、自らするりと抜けて、蛇にかかっていったので、
 蛇は恐れて池に戻った。太刀も鞘に帰ったので、蛇はまた出てきて(忠盛
 を)飲み込もうとする。太刀がまた抜け出て大蛇を追って、池の水際に立っ
 た。忠盛はこれをご覧になって、抜丸と名づけられたという。この(池殿
 の)腹の愛子であったので、頼盛がこれを相伝しなさったので、清盛と不仲
 になったとかいうことだ。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 01時45分25秒 ) パスワード
  

takahiro さま

「抜丸」も名前は聞いたことがありましたが
そういうエピソードがありましたか。

家宝の太刀を頼盛に相続させたという忠盛の真意はどこにあったのでしょうね・

謎がますます深まります。
でもいろいろ想像するのは楽しいですね。


清盛の父は本当は誰だったのか?など。
当時もスキャンダルだったかもですね。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 04時59分44秒 ) パスワード
  

別スレ「装束の着方」の掲示板の中にも小烏丸のお話が出ています。
過去ログが消えてしまいそうですから
参考部分をこちらにも記録しておきたいと願っております。

掲示板:
http://www6.org1.com/~ahope/freebbs5/mkres2.cgi
美術摸造刀:
http://www.n-p-s.net/kogarasumaru2.htm



先が剣で元が刀という「鋒両刃造り」の「小烏丸(こがらすまる)」
美術模造刀を扱っていらっしゃるこちらのサイト
http://www.n-p-s.net/kogarasumaru2.htm
など、御参考になろうかと存じます。
この小烏丸の拵えは、実に見事な平安式「野太刀」(実戦用の太刀)でございます。


>平安時代の太刀は「切る」と「突く」のどちらが主流か?

細太刀でございましたら突くしか方法はございませんでしょう。
但し間違いなく折れます。

野太刀でございましたら、これは突くも斬るも自在でございましょう。


>抜く時は片手と思われるが、使う時は、片手か両手か?

原則は両手でしょうが、重さや状況によりこれは何とも申せますまい。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 05時03分45秒 ) パスワード
  

貴族がはいていた細太刀は飾り化したんでしょうね。
実践用は野太刀と呼ぶのですねぇ。
知りませんでした。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年10月10日 09時17分05秒 ) パスワード
  

お蔭さまで今日は「太刀」などについてちょっと勉強しました。

鬼丸という皇室御物の太刀もあり1億3500万円の値がついてるようです???

この鬼丸はいろいろ説があり以下のURLを御覧下さい。

http://www.sunfield.ne.jp/~sunset/bukikura.htm
http://www.sunfield.ne.jp/~sunset/003.htm


鬼丸国綱は「天下五剣」の一つだそうで。



鎬造、庵棟、反り高く腰に踏張りがあり、茎にて反る。
中鋒、茎は生ぶ、栗尻、鑢目勝下り。目釘孔一つ。
佩表棟寄に「国綱」の二字銘。鍛は板目肌立ち、地沸厚く乱映りとなる。
刃文は浅くのたれて上半に大丁子刃、足・葉入り、
下半は乱刃となり荒めの沸がつく。
表裏腰刃を焼き、わずかに焼落とす。帽子刃乱れ込み先大丸ごころに返る。 
刃の長さ78.2センチ、反り3.1センチ。


日本語なのにさっぱり分からないです。 (^^;
[9]有山昌邦さんからのコメント(2002年10月16日 00時43分44秒 ) パスワード
  

私が分かる範囲で翻訳?します。

鎬造、庵棟、反り高く腰に踏張りがあり、茎にて反る。
中鋒、茎は生ぶ、栗尻、鑢目勝下り。目釘孔一つ。
佩表棟寄に「国綱」の二字銘。鍛は板目肌立ち、地沸厚く乱映りとなる。
刃文は浅くのたれて上半に大丁子刃、足・葉入り、
下半は乱刃となり荒めの沸がつく。
表裏腰刃を焼き、わずかに焼落とす。帽子刃乱れ込み先大丸ごころに返る。 
刃の長さ78.2センチ、反り3.1センチ。

