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 投稿番号:100311 投稿日:2002年06月10日 10時57分06秒  パスワード
 お名前:
抱き茗荷紋の服部氏;相馬氏
キーワード:先祖
コメントの種類 :質問  パスワード

平熱常連の皆様、どうもご無沙汰しています。
先日ようやく、広島県の向島の我が先祖・服部家のお墓参りに行く事が出来ました。

お墓の碑文から判明した事は、先祖が元亀元年に備後国服部村(現広島県福山市服部)から向島へ移住したことと、家紋(定紋)が『丸に抱き茗荷』であること、そして向島移住後は代々農業に従事していたことです。

備後の服部村出身という事から、岡山の服部氏(秦氏)と同系統の可能性が強いのではないかとも思いましたが、念のため。

抱き茗荷紋を使用した服部家の例をどなたかご存知ありませんか?

[1]さんからのコメント(2002年06月10日 11時08分30秒 ) パスワード
  

服部家ではないけど、尾張の大橋家や美濃の川口家は、抱き茗荷に一文字でしたよね?
大橋家や川口家は何時頃、どのような経緯で抱き茗荷紋を使用するようになったのでしょうか。
川口さん、ご存知でしたらお教え下さいませ。(^^)
[2]川口 信さんからのコメント(2002年06月10日 13時13分20秒 ) パスワード
  

隈さん、しばらくです、お元気ですか。

 あまり判らないのですが、三河の中根家は大橋家から出た家でありますので同じ茗荷紋を使用しております。
 中根正信の子正重は妻は服部石見守保長が女とあります。石見守保長の子供に半蔵正成がおります。だけど家紋は八桁車の竪矢筈二であります。

 大橋源右衛門家の系図には服部家に嫁いだ女子が三名ほど載っておりますので、そちらの系統の関係も考えられます。津島四家・七苗字党のうち真野家も抱き茗荷です。

 どのような経緯で茗荷紋を使用したか記録がないので良くわかりません。
「角川日本姓氏大辞典・愛知県」版を借りてきましたのでこれから知らべてみます。
[3]さんからのコメント(2002年06月10日 17時01分52秒 ) パスワード
  

川口さん、どうもお久しぶりです。お陰様で、私は忙しいながら元気でやっています。(^^)
何だか突然お呼び立てしてしまったようで、申し訳ありません。

結局、我が先祖・服部家と伊賀とを結びつけるものは何も出てきませんでしたが、
私の高祖父に当たる人が昭和の初めに建てた『先祖累代の墓』があり、墓石に上記の様な事柄が書かれていました。

墓に刻まれた抱き茗荷紋を見たときは、はっきり言って当惑しました。]抱き茗荷紋の服部家というのは聞いた事がありませんので。
もっとも昔は分家した時に家紋を変えた事も多かった様ですし、いろいろな家紋の服部家があって当然なのですが。

それでお墓参りの後しばらくは、《平熱》で感じた不思議なご縁も、
私の勝手な思い込みだったのかな?と少々自分の勘に自信を無くしていたのですが、やっぱりどうもそれだけでは片付けられないような気が・・・

今は何の根拠もありませんが、もう少しで何か分かるような気もするのです。
焦らず調査してみたいと思っています。
[4]服部 明子さんからのコメント(2002年06月10日 22時21分48秒 ) パスワード
  

>抱き茗荷紋の服部家というのは聞いた事がありませんので。

聞いた事が無いというのは
江戸時代に「武士の戸籍」にあたる申告の時
大名以外、江戸幕府系の「武士」として記録されなかったからであります。
つまり旗本や御家人じゃなかったという事でしょうね。


だから落胆しなくて良いのですよ。
私の持ってる本では「ミョウガ」の川口氏は「藤原姓」に分類されています。

こちらでお馴染みさんの川口氏は平氏のご子孫でいらっしゃいます。
いろいろ事情があって(徳川氏が源氏を名乗っているから)
平氏を名乗るのを遠慮したとか
全てが正しい・全てがそうなんだ、とは記録から分かる訳でもありません。


なぜミョウガ紋にしたのか
その謎が分かると良いのですけど

それより隈さんの方の服部氏がミョウガ紋で尾張の川口氏と繋がりがあったかも
というロマンが広がって楽しいではございませんか。
もともと服部氏と川口氏(大橋氏)は親しい関係にあったのですから。


どういう経緯でミョウガ紋にしたのか
ご先祖さまがちゃんと書き残して下さっていたら
子孫は苦労しなくて済むのに。
[5]さんからのコメント(2002年06月11日 17時28分20秒 ) パスワード
  

旗本家の家紋のページに、「中根氏」がありました。
川口さんが書いておられた三河の中根家の系統でしょうね。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_na.html

《家紋は丸に抱き茗荷と揚羽蝶》という所に勝手に親近感を覚える私です。(^^)


うちの先祖は少なくとも江戸時代以降は農民だったのですから、確かに「武士の戸籍」には載っていなくて当然なのですね。
ただ、何処かに先祖のルーツの痕跡が残ってないかなぁと思ってしまいます。
[6]川口 信さんからのコメント(2002年06月11日 20時19分33秒 ) パスワード
  

幕臣の中根家・服部家の婚姻関係はあったが、幕臣のためあまり備前地方に関係がない。唯一服部保長家の正成の子、正就の子供達、正幸・正治らが地方に行っている。海を隔てた伊予国松山に至り、正幸・正治が松平隠岐守定行がもとに養われ、のち家臣となっている。

 また、大橋茂右衛門は福島正則に仕えて、武功が多く、のち池田家に仕えて子孫は備後岡山にあるという。以前川口家も福島家に使え三原に居たと書いたことがありますが備前福山とはなれている。

 茗荷紋は多くの支族に共通して使われており、主従関係とか縁戚関係から探すより方法がないかも知れませんですね。
[7]さんからのコメント(2002年06月12日 08時48分53秒 ) パスワード
  

川口さん、どうもありがとうございます。

>主従関係とか縁戚関係から探すより方法がないかも

結局それしかないでしょうね。
私も幕臣の服部家周辺とか、服部半蔵家周辺を調べてみたのですが、
うちは江戸時代には農民でしたから、やはり江戸時代の武家とは直接関わりがないのでしょう。
もし関わりがあるとすれば、戦国時代以前にまで遡るのかな、と。
だとすると一農民の足跡をそんな昔まで遡るのは難しいでしょうから、
明子さんのおっしゃる通り、ロマンのある話として心に留めておくだけでも良いのかな・・・

[8]さちこさんからのコメント(2002年06月15日 14時48分22秒 ) パスワード
  

隈さんご無沙汰してます。
向島の服部家のお墓まで辿り着けてよっかたですね。

家紋のついて私も気になってしまいました。
調べたら摩多羅神の信仰に関係してるとかで、唖然としてしまいました。
この神様太秦の広隆寺とかで祀られていて秦氏と関係してます。
ここでのお祭りに使用する摩多羅神のお面を作ってるのが服部家だそうです。
中世頃からあまり信仰されなくなりよく判らないので、
なにかと秦氏ユダヤ人説のネタにされてしまってます。

天台密教などと関係してるらしいですが詳しくはわからないです。
多分南朝系が信仰していたのではと思ったりするのですが。
なんとなく後醍醐天皇が好きそうな気がする。

日光東照宮にも祀ってあるそうですが、
これは家康が天海上人のすすめで家康が信仰していたからと言われています。
(天海やっぱり怪しいよ)

隈さんの服部家は信仰に関係すること例えば神主さんとかお坊さんだったのでは?
と考えたりしてますが。
どちらにしても同じ服部家なのは間違いないと思います。
大橋家と似ているのは偶然では無いと思います。

津島神社の名物のクツワというお菓子があるのですが、
健康とか何かの意味のサンスクリット語と袋にかいてありましたよ。(笑)
[9]川口 信さんからのコメント(2002年06月15日 17時39分06秒 ) パスワード
  

 中国地方の大名と言えば堀尾家です。尾張出身で家紋は抱き茗荷です。これらの関係も調査の価値あるかとおもいますが。

 また、播磨から備前に勢力を伸ばしていった浦上家がありますが、この家の宿老に服部久家(備前守?)という名前がみえます。そのメンバーに岡本(四家・七苗字党に岡本姓あり)、小嶋など尾張関係の名前があります。

《岡本氏》   岡本氏秀  岡本秀広
《服部氏》   服部久家
《小嶋氏》   小嶋一頼

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/urakami/urakami_kasin.htm (浦上一族と家臣団) 

 さちこさんの云う通り日光東照宮はなぜか茗荷紋を使用しておりますね。
[10]さんからのコメント(2002年06月18日 09時42分53秒 ) パスワード
  

さちこさん、川口さん、貴重な情報をどうもありがとうございます。

最近なかなかゆっくりパソコンの前に座る事が出来ず、すっかりRESが遅くなってしまいました。申し訳ありません m(__)m

> 調べたら摩多羅神の信仰に関係してるとかで、唖然としてしまいました。
> この神様太秦の広隆寺とかで祀られていて秦氏と関係してます。
> ここでのお祭りに使用する摩多羅神のお面を作ってるのが服部家だそうです。

う〜ん、なるほど・・・
やっぱりうちの先祖って、秦氏だったんですねぇ。広隆寺に繋がりましたか。

摩多羅神というのは最澄が唐から持ち帰ったと言われているけれど、何故か広隆寺に祀られているのですね。
広隆寺は現在、真言宗御室派。私の実家の宗派でもあるので、親近感を感じるお寺です。
最近いろいろ調べてみて、父方の先祖のルーツからしても、
自分は秦氏の血を引いているのではないかという気がしています。

摩多羅神の事、もう少し調べてみよう・・・

川口さんがおっしゃっていた浦上家家臣の服部久家という人物の事、名前はちらっと聞いた事があります。どんな人物だったのかまでは、あまり伝わっていないようですが。

実は尾張の『大橋さん』とか、『堀尾さん』とか、私個人にとっては懐かしい名前なのです。
名古屋に住んでいた頃、同級生に居ましたから。
彼女達二人とも、向こうから気さくに声を掛けてくれて、良い印象があります。

ご先祖様同士がお知り合いだったんでしょうかね?
[11]くみんさんからのコメント(2002年08月01日 15時14分20秒 ) パスワード
  

摩多羅神って、男女のまぐあいを賛美した芸能・技能者の神?

