近藤栄次朗 株式会社 エミ シャベリン(アーツ)
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 投稿番号:100345 投稿日:2002年08月05日 12時58分49秒  パスワード
 お名前:服部 明子
八咫烏:蹴鞠王藤原成道・皆鶴姫伝説

コメントの種類 :ニュース  パスワード

日本のサッカーのマスコットがヤタガラス。
どこかにそんな記事があったような?

昨日ロスで見てた「利家とまつ」で
慶次郎の着物の柄が赤いヤタガラスでした。
利家が穿かなくなった袴を慶次郎が直して穿いてて利家が俺に返せと
喧嘩になった回です。
おねが秀吉に腹を立て豪姫が前田家に返されるという回です。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年08月05日 13時16分57秒 ) パスワード
  

http://osaka.yomiuri.co.jp/in_event/ind_rekishi.htm
の中の<長沼健さんと「八咫烏(やたがらす) 世界へはばたく」です。
詳しくはそちらへどうぞ。


以下参考になる重要な部分:


日本サッカー協会の旗章は「八咫烏(やたがらす)」
蹴鞠の歴史にあやかってるそうです。

この三本足の霊鳥は、
熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)で「神様の使い」とされ、
神武天皇東征の際は、那智海岸に上陸した軍勢を道案内したと伝えられる
いわば熊野のシンボル。

“蹴鞠(けまり)の名人”といわれた平安時代の藤原成道は
技能向上祈願のため、何度も熊野詣でしたといわれる。

それで三大社と青岸渡寺、関連市町で組織する「熊野三山協議会」が中心になって、
「八咫烏はサッカーの神様」といういうPR活動を国内外で展開しているのだそうです。


日本蹴球協会(現・サッカー協会)が「八咫烏」をデザインした旗章を
正式に採用したのは一九三一年六月。
八咫烏のマークを発案したのは内野台嶺・東京高等師範学校教授。



浜ノ宮は大辺路、中辺路、伊勢路に至る分岐点。
かつて熊野詣をした人々は、ここの「浜ノ宮王子」(熊野三所大神社)で海水を浴びて身を清め、熊野権現を遥(よう)拝(はい)し休憩した。
その境内そばに「補陀洛(ふだらく)山寺」がある。
熊野の浜は黄泉(よみ)の国に通じるという海上信仰があり、江戸時代まで、臨終間近になった住職は浜ノ宮を帆立船で出航、事実上の「入水往生」を遂げた。


平維盛の入水のお話に通じますね。
[2]皇竹さんからのコメント(2002年08月08日 09時02分01秒 ) パスワード
  

先日、蹴鞠大明神・白峰神宮へいきましたが、
ありました、蹴鞠の碑が。碑に埋め込まれたサッカ−ボ−ルを
グルグル回すとサッカ−がうまくなるということです。
神殿には元日本代表柱谷選手の色紙が奉納されていました。

蹴鞠の名人といわれた藤原成道は、
清水の舞台の欄干をリフティングしながら往復したというから
話半分にしても相当な腕前であったのだろう。
彼も平家時代の世代だから、平家との関わりもあったと思うのだが
どうだろう?

この神社は、幕府より大政奉還された明治天皇が、
崇徳上皇の祟りを恐れて、霊を讃岐より京へ持ち帰って、
崇徳上皇をお祭りした神社でもある。
讃岐より移す時に適当な場所がなく、世襲で蹴鞠をやっている
飛鳥井さんという公卿の屋敷内にうつしたということだそうだ。

[3]服部 明子さんからのコメント(2002年08月08日 11時44分08秒 ) パスワード
  

>平家との関わりもあったと思うのだがどうだろう?


ちょっと調べて見ました。

藤原成道:
承徳1年( 1097〜?)
白河法皇や待賢門院に近仕。
保元1年( 1156 )大納言。
平治1年( 1159 )出家。
翌年も生きていた記録があるそうです。
今でいうマルチ優等生ですね。なんでもこなした人。

保元の乱や平治の乱を体験していますね。
でもどちらの側に付いたかまでは書かれていませんでした。
[4]川口 信さんからのコメント(2002年08月08日 12時44分53秒 ) パスワード
  

 藤原成道について検索しました。成道の娘が源義経にゾッコンでした。

【伝説】
皆鶴姫は二位大納言藤原成道の娘で、父が亡くなった後、母は彼女を連れて兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後妻となりました。
平治の乱で、義経は洛北の金剛寺会院鞍馬寺に預けられていました。その後、承安四年義経は山科にあって平氏の動向を探っているうちに、鬼一法眼のことを聞き彼の持つ秘法六韜(りくとう)書十六巻(兵法書)の閲覧を願い出ましたが、許されませんでした。そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり、密かに書き写すことに成功したが、平清盛に察知され義経は奥州へ逃げました。
皆鶴姫は義経の後を追い、奥州藤倉村までやってきましたが、病に倒れてしまいました。村人達の手厚い看護により快方に向かいましたが、安元2年(1176)の春、皆鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみました。そして、皆が自分のような悲しい目に遭わないように、自らが縁結びの神になろうと決心して池に身を投じてしまいました。時は弥生の12日、わずか18才でした。
義経は御山の会津の領主河辺太郎高経の屋敷にあって、[会津鑑によれば磐梯町、皆鶴姫の菩提を弔いました。

 とありました。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年08月08日 12時51分34秒 ) パスワード
  

面白い伝説が出て来ましたね。
ではタイトルをちょっと変更しますね。
[6]皇竹さんからのコメント(2002年08月09日 15時20分05秒 ) パスワード
  

服部さん、川口さん
ありがとうございました。
>成道の娘が源義経にゾッコンでした<
面白いお話ですネ、義経もなかなかモテたのですね。
出っ歯のぶ男だという話ですが、
何せミス日本常盤御前の息子でから、きっとハンサムだったのかも。
[7]あやさんからのコメント(2005年02月21日 17時53分36秒 ) パスワード

こんにちは。私は鶴姫・大三島神社にゆかりがあるらしくその念がたって私の家系の男は皆同じ病気にかかっています。
よければもっと鶴姫について詳しく教えてください。お願いします。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月22日 05時27分08秒 ) パスワード

八咫烏

NHKの「大化の改新」の渡部篤郎演じる入鹿も衣装に「八咫烏」紋がついてましたね。

彼は大王家に対抗してたと言われるので衣装の「八咫烏」の模様は
そういう意味だったのかなと思いました。
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