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 投稿番号:100371 投稿日:2002年09月28日 07時05分28秒  パスワード
 お名前:服部 明子
謝罪文:「池大納言殿京に戻りし真相」

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「平家都落ち」のくだりを takahiro さまより愚管抄からご紹介頂きました。
平家物語の表現とは随分異なっていますので
今迄わたくしがもっていた池殿のイメージが全く壊れてしまいました。

ここに謝罪をし
その経緯を新しいスレッドにしてみました。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 07時12分36秒 ) パスワード
  

「愚管抄」より:


その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。
かくと聞(きき)て
先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして
鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、
心もうせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、
やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。



宗盛率いる平家一門は都を落ちて行くのに屋敷に火をかけて出て行ったので、
それで町の中は略奪が始まった。

一方頼盛軍一行が山科にいるのに宗盛一行は声もかけずに落ちて行った。

頼盛一行は宗盛率いる平家一門が落ちて行くのを聞き付けて
まず為盛(の子?)を使いにやって鳥羽で追い付き

「何故京を去るのか?」

訊いたのに返事もして貰えなかった。

宗盛率いる平家の者達は皆憔悴し切った顔をして言葉もかけてくれないので
為盛の子や使者は諦めて馳せ帰ってこの事を頼盛に伝えた。

頼盛一行は宗盛率いる平家一行をせっかく追い掛けたものの
一度は一緒に落ちて行こうとはしたものの
京に残る決心をすることになった。


一方資盛は可愛がって貰っていた八条院の女院にお目にかかって
後白河法皇にとりなしをお願いしようと思っていたが
取り次ぐ人もなく
とうとう諦め、失意の内に宗盛一行と共に落ちて行くことにした。


頼盛と資盛は京都に2人で共に戻ったのですねぇ。思いはそれぞれでしたが。

頼盛は平家物語によれば

「池の大納言頼盛の卿も、池殿に火かけて出でられたるが
鳥羽の南の門にて、「忘れたる事あり」とて、
鎧に付けたる赤印どもかなぐり捨てさせ、
その勢300余騎、都へ帰り上られけり」

これを見て宗盛方の越中の次郎兵衛盛継は
「あんな奴ら、矢を射かけて脅してやろう」と騒いだが
宗盛はやめさせた

という話に続くのですね。



池殿が平家の一行と行動を共にしなかった理由は
冷たくされたから?
問い合わせたのに誰も親切な返事をしてくれなかったから?
絶望的な思いがあったのでしょうね。

これはお互い「誤解」だったのかもしれないけれど・・・


後に池殿は頼朝に優遇されるから
京に残った理由を世間の人や後世の人に
痛くもない腹をさぐられることになったのでしょうね。

池殿自身には頼朝が助けてくれるかどうかは分らなかったでしょうし
宗盛一行の中でも冷遇されるなら
いっそ住み慣れた京で
殺されるものなら死のうと思ったのかもしれませんね。


平家物語での池殿のイメージとは随分違いますね。
誤解してました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 07時18分13秒 ) パスワード
  

takahiro さまより教えて頂いた「愚管抄」


<原文>

かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事(こと)火急(くわきふ)になり
て、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納
言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あ
しざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはす
て候(さふらひ)ぬる由(よし)故入道殿(こにふだどの)に申(まうし)
てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」と云
(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山
しなへむかいてけり。かやうにしてけふあす義仲・東国武田(たけだ)な
ど云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるに
てをのゝきあいける程に、廿四日の夜半(よは)に法王(ほふわう)ひそ
かに法住寺殿(ほふじゆうじどの)をいでさせ給ひて、鞍馬(くらま)の
方(かた)よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、あふみ
の源氏がりこの由仰(おほせ)つかはしけり。たゞ北面下臈(ほくめんげ
らふ)にともやす、つゝみの兵衛と云(いふ)男(をとこ)御輿(みこし
)かきなんどしてぞ候ける。暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はら
さはぎて、辰巳午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内を
ぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落
(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。六はらの家に
火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いでき
て、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。その中(なか)に頼盛が
山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)
の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽にをひつきて、「い
かに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑけれ
ば、はせかへりてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落ければ、
心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそ
のころ院のおぼゑしてさかりに候ければ、御気色(みけしき)うかゞはん
と思(おもひ)けり。この二人鳥羽より打(うち)かへり法住寺殿に入り
居ければ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事由(こと
のよし)を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比
(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院(はちで
うゐんの)辺(へん)に候へ」と御返事承(うけたまは)りにけり。もと
より八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻はしうとめなれば、
女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申いるゝ者も
なくて、御返事をだに聞かざりければ、又落てあいぐしてけり。
[3]takahiroさんからのコメント(2002年09月28日 09時05分49秒 ) パスワード
  

服部明子様

 <原文>に対する簡潔で明解な読み下し、ありがとうございます。
 また、池大納言に対する新しい解釈、ありがとうございます。

 確かに「平家物語」の同場面における頼盛の描き方とは、微妙にそのニュ
 アンスが違っていると、私も感じます。

 愚管抄によると、まず都落ちの前に、頼盛一族は山科の防御に、宗盛によ
 り出征せられていて、六波羅における都落ちの「現場」には、いませんで
 した。
 前夜、この頼盛一族の山科の防御への出征を決める際にも、頼盛は再三固
 辞しており、そこを半ば無理強いに、宗盛は頼盛山科行きを決定していま
 す。(おそらくこの時の山科防御とは、地理的に、義仲軍勢への第一の盾
 になる事を意味していたと思われます。)

 そして、前記、服部様に読み下して頂いた、都落ち当日の経緯。

 おそらく頼盛の都落ちからの離脱は、この前後一日の出来事によってのみ、
 導き出されたものではないとは思いますが、しかし、当時の宗盛(一門主
 流)と頼盛一族との関係を、この愚管抄の記述は、鮮明に描き出している
 と思います。

 この愚管抄の記述により、頼盛解釈への新たな光が射せば、頼盛に親近感
 を覚える私には、非常にうれしく思えます。
 
 私は愚管抄の原文を見ても、その大意しか理解できなかったのですが、服
 部様の読み下し解釈により、そこに描かれている微妙なニュアンスを知る
 ことができました。

 ありがとうございました。
 
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年09月28日 11時39分52秒 ) パスワード
  

この「愚管抄」の都落ちの下りは泣けますね。
「平家物語」の下りとはホントに全くニュアンスが違いますね。

>「いかに」

何故一緒に落ちて行こうと誘ってくれずに、黙って通り過ぎて行ってしまったのですか?
何故住み慣れた都を出て異郷の地に行こうとするのですか?
何故女性達にも辛い放浪の苦労をさせるのですか?
どうして?どうして?
そして何処に行こうとしているのですか?
為盛の子が矢継ぎ早に次々と問い糾しても返事さえしてくれない。


宗盛方にしても「答えても仕方無いじゃないか」というむなしさがある。
「義朝の子達の命を助けたばかりに」と言いそうになるけど
言っても今となっては・・・とクチをつぐんでしまうより仕方が無い。