観阿弥・世阿弥の猿楽も摩多羅神系なんですって?

天海は家康に推奨したらしいけど、その後衰退された邪教とか。
奈良時代に起こり、鎌倉時代に庶民宗教となり(念仏踊りの最初)、
近世に抹殺されたそうです。皆さん、ご存知ですよね。
[12]服部 伊織さんからのコメント(2003年06月14日 22時35分40秒 ) パスワード
  

始めまして。高校3年なのですが、
ウチの先祖は長野県の麻績城の城主、服部左衛門と伝わっています。
家紋は抱き茗荷です。
間違えはあるとしてもうちの家系は信州の出身の抱き茗荷の服部
と、いうことは絶対です。
[13]川口 信さんからのコメント(2003年06月14日 23時37分20秒 ) パスワード
  

服部 伊織さん、初めまして。

 早速、麻績城について、検索しました。おっしゃるとおり、服部氏の名前が出てきました。

【城郭の歴史】麻績城
 
 戦国時代麻績の地を支配したのは服部氏で古屋敷に居館を構えた。天文22年(1553)甲斐の武田信玄が仮屋原城,虚空蔵山城を破って筑摩北部地方に侵入し、青柳城の青柳氏を従えて服部氏を追い払い、麻績城には青柳氏が移ったが、武田,織田氏が滅亡した天正10年(1582)以後、この地は上杉景勝、小笠原貞慶の争奪の地となり、最終的には小笠原氏の支配地となった。

 貴服部家に関する事、どしどしコメントを出してください。お待ちしております。

 他スレでも服部家に関することが沢山あります。合わせてご覧ください。多数の服部姓の方々がコメントしております。

 特に、茗荷紋使用の経緯なんか、お願いいたします。
 
 当「平家物語を熱く語る」お城のお姫様は服部明子姫、および服部さちこさん等が大変詳しいです。

 隈さんの家は家紋は茗荷紋です。長年、調査をされておりますので。
[14]さちこさんからのコメント(2003年06月15日 00時29分22秒 ) パスワード
  

伊織さんはじめまして。
実はとても気になっていた所なので、
投稿いただき喜んでます。
この服部家が抱き茗荷ですか?
ご存知かもしれませんが下記をご参考に。
より詳しい事御存知でしたら是非教えて下さい。


http://www6.plala.or.jp/ha815676/p2.html

本尊  聖観世音菩薩

信濃第一番  
佛眼山 
法 善 寺   

所在地  東筑摩郡麻績村上町
宗 派   曹洞宗    
集印所  同寺務所
縁 日   九月末の日曜日
麻績村には古くから松本平と善光寺を結ぶ道が通り、
江戸時代になると北国脇往還道と呼ばれ
麻績は松本藩に属する宿場町として発展した。
この道は別名善光寺西街道と呼ばれ中山道と北国街道をつなぐ街道
で西国の人々の善光寺参りの道筋としてたいそう賑わった・

麻績は、飛鳥時代高麗から帰化人が住み着き、
彼らが麻をつむぐ技術をもっていたことから
この地名が生まれたといわれる。 
中世に麻績氏の築城になる麻績城は、聖山南麓に岬状に突き出た
尾根を切って十数段の郭をつくり、
要所に空堀を配したもので麻績盆地が見下ろせる。
天文22年(1553)
武田晴信によって落された。
旧本陣・瀬戸屋の「うす井」と記るさ
れた歴史を秘めた庵看板を見て、
石仏群のところを右に曲がって坂道
を上ると関所の構えに似た冠木門があり、その向こうに「信濃観音霊場
第一番札所」と刻まれた約 2メートル
の見事な石碑が立っている。
法善寺は、奈良時代は、法相宗の岩龍山西谷寺と称していたが、明応
元年(1492)廃寺になってしまった。
しかし、永正 9年(1512)に賢甫和尚
を迎えて曹洞宗佛眼山法善寺として
中興し、さらに天文 2年(1553)麻績城主服部左衛門清信が再中興し、
今日に至っている。
川中島合戦の直前信仰熱心な武田信玄がこの寺を保護するように高札
を出したり、慶安 4年(1651)、徳川三代将軍家光から朱印八石を寄進され
以後朱印寺として幕末まで威勢を誇った。
約四〇〇年前の建立といわれる山門。


でも伊織さん高校生で偉いな。
私などこの頃先祖の事など考えた事なっかたです。
賞味期限を過ぎたシンデレラはいけませんね。(笑)

>明子姫。
 石原知事もカジノは諦めました。
 服部城にお戻りください。

>隈さん。。。。
 なんか少しずつ解明しそうな?
 
[15]服部 伊織さんからのコメント(2003年06月15日 11時23分22秒 ) パスワード
  

この服部家です。数年前親戚の叔父さんが調べました。
左衛門も後に服部右衛門という人物がいたコト。
その後には服部久五郎という人物がいて、
信州のヤクザの親分?をしていた。
その人が使っていた刀を持つと人を斬るといわれ、
現在もドコかのお寺に奉納されていること。

知っているコトはこれくらいです・・・
紋については代々そう伝えられたとしか・・・
すみません、途切れ途切れの情報で。
[16]さちこさんからのコメント(2003年06月15日 22時21分23秒 ) パスワード
  

伊織さん。
貴重なお話し有難うございます。

伊織さんの家も曹洞宗ですか?
菩提寺は法善寺ですか?

私は父の仕事の関係で大阪は船場の生まれです。

多分伊織さんはご存知ないと思いますが。

ほ〜ちょ〜お、いっぽん〜さらしに巻い〜てぇ〜

月の法善寺横丁を思い出します。
関係あるのかしら?(謎)

「おらおら〜シンデレラ!何歳なんや!ワレ!」(。。と責めないで)

大河ドラマ宮本武蔵を見てると、
ヤクザ屋さんは武士のなれのはてだったのかなと感じました。

伊織さん、
ぜひ、また情報下さい。
面白いです。
高校三年生なので本業の勉強もちゃんとね!

でも、ありがとう!
[17]服部 伊織さんからのコメント(2003年06月15日 23時31分42秒 ) パスワード
  

戦争など色々な関係で3〜5代前の人が東京のほうにでてきてしまって
仏教のほうはわかりません・・・・
また何か分かったらココへ知らせにきます!!(わかるかな・・・)
勉強とは・・・頭痛が・・・(笑
それでは、さようなら〜
[18]さちこさんからのコメント(2003年06月16日 23時15分43秒 ) パスワード
  

伊織さん。

また何か判ったらお知らせください。
よろしく!
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月17日 02時06分14秒 ) パスワード
  

伊織さん

初めまして。


川越の服部民俗資料館の服部氏は武田に仕えた伊賀系の服部氏です。
江戸時代は川越で商人をなさっていました。
紋は並び矢+車紋ですから伊賀系と分かります。
武田の母衣衆の1人に川越の服部氏の御先祖が描かれている絵を見たことがあります。


伊織さんのお家の事は
筑摩郡の歴史を調べればかなり分かると思いますよ。
県の教育委員会などでも資料をくれると思いますからお願いなさっては?

紋はいくらでも変遷するので
抱き茗荷紋がいつから使用されているのか分かったらいいですね。

信州でしたら南北朝時代どちらの側だったのか
そこからでも源氏系または平家系その他がかなり分かると思いますよ。
南朝方系でしたらかなりの確率で平家系でしょうし。


我が家は信州浪合村まで南朝方として転戦してるので
その当時
伊織さんの御先祖さまは我が先祖を袂を別って信州に留まったのかも知れないですから。

その時に伊賀系の紋を止めて抱き茗荷紋に替えたのかも知れませんし。

もうちょっと叔父さまにお訊きになってみて下さい。
[20]さんからのコメント(2003年06月17日 13時19分54秒 ) パスワード
  

出遅れましたが(もう毎度の事になっている。。。)、
伊織さん、どうも初めまして。

スレッド立ち上げの張本人、隈です。
上に書いた通り、私の母方の先祖も服部氏で、抱き茗荷紋なのです。

住んでいた場所は広島県東部で離れていますが、同姓で同じ紋使用との事で、やはり何か関係が・・・と期待してます。(^^)
因みに、うちの先祖の菩提寺が曹洞宗です。
但し戦国時代に移動しているので、元の菩提寺の宗派は分からないです。

備後服部村から向島に移動した先祖の名は服部勘四郎、その後子孫は服部屋と称して、
代々農業に従事していた事が墓石に刻まれていました。
伊織さんのお家に比べて地味ではありますが、その割には詳しい系譜が残されていました。
実はうちも農業は表向きで、裏家業があったりして。。。(^^;

大体服部氏はフットワークが軽いので、あちこち飛び回っていて足跡を辿るのが大変です。

明子さん改めギャンブラーさん(って呼んでいいんですか?)のおっしゃるように、
南朝繋がりの可能性がありますね。

私も福山の図書館に連絡して備後の歴史を当たってみましたが、あまり詳しい事が分かりません。
分かったのは、服部村の隣村にある吉備津神社が南朝方の拠点だった事ぐらい。

さちこさんが以前言われていた通り、南朝方で摩多羅神信仰が盛んだったのなら繋がりそう。。。
[21]松田さんからのコメント(2003年07月08日 04時08分54秒 ) パスワード
  

どうも始めまして。
こういうところに書き込むのは初めてなのでどう書いたらいいか分かりませんが、なぜ私がここに書き込みたくなったかを説明します。
私は前々から自分の先祖を知りたくていろいろ調べていたのですが、なかなか分からずに悩んでいたところ、たまたまパソコンを購入して家紋を見たらここに出くわしたというわけです。
ちなみに我が家も抱き茗荷です、姓は松田といいます。
何か教えていただけることがあればよろしくお願いします。
[22]川口 信さんからのコメント(2003年07月08日 17時29分33秒 ) パスワード
  

松田さん 初めまして。

まず、姓氏辞典には藤原姓波多野氏族は相模足柄上郡松田庄より起こる。室町幕臣家の流れで、伊勢・備前・伯耆・出雲などに一族が分流する。上野の氏は新田氏族。近江には佐々木氏族と蒲生氏族、ほか各地にある。とあり、徳川幕臣には(藤原氏)とあります。いずれも家紋は抱き茗荷紋とは違う。

 松田家は香宗我部家臣として繁栄する。または北条家小田原衆の松田家など色々の系統があります。
 
 加賀国における松田家の家紋は丸に橘、丸に立ち沢潟などであります。
 
 貴松田家がどの地方にお住まいかどの地方のご出身かが分かれば検索の手助けになるのですが。

 ただ抱き茗荷紋だけだと、多くの氏族や家々に使われておりますので難しいです。 殿様から拝領したとか、親戚に使用していた家があるかなど判明すれば、それを手掛かりに調査できるのですが。
 
[23]さちこさんからのコメント(2003年07月09日 00時06分28秒 ) パスワード
  

松田さん。
はじめまして!

