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 投稿番号:100379 投稿日:2002年10月06日 10時59分57秒  パスワード
 お名前:服部 明子
国宝:一遍上人「聖絵」の真相

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

読売新聞より
http://www.yomiuri.co.jp/04/20021006i401.htm
国宝「聖絵」黒衣の一遍上人、元はふんどし一丁


鎌倉時代に「踊り念仏」を広めた時宗の開祖・一遍上人
(1239―89年)
の諸国行脚を描いた国宝の絵巻「一遍聖(ひじり)絵」(全12巻)で、
布教場面に登場する黒い衣をまとった一遍が、
元々は裸で描かれていたことが絵巻の修理の際にわかった。

宗祖・一遍の腰布一つの惨めな姿に弟子らが驚き、絵師に描き直させたらしい。
京都国立博物館(京都市東山区)で9日から公開される。


絵巻は一遍が没して10年後、
弟とされる聖戒(しょうかい)が偉業を記録にとどめるため絵師に描かせた。
全巻を時宗総本山の清浄光寺(神奈川県)と歓喜光寺(京都市)が共有している。

裸の一遍が描かれた第4巻は奈良国立博物館が保管。
筑前(福岡県)に赴いた一遍が酒宴中の武士宅で念仏を説く場面で、
武士が「僧(一遍)は『狂惑のもの』だが、念仏は確かだ」と
いう内容の感想を漏らしたと添え書きがある。

表からは普通の衣姿だったが、修理で裏打ちの紙をはがし、
裏側から透かしたところ、
体、手足、あばら骨の線、黒い腰布がはっきり見え、墨などで衣を重ね描きしていた。
腰を曲げ、やせている姿はみすぼらしく見える。

絵巻は11月10日まで裏側の写真とともに公開する。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年10月06日 11時00分58秒 ) パスワード
  

ミケランジェロの「天地創造」の絵をほうふつとさせます。
[2]川口 信さんからのコメント(2002年10月19日 15時46分35秒 ) パスワード
  

10月19日(今日)の番組表にNHKテレビ3チャンネル:午後10時
 
 国宝探訪「捨てはてて旅行く」一遍聖絵:梅原猛とあります。

 この絵が放送されるかわかりませんが是非拝見してみたいものです。

 前に新聞の解説に「歓喜光寺」ご住職が国宝「聖絵」(黒衣の一遍上人、元はふんどし一丁)についてコメントを述べておられましたがお名前は確か「河野氏」でした。一編上人の縁の方なのでしょうか。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年10月20日 00時47分40秒 ) パスワード
  

>「捨てはてて旅行く」

捨てろ!捨てろ!
燃やせ!燃やせ!

と物に執着しないよう言ってたそうですね。

住職は河野氏ですか。
子孫かもしれませんね。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年10月20日 14時06分23秒 ) パスワード
  

この番組を見た人から以下の感想を頂きました:



明子様

昨夜、NHKの番組 国宝探訪で、
一遍上人の、聖絵第12巻(国宝)
が放映されていました。

    おのずから
    相会う時も
    別れても
    1人はおなじ
    1人なり

松山の出身で、36歳のとき、仏道にはいり
阿弥陀にすがる念仏専念

知らなかったのですが、今も長野地方に残る 組まれた舞台の上で踊りながら、
念仏を、唱える 「踊り念仏」は、
一遍上人が、ひろめ伝えたんですね。
それが、日本最初の、舞台でやがて能舞台やらとかに・・

16年の仏道旅の末
播磨の国で 51歳、

念仏だけが 残ればいい 亡骸は獣に施すべし

上人が、51という年でなくなられていたのですね。
孤独の深さ 求めるものの激しさ
そうしか生きられなかった上人

36歳で、妻子を、捨てざるを得ない人生
身近な人間を犠牲にしても なお歩まざるを得ない業
血を、感じます
そういう遺伝子を、多く受け継いでしまった
数百年もの年月を、超えて受け継がれた念仏
そしてこれからも、一遍上人の名は、歴史から
消え去る事が無い。

生きた年月は、短くとも真に生きたのですね。
[5]川口 信さんからのコメント(2002年10月20日 15時21分00秒 ) パスワード
  

 ご覧になれなかった一編ファンの方に。(但し予定ですから)

教育テレビ  10月19日(土曜日) 22:00〜22:30 
  再放送     10月21日(月曜日) 05:25〜05:55 
  総合テレビ
  再放送    10月25日(金曜日) 10:30〜11:00