資盛は兄・維盛なき後、自分がなんとかしなくてはならないと奔走する。
武力よりは政治的解決を。外交には自信があるから・・・



結束を誇った平家でさえ異母関係ということで3者3様の立場が生じ
とうとう亀裂が・・・

叔父とはいえ母で繋がっていない頼盛一行は疎外感に打ちのめされ
安徳天皇を戴く宗盛一行は武力で決着を付けるより他に選択肢は無く
やはり母を異にする資盛は外交の空しさ・人の冷たさに絶望し

今後どうするのかそれは自分が決めること。
厳しいですね。
リーダーは決断しなくてはならないですから
たくさんの命や生活を預かってるのですから
辛いですね。

泣けてしまいます。

母が違うという事は決定的なものがあるのですねぇ。
[5]takahiroさんからのコメント(2002年09月29日 03時17分00秒 ) パスワード
  

>宗盛一行の平家と
>資盛に代表される重盛系平家の立場と
>清盛の腹違いの弟の家(池の大納言家)の場合の3つ立場
         
服部様が挙げられた、この三つの立場が表立って齟齬をきたし始めたのは、
おそらく、清盛という平家一門のカリスマの薨去の後ではないでしょうか。
 
それだけ清盛とは、平家一門を束ねるうえでの、巨大な人物であったのでし
ょうか。このことに関しては、清盛は、同時代において、源平、藤原貴族、
皇族問わず、世に傑出した大人物であったことは、誰もが認めるところと思
われます。

この清盛と関連して、頼盛の都落ち離脱の遠因のひとつともなった、池禅尼、
頼盛による、平治の乱後の源頼朝助命について、頼盛側の視点から、少し記
載したく思います。

「池禅尼、頼盛による、平治の乱後の源頼朝助命」とは、おそらく歴史的事
実であったと思われます。

しかしまた、「朝日日本歴史人物事典」には、『常盤御前』の項目に、

「平安末期の女性。初め九条院藤原呈子の雑仕女で都一の美貌とうたわれた。
 十六歳で源義朝の妻となり、今若(全成)、乙若(義円)、牛若(義経)を
 生む。平治の乱で義朝が敗れると、平清盛の追手を逃れて大和に隠れるが、
 母を人質にとられ、六波羅へ子連れで自首。清盛はその容色に奪われて助
 命。妾とし廓御方(左大臣藤原兼雅女房)をもうけた。<後略>」

とあります。

つまり、義経の助命を清盛は為しています。

時系列で見ますと、
  平治元年(1159)12月末:清盛、常盤御前及び義経はじめ三兄弟助命 
  永暦元年(1160) 2月 :池禅尼、頼朝助命
となります。

頼朝助命については、池禅尼の一子で夭折した家盛に頼朝が酷似していた事
から、禅尼は助命に動いたとの説が有名です。
しかし上記の時系列で見ると、池禅尼の頼朝助命の以前に、清盛は同じく義
朝の子を、例え嫡男ではないにしろ、義経を含め助命しています。

ここにも禅尼の頼朝助命を、清盛が拒絶できなかった要因のひとつがあるの
ではないでしょうか。

「頼朝を斬ったところで、平氏一門にとっては、もともとないような果報が
 やってくるはずもないし、頼朝を助けたところで、果報が失われてしまう
 はずもありません。この家の運が末になれば、諸国には源氏も多いのだか
 ら、必ず彼らが政権をとるでしょう。それは頼朝の生死とは関係がないの
 ではないか。」

とは、頼朝助命の際、禅尼が清盛を説得した言葉として、有名です。

しかしこの言葉とは、もしかしたら、「頼朝」を「常盤御前の子息」に入替
え、合理的、聡明な頭脳の持ち主、清盛が、「常盤御前の子息」助命の際、
自身に言い聞かせた言葉でも、あるのではないでしょうか。

そこを禅尼につかれ、頼朝助命も、拒絶できなかったのではないかとも、思
えます。

つまり、清盛も義経助命をしていたので、頼盛母の頼朝助命の平家一門に対
する後のマイナス要因が軽減されるという事ではなく、上記の「頼朝を斬っ
たところで、・・・」という思考でもって、頼朝・義経助命は為されたので
あって、そしてその思考通りの事が、後に歴史上、引き起こされたという事
ではないでしょうか。

そのような事を頼盛は、後に一門に母の頼朝助命を責められた時には、自身
に言い聞かせていたのではないかとも、思えます。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年09月29日 03時56分18秒 ) パスワード
  

常盤の子達の助命
頼朝の助命

時系列で見ると常盤の子達の助命の方が早かったのですか。
では清盛が頼朝を助けたのは前例があったからなのですねぇ。

これは勘違いしてました。
ありがとうございます。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 13時27分15秒 ) パスワード
  

かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事(こと)火急(くわきふ)になり
て、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納
言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あ
しざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはす
て候(さふらひ)ぬる由(よし)故入道殿(こにふだどの)に申(まうし)
てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」と云
(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山
しなへむかいてけり。


この部分
清盛のクーデターで後白河法皇よりの頼盛の官位が剥奪された事を差しているのでしょうね。
[8]takahiroさんからのコメント(2002年11月08日 19時25分52秒 ) パスワード
  

[7]において服部様ご指摘の部分、「平家一門」(多賀宗隼筆、日本歴史1977年
11月号)から、1段落纏めて抜粋します。

「官職上で最も殊遇を受けた頼盛が、清盛との間に最も露骨かつ険悪な対立を示し、 解官されること二度に及び清盛の追討の噂さえ行われたことは平家一門内の最大
 の分裂の内情を暴露したものであった。…それ(仁安三年十一月の解官)はやが
 て解除され翌年十一月十六日には本座を聴されているが、治承三年十一月の政変
 にまた解官されて居り、この度は討伐の噂さえ流れた。結局それは噂にとどまっ
 たがこの度の阻隔感情は深刻であった。頼盛の心は今後、宗家を離れて「治承三
 年冬治承三年冬ノ比アシザマナル事ドモ聞エシカバ、ナガク弓箭ノミチハステ候
 ヌル由故入道殿ニ申キ」(愚管抄、五)というところまで行って了ったのであっ
 た。清盛・頼盛の関係はかくまでに悪化して逆に破局を迎え平家都落に際して頼
 盛一家は公然と叛き去った程であった。」

 治承三年冬に頼盛は、平家宗家(清盛)に対し、謀反に対する自身の潔白を証明
 するため、「弓箭ノミチハステ候ヌル由」を誓っていた事を、平家都落前夜の一
 門討議の席上、宗盛の山科擁護の命を固辞するに述べたことが、「愚管抄」に記
 されているこの個所だと思います。
 
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年11月09日 00時10分00秒 ) パスワード
  

ありがとうございました。

これだ武門の平家とキッパリ決別したのが分かりますね。
[10]takahiroさんからのコメント(2002年11月18日 10時22分58秒 ) パスワード
  

◇頼盛都落離脱について
(都落ち決行時の西国情勢に対しての宗盛との読み違いについて)