抱き茗荷紋と言うのは不思議な家紋です。
一向一揆で、信長と対立していた長島、(ご存知ですか?)
ここでよく、見かけます。

柘植家や、平野家、伊藤家、
何故ここが抱き茗荷を?という不思議です。
でも平家系というか、
南朝系、そして秦氏系に繋がるような。。。

隈さんや〜い!
出てきました。
抱き茗荷の服部家。
屋根瓦に抱き茗荷の服部家発見。
それも木曽岬に!
伊勢湾台風前、うちがあった所から歩いて五分位の所です。

父は、「あれは違う系統の服部、よそ者の服部」等と言ってますが。。
我家と同じ長禅寺の檀家になるそうです。

今も立派な家です。倉もあって。
昔は木曽川や長良川、
この近辺にはえてる葦の所有件を持ってた有力者だったそうです。
[24]松田さんからのコメント(2003年07月09日 02時52分02秒 ) パスワード
  

みなさん早速の返信どうもありがとうございます。

今、私が分かってることを全部お話します。

今のところご先祖は加賀百万石に仕えていたと言うことです。
家老職をしていたと言う話なのですが、お墓があるのは四代前までしかありません。 その四代前のお墓の人は松田忠長と言う人で石川県士族と書いてありました。 陸軍の少佐をしていて乃木大将の副官として日露戦争に出兵して戦死したそうです。
この人の先祖をもっと知りたいのですがそれ以前のお墓もなくさっぱり分かりませんでした。
ただ、祖母方のほうはちゃんとお墓があったので少し分かりました。
祖母方は、福井の勝山藩の家老職を代々していて今でもその子孫が生きており、先日会うことが出来ました。
初めての親戚に会うのも面白いものでしたよ。
家にあった昔の写真(明治初期のもの)に写っていた方々の子孫でしたからね。
その娘が嫁いでいくのですから、祖父方もそれなりに地位があったのではないかと思ったのですが、なぜかお寺にも墓にもそれ以前の記録がありませんでした。
皆さんとは違ってまだ最近の話で申し訳ないのですが、ご存知のこといろいろと教えてください。  
よろしくお願いします。
[25]さちこさんからのコメント(2003年07月09日 22時06分44秒 ) パスワード
  

松田さん。
詳しくありがとうございました。

とても立派なお家柄だったと推測できます。

服部家の話で申し訳ないですが、
前田家ゆかりの荒子観音この辺りは戦国時代、或いはその前、
服部家の支配下にあった(?)といううか勢力圏だったようです。

多分前田家とは昔からご縁があったと。
また加賀の前田氏に仕えた、
尾張津島の服部家もあったそうです。

松田さんの御先祖に関しては、
私の知識では判りません。ごめんなさい。

どなたかよろしくお願いします。

松田さん逆に何かご存知の事があれば教えて下さい。
[26]川口 信さんからのコメント(2003年07月09日 22時34分05秒 ) パスワード
  

 出ていいのか悪いのか、ムズムズしてたところで、一気に。

加賀藩に関係するお家でしたら、『諸士系譜・加賀藩給帳』という武家の系譜や由緒を記述する本があるみたいです。大大名ですので他藩よりその点しっかりしております。加賀藩には八家老という家々があり、一万石以上を拝領しております。ハキッリしております。

 加賀藩には大聖寺藩と富山藩の支藩があります。そちらの方とは関係がないでしょうか?。
 
「姓氏家系大辞典・石川県版」の石川県における家紋によれば、抱き茗荷を使用する家が百十数家及び抱き茗荷の変形紋を使用する家が六家ほどありますが、松田氏は其の中に入っておりません。私の探し方が悪いのか、あまり上手く掴めません。

 もっと明かり(情報)をお願いします。


 さちこさん、抱き茗荷の服部家、遂に発見しましたね。隈さんが喜びになられるでしょう!!。

[27]松田さんからのコメント(2003年07月10日 05時27分33秒 ) パスワード
  

やはり難しいですね。

以前金沢に行ったとき歴史資料館に行き名簿は見せてもらいましたが、松田という名前は直属の家臣の中にも沢山いましたし、八家老の家の家老職をしていた中にもいましたのでどれがご先祖か分かりませんでした。

ただ、記憶ではその名簿には家紋が載ってなかったような気がします。

明治に入ってから家紋が変わることはありえるのでしょうか?

そもそも、抱き茗荷とはどういう意味が含まれた家紋なのですか?
そして、どこから生まれてきたのですか?

今年の秋にまた金沢に墓参りに行きますが、そのときに調べてきたら良いことはありますか?

残念ながら私にもこれ以上の情報がないので何を見てくれば良いか教えて下さい。

[28]川口 信さんからのコメント(2003年07月10日 06時38分41秒 ) パスワード
  

松田さん、がっかりしないで下さい。

 歴史資料館にそれだけの証拠があるなら、きっとハッキリします。

 とりあえず、今日図書館に行って、石川県関係の本を借りてきます。またわかりましたら、コメントします。

 金沢にいらっしゃるなら、地元の図書館などお寄りしてみては。加賀藩藩士の先祖の由緒を書いた書物をみれば良いと思います。題名は(26)に記述してあります。
[29]さちこさんからのコメント(2003年07月10日 12時28分55秒 ) パスワード
  

茗荷と云うと一番に頭に浮かぶのは仏教説話である。
お釈迦様の弟子に物覚えの悪い周利磐特と云う人があった。
自分の名をも忘れるぐらいの人で背中に自分の名札を付けていたというから大変な事だ。到底自分は修行に値する人間でないと悲観していた折、
お釈迦様より「己の汚れを払わん」の言葉を一本の箒と共に頂き朝夕にこの言葉だけ云い続けて掃除に明け暮れて居たと言う。
そうしてついに頭の良い人より早く悟りの境地に到達したと言う。
この人のお墓に生えたのが茗荷であったと言われる。
この伝承逸話から茗荷を食べると物忘れすると言う、
何の真実性の無い語句が残って現在に至っている。

一方に茗荷は冥加に通じると言われ、神仏の加護を受けるとされて信仰心の厚いお家が家紋に使用されている。

前にも述べたが日本十大家紋の一つである。

初めて史籍に表れるのは「見聞諸家紋」で二宮氏の家紋としてのっている。

公家では閑院家流の四辻家、大名では稲垣氏が使用した。幕臣では七十余家が用いたといわれる。


 比叡山延暦寺とその末寺で祀る摩陀羅神信仰は、秘密の修法とされ、
天台密教から出たものらしい。
また、神社や寺でこの神を祀っているところも多い。
伯耆の大山寺、出雲の鰐淵寺、出雲大社、日光東照宮などである。
そして、茗荷が供えられる。
 日光東照宮の場合、祭礼には御輿を繰り出し、
神官などが活躍するが、すべて茗荷紋が付いている。
このようなわけで、摩陀羅神の神紋に茗荷が定着し、
摩陀羅神を信仰するものたちが、茗荷を家紋として用いるようになった。
 『見聞諸家紋』をみると、二宮氏が茗荷紋を用いている。
徳川大名では稲垣氏が茗荷紋であった。
その他、源氏系では、小沢・羽田・水谷・永田の諸氏、
藤原氏系では中村・大沢・増田・堀・野間・松村の諸氏が用いている。
 

と書いてありました。
[30]川口 信さんからのコメント(2003年07月10日 13時00分43秒 ) パスワード
  

さちこさん、茗荷紋の丁寧な解説有難う御座います。あまりにも慣れてしまって説明が出来なかったので、感謝感謝(シェイシェイ)です。

  「石川県姓氏家系大辞典」より転載。
 松田:金沢御坊の家老に松田氏がある。松田次郎左衛門(四郎左衛門)は、加賀国加賀(河北)郡の棟梁で、同国石川郡の田井城(金沢市)に居城した。甥に石浦主水がいた。次郎左衛門は、同国石川郡米泉(金沢市)の須崎兵庫に討たれた。家臣の三右衛門が妻子を越中荒木(富山県)に逃がした。その子孫荒木六兵衛(六郎兵衛・小右衛門)は、天正一七年前田利家に仕え、その子孫に荒木善太夫がいた(金沢古蹟志)

 加賀藩士松田左衛門系は、筒井順慶に仕えた縫殿助を祖とする。その子とみられる左衛門は筒井氏・豊臣氏・堀氏を経て、慶長一九年前田利常に仕え(500石)、左衛門―太郎兵衛―彦左衛門―権大夫以敬(800石)―四郎左衛門―権太夫典克―左膳―彦右衛門克亘(350石)―左衛門―友蔵と続く(諸子系譜)