 鎌倉時代、寺を持たず全国を旅して、念仏による救いを説いた、時宗の祖・一遍(1239〜1288)。出会う人全(すべ)てに念仏の功徳を説き続けたその生涯を、克明にたどることができる唯一最高の資料が、国宝「一遍上人絵伝」だ。
 一遍の死の10年後、弟子たちが作った全12巻120mもの長大な絵巻には 10歳の出家から51歳の死まで、一遍の人生の48の場面が描かれている。33歳で旅に出た一遍は、家を捨て妻子を捨て、粗末な着物をまとい野宿しながら、念仏の救いを説き総けた。 念仏を唱え足を踏み鳴らし、鍋釜を叩いて踊る「念仏踊り」は、列島の民衆に熱狂的な信仰をまき起こした。絵巻には、旅行く先々で一遍を取りまく庶民の姿が、生き生きと描かれている。当時社会で疎外されていた物ごいや病人たちの姿は、一遍の布教が名もなき民とともこあつたことを物語る。
 偉大な宗教家を多く生んだ鎌倉仏教の中で、一遍に最も強く心惹(ひ)かれるという哲学者の梅原猛さんとともに、旅に生き旅に死んだ一遍の、鮮烈な生涯をたどる。(一遍会のHPから)

 http://www.gem.e-catv.ne.jp/ja5dlg/ippen/ippennkai.htm

 30分の放送でありましたが一遍上人に生き様がよくわかりました。
 
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年10月20日 23時30分58秒 ) パスワード
  

10年ぐらい前に一遍上人の歩いた所を追ってみました。

信州伴野には行ってませんし
大隅神社も行ってませんが

北上山地の、河野通信の墓には行きました。
聖絵と同じ河野通信の墓がありました。
今は桜と松が植えてありますが。
凄い山の中なので本当に「流罪」だったというのを実感しました。


私個人には一遍上人は比叡山にいらっしゃいましたが。
[7]たまねこさんからのコメント(2002年12月24日 20時33分18秒 ) パスワード
  

お食事中の方、お茶を飲んでいらっしゃる方、スミマセン。

行く先々で、花が降り、紫雲がたなびくという奇瑞があったため、
生き仏として扱われていた一遍上人ですが、その尿もまた”万病の薬”
として、霊験あらたかなものだったそうです。

一遍を揶揄した絵草紙『天狗草紙』には、尼が差し出している竹筒(尿筒)
に、尿をしている一遍上人の周囲に、尿を乞う人々が集まっている姿が
描かれているようです。一遍の信者たちは、尿にも功徳があると信じて、
競って求めていたようですね。

図中の書き入れには、盲目の尼が「目を洗えば治る」、
別の尼が「腹の病の薬として飲む」と書かれているそうな…。

この話を知って、私、一抹の不安にかられてしまいました。
[8]小池経子さんからのコメント(2005年02月02日 11時14分46秒 ) パスワード

はじめまして 愛媛県松山市 小池経子と申します
このコーナを初めて知った訳でありまして一言申しあげます。

当松山市の隣町には一編上人様を慕って九州から移り住まれている宗教詩人坂村真民先生がいらっしゃいます。たまたま河野家菩提寺四国霊場のお札所石手寺の住職様が一編上人様は河野家の出身だから供養したいと仰せになり、それらしいと踊り念仏発祥の地とゆう記念碑をお作りになった場所があります。

試験的にこの文が入るかどうか入力させていただます
[9]小池経子さんからのコメント(2005年02月02日 12時05分56秒 ) パスワード

小池経子です  続けさせていただきます

不思議と昨年から一編上人様の話が私の身近に起こるようになりました。これは何か一編上人様からの御声ではないかと今年は酉年なので上人様は酉年のお生まれではないか何か解る事はないかとここを開けた次第ですが。

松山市の窪野町には修行されたと言われる場所があります。その一帯の場所に諸々の事情から竜王神社を建立いたしました。

わたしは其の場所に坂村先生揮毫による 念ずれば花開く の698番碑を建てました。

ところが酉年のお生まれで96歳の先生はとてもお喜び下さいまして、この場所は一編上人様が修行された場所に違いないとやっと巡りあえたと、それはそれは大層お喜び下さいました。