平家一門でありまた小松家重代の御家人である平貞能は、清盛の斃去後、九州
の動揺を押さえるため肥後守に任じられ、当地に出陣しその動揺の鎮圧に当た
った。謀反の首魁者である菊地家などを降伏させ、一応の成功を治めた後、貞
能が京都へ帰還したのは、寿永二年六月であった。

その翌月七月二十五日に平家一門は宗盛の主導にて西国都落ちを決行する事と
なるが、上記、当時の西国(九州)の情勢をその身でもって知悉していた貞能
は、この都落ちには反対であったようである。

以下、「平家後抄」(角田文衛著)より。

『以倉紘平氏は「平貞能像」の中でその当時における平貞能の心境を詳しく分
 析されている。要するに、貞能がこの時点において抱いていたのは、優柔不
 断で退嬰的な平家首脳に対する焦慮、小松殿(重盛)の息子たちが平家の主
 流から外され、疎外されていることへの鬱屈であったのであろう。後者の方
 は、世間にも知れ亘っていたことであって、すでに都落ちの際、維盛や資盛
 の離脱が囁かれていた。さらに貞能の胸には、情勢判断に関する宗盛らの甘
 さに随いて行けないしこりがあったに相違ない。』

七月二十五日、都で志を得なかった資盛と貞能は、その後手勢とともに福原に
向い、そこで宗盛主流と合流している。

つまり、都落前後における平家一門内では、「都を捨て西国に落ちる」という
事の是非についての、情勢判断の相違が見られたようである。

特に都落ちの二月前まで、実際九州の地にて反乱勢力の鎮圧に当たっていた貞
能にとっては、都に居る一門には見えなかった、清盛斃去後の、九州家人たち
の平家に対する動静の微妙な変化を察知していたように思われる。おそらくそ
の動向(決して西国、九州も、平家に取り安住の地ではない事)を、宗盛に進
言したとは思われるが、受入れられず、一門の都落ちは決行されたように思わ
れる。

その事が、上記「貞能の胸には、情勢判断に関する宗盛らの甘さに随いて行け
ないしこりがあったに相違ない」との意であると思われる。

おそらく宗盛も、九州に対する太い情報網を有していたと思われるが、その宗
盛の情勢判断は、貞能にとっては、入れられないものであったようである。

またこの事は、頼盛に対しても言えるように思われる。

その事について少し記してみたい。

後に日向国富荘へ下向する事となる頼盛末裔鬼丸氏の家譜には、その下向時に
おける家人の随行者の姓が十四名記されている。

その中には、頼盛が常陸介であったころからの家人の姓とも思われる、常陸大
掾平氏「吉田」、「武田」という東国の姓も見えるが、九州の大神一族と思わ
れる「三重」という姓も見える。

豊後国の緒方家の大神惟栄は、後に平家に対し叛くが、元々は平家(小松家)
の家人であった。この大神(緒方)惟栄の祖父が「三重次郎惟衡」と名乗って
おり、またその一代前は、「三重(臼杵)惟盛」と名乗っている。おそらく、
鬼丸家譜に見える家人の姓「三重」とは、この大神氏に関連したものであった
と思われる。

おそらく頼盛は、この大神一族である「三重」なるものから繋がる情報とし
て、当時の九州における「対平家」の風向きを、宗盛よりは知悉していたので
はないかとも思われる。そして、都落ち前夜における一門討議の中にても、貞
能同様この事を宗盛(一門)に対して、進言したが、入れられなかったのでは
ないかとも、思われる。

上記家人「三重」に限らず、おそらく頼盛は頼盛で、独自に九州への情報網を
有していたのではないか、そこからの情勢分析として、九州への都落ちの容易
ならざるを知っていたのではないか、とも、推測であるが思われる。

(頼盛は、太宰大弐の役職を務めた時、当時としては異例の、本人の下向によ
 る職務遂行を行っており、こうした点からも、頼盛は独自の九州とのパイプ
 を有していたのではないか、その情勢判断からも、平家の都落ちの不利を宗
 家に説いたが、入れられなかったのではないか、とも思われる。)
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年11月18日 10時52分11秒 ) パスワード
  

>謀反の首魁者である菊地家などを降伏させ、一応の成功を治めた後、
>貞能が京都へ帰還したのは、寿永二年六月であった。

>特に都落ちの二月前まで、実際九州の地にて反乱勢力の鎮圧に当たっていた
>貞能にとっては、都に居る一門には見えなかった、清盛斃去後の、九州家人たちの
>平家に対する動静の微妙な変化を察知していたように思われる。


なるほど。
それで婿さん?の宇都宮氏に東国に戻るようにさせたのでしょうか。
他にも主人忠盛・清盛・重盛の骨を焼いて高野山に納めたり。
覚悟しているな、というのが見受けられます。
[12]takahiroさんからのコメント(2003年01月08日 19時15分56秒 ) パスワード
  

当ログ[5]において、清盛の頼朝、義経助命に付き以下のように記しました。

 平治元年(1159)12月末:清盛、常盤御前及び義経はじめ三兄弟助命 
 永暦元年(1160) 2月 :池禅尼、頼朝助命

しかし、池宮版平家に触れ、その他資料を改めて参照しますと、義経他兄弟の
助命は、「永暦元年(1160)2月」よりも以降に為されたとの記述もまた多く
発見しました。

[5]において記しました記述は或る平家年表を元にしたものですが、時系列的に
逆の記述も多く見えることを、ここに補稿しておきます。
[13]川口 信さんからのコメント(2003年01月08日 20時51分05秒 ) パスワード
  

takahiroさんがよく引用される「愚管抄」より

 正月ニ永暦ト改元アリケル二月九日、頼盛ガ郎党ニ右兵衛尉平宗清ト云者アリケルガ、モトメ出シテマイラセタリガ、コノ頼盛ガ母ト云ハ修理権大夫宗兼ガ女ナリ。イヒシラヌ程ノ女房ニテアリケルガ、夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者ナリケルガ、保元ノ乱ニモ、頼盛ガ新院ノ一宮ヲヤシナヒケレバ、新院ノ御方ヘマイルベキ者ニテ有ケルヲ、「コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」トテ、「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」トオシヘテ有ケル。 
 
(頼盛の母というのは修理権大夫宗兼の娘(池禅尼)で、身分からすればいうにたりない女房ではあったが、夫の忠盛をよくたすけたなかなかの人であった)

 と九条家の後見役と自任する藤原家贔屓の慈円さえ、こうした見方をしています。
 
 頼盛は若い頃より平家の異端者と言われており、自分が貴族で位が高く、偉いと思い違いしたのではないでしょうか。ただ清盛の弟というだけなのに。取り巻き連中がまた平家に仇するものばかり。