 加賀藩士松田尾張系は、伊勢国(三重県)を本国とする。筑前守康定は北条早雲に仕えた。その子筑後守の子尾張守が降り、孫の四郎左衛門が前田利長に4000石で
尾張守―張守―四郎左衛門―四郎左衛門(2000石)―治郎右衛門(1000石)―四郎兵衛(500石)―四郎兵衛(350石)―五郎四郎左衛門―甚左衛門―清左衛門忠郷―五郎兵衛知郷―茂左衛門弘郷と続く。三代四郎左衛門の娘は有賀縫殿の妻となり、その三男四郎右衛門憲俊が松田氏を称し、400石。憲俊―六郎兵衛郷陳―四郎左衛門邦道―左次馬―平之助憲章と続く。七代四郎兵衛の弟熊之助清郷は150石で、清郷―喜三郎(200石)―治左衛門倫郷―勘左衛門―治左衛門信郷―九郎右衛門と続く。家紋は丸内二膳箸(諸士譜・加賀藩給帳)。などとあります。

 一番最初の家が家老家とありますが、残念ながら家紋の記載がないです。(タイプミスがありましたらご容赦を)

 また、尾張の富永氏の方で。
 http://hishiki77.infoseek.livedoor.com/2-2shushi/seimei/tominaga.htm
 
 冨永家は本姓大伴氏であるが、主君北畠の源姓に改める(養念寺系図)。
伴善男の子清平は平松太郎と称して甲賀富永氏の祖となり、弟にあたる清助は三河幡豆郡司となってその子孫が三河富永氏となった。勝家の祖父満長は甲賀に住しているのであるいは、甲賀冨永の系か。
勝家より勝秀までの4代員弁郡長深城主。
勝秀(冨知)の時落城、子孫の一は長深に残り庄屋となり(北勢雑記)、あるいは松田姓を名乗り尾張家に仕えた(員弁雑誌)。また名古屋養念寺の開基となったものもある。
 尾張の富永氏で抱き茗荷を使っている家があります。その富永氏が松田氏を名乗ったとありますと、其の系統の松田氏が茗荷紋を使用したとも十分に考えられます。あくまでも推察ですが、この情報以外に茗荷紋と結びつかない。ではまた!!。


[31]川口 信さんからのコメント(2003年07月10日 13時36分49秒 ) パスワード
  

[30] の続き


「富山県姓氏家系大辞典」より
 
 松田:富山藩士に柴太家・正蔵家・勘左衛門家・藤吾家・又輔家・団右衛門・太右衛門家・儀三郎家がある。だが禄高は何れの家も低いです。
 
 正蔵家は家紋は抱き茗荷、多分富山藩が出来た時に加賀藩から分家してきたと推察されますが、だから元があったかも。如何ですか。
[32]松田さんからのコメント(2003年07月11日 04時54分10秒 ) パスワード
  

川口さん、さちこさん詳しいご説明をありがとうございます。
それに川口さん、私のためにわざわざ本まで借りていただいて感謝です。

こうやって見ると松田という姓も多いのですね、「田」という文字は田んぼから来るのだから武家には少ないと思ったのですが、私の勘違のようですね。

禄高ですが、あくまでも私は祖父からご先祖は加賀百万石の家老をしていたと聞いただけですから、あまり当てにはなりませんよ。
年が経つにつれてだんだんと誇張されていった可能性もありますからね。

でも、「姓氏家系大辞典」の時点で抱き茗荷の松田がないということは、「諸士系譜」を見ても変わりはないのでは・・・。

とりあえず、頑張ってみます。

[33]川口 信さんからのコメント(2003年07月11日 07時16分51秒 ) パスワード
  

 松田さん 何か勘違いをしてらっしますね。

 >でも、「姓氏家系大辞典」の時点で抱き茗荷の松田がないということは、「諸士 >系譜」を見ても変わりはないのでは・・・。

 姓氏家系辞典がすべてではありません。

 [32]に書いた通り、抱き茗荷の松田家が富山藩にあったのです。

 本藩より、別れた時に分家かと思われますが、加賀藩には家老の松田家がハッキリ存在したことがかいてあります。分家が茗荷紋を使用していることから、本家も使っていた可能性が大です。
 
 金沢に行くとの事、電話で松田家を片っ端から「私は松田家の事を調査しているものですが、貴松田家の使用家紋は何でしょうか?」と率直に聞いてみることです。

 ちなみに、松田家は金沢市・459、松任市・96、押水町・86、羽咋市・68、小松市・48あります。

 同、富山市・319、高岡市・159入善町・79、魚津市・49、婦中町・46とあります。

 結構の大族ですね、其の中には必ず、家系調査の好きな家や系図など所有している家々が存在していると思います。

 思わぬところからの吉報があるかもしれません。頑張ってください。
[34]松田さんからのコメント(2003年07月14日 02時58分07秒 ) パスワード
  

川口さん、またまたありがとうございます。

秋に金沢に行ったときは頑張って調べてこようと思ってます。
(電話はどこまで出来るかわかりませんが!)

でも、もし電話して同じ抱き茗荷の松田に出会えたとしても、その方たちが親戚だとは限らないのでは?

金沢にいる抱き茗荷の松田氏はみな親戚なのでしょうか?


私はこうやってインターネットでお話しするのは初めてでしたが、いざやってみるとなかなか楽しいものですね。

私にも皆さんのような知識があればもっと楽しいお話が出来るのでしょうが、残念ながらこちらは勉強させていただくばかりで申し訳ないと思っております。

ですが、私も自分のご先祖探し頑張りたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

服部氏のことお役に立てればよいのですが、残念ながら何も情報がなくて申し訳ないです。

[35]川口 信さんからのコメント(2003年07月14日 08時06分03秒 ) パスワード
  

松田さん 少しずつ明るい日差しが。

>もし電話して同じ抱き茗荷の松田に出会えたとしても、
>その方たちが親戚だとは限らないのでは?
>金沢にいる抱き茗荷の松田氏はみな親戚なのでしょうか?

 そこで加賀藩における家紋の出方について調べたことがあります。
 大橋・川口 両家は抱き茗荷紋を使用していますが、加賀藩の両家においては、何故か使用しておりません。両家が尾張から加賀藩に追従していった事は歴然としておりますが、他の紋を使用しております。その理由として拙い私の頭で考えたのですが。

 第一・本家に対して遠慮した(分家だから)、これはあまりない。
 第二・藩の上役に同じ紋を使用している家があり、これは混同されて失礼にあたるから。
 そこで、服部家も尾張出身の家が加賀藩の家臣におりますが、紋は微妙に変えただけで、本来の「矢筈」など矢関係の変形だけにとどまった。(上司に同じ紋を使用している家が無かったからか)
 
 大橋・川口、両家は、第二の理由から上司と同じ抱き茗荷紋を使用するのを止めて、他の紋を使用したのが一番妥当だと思いますが(勝手な推察ですが)。

 家紋は其の家の出自を表わす大事なことなのですが、それをやめて他の紋を使用するということは、それ以上大事な理由(わけ)がある事を思います。


 そこで、結論として、同じ抱き茗荷紋を使用している松田家は、同族であることは間違いないと思います。使用する松田家が沢山ありますが、言葉は悪いですが、芋づる式に繋がっていると思われます。全部を当たらなくても済むと思いますが。
 
現地調査はたいへん大きな収穫に繋がります、又現地のお寺など数多くお参りして(同じ宗派のお寺や同名・同紋の墓石など(分家の可能性大)調べ歩くことも大事かと、また何か感ずるものがあると思われます。
 
気をつけて旅行をなさってください。
[36]松田さんからのコメント(2003年07月15日 02時07分13秒 ) パスワード
  

川口さん、ありがとうございます。

私にもだんだん明るい日差しが見えてきたような気がします。

金沢に行った折には必ず何か収穫を得てきたいと思います。

何か分かったら必ずお知らせしますので、期待しててください。

いろいろありがとうございました。

ここは、これからもたまには覗かせていただきますので、何かありましたらお願いします。
[37]黒瀬 明彦さんからのコメント(2003年08月01日 17時39分14秒 ) パスワード
  

実は、家の母方の家紋は抱き茗荷です。
母方の実家は富山県魚津市です。このあたりには、この家紋はめずらしく
どこがルーツだろうか?と一度調べてみたいと思ってました。
母方の家は武士の出だと、死んだ祖父はいつも口癖で言っていましたので
多分本当だと思います。
また、一度死んだ祖母からは「本当は信州の真田家の家老クラスの家が
祖先だよ。」と偉そうに言ってましたが、何か少しづつこのメールの内容
からわかってきたように思います。
非常に参考になりました。ありがとうございました。
母方の姓は荒川です。
[38]川口 信さんからのコメント(2003年08月01日 19時58分55秒 ) パスワード
  

黒瀬さん いらっしゃいませ。
 
ちょうど姓氏家系辞典(神奈川県版)を借りてきておりましたので、荒川姓について調べてみました。
羽後国仙北郡(秋田県)に起こる吉弥侯部流、同所より起こるとみられる清原姓、磐城国磐城郡(福島県)荒川郷に起こる桓武平氏磐氏流れ、三河国(愛知県)幡豆郡荒川より起こる清和源氏足利氏流およびその後を継ぐ吉良氏流、武蔵七党小野姓猪股党が有る(姓氏家系)
 小田原北条氏重臣に荒川氏がいる。先祖は伊勢新九郎(北条早雲)に伊勢(三重県)から従った荒川又次郎で、代々小田原北条氏に仕えた。この子孫に、永禄一二年蒲原城(静岡県)を守り討死した豊前守国清、今川範政に仕えた治部大輔、今川義元に仕えた甲斐守義虎、兵庫助、庄左衛門らがいる。などとありますが。
 松代藩(真田信之時代)に荒川氏はありました。URLで検索。

石川県の家紋の方に荒川氏:三つ茗荷巴を使用する家がありました。つい先日まで富山県版を借りていたのですが、こないだ返却してしまいました。
 
それと「平熱」のお決まり、オカルトづきますが、私の母親は富山県の荒川村(現小矢部市)で黒瀬さんの母親が荒川家の出だそうで、おなじ荒川なんて偶然でしょうか。なにか親しみを感じます。
これからも、お分かりの事がありましたら、是非コメントをドシドシお寄せください。
[39]日本家紋研究会関西支部長さんからのコメント(2003年08月07日 00時44分21秒 ) パスワード
  

抱き茗荷の服部様へ

小生の調査では、鷹の羽紋と抱き茗荷紋はセットにして使うのが目立ちます。
おそらくは、大彦命の子孫で、本紋鷹の羽のところを平家側の武将として戦った記念?に抱き茗荷にしたものとおもわれます。荒(あら〜)の字も非常に関連のあるところです。

黒瀬明彦様へ

>「本当は信州の真田家の家老クラスの家が祖先だよ。」
真田幸村の家臣山本氏は、丸に抱き茗荷が家紋です。ちなみに久米郡鶴田村大庄屋黒瀬家も丸に抱き茗荷。引用:『岡山の家紋』
[40]当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年08月07日 00時55分44秒 ) パスワード
  

大彦命の子孫+鷹の羽が本紋+平家方武士=目から鱗です。
ありがとうございます。
[41]さちこさんからのコメント(2003年08月08日 22時33分39秒 ) パスワード
  

日本家紋研究会関西支部長さん。

ありがとうございました!