この時代なんとか捨てて捨てて恨みや妬みを捨て、すれば新しい何かが生まれる

今私は一編様の信者になったような気がします。とりあえず

では又御便りさせて下さい。

 
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月02日 15時15分00秒 ) パスワード

小池経子さん

一遍上人は1239年のお生まれだそうです。
延応1年2月15日(1239年3月21日)。
ということは猪でしょうか?
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月02日 15時19分44秒 ) パスワード

昔の生年月日は正確なのかどうかわかりませんし
都合で勝手に変えますし

もしかすると1237年生まれかも知れませんね。そうすれば酉年ですね。


もしかすると誕生日も春の満月の日ということにしているのかも。
それが新暦の春分の日に当るというのも面白いなと思いました。


勘違いがあるかも、ですので
間違っていたら訂正願います。
[12]小池経子さんからのコメント(2005年02月02日 17時22分14秒 ) パスワード

ギャンブラー様

早速に有難う御座いました。胸のすく思いです。

それにお名前がいいですね。私も同じく自分の事をギャンブラーだと言っています。

ギャンブルに勝ったらお祭りをしてあげたいと思っているところです。上人様はお叱りになるでしょうか。

でも凄いですね。上人様は神様のお使いの方だったのでしょうか。満月の日にお祈りをすれば良いと言われていますし、春分の日所謂彼岸の中日の日には昇る陽と沈む夕日の一直線上に神様はおまつりしてあるそうですし、夕日が沈む瞬間に神殿を照らすそうですが偶然に私共の神社は其の中にあります。

やはり上人様とのご縁をすごく感じます。

このコーナーを開けられたとゆうことは一編上人様に関し何らかのご興味がおありのように思えますが。

又ご指導の程宜しくお願い申し上げます。
[13]小池経子さんからのコメント(2005年02月02日 17時31分51秒 ) パスワード

お詫び

一編上人様としていてお恥ずかしい事でした。一遍上人の筈でしょう
[14]田中愛造さんからのコメント(2005年02月02日 19時54分42秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様
 ご無沙汰です。
 矢張り平熱はご縁ですね、円照大師(一遍上人)幼名松寿丸も又平氏の血が流れていますね!北条政子の妹の孫に当たります、上人の父は河野別府七郎左衛門通広で、祖父は河野四郎通信、通信は北条時政の娘を室に迎え居ります。謂わば時政の曾孫と云う事に成ります。
[15]田中愛造さんからのコメント(2005年02月02日 21時11分38秒 ) パスワード

[14]こじ付けと解釈される方のために、正して於きます。
 祖父は三人の妻を持ち、父は二階堂行光の女の出です。其の子通尚(上人)です。然し、祖母から見て通信の子も孫も矢張り孫です。悪しからずです。
 最近の書き込みを見ていますと、無理な主張が見られ、其れを正しても自分を顧り見ない投稿者がみられます。ナーバスになりますね。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 03時04分51秒 ) パスワード

小池経子さん


>満月の日にお祈りをすれば良いと言われていますし、
>春分の日所謂彼岸の中日の日には昇る陽と沈む夕日の一直線上に神様はおまつりしてあるそうですし、
>夕日が沈む瞬間に神殿を照らすそうですが偶然に私共の神社は其の中にあります。
>やはり上人様とのご縁をすごく感じます。

なるほどねえ。
「満月」「春分の日」
前身武士の前に科学者だったのかもですね。



田中愛造さま

書き込みをありがとうございます。
参考になります。


一遍上人は非常に興味深い人物ですね。
北条時宗に喧嘩を売ったり。

なかなかしたたかな政治家でもありますね。

その背後に鎌倉との親戚関係もあったということですね。
面白い人物です。
[17]小池経子さんからのコメント(2005年02月04日 09時39分02秒 ) パスワード

本当にギャンブラー様有難う御座いました。

今年は不思議と一遍上人様とのご縁を思うと申しあげましたが、

その1つに先週地元のテレビ局が 気 霊気を感ずる愛媛県唯一の場所として取材に来て放映されました。

その2には地元の代議士が新年の挨拶だと一遍上人様のゆかりの地巡りをされました。が私方はそう宣伝している訳でないのでご存知無くその中に入っていませんでした。
だからお知らせしました。

テレビ局にはこの地方に昔から一遍会があるのであまり言えませんでしたが、一遍上人様の事を申しましたのでゆかりの地らしい位に放送して貰いました。

このような訳で今年は酉年。諸々お喋りする機会を得た事、坂村先生も酉年。この竜王神社建立したのも平成5年酉年。だから一遍上人様も酉年ではないか、この荒れかけている世に思い出してくれとの叫びではないか等と思ったのでありました。