 頼朝を助命した事に対して非難する人はあまりいません。頼盛が嫌われるのは平家都落ちに一族と行動を共にしなかったということだけです。まして平家のしるし、赤布をちぎったと言う事。これは平家一門と決別したということです。
 
 都落ちに際し同行しなかったのは母の言葉が脳裏にあったのではないでしょうか「勝つ方に付きなさい」

 こんなふうな解釈もあります。


[14]川口 信さんからのコメント(2003年01月08日 20時56分51秒 ) パスワード
  

[13] 続き 他でも書き入れましたが。

 保元の乱に後白河方に清盛、頼盛、敦盛、重盛など平家の面々が参集しておりますが、清盛と頼盛とは兄弟といっても異母であり、しかも頼盛の母(忠盛の後妻。池禅尼)は崇徳の長男である重仁の乳母であった。頼盛は本来は崇徳方に加わるべき立場にあったのであり、その頼盛が後白河方となったのは、『愚管抄』によれば、母の指示によるものであったという。この頼盛の離反は、崇徳方にとっては手痛い打撃であったという。

 なお、1159年の平治の乱において、源頼朝は頼盛の懇望によって助命されることになるが、これが許されたのは、保元の乱における頼盛の帰参が高く評価されていたためではないかと推測される。(保元の乱・平治の乱):河内祥輔著)より
[15]takahiroさんからのコメント(2003年01月09日 00時03分30秒 ) パスワード
  

>頼盛が嫌われるのは平家都落ちに一族と行動を共にしなかったという
>ことだけです。まして平家のしるし、赤布をちぎったと言う事。これ
>は平家一門と決別したということです。

私は平家と非常に因縁の深い地、京都に在住しています。
私は系譜上では頼盛末裔を伝える姓を800年を経て受継いできました。
そのような私が実際、京都に住んでいて最も感じるのは、平家一門の限
り無く温かい眼差しです。
(これまで真面目に記述を続けてきて、急にこのような事を記すと変に
 思われるかも知れないですが。)

頼盛はもちろんですが、それ以上にとりわけ、清盛の温かい応援の眼差
しを感じ続けています。同じ平家の血を受継いでいる者への眼差しです。
800年前に栄華光芒をともにした者たち全てへ、清盛はそうした温か
い眼差しを送り続けています。

京都にて頼盛の末裔を名乗るに(そのような事は実生活上ほとんどない
ですが)、やましさは全くありません。平氏頼盛末裔を名乗り、畏敬さ
れこそすれ、疎まれた事はこれまで一度もありません。

たとえ都落ちに同行しなかったとしても、頼盛はあくまで誇り高き平家
一門です。

平家因縁の地、京都に住んでいて、私は上記のよう身をもって感じてい
ます。

昨年11月19日に服部明子様より「takahiroさまへ」として、以下の
文章の掲載されたスレッドを建てて頂きました。

このような言葉が更にもらえるよう、今後ともより頼盛の新たな面に光
が当たるよう投稿していきます。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
『takahiroさまへ』

わたくしの所に随分沢山のメールを頂いておりますことをお知らせ致し
ます。

平頼盛が何故平家一門と決別して京に戻ったのか
「平家物語」からでは読み取れなかった事が
takahiroさまからの「愚管抄」の紹介で分かった、と。

ここに明快に出ていたのですか、と。
[16]そりちゃんさんからのコメント(2003年01月09日 15時44分54秒 ) パスワード
  

takahiroさん

私も感謝しております。
「平家物語」や通説にとらわれずに、当時の
人々の「証言」を参考にするのが重要であると
教えていただきました。

建礼門院右京大夫集を読んでみようと思えたのも
愚管抄のことがあったからですし。

清盛が子孫を温かく見守ってくださっているなんて
素晴らしいと思います。京師に住まわれていて良かったですね。
清盛の心を感じることが出来て・・・。
[17]川口 信さんからのコメント(2003年01月09日 18時04分10秒 ) パスワード
  

[13]の「愚管抄」の文章から色々な解釈が出来ると述べただけで、私の解釈など一笑に付してくだされば良いのに。あまり感傷的にならないで現実を見てください。現代においては平家がどうだ源氏がどうだなどは利害関係のなかった一般の人々にとってはどうでも良いことなのです。

>京都にて頼盛の末裔を名乗るに(そのような事は実生活上ほとんどない
>ですが)、やましさは全くありません。平氏頼盛末裔を名乗り、畏敬さ
>れこそすれ、疎まれた事はこれまで一度もありません。

  
そんな京都を離れて鎌倉時代は各地に離散とは、「頼盛家には弓矢を向けるな」という源頼朝の御墨付も頼盛の子供達や孫の代では効力も衰えたのでしょうか。

 京都では新参者はあまり歓迎されないと聞きましたので安心しました。頼盛の血が何百分の一かわかりませんが混じっている川口家も奢る事なく、その事を肝に命じて生きていくつもりです。

自分達だけは良かったと思わず、もっと壇ノ浦で討死した平家の公達、武士、女御、子供達たちに思いやりをお願いいたします。死んだ人々があってこそ今に我々が生かされているのです。
  
 ちなみにtakahiroさんは[13]の愚管抄の文章をどう理解されますか。
[18]takahiroさんからのコメント(2003年01月09日 23時16分10秒 ) パスワード
  

[16]そりちゃんさんへ

 ありがとうございます。

 「建礼門院右京大夫集」には私も非常に興味をもっています。

 少し話は違いますが、2年前、小泉首相は知覧の「特攻平和会館」にて
 特攻隊員の残した歌を読み、声をあげて号泣したとの事です。

 「歌」(短歌)というものは、日本においては伝統として、文字数は少
 ないですが、その文字数以上の想いを相手へ伝え得る表現手段であるよ
 うに思われます。

 建礼門院右京大夫により、そのような想いの込められた歌を後世に残さ
 れた平資盛という人物を、私は大変羨ましく思います。

 「建礼門院右京大夫集」、私も一度精読してみたいです。

 そりちゃんさんのスレッド、「建礼門院右京大夫集」の展開も楽しみに
 しています。
[19]takahiroさんからのコメント(2003年01月10日 00時32分32秒 ) パスワード
  

[17]川口信様へ

 [13]の「愚管抄」の文章を、あえて藤原宗子、頼盛の視点から解釈するなら
 次のようになると思います。
 
 つまり、保元の乱の際、もし宗子、頼盛が崇徳上皇への義を通していれば、
 おそらくその時は平家側から見れば、宗子、頼盛は一族の裏切り者と捉えら
 れていたのではないでしょうか。

 崇徳上皇側につかず、平家(清盛)側につきましたので、崇徳上皇側には義
 を通さなかった事になりますが、平家側には義を通した事になったのだと、
 つまり宗子は平家にとり賢夫人の称を受けたのだと思います。