しのぎつくり:一般的な太刀の形で菱形の断面と反りを持つ
いおりみね:刃の背の形を表す。他に角棟・丸棟などがある
茎(なかご):柄の部分をさす
中鋒(なかきっさき):切っ先の大きさが中くらいのもの
生ぶ(うぶ):原型のままであること
鑢目(やすりめ):茎にかける鑢の模様。作時代に特有
はいひょう:刀をはいたときに外側に来る面
鍛(きたえ):鍛錬の過程で刀の表面に出る模様。
沸(にえ):刀の表面に出る梨地模様が大きいものを沸、小さいものを匂と呼ぶ。
のたれて:刀文が波打っていること。
大丁字(おおちょうじ):沈丁花のつぼみが重なり合ったような刀文で大きいものを指す。
足・葉:刀文がとがっている様子を足、途切れているものを葉と呼ぶ
乱刃(みだれは):刀文が入り組んでいること。
焼落とす:焼きを入れる際に土のかけ方によって刀文の形と範囲が
決まるが、刃区(はまち):刃の側・により焼きの少ないもの
帽子:鋒の焼きの入った部分。

[10]服部 明子さんからのコメント(2002年10月16日 01時10分29秒 ) パスワード
  

有山さん

現代日本語訳をありがとうございます。
>茎
「くき」なんて読んではいけないのですね。
(恥)
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年10月25日 08時04分08秒 ) パスワード
  

小烏丸について電子図書源平盛衰記(40)にも出てました。
これによりますと小烏丸は小松家に伝わったとなっています。


只是より屋島に行て、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)、左中将達に有の儘に申せ、侍共いかに■(おぼつか)なく思らん、誠に角とも知せねば、誰々もさこそ恨給らめ、抑唐皮と云鎧、小烏と云太刀は、当家代々の重宝として、我まで嫡嫡に相伝はれり、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が許に預置けり、其をば取て三位中将(さんみのちゆうじやう)に奉れ、もし不思議にて世も立なほらば、後には必六代に譲り給へと可(レ)申とて、雨々とぞ泣給ふ。


S4004 唐皮小烏抜丸事

彼唐皮と云は非(二)凡夫之製(一)、仏の作り給へる鎧也。桓武天皇(てんわう)の御伯父に慶円とて、真言の(有朋下P513)奥義を極め給へる貴き上人御座(おはしまし)き。綸言を給(たまひ)て、紫宸殿の御前に壇を拵へ、胎蔵界の不動の前に智印を結び、意P1001を安平に准へて、彼法を加持せらる。七日と云未刻に、紫雲起りてうづまき下り、其中よりあらゝかに壇上に落る物あり。雲消壇晴て是を見れば一両の鎧あり。櫨の匂に白き黄なる両蝶をすそ金物に打て、糸威には非して皮威也。裏を返て見るに、実のあひ/\に虎毛あり、図知ぬ虎の皮にて威たりと。故に其名をば唐皮とぞ申ける。帝御尋(おんたづね)有ければ、慶円申させ給けるは、是はこれ本朝の固め也、是不動降伏の冑也。彼明王(みやうわう)は、外に降魔の相を現ずといへ共、内に慈悲哀愍を具足せり。火焔を身に現ずれば、女我の相を顕す。女我の相とは、大日胎蔵の身を現ずる也。大日胎蔵の身と云は、大歳の腹体を垣断也。彼垣冑にしかず。されば不動に七両の鎧あり、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、兵面也。皆是五天、五国、五花、相承相対せり。人五体を囲はん料也。然者(しかれば)州中の守不(レ)如(二)甲冑(一)、此鎧は七両が中の兵面と云鎧也。本朝の守には何物か是に増るべき。人甲冑を著せし時は、専国家壁と思て、我物の想をなさじ、国を囲はん時は、偏(ひとへ)に州頭の壁とのみ思はざれ、皇の御衣と思ふべき也と被(二)奏聞(一)けり。されば此鎧は、真言秘教の中より不動明王(ふどうみやうわう)の化現し給へる処也。国家の守として、六代ま(有朋下P514)では大内の御宝也けり。其後武道に遣して将軍にもたすべき由、日記に留給たりけるを、高望王の御孫、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)に被(二)下預(一)より以来、維盛迄は嫡々九代に伝はれり。今の唐皮と云は是なり。