大彦命は、
伊賀の敢国神社の祀ってる神様です。
伊賀の服部家の神社として(忍者の?)知られてますが、
元はアベ一族の神社です。

大彦命はアベ一族の祖ですね!

(阿部、安部。。あるのであえて漢字にしません)

確かに阿部氏は、
鷹の羽を家紋にしてます。

秦河勝を祖とする長谷川家も鷹の羽。

うちの親戚の白木家、
白木=新羅、
と考えていいそうですが、
家紋が鷹の羽です。

鷹の羽=新羅=出雲。
につながりますか?(笑)

抱き茗荷紋、
大橋、真野、平野、柘植、野呂、古市、服部、伊藤。
北勢と津島ののお墓で調べて見つかって覚えてるのはこのぐらいです。

[42]紋章学者の小林雅成さんからのコメント(2003年08月09日 01時41分41秒 ) パスワード
  

さちこ様

>伊賀の敢国神社の祀ってる神様です。
敢もあへっていいますよね。

>大彦命はアベ一族の祖ですね!
そうそう、良くご存知。

>確かに阿部氏は、鷹の羽を家紋にしてます。
正式には、嫡流に近い家でしょうね。

>秦河勝を祖とする長谷川家も鷹の羽。
私は、秦河勝公は八つ矢車だとおもいますよ。鷹の羽と模様が似ているので、互用しているのでは?兵庫県の大酒神社に実際行ってみたので、間違いないです。
赤松の支配した千種川流域には、おおさけ神社があります。

>白木=新羅、と考えていいそうですが、家紋が鷹の羽です。
シラギは蔑称だときいたことがあります。さちこさんはハングルわかりますか?
ハングルでは、新羅はシルラでしょ?わざわざ蔑称をつかうかしらん?
百済・くだら・クンナラはよくいうように偉大なる国だから、自分の国を指していうのはわかるけど。

>鷹の羽=新羅=出雲。につながりますか?(笑)
今年、島根に辞書の編纂作業で調査にいったんだけど、鷹の羽は他の地域に比べてさほど多くない。百済系とみなしている家紋はその1.5倍、さらにその1.5倍くらい新羅系の家紋がある!鷹の羽は、ゾロアスターの教えを忠実に伝えているという印ではないかしらん?だから、朝鮮半島チョソンパンドの国にあてがうのはいかがしら?

ケシュマルの糸杉はアッバース朝のムワッタキルがぶった切った?けど糸杉=コノテカシワはアケメネス朝ペルシャの王族の印なんだって!?

>大橋、真野、平野、柘植、野呂、古市、服部、伊藤。
大橋は、ねぇ【大】って付くでしょ?で、茗荷をやめて鷹の羽にしたって姓氏家系大辞典にあるんだけど、これってもともとの家紋に戻したってことでね〜の?

平野、柘植、野呂って秦っぽくない?特に、野呂なんか、三枝部の後裔とか平氏とかいってるけど、名字がずばり秦やんか(^^;)ねぇ、そうおもいませんか?マダム明子スミス。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年08月09日 08時40分27秒 ) パスワード
  

新羅は<SHILLA>で「シーラ」とこっちでは発音してます。
「シーラ会館」なんて焼肉レストランがあちこちに存在してます。
[44]小林雅成さんからのコメント(2003年08月09日 11時00分19秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

ストック・デイ・トレーダーの小林です。

英語では、その表記でしょう。
新羅Sir-raで前の新のrは、パッチムですので、フランス語でいうリエゾンっぽい発音となります。

ところで、私の記憶では、秦氏は辰韓経由でないのでしょうか?その後で新羅に併合されたんでは?秦氏族のメジャーな部族は商業民だから、お金持ちだし天皇にかわって国のトップになったろうなんて考えないのは秦の始皇帝の黒幕のときから、なんら変わっていないのであります。平安時代もそうだったし、いまでもそうでしょう、たぶん。でも河内の秦氏は、新羅渡来といって言い伝えているみたいですので、やはり新羅なのかなあ?
[45]前田さんからのコメント(2003年10月15日 14時36分26秒 ) パスワード
  

皆さん、始めまして。

僕の家は四代前、前田小太郎が富山より、
屯田兵として北海道に来たという経歴がありますが、
家の家紋が抱き茗荷です。
お祖父さんの話によると、代々武士の家系ではあったが、
富山藩の前田家との繋がりは不明だとのことです。
もしかして、上の松田さんともなにか関係があるのでは、
と思い書き込んでみましたが・・・
[46]川口 信さんからのコメント(2003年11月03日 12時34分41秒 ) パスワード
  

前田さん はじめまして。だいぶ遅くなりましたが。

以前電車の中で一見質素に見える着物を召した女性を見かけました。ナントその着物には直系20pぐらいの金糸で梅鉢紋が浮き出すくらいに豪華な刺繍してありました。成上りの家では手が届かないようで、たぶん、大名家の前田家の流れの方と思いました。余談はさておき。
 前田家は梅鉢紋があまりにも有名で他の紋のことについてはあまり伝われておりませんが石川県の前田家において使われている紋が幾つかありました。
剣片喰、違い鷹の羽、橘、木瓜・隅切り角に木瓜・四方木瓜などを使用する前田家がありましたが上記紋に丸を付けた家も見られます。
 富山藩の方は分藩する時には禄高の少ないものが藩士となったそうです。だから、金沢藩の支配を後々まで受けました。前田家では剣三つ柏・三つ剣星・左二つ巴・丸に三階松などがありますが、茗荷紋での前田家は探せませんでした。
 
 だが、気になる前田家が能登国鳳至郡六郷木村(門前町)の草分けに前田氏がある。平安期の寿永年間、倶利伽羅峠の戦いに敗れた平氏の残党といわれ、前田助左衛門らが村の草分けと伝えるとあります。(姓氏家系大辞典)
 
いずれにせよ、松田家・前田家、各家の系図には入り込めませんので外からは窺い知れません、富山藩の「富山藩士由緒書」で調査されるのが良いかと思いますが。富山県から屯田兵で北海道に渡った人数は253人もおりますとあります。其の関係からも調査できるかも知れません。





[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月04日 00時03分25秒 ) パスワード
  

>一見質素に見える着物を召した女性を見かけました。
>ナントその着物には直系20pぐらいの金糸で梅鉢紋が浮き出すくらいに豪華な刺繍してありました。

凄いですね。
古いものなんでしょうね。

着物って3代は着るものですし
それより古いのかもですね。

[48]前田さんからのコメント(2003年11月07日 06時16分21秒 ) パスワード
  

川口さん、有難うございました。
なるほど・・・平氏の残党な前田なら、
十分に可能性がありますもんね。
また調べてみたいと思います。
・・・一度富山に行ってみたいです。

まぁやっぱり前田としては加賀梅鉢に憧れますけどねぇ。
是非拝見したい、その着物。
[49]三原さんからのコメント(2003年11月11日 17時06分33秒 ) パスワード
  

皆さん、始めまして。
当家の家紋について調べていて
こちらのサイトにたどり着きました。

当家の家紋は、『丸に抱き茗荷』です。
姓は三原といいます。
松山(伊予)に住んでいます。

祖父に聞いた話では、
祖先は、伊予松山藩(久松松平氏)に仕えていたそうですが
さらに以前は、広島の三原市に居たとか・・・
(かなり曖昧です。)

また、町内には『三原』姓の家が多数あり
墓地にも『丸に抱き茗荷』を多数見られます。

何か教えていただけることがあればよろしくお願いします。

[50]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年11月12日 02時51分36秒 ) パスワード
  

三原さん
初めまして。

>伊予松山藩(久松松平氏)に仕えていたそうですが
>さらに以前は、広島の三原市に居たとか・・・

元々は「尾張」という事でしたらピンと来るものがありますが。


1番良いのは久松家の分限録を御覧になるのが良いと思いますが。
[51]三原さんからのコメント(2003年11月12日 11時11分01秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん
早速のレスありがとうございます。

やはりですか・・・。


私も、いろいろ探っているのですが
『これ!』という物にたどり着けません。

以前のレスに、
《服部保長家の正成の子、正就の子供達、正幸・正治らが地方に行っている。海を隔てた伊予国松山に至り、正幸・正治が松平隠岐守定行がもとに養われ、のち家臣となっている。》

とあったので、
服部家と何らかの関係があるのでは?
と勝手に思ったりしたのですが。。。

また、何かあればよろしくお願いします。


> 久松家の分限録を御覧になるのが良いと思いますが。
ありがとうございます。探ってみます。
[52]田中愛造さんからのコメント(2003年11月18日 23時21分19秒 ) パスワード
  

前田さん
加賀藩給帳を調べましたか?二千四百五十石(抱茗荷)同・内五百十石與力知・前田主殿、家が(姓氏家系大辞典)に載っています。前田家は、大族で各家々が多過ぎるので、家紋を変えて判別した形跡が見られます。前田氏仕用の全家紋の数多すぎて、書き上げられません、あしからず。尚北陸三県の県姓氏大辞典が、図書館にありますご参照ください。
三原さん
備後の三原氏(源姓)・讃岐の三原氏・芸藩通志(赤松氏族)三原氏・関係はこれも(姓氏家系)に出ています。更に、(系図研究の基礎知識・中世)等にも。但し、家紋の繋がりは、小林雅成先生に打診お願いして見て下さい。
[53]服部 伊織さんからのコメント(2004年01月28日 21時04分18秒 ) パスワード
  

お久しぶりです!!
もぉ忘れている方も多いかもしれませんので・・・
長野県麻績城主、服部左衛門の子孫で丸に抱き茗荷紋を使用しています。
思い出して頂けたでしょぉか??
時間の合間をぬってPCで調べて、
少しだけ収穫があった気がしたので報告に来ました。
服部氏は上杉氏と親しくしていたそおです。
又、甲斐の武田氏とは対立関係にあり、
武田氏方の青柳氏に占領されたの事。
歴史には全然詳しくナイ(バカ)んで南朝などはよくわかりませんが・・・
また何か解ったら来ます!!
[54]さちこさんからのコメント(2004年01月29日 22時33分36秒 ) パスワード
  

お久し振りです!
伊織さん。

勿論覚えてますよ!