変なこじ付けと思われるかもしれませんが、竜王様は雨乞いをした時雲一つ無い真っ青な空に雨雲がもくもくと沸き起こり雨が降り数日降り続きました。

水不足の平成6年神様を信じている私は地下水で不自由は無かったのでありましたがダムの底の土が干上がっている状態ではいけないと雨乞いを力の有る方々に集まって貰ってお祈りしたのであります。満月の夜祈り、翌日の正午本祈りしたのでありました

この2日間の雲の動きに只オロオロ神主さんはされていましたが


不思議の世界です。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 14時12分42秒 ) パスワード

井戸水がたくさん出るということはその家が栄えるということだと聞いたことがあります。
そして井戸水が枯れるということはその家の繁栄が望めないということだと。

実際に知っているのは2例なんですけど。



黒岩重吾の作品だったか
天皇家以前の大王家が力を持ったのも雨を呼んだからという描写がありました。


それで「変なこじつけ」とは思いません。
水は人間にとって非常に大切なのですから「良いお話」と思います。


宝厳寺にお参りした時、一遍上人の像に思わず涙が溢れました。
不思議でした。


[19]小池経子さんからのコメント(2005年05月02日 09時04分03秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

何度もお礼を書き込みしたのですがうまく送信できません。お恥ずかしい事です。

水に関しておやさしいお言葉感謝しています。お心遣いに涙が止まりませんでした。

有難う御座いました
[20]道後関所番さんからのコメント(2006年08月24日 12時02分50秒 ) パスワード

ふらーっと立ち寄りました。全くの偶然ですが・・・

一遍会の初期には坂村真民さんが講義されています。ご熱心な会員でもあったようです。お墓は宝厳寺に詩碑「念ずれば花開く」として建てられています。以前はよくお訪ねになっておられましたが・・・・・

9月20日11時から窪野で「一遍忌・まんじゅしゃげまつり」を例年通り開催します。100人くらいお集まりでしょうか。

9月に入ると「子規忌過ぎ 一遍忌過ぎ 月は秋  黙禅」の句を思い出します。南無阿弥陀仏。
[21]小林 真知子さんからのコメント(2007年02月02日 20時07分48秒 ) パスワード

一遍上人のゆかりの名古屋市あるいは名古屋市近郊のお寺の梵鐘に「念ずれば花ひらく」が刻まれているという話を聴きました、拝見したくて探しているのですが、ご存知の方おいでになりますか、是非是非 教えてください。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 00時40分45秒 ) パスワード

全く知りませんでした。

尾張での一遍上人関連は
愛知県海部郡甚目寺町萱津の萱津神社と甚目寺観音だと思います。

萱津神社は熱田社と津島社と真清田社を合祀したものだそうです。
一遍上人の杖から芽が出た大公孫樹の2代目があるそうです。
真清田というのは蜂須賀小六の奥さんの実家の名字だと思います。


ここから一遍上人は美濃や尾張に足を運んだそうです。



>お寺の梵鐘に「念ずれば花ひらく」が刻まれている

ということは「甚目寺観音」かしら?

お尋ねしてみてはいかがでしょう?
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 00時47分37秒 ) パスワード

萱津社の近くの時宗横密山光明寺じゃないかという話もあります。

分からなくなってきた・・・


>熱田社と津島社と真清田社を合祀したもの

これは萱津三社というようです。


甚目寺のことは土地鑑がないので分からないです。
でも名古屋の郊外です。
[24]小池 経子さんからのコメント(2007年02月17日 17時30分07秒 ) パスワード

小池経子です

まことにお久しぶりです。パソコンを傷めてこのコーナーが分からなくなっていました。

今日たまたまパソコン教室で自分の名前を入れたらこのページが出てきまして驚きと喜びで今帰りお便りしている所です。

今日は雨になっています。竜王様の御指示かもしれないと思い乍

前に申し上げました一遍上人様ゆかりの神社に

坂村真民先生の念ずれば花ひらくの碑を建立しましてしんみん先生も来て頂きました。

その尊敬するしんみん先生が今年お亡くなりになり、とても残念であります。がその碑を見て頂いたとき、これで死ねれる等と仰せになり、とんでもないと申し上げたのでありました。