又小烏と云太刀は、彼唐皮出来て後、七日と申未刻に、主上南殿に御座(おはしまし)て東天を御拝有ける折節(をりふし)に、P1002八尺霊烏飛来て大床に侍、主上以(二)御笏(一)被(二)招召(一)けり。烏依(二)勅命(一)躍上、御座の御縁に觜を懸て奏し申さく、我は是、太神宮より剣の使者に参れりとて、羽刷して罷立けるが、其懐より一の太刀を御前に落し留けり。主上御自此剣を被(レ)召て、八尺の大霊烏の中より出たる物なればとて、小烏とぞ名付させ給(たま)ひける。唐皮と共に宝物に執し思召(おぼしめす)。されば太刀も冑も同仏神の御製作なり。本朝守護の兵具也。仍代々は内裏に伝りけるを、貞盛(さだもり)が世に下預て、此家に伝て希代の重宝なり。又平家に抜丸と云剣あり。


池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)にあり。中古伊勢国(いせのくに)鈴鹿山辺りに、賎貧男あり、身の乏事を歎て、常に精進潔斎して太神宮に詣て、世にあらん事を祈申、年比日比(ひごろ)おこたる事なかりければ、神明其志を憐んで、汝深山(しんざん)に遊猟して獣を得て妻子を養へと示現し給ければ、御託宣(ごたくせん)を憑、鈴鹿の山を家として、夜昼猟して獣をとる。得たる時は妻子を養ひ、得ざる時は口を空くす。是を以一期活命の便と成べし共覚えざりければ、我年来(有朋下P515)参詣の功に依て霊夢を感ず、任(二)神慮(一)、深山(しんざん)に遊猟すれ共、身を助るはかりごと成べし共覚えず、太神宮如何にと御計有やらんと、愚にも冥慮を奉(二)恨思(一)ける折節(をりふし)、三子塚と云所にて奇太刀を求得たり、此太刀儲て後は、聊も目に懸る禽獣鳥類遁事なし、然べき宝なりけり。我聞漢朝の高祖は、三尺の剣を以て座ながら諸国の王を従へたり。日本(につぽん)の愚猟一振の剣を求て帯ながら山中の獣を得たり。是天照太神(てんせうだいじん)の冥恩也と思ければ、昼夜に身を放ず。或夜鹿を待て大なる木の下に宿す。太刀を大木に寄せ立て其夜を明す。朝に此木を見れば、古木の如くP1003して、枝葉皆枯たり。猟師不思議にぞ思ける。月比日比(ひごろ)も此木の下を栖とせしか共、さてこそ有しに、夜部までは翠の梢盛にこそ有しに、今夜此太刀を寄懸たる故にや、一夜が内に枯ぬるこそ奇しけれ、是定て神剣ならんとて、木枯とぞ名付たる。其比刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛、伊勢守にて御座(おはしまし)けるが夙聞て件の猟師を召、此太刀を見給ふに、異国はそも不(レ)知、我朝には難(レ)有剣也とて、よに欲思はれければ、栗真庄の年貢三千石に替て取れけり。さてこそ猟師家富身ゆたかにして、弥太神宮の御利生共思知けり。忠盛都に帰上、六波羅の池殿の山庄にて、昼寝して前後も知ず座しけるが、此木枯の太刀を枕に立て置たり。大蛇池より出て口を張、游近付忠盛を呑んとす。木枯鞘よ(有朋下P516)りさと抜て、かばと転び倒るゝ音に驚て、忠盛起直て見給に、剣は抜て鐔を蛇に向たり。蛇は剣に恐て水底に沈にけり。太刀かばと倒るゝは主を驚さんがため、鞘より抜るは主を守て、大蛇を切んが為也けり。其よりして木枯の名を改て抜丸とぞ呼れける。平治の合戦に、頼盛(よりもり)三川守にて、熊手に懸られて討るべかりけるにも、此太刀にて鎖金を打切て遁給けり、懸る目出(めでた)き剣なれば、嫡々に伝はるべかりけるを、頼盛(よりもり)当腹にて相伝ありければ、清盛(きよもり)頼盛(よりもり)兄弟なれ共、暫は中悪く御座(おはしまし)けりと聞えきなんど、細かに物語(ものがたり)し給(たまひ)て、唐皮小烏は、重代の重宝家門の守也、世立直らば必六代に伝へ給へと、よく/\仰含けり。
[12]takahiroさんからのコメント(2002年10月25日 18時44分39秒 ) パスワード
  