麻績村、あの辺りの服部家は私も歴史は苦手なので苦戦してます。
でも江戸時代は善光寺と京都に結ぶ街道で栄えていたそうですね。

川中島の戦いは、
漢詩、詩吟で有名です。

「べんせい〜 しゅくしゅくう〜 夜、川を〜渡る〜」

長野県は日本で一番詩吟が盛んな所です。
敵に塩を送るの美談、今となっては事実かどうかは判りませんが、
武田VS上杉は日本史上の武士としての戦いの誇りだったのかも知れません。

麻績はオミですね。

壬申の乱の時天武天皇に流された麻績王を繋げて考えてしまいます。

伊賀の服部家の神社、
小宮神社の小宮は、コミヤではなくオミヤと読みます。
オミ=麻績に繋がる説もあります。

書きたい事はまだあるのですが時間がなくて失礼します。
伊勢神宮の関係で、
神服部、神麻績の神社が松阪にあったと思います。

 PS 江戸時代にはヤクザやさん(!?)関係の服部家結構あったみたいです。
   麻績に関しては日曜日にでも参考HPリンクします。
伊織さん、またよろしく!
[55]服部泰之さんからのコメント(2004年02月23日 12時55分30秒 ) パスワード
  

出張先よりコメント致します。
叔父の書き下ろした書物の中に、先祖はヤクザやさん?と聞いて叱られたという文章が有りました。
去る平成4年頃に祖父の法事を兼ねて、叔父(服部久利)の調査に基き、先祖のルーツを探る服部一族のイベントが有った事を思い出しました。私は直系でないのですが、当年結婚して服部の姓を名乗るものとして叔父の計らいで参加致しました。
長野県の松本城近くの墓には確か「丸に抱き茗荷」の家紋が刻まれていました。
叔父の調査(未完)記録に家紋、麻績、住職・神職のコメント、家系図が確か記述してあったので読んでみます。
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月23日 13時06分48秒 ) パスワード
  

詳しいことが分かりましたらお願いしますね。


御遠慮無く「信州の服部家:丸に抱き茗荷紋」というようなタイトルの新しいスレッドでどうぞ。
こちらもだんだん重くなっていますのでこのスレッドの派生という事でも結構ですので。
[57]相馬氏さんからのコメント(2004年08月30日 00時20分46秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年08月30日 00時41分44秒
[58]相馬氏さんからのコメント(2004年08月30日 01時32分08秒 ) パスワード
  

 はじめまして相馬氏といいます。わが家の家紋(丸に抱き茗荷)について調べていくうちに、このサイトにたどり着いたので投稿させて頂きます。そして、是非、皆さんのお知恵をお借りできたら幸いです。
 私の父は青森県出身ですが、現在は静岡県に住んでいます。家紋は「丸に抱き茗荷」を使用しております。父が転勤の関係で静岡に移り住んでしまったので、相馬家についての資料が全くなく、姉と私でこれから相馬家を受け継ぐものとして、出来るだけ詳しい資料を集めようということから、まず家紋ということで情報収集を始めました。そこで、幾つかの疑問が出てきました。
 @現在、「丸に抱き茗荷」を使用していますが、相馬家を調べると「繋ぎ駒」「九曜」「相馬亀甲」の3つしかありません。何故、「抱き茗荷」を使用しているのか。(姉の調べでは、平将門の乱以降、相馬家は身を隠さなければならなくなり、家紋を変えてまで血筋を守ろうとしたのではないか。因みに、本家筋のお墓には、表には「抱き茗荷の紋」、裏には「九曜紋」といった紋が刻まれたいました。)
 相馬氏は、戦国時代、千葉氏の次男から相馬を名乗るようになりそれ以降、伊達氏と血縁関係を結ぶなど色々やってきたことが裏目に出てしまい、内紛を起こすなど、幾つかの相馬氏が存在するので、非常に分かりづらいのが現実です。話が外れてしまいましたが、「抱き茗荷」は神仏に仕える神社やお寺で使われていた家紋をいつから、相馬氏が使わざるおえなくなったのか、是非知りたいところです。分かる方是非お願いいたします。
 追伸:ある事情で嫁さんの家の家紋を聞いたところ、私の家と全く同じ「丸に抱き茗荷」でした。また、姉の旦那さんの家の家紋は、相馬氏の本家筋のお墓の裏に刻まれていた家紋と同じ「九曜紋」でした。両家の家紋が全く同じになるということは、ありえるのでしょうか。非常に不思議な感じがしてしょうがありません。このことで、絡まった糸が解けていきそうでロマンを感じます。
[59]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月30日 11時25分40秒 ) パスワード
  

相馬さん

初めまして。
小林先生からの書き込みを楽しみにお待ちください。


江原さんという心霊研究者によりますと
わたくし達は700年〜400年前の御先祖さまの力を借りて生きていると書かれていますが
そういうパワーを感じますね。
板東平氏・千葉氏系の御縁があったという背景に御先祖さまのお力が動いてたという印象を受けます。


まず相馬氏は千葉氏族ですし、平将門公が相馬にいたことからの板東平氏ですから
当然将門公ゆかりの「繋ぎ馬紋」や千葉氏の「九曜紋」「亀甲紋」は代表紋ということで良いのでは?
と思います。

お墓の裏の紋が九曜紋ということはそれなりの事情があって抱き茗荷紋を使ったのでは?
つまり同じ相馬姓でも相馬の殿様に御遠慮して紋を替えたという事も考えられます。
江戸時代って紋や通字に制限があったのですよ。


本家さんのお宅に伝わる家系書を見せて頂けると良いですね。
いつ?何故?抱き茗荷紋を使わなければならなくなったか書かれている筈ですから。
[60]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月30日 13時10分46秒 ) パスワード
  

全くお役に立たない情報ですが
清盛流の長崎家が抱き茗荷紋、良文流中根さんが茗荷紋だそうです。
[61]小林雅成さんからのコメント(2004年08月30日 19時20分11秒 ) パスワード
  

相馬氏様

私の調査した範囲(西日本)で申しますと、相馬氏ですがご指摘の九曜、亀甲に花菱の2つがほとんどです。(柏書房の『都道府県別 姓氏家紋大事典』参照)
繋ぎ駒はまだ拝見したことがないです。

前にもかいたのですが、丸に違い鷹の羽を使用する平氏系の武将で、時代下って丸に抱き茗荷をペアーで使用しているケースではないかと存じます。
相馬氏で、丸に違い鷹の羽は非常に少ないのですが、大阪府にはあります。
私の仮説の『マハーなるはルージャなる哉!』があてはまる家ですので、茗荷はなんらおかしくはないですよ。

ぺ・ルージャ(平・龍蛇)パンジャーブの五河、インダスの流れに、ナーガール・ジュナの教え、大乗の悟りに太陽神と蛇神、ゾロアスターの導きにあいて極東の小島にて新たなるユーラシア帝国を、、、。

>相馬家を調べると「繋ぎ駒」「九曜」「相馬亀甲」の3つしかありません。
断定はされないほうが、、歴史に例外はありますので、、。

>両家の家紋が全く同じになるということは、ありえるのでしょうか。
あります。それがおめずらしいと?抱き茗荷紋は静岡県トップ8位になりますので、ありうるでしょう。(『都道府県別 姓氏家紋大事典』東日本版静岡県ページの家紋ランキング参照)そうですねぇ、57位ぐらいの家紋同士ですと珍しいかとおもいますが、8位でしたら確率的にはありえるでしょう。ロマンが無い話ですいません。
[62]相馬氏さんからのコメント(2004年08月30日 23時14分10秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさん・小林さん有難うございます。
 私もまだまだ勉強不足の部分がたくさんあり、大変手間をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした。これで1つ疑問が解けたように感じます。しかし、こうして色々と調べていくにつれて、底知れぬ不安感というか恐怖感を覚えるようになりました。あまり、深く先祖のことを調べないほうが良いのかと、感じてしまうことがあります。
 疑問が生じましたらまた皆さんのお力をお借りしに参上いたします。これからもこのページは拝見させていただきます。
[63]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年08月31日 00時05分57秒 ) パスワード
  

>相馬家を調べると「繋ぎ駒」「九曜」「相馬亀甲」の3つしかありません。
>断定はされないほうが、、歴史に例外はありますので、、。

小林先生
はい。さようでございますね。
日本に於ける家紋や姓氏は例外の続出でしたね。ぺこり



相馬さん
いえいえ御研究をお続けください。
御先祖さまのお導きで皆さん昔の御縁で今でも再び姻族関係を作っていらっしゃるのですから。
御先祖さまがお悦びと思いますよ。

こういう関係での婚姻は基本的に良い縁組と感じます。
御先祖さまの御加護が続きますように!