此処こそ一遍上人様が開眼されたところだといたくお喜び下さいました

お札所石手寺前住職様が  踊念仏発祥の地  と碑をお建て下さっていますが。前住職さまもお亡くなりになって

きっとあの世でしんみん先生と共に一遍上人様にお会いになっていられる事と思います

有難う御座いました













[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月18日 01時12分50秒 ) パスワード

小池 経子さま

御自分のお名前で検索できたなんて、良かったですね。(にっこり)


さて真民先生の碑は日本全国にあるそうですね。
愛知県は甚目寺の一遍上人がらみで建てられているのですか。


http://d.hatena.ne.jp/yudukijou/
に河野家の美濃の荘園について書かれていました。
それで一遍上人が美濃にいらっしゃったのですか。
4825をお読みになってください。
それで「甚目寺」「萱津」だったのですね。

名古屋の北西になるのかしら?(土地鑑無し+方向音痴です。ごめんんさい)
すぐですよ。


#4821 伊予に何らかの史料ありませんか?  mino阿弥  08/08 14:19

「通信カ元暦元年沼田城合戦ノ後尾州河野村ノ地ニ移住シ、通勝ハ其嗣子ニシテ父ノ遺領ヲ襲キ本庄郷ヲ領セシ処、文暦ニ年春、見真大師西帰ノ日、参州矢作ニ於テ化導ヲ受ケ尾州ノ信徒九名合議シ、居村即チ河野村字木瀬ニ、一ノ草庵ヲ建設シ大師ヲ屈請シテ一七日間之レニ淹留セシメ、各々大師ノ教旨ニ帰依シ家ヲ捨テ寺トナシ、自ラ出家入道セリ、之ヲ尾州九門徒ト云・・・」岐南町史の河野十八門徒についての記述の一部ですが河野四郎通信が、こちらに所領を得ていたように書かれています。しかも河野郷とは岐南町、笠松町、川島町、尾西市(現一宮市)、一宮市浅井といった相当広範囲な地域です。美濃の土岐氏が足利尊氏に味方し守護となった150年以上も前に、この美濃尾張の木曽川に近接する地域が河野郷であり河野氏の一部が移住していたと言っているわけです。土岐氏が勢威を得る以前、美濃尾張の木曽川を挟んだ広大な土地が河野四郎通信の所領であったという何らかの史料が見つかれば、美濃に残る河野氏の伝承も、ことさら不審視されることもないと思います。稲葉氏の伝承など、あまりにも山国とはかけ離れた伊予の河野氏との関係は、なかなか理解されないのも致し方ないのかもしれません。しかし、これだけ伝承が残っているということは、史実として証明することはできませんが、河野氏が、この地域に何らかの所領を得ていたと考えた方が自然であると思います。

 

#4824 河野郷よりも広大な美濃の河野郷  maru阿弥  08/09 11:11

mino阿弥様ご指摘の、美濃の河野郷の範囲を見て驚きました。
伊予の河野郷よりも、広大。それも平野で大河を押さえた水上交通の要。
河野水軍なら、河野水運でかなりの利益があげられる。

これは、すごい場所を押さえておられます。さすが水に関わる武装集団。

1232年前後に、親鸞との関係で歴史上に登場しておりますから、
南北朝動乱よりも、100年も前に、美濃地方でかなりの勢力を持っておられた。

これはすごい。驚きました。

 

#4825 不思議です  mino阿弥  08/09 14:03

「一遍上人語録」によれば弘安六年愛知県甚目寺町にある甚目寺に七日逗留し美濃国に修行すと書かれています。一遍上人の遊行の先は必ず河野氏が関係するとの説もあり甚目寺にも河野氏の足跡があったやもしれません。近くの「萱津」は、美濃国七代守護土岐持益が「萱津殿」と呼ばれ、居住していたようです。後醍醐天皇の後裔を守護した「四家七名字」の地、津島もすぐ近くです。信長の清洲も近接しています。また河野門徒が直接親鸞上人に帰依した三河柳堂は国宝となっています。河野通勝の木瀬御坊の地は、現在岐南町ですが昔は尾張です。大垣市は現在も水都と呼ばれており墨俣、岐南町、笠松、川島、津島、甚目寺、萱津などすべて水運に関係しています。承久の乱では土岐氏も河野氏も宮方となり所領を失くしてしまい、すべて北条氏の支配するところとなり、その後土岐頼貞が足利尊氏の股肱の臣となり土岐氏が復活してきたように思われます。美濃国土岐氏初代守護土岐頼貞の父とされる土岐光定は、伊予の地で没し美濃の土岐氏はどうしていたのでしょうか?また河野氏は、この地域を実際に所領としていたのでしょうか?河野郷河野村がある以上、河野氏の関わりがあったと考えざるをえません。