非常に興味深く読みました。
ご紹介ありがとうございました。
池頼盛家相伝「抜丸」は、現在何処に在るのでしょうか。
保盛の末裔の元、光盛の末裔の元、或いは既に平家の手を離れているのでしょうか。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年10月25日 21時33分26秒 ) パスワード
  

このような記事がございました:


http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/daijiten-tairano-yorimori.htm

平頼盛(たいらのよりもり.1131〜86.56歳)

 平安時代の武将。正四位刑部卿平忠盛の五男。母は入道
修理大夫藤原宗兼の女、池禅尼。清盛〔1118〜81.
64歳〕の異母弟であるがこの二人の仲はよくなかった。
それは平氏に伝えられる二宝刀小烏・抜丸を家嫡であるゆ
え清盛に小烏を、母のゆえに頼盛に抜丸を与えたためとい
われる。保元元年(1156)、昇殿を許され、安芸守に
任ぜられ、右兵衛佐を兼ね、従四位下に叙せられ、中務権
大輔となる。同三年、常陸介・三河守を兼任する。平治元
年(1159)十二月、平冶の乱のとき義朝との郁芳門で
の戦いには敗れ抜丸の力によってようやく逃げ帰ったが、
信頼らを仁和寺で捕えた功により尾張守を兼ねる。永暦・
応保年間(1160〜1163)に累進して修理大夫とな
り、正四位下に叙せられる。仁安元年(1166)七月、
大宰大弐を兼ね、当時の慣例に反して十月、みずから任地
へ赴いた。同年、従三位に叙せられ、参議に任ぜられる。
翌二年、正三位となり、四月には西府から上洛した。冶承
四年(1180)四月、従二位、六月、正二位、養和二年
(1182)三月、陸奥出羽按察使、寿永二年(118
3)四月、権大納言となるが、七月、平氏が西走し、八月
六日、解官した。その居が池殿にあったので池大納言と呼
ばれた。寿永二年、各地で源氏が挙兵しはじめたが、源義
仲の入京を防ぐため宗盛は諸将を各地へ遣わし、頼盛も山
階へ向かうよう命じたが、頼盛はこれを辞す。宗盛は高倉
天皇を奉じて西海へ赴いたが、頼盛は鳥羽の南まで至り、
後白河法皇を頼ったので法皇は八条院のいる常盤殿にかく
まった。頼盛の母池禅尼は平治元年(1159)、頼朝が
関ヶ原で捕えられたとき清盛に命乞いをして命を助けた人
物であったため、頼朝は以前からしばしば書を送って頼盛
を慰安し、また士卒に命じてその諸子を害せしめなかっ
た。このため、また清盛との不仲も原因となり頼盛は平氏
一族とは行動をともにしなかったのである。寿永三年四月
六日、平家の没官領注文が頼朝のもとに送られてきた。そ
のなかに頼盛とその室の所領も含まれていたが、頼朝は池
禅尼の恩に報いるためそれを安堵している。翌五月には頼
朝に招かれ鎌倉へ向かった。五月二十一日に頼朝は頼盛と
同息男を本官に還任するよう御書を遣わしている。六月五
日に頼盛は帰洛したが鎌倉逗留中は手厚いもてなしを受
け、銭別には金作の刀一腰、砂金一嚢、馬十疋を与えられ
た。また同日、除目が行われ権大納言に還任する。同年十
二月二十日、職を辞する。文治元年(1185)三月、平
氏は滅亡、五月二十九日病のため東大寺で出家を遂げ、法
名を重蓮と号した。翌年六月二日、五十六歳で没す。

(『鎌倉・室町人名事典』武田彩子氏)
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年10月25日 22時05分11秒 ) パスワード
  