 おそらく慈円はそのことを判ったうえで、あの文章を著したのではないかと
 も思われます。

 宗子、頼盛ともに、どうしても決断を下さないといけない非常に困難な立場
 に置かれ、やむを得ず下したのが、一族側に就くという判断であったのでは
 ないでしょうか。

 私は最近、古本で見つけました「平家物語」(石母田正著)を読んでいるの
 ですが、その中から以下、引用します。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 一の谷の合戦に破れた知盛がその子知章と従者一人をつれて屋島に落ち延び
 ようとしたときのことである。主従三人は、東国武士にかこまれ、知章が父
 の身代わりとして討死にするあいだに、知盛は沖の船にのがれる話が出てく
 る。そのとき彼は宗盛に次のように語ったという。

  武蔵守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそまかり成て候   
  へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けんと、敵に組を見ながら、い
  かなる親なれば、子の討るるを扶けずして、か様に逃れ参て候らん。人
  の上で候はば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれ
  ば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれ
  む心の内どもこそ慚しう候へ(知章最期)。

 子が自分の見ているまえで、しかも身代わりになって、むざむざ殺されるの
 を見過ごして逃げのびた知盛のこの言葉は、素直であるといってよい。この
 ような場合、「他人のことならばどんなに非難めいたことをでもいいたく思   
 うのに、自分のことになると、よくも命は惜しいものでありましたと、今こ
 そ思い知らされました」という彼の言葉には、自分にたいする武将らしい弁
 護は少しもまじっていない。生死の境に立てば子をさえ見殺しにする人間の
 生への執着と利己心のおそろしさを、そのままさらけだしているのである。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 私も宗子、頼盛が聖人君子であったとは思いません。しかしどうしても決断
 をしないといけない立場に置かれ、その上で崇徳上皇への義をとらず、一族
 への義をとった宗子、頼盛を、後世の人間である私は非難しえません。

 慈円もその事を踏まえていましたので、保元の際崇徳への義を通さなかった
 こと、また寿永の都落ち離脱を間近で見ていても、愚管抄においては一貫し
 て頼盛一族に理解を示した記述を為し得たのではないでしょうか。

>自分達だけは良かったと思わず、もっと壇ノ浦で討死した平家の公達、武
>士、女御、子供達たちに思いやりをお願いいたします。死んだ人々があって
>こそ今に我々が生かされているのです。

 もし私の投稿に不謹慎な点がありましたなら、それはひとえに私の文章力の
 至らなさであると、お許し下さい。

 何度か記しましたが、私は現在通っている一面的な頼盛像を、平家物語以外
 の資料に言及することにより、崩していければとの思いから、平熱へ投稿を
 しているだけです。

 上記川口様に御指摘頂きましたことは、常に私も胸のうちに大切に抱いてい
 る想いですので、その事だけは記させて頂きます。
[20]takahiroさんからのコメント(2003年01月10日 01時04分25秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年01月10日 02時14分37秒
[21]川口 信さんからのコメント(2003年01月12日 08時54分28秒 ) パスワード
  

回答を頂き直ぐコメントを書こうと思いましたが、なかなか、難しく2、3日経てしまいました。BBC、オットこれは英国の放送局、BBSは話題を投げかけて自由闊達に意見を述べ合うのが本来の姿で何も他意はありませんし、まして中傷誹謗するものではありませんので誤解の無いように最初にお断りしておきます。
takahiroさんには頼盛のことを書いてもらって嬉しく思っておりますし、もっと多くのコメントやスレッドを展開して欲しく常々思っております。

 そもそも「「愚管抄」の愚管とは自説を述べると言う意味であり、慈円の「愚管抄」は真実も書いてありますが、思い込みや聞き間違いなどもあり、引用にあたっては色々と配慮をしないと。それで私なりに「ナケナシ」の頭で考えてみました。

>崇徳上皇側につかず、平家(清盛)側につきましたので、崇徳上皇側には義を通さ>なかった事になりますが、平家側には義を通した事になったのだと、つまり宗子は>平家にとり賢夫人の称を受けたのだと思います。

乳兄弟というのは血の繋がり有る兄弟より強いという事が古来から言われている事なのですが。天台座主の慈円でさえそう思っていて、当時の一般常識から言ってもそう思われていたので稀有に思い、あえて文章に残したのだと私は思いますが。(違う見解も後で述べます)

また、ちょっと疑問に思ったのですが、血の繋がりの兄弟に味方するときには「義」と言う事は使わないのではないでしょうか。そもそも「義」とは五常のひとつで利害を捨てて条理に従う、人道のために尽くすとか、人の履みて行うべき正しき条理などとあります。兄弟のために尽くすことは当たり前のことであり、義で尽くす人はいないと思います。
保元の乱とは源平の戦いではなく、崇徳上皇と後白河天皇との兄弟の対立、摂関家における藤原忠実・頼長と藤原忠通との父子・兄弟の対立、源氏における為義・義朝父子の対立、平氏における忠正と清盛との対立というような構図であり、それは後白河天皇側に参集した武士の名前をみれば、下野守義朝、右衛門尉義康、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉季実、以上源姓などで平姓としては、清盛を初め常陸守頼盛、淡路守教盛、重盛、信兼、惟繁などで平家一門だけが行動した訳ではありません。だから平家のため義を立てたということではないのです。

>保元の乱の際、もし宗子、頼盛が崇徳上皇への義を通していれば、おそらくその時>は平家側から見れば、宗子、頼盛は一族の裏切り者と捉えられていたのではないで>しょうか。 

日本人はいにしえの時代から「義」を重んじて行動した人に対して後世の人々は神として祀ったり、褒め称えする民族だと誇りに思っております。決して批難する人は聞いたことがありません。
 
そこで慈円の立場から考えてみました。

慈円はご存知のとうり藤原家(九条・摂関家)の出で、他の藤原家に対しては見下すようなところが「愚管抄」の諸所に見出せます。藤原宗子(池禅尼)は、関白道長の兄、関白道隆の五代孫、宗兼の娘であるとtakahiroさまが書いてありますが、慈円にとっては眼中には入っていないのです。もっと近親の近衛家でさえ「愚管抄」の終りの部分に近いところでは敵意を剥き出しにしており、当面は九条流の子孫が重大な関心事であったのです。傍系の藤原氏や藤原氏以外の諸氏とともに歴史の隅に追いやられるのです。
 こんなことから私が推察するに、頼盛は九条家につらなるので可愛く、頼盛を悪者にしたくなく守りたかったのでしょう。
 [13]の文のように母(傍流・位が低い・縁が遠い)を悪者にしてしまえば、簡単に頼盛のとった行動は、母の言葉に従った孝行な息子になり、丸くおさまるのです。
 
 こんな解釈もできますが如何なものですか。もっとほかの人のご意見も聞いてみたいものです。




[22]takahiroさんからのコメント(2003年01月13日 00時14分29秒 ) パスワード
  

川口信様

 非常に含蓄溢れ、丁寧な御投稿、ありがとうございます。

 確かに私の[19]の投稿は、保元の乱を余りに単純化した構図で描き過ぎて
 いたのかも知れません。また「義」の使い方も間違っていたようです。

 (保元の乱につきましては、もう少し勉強してから投稿します。)