もっと詳しくお調べになったら、いろいろな時代にやはり婚姻を通じても固く結ばれていたというのが出て来ると思います。
いろいろな歴史の転換期に血と涙と汗を一緒に流し合った関係だったと出て来ると思います。


相馬さんがそういう確認をするべく御先祖さまから使命を与えられたとお思いください。
御先祖さまに守られているというのが確認出来ますよ。
[64]相馬氏さんからのコメント(2004年08月31日 12時49分39秒 ) パスワード
  

 皆さんありがとうございます。何か元気が出てきました。これから問題が山積みですが
 @私の実の姉(本家筋のお墓の裏に刻まれていた「九曜紋」)と結婚した旦那さんの家(苗字:細川)の家紋がこれまた同じ「九曜紋」         A今から5代前、細川氏と相馬氏が何らかの関係があり、「一旦は相馬氏と分裂するが、将来必ずまた相馬家とはくっつくこととなる。その際には、細川の人間は相馬家に対して、恩を返さなければならない。」という言い伝えある。その5代前相馬家と細川家でどのようなとりかわしがあったのか。
 B家系図の中に出てきた「平政則」とは誰なのか。
 まさしく小林さんがおっしゃるとおり、ご先祖様からの使命みたいなものを感じます。少しずつでも謎か説けていけば、ご先祖様に近づけられれば良いなと思います。良い情報がありまあしたらよろしくお願いいたします。 
[65]小林雅成さんからのコメント(2004年08月31日 21時38分09秒 ) パスワード
  

相馬氏様

>底知れぬ不安感というか恐怖感を覚えるようになりました。
子孫を恨んだろうかゆう先祖はまずおらんと思いますけど、、、。通常、死んだ人は大して怖くないですよ(地縛霊除いて)

>結婚した旦那さんの家(苗字:細川)の家紋がこれまた同じ「九曜紋」 
静岡県の細川氏は普通九曜です。他に桐紋とかも使いますね。源氏とか平氏の枠組みではなく、先祖が妙見信仰に基づく家紋を何故つかったのかが大事でしょう。研究者の意見では、現在の源氏や平氏の子孫といっている家でも系図は仮冒がかなりあるようですから、案外家紋の方が正直かもしれません。

>小林さんがおっしゃるとおり、ご先祖様からの使命みたいなものを感じます。
いってませんよう(^^;)その意見は、ギャンブラーさんでっしゃろ(^^)
[66]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月01日 01時17分00秒 ) パスワード
  

5代前ということは江戸末期・明治維新あたりの御先祖さまでしょうね。
その頃どういう事件があったのか?

青森県のどこの御出身なのか?
津軽と南部はいろいろありますからね。
(昔の知り合いに南部藩の御家老の家の1つの姫君と知り合いました。今80代かしら?美しい垢抜けた女性です)
それから斗南藩のこともある。← これでしょうか?


お父さまの戸籍を遡って明治の初めの御先祖さまの除籍謄本を取ってください。
そうすれば江戸時代どこに住んでたのかだいたい分かります。
その場所が特定されましたらどんな事件があったのか郷土史で捜してください。

幕末のぐちゃぐちゃの日本史の中で相馬家と細川家がどう関りあったのか。
その時の御縁でお姉さまは御結婚なさったのかも。
両家が力を合わせて繁栄しようというのが分かって良いですね。ラッキーな縁組ですね。

こういう場合って旦那さんはお姉さまにゾッコンでお姉さまが主導権を握れば家内平穏なんでしょうか?(笑)
[67]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月02日 01時46分45秒 ) パスワード
  

昨日ビデオで「相馬の野馬追」を見ました。
出場者は別に相馬藩の子弟の子孫というワケじゃなかったようですね。


タイトルをちょっと変更してみました。
[68]田中愛造さんからのコメント(2004年09月02日 20時57分37秒 ) パスワード
  

 相馬氏に関して、ネット上(千葉・相馬氏)に於いて非常に多く載って居り、其の系統は分流派生が頗る多く、又、書物に至っても「桓武平氏良文系全系図」や「群書系図部集」「寛政譜」或いは独自の相馬関係資料が東大史料編纂所「相馬家文書・纂8上−5」他「相馬藩世紀」で分類されて居ります。従って同姓別流が少ない相馬氏には家系研究が安易と思います。
 さて、家紋に至っては諸氏の述べられる通り代表紋として(九曜・亀甲に花菱・相馬繋ぎ馬)とされますが、「寛政譜9・系図部4」は胤継系の定紋(相馬繋ぎ馬)替紋(三つ茶の実)も使われ、また相馬氏は(左三つ巴)もあります。
 近畿以東各県と九州地域に其の名を残し、三・代表紋と共に別紋として(丸に違い鷹の羽・大阪、丸に木瓜・栃木、青森、丸に剣片喰・福島、山形、丸に立ち沢瀉・秋田、丸に梅鉢・青森、丸に四つ目・青森)等など使い別けており、同族同門であるものの、小林先生の云われる(家紋の方が正直かも)が、かえって其の系が解明しやすいかも知れません。残念な事に(丸に抱き名荷)を見つけるに至りませんが、同じ族にも別紋替紋が在る事を知って置くのも大切で、何代か前に分家され抱き名荷に替えたと理解いたします。更に相馬様御本家の墓の裏にはご先祖の家紋が刻まれているのも子孫えの伝達と考えるべきと思います。
 相馬氏は東北に妙見信仰の坐覡唱道文芸を伝えたのは有名で、其の子孫は伊達氏との確執があったものの中村藩6万石を維持し、幕末藩主充胤は農政に力し荒村改革興国安民法(二宮仕法・二宮尊徳)を高めた。其の子誠胤(慶応元年家督)の代には、明治最大の御家騒動を引き起こし、宮家・華族・政財界を巻き込む騒動が17年続き、実務の忠臣志賀直道(志賀直哉の祖父)と精神の忠臣錦織剛清との対立で【明治の忠臣蔵】とも云われる。事件に関しては(歴史読本特集華族134年の真実)2003/4〈華族事件簿〉153-184頁に詳しく載る。子爵誠胤(実子秀胤・天童藩織田家継ぐ)=順胤(誠胤の弟・子爵)−孟胤(宮内省式部宮楽部長)−恵胤(宮内庁事務官・柏台牧場主、室・尾崎雪香・行雄の二女)−和胤(33代当主・柏台牧場主)−行胤と続く惣領家は健在ですね。
[69]小林雅成さんからのコメント(2004年09月05日 10時27分15秒 ) パスワード
  

相馬氏様

>細川氏と相馬氏が何らかの関係があり
相馬氏はガド族だし、同じガド族の足利とともに歩んだ細川は、足利庶流となっているが、義実、義季あたりの婚姻関係(母方の血統)はどうなっているのでしょうか、わたしの本ではわかりませんが。

>B家系図の中に出てきた「平政則」とは誰なのか。
秦氏の匂いを嗅ぐ、細川氏発祥地の三河スレッドか、秦熱か、、。

ガド族・足利氏と対立していたご先祖様(ダン族)を持つギャンブラーさんの方が詳しいか?やはり、ここは止めて秦熱に引越したほうが良い話題か?(^^;)

[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月05日 12時07分35秒 ) パスワード
  

小林雅成さま

奇遇!

実は一昨日夫が久し振りに髪を切りまして「サムソンの謎々が気になって」と言い出したのです。
それで昨日は1日中義兄も交えてこの話をしてたのです。

まさかここでその続きを考えることになるとは思ってもいませんでした。


わたくしはサムソンの謎々の答えは本当は「愛」だと言いたかったのでは?と思っています。
やっぱりパレスティナの女を愛してしまうサムソン。
でもパレスティナとは不倶戴天。
今でもそれが続いている。

5000年?いやそれ以上?
地球が滅亡するまで?
[71]小林雅成さんからのコメント(2004年09月05日 14時04分57秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>「サムソンの謎々が気になって」
聖書の解釈は文字通りに、神のみことばと、口に関連して蜂蜜、食物(エコノミー=経済を暗示するか?)としていたのですが、「愛」ですか!さすがにアメリカ人ですね、そこまで深読みできませんでした。

>やっぱりパレスティナの女を愛してしまうサムソン。
同じダン同士で結婚した私にはわかりませんが、アメリカにおられるギャンブラーさんなら、愛だとわかるのでしょうね。愛もまた神の作為なのでしょうか?

>5000年?いやそれ以上?
サムソンの話はBC1000年ぐらいのことでしょう?まだそれより前も同じようなことがあったのでしょうね、それ以降も。

>地球が滅亡するまで?
そこまで生きては、、。(笑)
[72]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年09月06日 08時14分11秒 ) パスワード
  

「愛」では?と思ったのは


「食べるものから食べ物が出て
強いものから甘いものが出た」


強いのはライオン
ライオンより強いのはサムソン

甘いものは蜂蜜
蜂蜜より甘いのは女
その女とは自分を虜にするイスラエルの女よりもパレスティナの女

つまりサムソンよりも強いのはパレスティナの女
結婚するのにパレスティナの女を諦められないのは「愛」ゆえ。



イスラエルの民は放浪の民で
紀元前2000年頃のアブラハムがそもそもパレスティナに居場所を求めてやって来た?
さらにそれ以前にアダムとエワが楽園を追い出されて居場所を求めていた?


結局は被害者はパレスティナの民なのか?
イスラエルの民とは居場所が無いわけか?
その民が地の果てまでも居場所を求め落ち着いた先が日本なのか?


サムソンと同じ族の子孫であることは戦う一族としては誇りと言って良いのかな?っと
そんな事を考えていたのでございます。
[73]小林雅成さんからのコメント(2004年09月08日 01時18分26秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

>強いのはライオン
後醍醐帝のシンボル?