こちらでは清盛が抜丸を、頼盛が小烏丸を相続したと書かれていました。



http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/biography/ta.htm


たいらのよりもり《たひらのよりもり》
平 頼盛
1131
1186(文治 2)
◇平安末期の武将。通称は池殿・池大納言(イケノダイナゴン)、法号
は重蓮。平忠盛(タダモリ)の第5子、母は池禅尼(イケノゼンニ)。平清
盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)の異母弟、忠度(タダノリ)の
異母兄。
 平治の乱の功により正四位下修理大夫。1166年、太宰大弐と
なり、慣例を破り任地に下向。1180(治承 4)正二位、1183(寿
永 2)権大納言となる。源(木曾)義仲(ヨシナカ)の入京による平氏
西走の際、後白河法皇を頼り法住寺殿に入り京に残る。
 母が源頼朝(ヨリトモ)を助けたことがあり、1184年、頼朝に招か
れて鎌倉に下り、その保護を受け、権大納言に還任し所領も安
堵(アンド)される。1185年、平家滅亡とともに東大寺で出家し重
蓮と号する。
 なお、平家には小烏丸(コガラスマル)・抜丸の宝刀が伝えられ、
清盛が抜丸を、頼盛が小烏丸を譲られる。ために清盛と不仲で
あったといわれる。
(*)1131(大治 6,天承元)、1166(永万 2,仁安元)、1184(寿永 3,
元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。
[15]服部 明子さんからのコメント(2002年10月25日 22時08分24秒 ) パスワード
  

抜丸はもしかすると日光のどこかにあるような気がします。

日光東照宮または日光輪王寺または二荒山神社あたりの宝物館にあるのでは?と。
[16]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 04時27分05秒 ) パスワード
  

川口さまより教えて頂きました現代語訳の「平治物語」の中には
重盛が小烏丸を相続して戦った記事がございました。


[中巻・第一章…待賢門のいくさ、附・信頼が落ち延びること]

六波羅の皇居では、公卿僉議があって、清盛をお呼びになった。紺の直垂に、黒糸威の腹巻に、左右の籠手をつけて、折烏帽子を立てて大床にかしこまる。頭中将実国を通じてご命令を下されるには、「王のすることが脆いということはないので、逆臣が滅びるのは疑いないことだ、ただたまたま(逆臣のいるのは)新造の内裏である。もし火災があるなら、朝廷や天皇家にとって一大事になるだろう。官軍が偽って退くふりをすれば、凶徒はきっと進み出てくるだろうか。そうしたら官軍を(内裏に)入れかえて、内裏を守護させ、火災がないように配慮しなさい」とご命令が下ったので、清盛はかしこまって、「朝敵であるうえは、逆徒の誅戮は掌中にございます。時間を経たせてはいけないでしょう。そうしますときっと狼藉が起こるでしょうから。火事がないようにせよということは、難しいご命令でございます。そうはいっても、(古代中国の)范蠡が呉の国を覆し、張良が項羽を滅ぼしたのも、みな智謀によってですから、力の及ぶ限りの武略をめぐらして、皇居に何事もないように成敗申しましょう」と奏上して、お立ちになった。

主上がおいでだったので、皇居の守りに、清盛をおとどめになる。大内裏へと向かう軍勢では、大将を左衛門佐重盛、三河守頼盛、淡路守教盛、武士たちでは筑後守家貞、子息の左衛門尉貞能、主馬判官盛国、子息の右衛門尉盛俊、与三左衛門尉景安、新藤左衛門家泰、難波次郎経遠、同三郎経房、妹尾太郎兼安〔兼康〕、伊藤武者景綱、館太郎貞康〔貞保〕、同十郎貞景をはじめとして、都合その軍勢は三千騎以上、六波羅を出発し、加茂河を馳せ渡り、西の河原に控えた。