 再度、川口様の[13],[14]の記述に戻りますが、その大意は、頼盛は保元の
 の乱の際、母宗子の「勝つ方につきなさい」との示唆に従い、没落を免れた
 ので、都落ちの際も、「勝つ方」に就くため、都に残ったのではないか、と
 の意でよろしかったでしょうか。

 確かに「平家物語」だけを読めば、その様に後世の人々から判断されても仕
 方がないのかも知れません。またそれが頼盛の一般的な像かも知れません。

 そしてその一般像への反証として、私は「愚管抄」の頼盛都落ち離脱の場面
 を挙げました。

 『都落ちについて宗盛は頼盛に通知もせず、頼盛の鳥羽に出した使者に返辞
  も与えなかった。かくて頼盛は京に留まる決心をしたが、法皇は頼盛・資
  盛のうち頼盛にのみこれを許し、且つ庇護を与えられた。』

 (これと同意の内容は「愚管抄」のみでなく、「吉記・寿永二年七月二十八
  日」にも記されているとの事です。)

 確かに結果としては、平家物語の記述の通り、頼盛は「平家のしるし、赤布
 をちぎった」かも知れませんが、それは単に「勝つ方に就く」という単純な
 動機ではなく私には思えます。

 私はその事を示唆したく、上記愚管抄の下りを紹介しました。

 都に残り、源義仲に兵を向けられる可能性も全くなかったとは言えません。

 結果として、頼盛は都に残った事により生残ったのです。

 また平家物語の一連の「頼盛都落ち離脱」の後には、このような一文が続き
 ます。『新中納言知盛の卿、<行く末とても頼もしからず。ただ、都の内に
 ていかにもならせ給へと、さしも申しつるものを>とて、大臣殿の御方(宗
 盛)を、世にも恨めしげにぞ見給ひける。』

 また当ログ[10]にて、小松家家人平貞能もまた、西国の平家離れを知悉して
 いたので、西国都落ちには反対でした。

 小松家資盛も、頼盛とともに京に残るべく動きました。

 『都落ちについて宗盛は頼盛に通知もせず、頼盛の鳥羽に出した使者に返辞
  も与えなかった。かくて頼盛は京に留まる決心をしたが、法皇は頼盛・資
  盛のうち頼盛にのみこれを許し、且つ庇護を与えられた。』

 川口様はこの下りにつきましては、どの様な印象をもたれますでしょうか。
[23]takahiroさんからのコメント(2003年01月13日 01時14分16秒 ) パスワード
  

また「イヒシラヌ程ノ女房ニテアリケルガ、夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者ナリ
ケル」という慈円の記述を、多賀宗隼氏は「一筋縄ではいかない女性で夫の
忠盛をも支えるほどであったの意であろうか。」と、『国語と国文学』所収
「平家物語と平頼盛一家」の中で述べられています。

慈円の記述からは、宗子の身分についてのこだわりは(傍系、位が低い等)、
私もあまり感じることはありません。

上記の慈円の宗子観の大意は、一筋縄ではいかない、つまり良くも悪くも
「賢女」であったとの意ではないでしょうか。(後文「忠盛を支える」云々
へのつながりをを考えても。)

また忠盛と宗子が婚姻を為した頃の平家にとっては、やはり「藤原宗子」は
身分高き女性であったのではないでしょうか。

宗子を通しての藤原一族との関係は、その後の平家の躍進を大いに助けたと、
藤原家成と清盛の関係等を見てくると思えます。
[24]川口 信さんからのコメント(2003年01月13日 09時56分57秒 ) パスワード
  

 takahiroさんの言いたいことはよくわかります。

 我田引水のような解釈こそ頼盛に対しての反発を買うだけで、世の中に理解してもらうのにはもっと謙虚になって発言して貰いたいものです。慈円がなぜ頼盛の不利になるような文章を残したかという事です。この文[13]が残されている以上、後世の人々が上っ面の文だけで理解し、色々なことが言われているのですから[14] の文章のように。

 >確かに結果としては、平家物語の記述の通り、頼盛は「平家のしるし、赤布
 >をちぎった」かも知れませんが、それは単に「勝つ方に就く」という単純な
 >動機ではなく私には思えます。

 「単純な動機ではない」私もそう思っております。平家物語の記述だけで判断するものではないと。だが「赤布のちぎる行動は、同行しないにせよ、ないにせよ許されない行動です。」単純に考えれば源氏に敵と間違われないためにかと勘繰れます。恭順するなら武装解除すれば済むのに。(それこそ白旗を掲げればよいのに)
 
 だが都落ちに同行しなかった事実は残ります。平家全盛の時に平家に尽くすのは一族として当然であって、なにも頼盛だけが特別にした訳ではありません。上に立つもの、下でそれを支えるものたちも皆尽くしたのであります。だから平家の繁栄が一時にせよあったのです。衰退したときにこそ助け合うのが一門としてのつとめだとおもいますが。

 頼盛をもっと理解してもらう為には都落ちについて語るのが一番だと思っております。どんな理由や事情があったとしても。それを根気よく説明していくのが頼盛の子孫として登場したきたtakahiroさんのつとめだと思います。

 もっとtakahiroさんご自身の言葉で、都落ちや戦後の頼盛のとった言動など、見解を聞きたいものです。

 [22]の文章よく理解できます。だからそれがなんだという感じです。
 理由が有るにせよ無いにせよ、また悪いにせよ、良いにせよ日本人の考えでは総大将の宗盛につくのが宗家に対する礼儀で、勝敗を気にせず行動を共にする事が「一族」と言えるのではないでしょうか。

 
[25]takahiroさんからのコメント(2003年01月13日 14時52分33秒 ) パスワード
  

川口さん様

 BBSは忌憚のない意見の交換の場であるとの川口様からの言葉に甘え、もう
 少し自身の意見を述べます。

 私の頼盛の都落ちに関する捉え方は次のようなものです。(結果論かもし
 れませんが。)

 都落ちに際し、平家陣営の中で、都を捨てる事に対しての「賛成派」「反
 対派」があったとしたなら、おそらく頼盛が最も取るべき行動であったの
 は、反対派であった「小松家系」の人々、及び宗家においても知盛のよう
 な人と、これまでのわだかまりを一切脱ぎ捨て、ただ平家を思い、連係し、
 西国情勢に疎い宗盛(宗家)に、「都落ち」という決定を取り下げさせる
 事にあったと思います。

 そこまで平家の為に動けなかった所に、頼盛の弱さがあったと思えます。

 幼い安徳天皇の悲劇を始め、「壇ノ浦で討死した平家の公達、武士、女
 御、子供達たち」を苦難の流浪の立場においた、宗家のとった「西国都
 落ち」とは、結果としては、西国情勢に疎かったが為の「失策」であった
 のではないかとも思えるからです。