 

#4832 水上交通史・河川交通史・的視点  maru阿弥  08/10 16:35

美濃や、美濃の河野郷は、陸から見たら奥地? 内陸部とついつい思っていましたが、水から見たらなんと、水軍の生息環境が、ぴったりではありませんか。

このような、水域・好条件なる場所を山奥などとお聞きして、つい、うっかりしておりましたが、古代より、山ノ神は、海の神・水の神でもあられる、おおやまづみの神のお示しすっかり、忘れておりました。

美濃の河野郷は、湊町が栄えたほどのところ。

これからは、おおやまづみの神の原点に戻り、水上交通史・河川交通史・的視点で、美濃をとらえ直す必要を感じた次第です。

 

#4834 Re:4821 「尾州河野村」  今城  08/10 20:03

ご紹介にあった河野郷とは岐南町、笠松町、川島町、尾西市(現一宮市)、一宮市浅井に跨る相当広範囲な地域で、今は木曽川を挟み岐阜県と愛知県に跨りますが、当時は「通信カ元暦元年沼田城合戦ノ後尾州河野村ノ地ニ移住シ、」とあるように、尾張の国だったようですね。木曽川は昔、多くの流れに分かれていて、本流は木曽川の近くで岐阜県川を流れる境川だったとのこと。この境川が名前の通り美濃と尾張の境だったのでしょう。そうであるなら、河野村は尾州に属し、上記の表現も頷けます。

更に木曽川の成立過程から見ますと、笠松湊の成立はずっと後のことで、元暦の頃には水運はあったでしょうが、大きな川湊はまだ存在しなかったのではないでしょうか。

昔は川の流れが纏まらず、沢山の支流でどれが本流か分からない川だったのが、天正十四年(1586年)の大洪水により、今の木曽川が出来たのだそうです。そして慶安三年(1650年)美濃郡代「岡田将監善政」が、「枝広の大洪水」による木曽川堤の復旧に便利な「笠町」(今の笠松)に休息所を置いたことなどから次第に地方行政の中心地、地方物資の集積地となり、川港と渡船場のまわりに出来た集落---港町も次第に大きく広がり、栄えていったと言いますから、笠松湊は近世以降のものと思われます。

この辺り一帯は砂が堆積した平野部ですから、昔は大雨が降る度に川の流れが変わり、治水に難儀したことでしょう。
[26]小池 経子さんからのコメント(2007年02月19日 07時53分45秒 ) パスワード