左衛門佐重盛は、生年二十三、今日のいくさの大将であるので、赤地の錦の直垂に、櫨(はじ)匂い(註1)の鎧に、蝶の裾金物を打ったものに、龍頭の兜の緒を締めて、小烏という太刀を帯び、切符(きりふ)の矢を背負って、滋籐の弓を持って、黄鴾毛(きつきげ)の馬に、柳と桜を摺った貝鞍を置いてお乗りになった。重盛がおっしゃるには、「年号は平治である、都は平安京である、私たちは平氏であるのだから、三つのことが(平ということに)応じている。敵を平らげることは、何の疑いがあろうか。誰がここで樊カイ(口偏に會)・張良の勇猛さを奮わないだろうか」と、三千騎を三手に分けて、近衛、中御門、大炊御門から、大宮面に駆け出して、陽明門、待賢門、郁芳門(ゆうほうもん)に押し寄せた(註2)。
[17]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 09時56分01秒 ) パスワード
  

<16>の続き:抜丸は頼盛に:


[中巻・第一章…待賢門のいくさ、附・信頼が落ち延びること]


三河守頼盛は、郁芳門へ押し寄せて、「この陣の大将は誰か。名乗られよ」とおっしゃったの
で、「こちらの大将は、清和天皇九代の後胤、左馬頭源朝臣義朝」と名乗って、「悪源太
(義平)は二度も敵を追い出したというぞ。進め若者よ」とおっしゃったので、中宮大夫進
(朝長)、右兵衛佐(頼朝)、新宮十郎(義盛)、平賀四郎(義信)、佐渡式部大輔〔大
夫〕重成をはじめとして、我も我もと駆けて行った。右兵衛佐頼朝は、「生年十三」と名乗
って、敵二騎を射落とし、一騎に傷を負わせて、とくに進んで駆けていかれた。左馬頭がおっ
しゃるには、「なんといっても、若武者たちがいくさをするのは、まばらに見えるぞ。義朝が
駆けていってみせよう」と、真っ先に進まれたので、一人当千の武士たちは、(義朝を)囲ん
で戦った。頼盛はしばらくは支えられたが、門から外に追い出される。義朝が続いて攻めたの
で、大宮面に引いてしまった。平家が馬の息をついで駆け入ると、源氏は大内裏に引き籠も
り、(今度は)源氏が馬の足を休めて駆け出ると、平家は大宮面に引き退く。平家は赤旗赤標
(あかじるし)、日に映じて輝いた。源氏は大旗腰小旗、みなおしなべて白かったが、激しい風に
吹き乱されて、勇み進む様子は、ほんとうにぞっとするように思われるものだ。源平の武士た
ちは、互いに命を惜しまないので、目の当たりに(仲間が)討たれても顧みず、主人より先に
進もうと、ここを大事と戦った。

悪源太(義平)は、左衛門佐(重盛)を討ち洩らして、鎌田に向かっておっしゃるには、
「郁芳門のいくさはどうなっているだろう。さあ(左馬)頭殿(こうのとの)(義朝)の先駆け申
そう」と、一緒に駆けてきて、また最前線に進まれた。ここで鎌田の下人に、八町次郎という
大力の持ち主で勇敢な者で、走りも早く腕も立つものがいた(註5)。(かつて)「馬で従うべ
きだが、かえって走ったほうがいいだろう、手柄を立てろよ」と(鎌田が)言ったので、一年
も腹巻に小具足をつけて、真っ先に進んでいたが、敵の馬武者が遥かに先行して落馬したの
を、八町のうちに追い詰めて引き摺り下ろして首を取ったので、そこから八町次郎といった。
そんな者なのでこの者は、三河守(頼盛)が有名な早駆けする名馬に、両方鐙をあわせて(全
力で)駆けられたのに、少しも劣らず追いついて、兜のてっぺんに熊手をひっかけようと、続
いて走ったので、頼盛も(熊手に引っ掛けられないように)兜を傾け傾け、あしらったので、
五、六度はかけたり外したりしたのだが、ついに(八町次郎が頼盛の兜の)てっぺんにひっか
けて、えいやっと引いたので、三河守(頼盛)はもう引きずり落とされてしまいそうに見えた
のだが、帯びていた太刀を引き抜いてぴしゃりと斬る。熊手の柄を手元2尺ほど残して、つっ
と切って落としたので、八町次郎はのきぞりざまに倒れて転んだ。京都の若者たちはこれをみ
て、「いやはや太刀よ、びっくりしたものだなあ。三河殿もよく斬ったものだ。八町次郎も
よくひっかけたものだ」と感じ入った。頼盛は兜に熊手をひっかけながら、取り捨てもせず、
後ろも振り返らないで、三条を東に、高倉を下って、五条を東に、六波羅までひっかけたまま
落ち延びられた。かえって優雅に見えたものだ。名高い抜丸であったので、よく切れたのも道
理である。