 小松家(維盛、資盛、貞能)、および知盛らと連係を取り、京都にて平家
 を護るべき方向へ執行部の決定をもっていくことに奔走することが、頼盛
 の取るべき行動であったと、それをできなかった事に対する咎を受ける事
 は、受けてしかるべきだとも思います。

>「赤布のちぎる行動は、同行しないにせよ、ないにせよ許されない行動で
>す。」

 私は上記のような価値判断に対しては、[19]において「知章最期」の文章
 をあげました。歴史の解釈とは、断罪の場ではないとも思います。

 頼盛家の家人、平宗清は武門としての心意気、男気、侠気を十分に合わせ
 持った素晴らしい人物であったと、私は思います。

 しかし平家に対する忠誠、侠気を相対的にみるなら、壇の浦の後も、いま
 だ戦い続けた平家の武士たちは多数存在しました。

 宗清は頼朝から伊賀に土地を拝領し、最終的には陰棲しています。

 許す許さないで議論してしまうなら、あの平家に徹底的に尽くした宗清ま
 でが、最期の最期まで戦い抜いた平家武士たちからは、戦線離脱ととらえ
 られてしまいます。頼盛に対してと同じく、おそらく頼朝からの土地拝領
 など、平家の残兵からは思いもよらぬ事でしょう。

 しかし私は宗清に、拝領の申し出を断り、自刃すべきであったとは、決し
 て思えません。最期まで源氏と戦い続けるべきであったとは、決して思い
 ません。

 そうした視点から見て、もしあの時代、頼盛の立場から平家に対し何が出
 来たかと考えると、もっと執行部の政策決定に重きを為し、後白河法皇、
 頼朝、そして平家一門の間をとりもち、あの悲劇の壇の浦滅亡を未然にす
 べきであったのではないか、と考えます。

 おそらく武門としての頼盛勢三百騎は、時代の趨勢を変える程の力はもち
 えなかったでしょう。

 ならばその立場上、政治的なる奔走により、頼盛にはより平家一門に対し
 ての忠誠を見たかったと思います。(そのような事を示唆する資料を見つ
 けれればいいのですが。)

 頼盛都落ち離脱に関しては、今後とも記していきます。
[26]川口 信さんからのコメント(2003年01月13日 15時41分02秒 ) パスワード
  

>西国情勢に疎い宗盛(宗家)に、「都落ち」という決定を取り下げさせる事にあっ >たと思います。

同様に思います。この場に宗清が引き合いに出てくるとは。宗清は西国までついて行っており、なにも鎌倉まで貰いにいっておらず、拝領する際には固辞しております。世を辞して伊賀の国に篭り、余生をおくりました。宗清は伊賀平氏の英雄であり、悪く言う人はありません。

 なにも頼盛が悪くも、卑怯だと思っておりません。時代の趨勢、後白河院の策謀、権術にはまった一人だと思っております。こんなとこで内輪でもめても仕方がないでしょうに。

 特に今日は父の命日なので人とは争いたくありません。祖父は江戸、安政の生まれでまだ武士の血が私にも残っていて、主家に対する気持ちはほかの人より強いからの発言だとおもってください。

 私の言わんとすることはtakahiroさんがどう思うかでなく、takahiroさんみたいに知識のある人ではない一般大衆がどう理解するかということで、これまでに言われている事をどう払拭するかということが重要だと思い、コメントしてるだけでtakahiroさんには高所大局に立って発言してもらいたいだけです。

 
[27]川口 信さんからのコメント(2003年01月13日 15時48分46秒 ) パスワード
  

 参考のために。以前にご紹介した「柘植姓の研究」より

 ★大日本史」記載してある「宗清伝」全文を左に掲げよう。

 平宗清 弥平左衛門と称す(或は弥平兵衛に作る)、鎮守府将軍貞盛八世の孫、左衛門尉季宗の子なり。平頼盛に仕う。頼盛 尾張守たるに及びて宗清を以て目代(国守の代理役)となす。 永暦元年(1160年) 源義朝誅に伏す(平治之乱)。其の子 兄朝長死し 弟頼朝逃ぐ。宗清尾張より京師に入らんとして路上に頼朝に遇う。就いて之を擒にし青墓駅に至りて朝長(討死した頼朝の兄)の墓を掘りて其の首を獲し、併せて 之を六波羅に送る。清盛 頼朝を宗清の家に囚えしむ。刑を行う日あり、宗清 頼朝に向いて曰く「郎君 死を免れんと欲するか」対て曰く「保元以来 父兄宗族夷滅して将に尽きんとす。冀くば僧となりて冥福を修せん」と。宗清 意之を愍む。己にして宗清 池の禅尼に抵り告るに頼朝の意を以てす。 禅尼測然として 之を哀れみ乃ち平重盛に嘱して(依頼し)清盛に説き、その死を宥めしむ。清盛 聴かず 尚刑期を緩む。会々 義朝の 五十七日忌 至る。頼朝 卒塔婆を作らん事を請う。宗清 為に百枚を製して之に与う。 頼朝 手づから仏名を写し、衣を解き僧に施す。禅尼 聞きて益々之を哀れみ、営救備に至る。遂に死を免る事を得たり。是を以て 頼朝 深く宗清を徳とし平氏を撃つに及びて、毎に将士に誡めて宗清を害する勿らしむ。平氏の西奔するや、宗清 頼盛に従いて京師に留る。頼朝 池の禅尼の恩を思い、頼盛 宗清を鎌倉に招致せんと欲す。宗清 往くを欲せず、頼盛之を強う。宗清固辞し、且つ曰く「公 鎌倉に至らば必ず臣を問わん。請う、為に辞するに疾(やまい)を以てせよ」と。乃ち頼盛を送り近江野路に至りて辞し帰る。直に屋島に往きて宗盛に仕う(東鑑)。 頼朝 宗清を召し見て 之に荘園を予へんと欲して予め充文(あてぶみ)を書し、鞍馬 絹帛を備へて以て其至るを□ち、又将士三十人に命じ各々鞍馬□馬及び絹帛を以て宗清に贈らんとす。己にして頼盛 鎌倉に至りて曰く「宗清 疾を以て来らず」と。頼朝 以て遺憾となし乃ち其の擬する所の給物(それ相応の宛てがい物)を以て 悉く頼盛に贈る。平氏 滅ぶるの後、宗清 遁れて終わる所を知らず。

[28]takahiroさんからのコメント(2003年01月13日 17時00分06秒 ) パスワード
  

川口信様

>なにも頼盛が悪くも、卑怯だと思っておりません。時代の趨勢、後白河院
>の策謀、権術にはまった一人だと思っております。
 
私が「平家物語を熱く語る」において、多言を費やし頼盛について述べてい
るのは、私もまた上記川口様の記述のように感じているからです。

>祖父は江戸、安政の生まれでまだ武士の血が私にも残っていて、主家に対
>する気持ちはほかの人より強いからの発言だとおもってください。

この言葉をお読みし、川口様の頼盛へ対する厳しい意見への疑問が融け去り
ました。またどこで川口様と私の意見が齟齬をきたしているかも判りました。

ただ重ね重ね申しますが、私の頼盛弁護上の言葉や比喩に、失礼がありまし
たならお許し下さい。もう少し説得力のある記述ができるよう、徐々にです
が、関係文献を読んでいきます。それから更に投稿を続けます。(なるべく
高所大局にたち。)