おはようございます
小池経子です

ギャンブラー様

早速に有難う御座いました。

凄いですね
これだけの入力  私だったら一日かかっても駄目でしょう

いろいろ勉強になりました。
[27]mino阿弥さんからのコメント(2007年03月19日 15時47分43秒 ) パスワード

暇つぶしのギヤンブラー様、私の投稿を読んで頂いたようで恐縮です。「一遍上人語録」には、「弘安六年夏美濃国に修行す」とのみ書かれています。一遍上人は美濃墨俣の河野墨俣氏を訪問したのではないかと推測しています。河野通政の子政氏(河野墨俣氏)と通行は一遍上人と同様に河野四郎通信の孫です。(河野墨俣氏の存在=「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国」石野弥栄氏・道後湯築城資料館長・論文 諸家系図纂所収河野系図ご参考)。
大垣市墨俣には法蔵寺(廃寺・臨済宗東福寺派)があり、南山士雲が住持であったとされています(北条貞房下知状延慶ニ年五月八日付)。
元弘の乱で六波羅を警護し北条氏に属していた河野通盛は藤沢の遊行上人を通じ、建長寺住持南山士雲のもとで出家、南山士雲の取次ぎにより足利尊氏に属し本領を安堵された。(南山士雲は1335卒のため多少の疑問は有りますが通説に従います)。美濃墨俣の法蔵寺住持であった南山士雲は河野墨俣氏と何らかの誼があり、河野通盛の願いに応えたのではないかとも考えられます。
河野通盛は、南山士雲の恩に報いるため伊予河野郷に善応寺を建立した(開山正堂士顕)。
河野墨俣氏が尾張河野九門徒の筆頭河野通勝と何らかの関係があるのかどうか、また河野墨俣氏が木曽川中流の両岸、尾張国葉栗郡から美濃国羽栗郡・厚見郡にかけての本願寺教団の枢要な拠点をなした河野十八門徒と、どのような関係があったのかということは史料がないためわかりません。
文暦ニ年(1235)三河柳堂(西岡崎・妙源寺)において安藤薩摩守信平が親鸞上人に帰依した折、岐阜県岐南町三宅(木瀬)に住む河野通勝を筆頭に、この地域の人達が、親鸞上人の教化に浴するために三河まで行ったということです。1235年以前から河野氏が美濃尾張に存在していたことになります。この三河柳堂近くにも河野町があります。美濃河野氏と三河河野氏、水運などを通じて他の河野氏ともネットワークがあったやもしれません。英賀本徳寺、堅田本福寺、吉崎御坊、三河柳堂、美濃の木瀬(竹ヶ鼻)御坊といい、本願寺教団と河野氏は密接な関係があるようにも思われます。
美濃国初代守護土岐頼貞の父土岐光定は「尊卑文脈」によれば伊予(松山市東方町矢谷・興源寺)で没したとされています。八代守護土岐成頼まで土岐氏は伊予に所領を維持していたようです。(大野系図)
とりとめのない話になりました。失礼致します。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月19日 22時36分57秒 ) パスワード

mino阿弥さん

初めまして。
詳しいお話をありがとうございました。ぺこり

鎌倉時代の御家人はあちこちに所領を頂いていますから
伊予河野家が美濃や尾張にも関係があったと分かりました。

これを拡大して他の御家人も同様に日本各地に所領があったのだと分かりますね。


>本願寺教団と河野氏は密接な関係があるようにも思われます。

我が家の先祖も本願寺に走って堺で討ち死にしています。
確か織田信長の死の2ヶ月前の4月です。


>「四家七名字」

父方がこの1家に該当します。
当然父方も本願寺ですし。


深い深い因縁を得てわたくしが生まれました。
[29]mino阿弥さんからのコメント(2007年03月20日 10時39分16秒 ) パスワード

重要文化財である服部家所蔵の「浪合記」を「歴史伝承フォーラム」代表の田中豊氏(「真清探当証」の解読者)が解読されています。「浪合記」は偽書とされていますが、私自身は真実が書かれているようにも感じています。尹良、良王親王には吉野以来、時宗の陣僧が近侍しており津島の寺は、元々時宗であったと思います。時宗門徒は、しだいに浄土真宗に組み込まれていったのではないかと考えます。
「続群書類従巻第百六十七河野氏系図」は、津島の四家七名字の大橋氏が慶長二十年に書いたものです。林佐渡守通勝が追放改易となった折、養子となっていた林宗兵衛正三は大橋家お預かりとなり、後に正三の子林市助(稲葉佐渡守正成)が春日局と結婚し家名を回復したため、大橋家との縁がある稲葉、林家の河野系図が作成されたものと思います。斎藤道三の執権家であった林家は、同じ執権であった堀田道空(津島)で知られる堀田家とも、春日局の関係で縁戚になっています。
津島市北町の大龍寺には、尹良親王の位牌と肖像、瑞泉寺には良王親王の位牌と肖像があり、大龍寺の住持加賀善康氏は「南朝秘史」を発行されています。
伊予には、北条氏がらみの臨済宗のせいか浄土真宗が初期段階では入っておらず河野氏が衰退してから入ってきており、河野氏は伊予以外の地で本願寺教団と密接であったと思われます。また後醍醐天皇の後裔が時宗の遊行上人となっています。いろいろと調査の余地があると思います。津島の四家七名字四姓(津島十五党)といい、その底流にある海族、湖族、川族といった水運に関わった人達が、厳しい乱世を生き抜いた歴史の不思議を解明したいと思います。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月20日 12時03分13秒 ) パスワード

>「浪合記」は偽書とされていますが、私自身は真実が書かれているようにも感じています。

浪合記が偽書とされるのは
明治維新で徳川幕府が倒されたから否定されていると
わたくしなりに解釈しております。


それで、ああ、やっぱり、と思っております。


mino阿弥さん、歴史の解明、期待しております。
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