この太刀を抜丸というわけは、故刑部卿忠盛が、池殿で昼寝していらっしゃったときに、池か
ら大蛇があがってきて忠盛を飲み込もうとする。この太刀が枕の上に立っていたが、自らする
りと抜けて、蛇にかかっていったので、蛇は恐れて池に戻った。太刀も鞘に帰ったので、蛇は
また出てきて(忠盛を)飲み込もうとする。太刀がまた抜け出て大蛇を追って、池の水際に立
った。忠盛はこれをご覧になって、抜丸と名づけられたという。この(池殿の)腹の愛子であ
ったので、頼盛がこれを相伝しなさったので、清盛と不仲になったとかいうことだ。伯耆国大
原の眞守(さねもり)の作だとか云々。
[18]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 10時04分56秒 ) パスワード
  

上記「平治物語」によって抜丸が頼盛に相伝されたのは
1)池殿で手に入った太刀であるし
2)忠盛は頼盛を可愛がっていた
から、という理由がハッキリしてますね。

更に「伯耆国大原の眞守(さねもり)の作だとか云々」と言われている
と作者の名前も伝わっていて非常に合理的ですね。


この太刀を抜丸というわけは、故刑部卿忠盛が、池殿で昼寝していらっしゃったときに、
池から大蛇があがってきて忠盛を飲み込もうとする。この太刀が枕の上に立っていたが、
自らするりと抜けて、蛇にかかっていったので、蛇は恐れて池に戻った。
太刀も鞘に帰ったので、蛇はまた出てきて(忠盛を)飲み込もうとする。
太刀がまた抜け出て大蛇を追って、池の水際に立った。
忠盛はこれをご覧になって、抜丸と名づけられたという。
この(池殿の)腹の愛子であったので、頼盛がこれを相伝しなさったので、
清盛と不仲になったとかいうことだ。
伯耆国大原の眞守(さねもり)の作だとか云々。
[19]川口 信さんからのコメント(2002年10月26日 11時04分41秒 ) パスワード
  

 >日光東照宮または日光輪王寺または二荒山神社あたりの宝物館にあるのでは?と。

 日光輪王寺は北白川家と関係が深いです。もしかしたら?・・・・・・
 刀のことはわかりませんが日光輪王寺のご住職のお住まいの方には、北白川宮能久王(輪王寺宮)の大きなご位牌が祀られておりました。なんしろこんな大きなものを見たのは初めてでした。(たぶん七〜八十センチぐらいか)
 以前東照宮や輪王寺、二荒山神社など撮影に行った際、奥の間、庭園なども拝見させて頂いたのを覚えております。
[20]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 11時14分18秒 ) パスワード
  

>日光輪王寺

川口さま
私もここがアヤシイとニランでおります。
ふふふ

実は2年ぐらい前
日光(東照宮?)あたりから凄い刀がアメリカに来ました。
素晴らしいキンランドンスの袋に入ってました。
残念ながら中は(袋が立派なので)わざわざ開けなかったのです。
もう1つの方は開けたのをちゃんと見ましたが。

今思い返しますとどんな刀だったのか訊けば良かった、と。
[21]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 11時22分22秒 ) パスワード
  

こうして考えて来ますと
清盛と頼盛の仲に父親・忠盛からの愛情の差というのがあったかも
ですね。

忠盛が愛してたのは頼盛だったのかも。
その理由に池の禅尼は忠盛が妻にと選んだ女性というのがある。
[22]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 11時12分11秒 ) パスワード
  

意外な情報を得ました:


894年に遣唐使が廃止され、その後、平忠盛によって日宋貿易が再開されましたが
その日宋貿易をになったのが頼盛だったというのです。


時系列で示しますと

903年貴族、皇族などによる私貿易が禁止され唐との貿易は大宰府が管理する事になりました。
その後まもなく唐が滅亡し960年に宋の国が興こりました。

平忠盛が肥前神崎荘で日宋貿易を行なう。
その後、頼盛が大宰大弐として大宰府機構を掌握し、日宋貿易を主導。
    
清盛は現在の神戸の大輪田泊を修築して宋船が瀬戸内海を航行しこの港に入港するようにした。
日経新聞の池宮「平家」によれば後白河法皇は異人が畿内に姿を見せるのがご不快だったと描いています。
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 11時14分07秒 ) パスワード
  


実質は清盛が日宋貿易を支配してたので
頼盛には不快だったでしょうか?
[24]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 11時21分51秒 ) パスワード
  

清盛と頼盛の確執には
頼盛は後白河法皇や八条院と親しい関係があったので
頼盛は治承3年11月の清盛のクーデターでは頼盛の官位が剥奪されています。
(翌年1月に解除になった)。


頼盛が平家都落ちの時、山科を守るのを断わった<1月>の事とは
この事だったのかしら?
[25]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 13時31分39秒 ) パスワード
  

<24の1月(正式には冬)のころのあしざまなる事>↑について:


かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事(こと)火急(くわきふ)になり
て、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納
言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あ
しざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはす
て候(さふらひ)ぬる由(よし)故入道殿(こにふだどの)に申(まうし)
てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」と云
(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山
しなへむかいてけり。


清盛がクーデターを起こし、後白河法皇よりであった頼盛もとばっちり?を受け
官位を停止剥奪された事を差しているのでしょうか?
[26]takahiroさんからのコメント(2002年11月08日 19時37分12秒 ) パスワード
  

[25]において服部様ご指摘の部分、「平家一門」(多賀宗隼筆、日本歴史1977年
11月号)から、1段落纏めて抜粋します。

「官職上で最も殊遇を受けた頼盛が、清盛との間に最も露骨かつ険悪な対立を示し、 解官されること二度に及び清盛の追討の噂さえ行われたことは平家一門内の最大
 の分裂の内情を暴露したものであった。…それ(仁安三年十一月の解官)はやが
 て解除され翌年十一月十六日には本座を聴されているが、治承三年十一月の政変
 にまた解官されて居り、この度は討伐の噂さえ流れた。結局それは噂にとどまっ
 たがこの度の阻隔感情は深刻であった。頼盛の心は今後、宗家を離れて「治承三
 年冬治承三年冬ノ比アシザマナル事ドモ聞エシカバ、ナガク弓箭ノミチハステ候
 ヌル由故入道殿ニ申キ」(愚管抄、五)というところまで行って了ったのであっ
 た。清盛・頼盛の関係はかくまでに悪化して逆に破局を迎え平家都落に際して頼
 盛一家は公然と叛き去った程であった。」

 治承三年冬に頼盛は、平家宗家(清盛)に対し、謀反に対する自身の潔白を証明
 するため、「弓箭ノミチハステ候ヌル由」を誓っていた事を、平家都落前夜の一
 門討議の席上、宗盛の山科擁護の命を固辞するに述べたことが、「愚管抄」に記
 されているこの個所だと思います。
[27]takahiroさんからのコメント(2002年11月08日 19時54分25秒 ) パスワード
  

>894年に遣唐使が廃止され、その後、平忠盛によって日宋貿易が再開されました
>がその日宋貿易をになったのが頼盛だったというのです。

>平忠盛が肥前神崎荘で日宋貿易を行なう。
>その後、頼盛が大宰大弐として大宰府機構を掌握し、日宋貿易を主導。

この事は、私も初めて知りました。
新たな頼盛の一面を見た思いがしました。
[28]服部 明子さんからのコメント(2002年11月09日 00時08分09秒 ) パスワード
  

>治承三年冬に頼盛は、平家宗家(清盛)に対し、謀反に対する自身の潔白を証明
>するため、「弓箭ノミチハステ候ヌル由」を誓っていた事を、平家都落前夜の一
>門討議の席上、宗盛の山科擁護の命を固辞するに述べたことが、「愚管抄」に記
>されているこの個所だと思います。


清盛の軍事クーデターに対して自分は軍事行動とはきっぱり決別するという
誓いをなさっていらっしゃったのですねぇ。

ありがとうございました。
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