川口様にとり非常に大切な日に、失礼な投稿をしたのなら、誠に申し訳あり
ませんでした。
[29]takahiroさんからのコメント(2003年01月13日 19時19分09秒 ) パスワード
  

またあり得べく誤解に対しても一言述べますが、私は平家を思う時に、頼盛のこと
のみを考えているわけではありません。(平熱上では役割的に頼盛中心の投稿を続
けていますが。)

私は昨年、六波羅へ何度も足を運びました。六波羅蜜寺には平清盛公の塚があり、
またお寺の宝物殿には清盛公の木像が安置されています。

清盛公の像の前には記帳ノートが置かれており、私は行く度にそこへ名を記し帰っ
たのですが、その為か、その後六波羅蜜寺の諸行事の案内を頂けることとなりまし
た。

そうした御縁から、昨夏は六波羅蜜寺にて先祖供養をして頂きました。

もちろん頼盛一族のみでなく、平家一族の方々へ対してです。
(私の姓に伝わる家譜には、一門全員の名が記されています。)

私はまだそんな年輩ではなく、「主家に対する忠義」等を身を以って経験した世代
ではありませんが、「平家壇ノ浦滅亡」という歴史的事象は、とてつもない事が起
こってしまったと、自然な感覚で感じますので、平家末裔を伝える姓を受けている
自身には、一門の供養という大事な務めがあるとも、最近思い始めました。

今後夏度に六波羅での供養は続けていきたく思います。
[30]たまねこさんからのコメント(2003年01月13日 22時15分18秒 ) パスワード
  

takahiro様や、川口様のように知識の豊富でない、一般大衆の中の
一人としての見解をお聞き下さい。

もしも、頼朝・義経の助命を働きかけたのが、頼盛・池の禅尼母子
ではなかったとしたら、身内ではなかったとしたら…
恐らく、生かしておくことはなかったのではないでしょうか。
都落ちする前に、さんざん悪者扱いされて、処分されるのが筋
でしょう。もっとも、池の禅尼は、一筋縄ではいかない、聡明な女性
だったからこそ、助命が叶ったのかもしれませんが。

敵の助命を乞うのが、神仏に帰依した"慈悲"の深さだとしたら、頼盛
母子が生かされたのは、一族の"愛"の深さだったのかもしれません。

ですから、今もtakahiro様が、一門の暖かい愛や応援を感じて、
京都にお住まいになられているのにも、大いに頷けます。

ただ、壇ノ浦やその他の戦地で散って逝った、郎等の中には、
頼盛たちの行為を、最期まで恨めしく思った者も多かったことで
しょう。「助命さえしていなければ」そう悔しがったことでしょう。

「何故、自分たちは都を捨てねばならないのか」と思いつつも、
宗家に従うしかなかった者、負け戦とわかっていても、最期まで
共にすることを選んだ者の立場を考えると、頼盛の行為は裏切り
に等しかったのか?…私は、そうは思えないのです。
それも、選択肢の一つに過ぎなかったと思うのです。

私は、平家は源氏との武力抗争に敗れて、"滅亡"したのではなく、
当時の政治・経済上の必然性から、"解体"させられたのではないかと
考えています。経済的な理由があったからこそ、源氏に武力が集結し、
長年の恩を忘れて、寝返る輩も続出したのではないかと。
涙で袖を濡らすばかりではなかったはずです。結果的にみると、
頼盛母子の行為は、時代の流れに大きく貢献したのかもしれません。

生きるも死ぬも、今となっては遠い昔の分岐点だったような気
がします。ふと思うのですが、私たちは"生きている"のではなく、
それぞれの役目を果たすために、"生かされている"存在なのでは
ないかと。生きることを許されているのです。

最後に、takahiro様へ

これからも、私たち一般大衆が知らなかった頼盛のことや、
意外な事実など、たくさん教えて下さいませ。
[31]takahiroさんからのコメント(2003年01月14日 00時57分42秒 ) パスワード
  

[30]たまねこ様へ

 慧眼と温かさ溢れる言葉を頂きありがとうございます。

 平家一族の愛の深さにより頼盛母子は生かされたとの言葉、非常に新鮮に
 胸の内に入りました。

 おそらく私自身、平家の事が非常に好きなのです。
 
 ですから余計に、たとえ頼盛にも非があったとしても、頼盛はもはや平家
 ではないとの極端な意の言葉を読むと(書籍等で)、悲しくなるのです。

 そうした見方を少しづつでも変えていけるようにしていきたいです。

 たまねこ様からの応援、心強く思っております。

 (また私は、頼盛に親身になって、もし自身がこの時頼盛の立場ならどう
  であったであろうと推測し、その推測した事に道筋を立てて、資料を補
  って、としたものを記しているだけですので、決して平家関連の知識が
  豊富というわけではありません。自身もっと勉強したく思っています。)
[32]川口 信さんからのコメント(2003年01月14日 08時27分57秒 ) パスワード
  

>生きるも死ぬも、今となっては遠い昔の分岐点だったような気
>がします。ふと思うのですが、私たちは"生きている"のではなく、
>それぞれの役目を果たすために、"生かされている"存在なのでは
>ないかと。生きることを許されているのです。

 たまねこさんのその言葉に多いに共感を覚えます。

 takahisoさんが平家一門のために六波羅蜜寺にて先祖供養をしてくださったことを知り涙が出ました。ありがたいことです。毎年でなくてもいいのです。一生に一回でもその心があれば。一世代に一人でもその心があれば。

 余談ですが私も先祖の地を訪れた時、戦国時代からの家臣のご子孫達がおり、川口家祈祷所として再建されたお寺を訪ねた時、ご住職もその中の一人ですが、私は一介のサラリーマンなのにご住職は私より目上、徳もあるお方なのに、ご高齢にもかかわらず、スリッパを自ら差し出してくれました。そんな行為をしなくても良いのに。ただ昔、家臣であったというだけで。こんな有り難いことはありません。また初代が没した時、殉死した家臣達のお墓がいくつもあります。主従とはそういうものなのです。血が通っていなくても。まして血縁関係があるならなおさらです。人間の結びつきとはそういう深いものなのです。
[33]takahiroさんからのコメント(2003年01月14日 11時06分02秒 ) パスワード
  

川口信様

[32]の御投稿、誠に良いお話を聞かせて下さりありがとうございました。

この度は平熱における投稿を経て、普段の生活では触れ得ぬ、かつての
武家社会の高度な心性、倫理をお教え頂き誠に感謝しております。

どうぞ今後とも、平家関連の博識のみならず、そうした古き日本の有し
ていた良さについてもお教えいただければ嬉しく思います。
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