>その女とは自分を虜にするイスラエルの女よりもパレスティナの女
他の部族の女性だとわかりにくい部分があるので、それがミステリアスに思えるだけのような気もしますが。

>結婚するのにパレスティナの女を諦められないのは「愛」ゆえ。
髪の毛の後退が激しいおっさんには縁遠い単語なので、どうもわかりづらいです。

>イスラエルの民は放浪の民で
もともとイエメン共和国あたりが発祥だとわかるような気がしますね。放牧と人口増加により、放牧地・耕地不足となり、移動する。砂漠の木とそれにまとわりつく蛇。楽園には蛇がいましたね。

>結局は被害者はパレスティナの民なのか?
占住・占有をもって所有権があると推定する法律では其の解釈でしょう。

>その民が地の果てまでも居場所を求め落ち着いた先が日本なのか?
そうだとおもいます。ユーラシアの端で、膨大な民に膨れ上がっているが、目立たない。どこにでもあって、しかし目立たない。(日本製の工業製品か?)
[74]相馬氏さんからのコメント(2004年09月10日 12時29分04秒 ) パスワード
  

皆さんお久しぶりです。少々体調を壊し入院をしておりましたので、返信できずじまいで、申し訳ありませんでした。小林雅成さん、ギャンブラーさん、田中愛造さんありがとうございました。これを参考に徐々に私も勉強していこうと思います。体調を崩した関係で、嫁さんからインターネット使用中止命令が発令されましたので、これからは図書館の文献を参考に地道に調べていこうと思います。それでは、中止命令が解除になるまで…。
[75]小林雅成さんからのコメント(2004年09月11日 22時30分09秒 ) パスワード
  

相馬氏様

くれぐれもご自愛ください。健康第一。
[76]石井通義さんからのコメント(2004年11月26日 19時09分31秒 ) パスワード

石井文蔵では、お世話に成りました。このペ−ジは長いので完読していませんが(6)につて福島正則が向島(歌島)を東西にわけて検地をしています。昔は、伊勢、備前、備後、肥前は、塩で強いつながりが、何寺でしたかの、寺領の関係で有ったようです。また石井清信は、私なりに調べていますが、また文蔵の欄で、お世話になろうと思います。宜しくお願いいたします。
[77]足立 勇さんからのコメント(2004年12月18日 14時47分38秒 )
URL=http://www.asahi-net.or.jp./~sd2i-adc/

本人によりコメントは削除されました。 2004年12月18日 14時49分55秒
[78]足立 勇さんからのコメント(2004年12月18日 15時07分44秒 ) パスワード
URL=http://www.asahi-net.or.jp./~sd2i-adc/

はじめまして、二度目の投稿になりました。相馬氏に関する記述がありました

ので、読まして頂きました。茨城県八千代町に僕の親戚「いとこ」に相馬を名

乗る者がいます。戦中、疎開で世話のなっていたんですが、彼の話だと家系図

もあるとか、話していました。

[79]真野さんからのコメント(2006年03月13日 17時56分15秒 ) パスワード

私は真野です。
織田家に仕えたと前々から聞いております。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ma.html
このHPでは真野家の家紋が下がり藤になっています。
自分の家紋は丸に抱き茗荷です。
真野家で下がり藤の家紋が本当にあったか知ってるひといませんか?
それともここのHPのみすでしょうか?
私はみすかと思っております。
下がり藤の真野家(↑にのってるURLの)も織田家に仕えてたと書いております。
どうか詳しい人がいたら教えてください。お願いいたします。
わかった人はメールしてください。
[80]小林@岡山さんからのコメント(2006年03月13日 21時07分01秒 ) パスワード
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm

真野様

まず、織田氏が有名な織田信長なのか、あるいは信長の兄弟なのか、あるいは別の家なのか。
詳しく検討する必要がありそうですね。織田氏の家臣団は100人くらいですか?それなら真野姓の武士は1人ぐらいしかいないでしょう。織田の家臣団は少なくとも数千人はいましたか?それなら真野を名乗る別の武士がいても、なんらおかしくはないです。

真野さんというお家は、宇多源氏、桓武平氏、藤原氏、橘氏などの流れ(ルーツ)があります。

上がり藤(定紋)と抱き茗荷(替紋)を使う家や、下がり藤(定紋)と菊、桜(替紋)を使う家、抱き茗荷(定紋)と藤巴(替紋)を使う家などが江戸時代のエリート武士として家の歴史を江戸幕府に提出して『寛政重修諸家譜』の中に掲載されています。

上記、真野様が提示されたHPはこの本の情報を図書館かどこかで入手して(ホントは著作権法上いけない行為なのですが、)インターネットに流している訳です。

ただこれに出てない武家の真野さんもあるわけでして、ミスではなくて別の家だというのがホントだと思います。

例えば、現在の霞ヶ関のエリート国家公務員の中に真野の名字を名乗っている家は1件しかなくて他は違うと断言するのが事実上不可能なことと同じようなケースですね。
[81]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年03月13日 22時54分26秒 ) パスワード

真野さんって南朝方だった真野さんかしら?
南朝方でしたら想像の1つが繋がったような?


でも織田信長の家来になってましたか?
浄土真宗ではないのですか?


いろいろな可能性があるんですねえ。
[82]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年03月13日 23時36分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

真野さんへ
 
真野姓は天下の大姓で約17,700人もおり、異流もすこぶる多い。
下がり藤の家紋も藤原氏系姓氏が多用する天下の大紋で、多くの真野家も使用している。
 
真野正俊(藤原氏秀郷流)が信長に仕えて、丸に茗荷、下がり藤など。
真野重政(桓武平氏三浦氏族)が信長に仕えて、丸に抱き茗荷、下がり藤、藤巴など。
真野有国(桓武平氏北条氏族)が信長に仕えて、下がり藤、桜など。
 
どの真野氏の後裔かは、貴殿が調査することをお勧めする。
  
表面上は藤原姓、平姓だが、恐らく上古の近江国滋賀郡真野郷発祥の真野臣の後裔で
宇多源氏佐々木氏族や橘姓の真野氏も同族と思われる。
真野の地名も全国に多く分布する。
[83]真野さんからのコメント(2006年03月17日 18時24分03秒 ) パスワード

応答ありがとうございます^^ 
詳しくは知りませんが・・・織田家に仕えたことはわかっております。
みの国の人間だったかも知れませんが・・・(?)
やっぱり寺に行って家系図を見るべきでしょうか?
[84]真野さんからのコメント(2006年03月17日 18時40分56秒 ) パスワード

つけたしです。すみません。
家紋の検索で真野調べたら下がり藤ゎ出てなかったんですけど、使われているんですかねぇ・・・?
[85]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年03月18日 02時12分40秒 ) パスワード

>家紋の検索で真野調べたら下がり藤ゎ出てなかったんですけど、使われているんですかねぇ・・・?

「出てる・出てない・使われているんですかねぇ」は気になさる事はないと思いますよ。

「出てる」というのは江戸時代の申告の時に記録されてたということで
「出てなくても」使われてたというのは充分ありますから。


たとえば下がり藤紋の真野さんという方が総理になってお亡くなりになり(または芸能人とかね)
葬儀でこの紋が使われテレビで全国放送されればたちまちに家紋の本や姓氏の本に載ります。


家紋はいろいろな事情でころころ変わりますから
それだけ特別な事情があったということで
それがその家のアイデンティティという事なんです。


愛知県の尾張地区なら真野さんというお宅が多いので電話帳を手に入れてアンケートをお出しになったら良いのに。
ちゃんと返信用の封筒も同封して。


ご自分の御先祖さまの明治の初めの戸籍謄本(除籍謄本)を手に入れて
その記載の住所の真野さんを当ったら
かなりの可能性で御親戚と思いますよ。
[86]真野さんからのコメント(2006年03月19日 00時04分53秒 ) パスワード

お爺ちゃんにいろいろ聞いてみます。
歴史って面白いですね^^調べるのが楽しくなりそーです。
また情報ありましたら教えてください。
お願いします。
[87]松田 邦義さんからのコメント(2006年03月20日 19時22分15秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月19日 08時57分12秒
[88]松田邦義さんからのコメント(2006年03月23日 12時08分56秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月12日 16時52分17秒
[89]松田邦義さんからのコメント(2006年03月23日 13時43分20秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月12日 16時54分12秒
[90]アカコッコさんからのコメント(2006年03月23日 20時42分19秒 ) パスワード

呼び出しがかかっているみたいですが。

 家の改築の為、8ヶ月にわたり仮住まいで3月19日にやっと古巣に帰り着いたようなわけで、ネットも同じくズットご無沙汰で20日に復帰したばかりで、たいへん失礼いたしました。何は取敢えずこのサイトをみたのも今日が初めてです。(ネット中毒から開放されていました。(笑い)
 
 とういう様の訳で資料などダンボールに入ったままで、体力はあるのですけで気力のほうが回復せず(そこまで頭がまわらない)ご返事をかける状態でないのでご容赦ください。(かわぐち)
[92]田中愛造さんからのコメント(2006年04月12日 00時53分12秒 ) パスワード

松田邦義様
 貴家の資料は膨大で、とてもこの場では書けません、一度図書館に行かれては如何でしょうか。史料としては、(姓氏家系・第3巻)(寛永諸家)(寛政譜)(武家系譜)(江戸幕府旗本人名)(江戸幕臣人名)(徳川旗本総覧)(家紋旗本八万騎)に詳しく出ています。更に、ネットに於いても(武家系譜辞典)を検索し、北条家人名2800名の中にも始祖秀郷から旗本の直政家や定則家が載っています。共に千石取りの大身です。又、結城に於いても各県の姓氏大辞典なる本が有り分限・給帳に基ずく史料も載せて居ります。因みに家紋は(二重直違い・左三つ巴・鶴の丸)。ご健闘を。
[93]長康さんからのコメント(2006年05月09日 17時08分05秒 ) パスワード

松田さんへ  家紋件なんですが松田氏は,色々な,家紋を使っています。たとえばお祝い時とか、また合戦時とか、また色々な説がありますが、藤原性です。ただ松田性は直系のみしか使えません。たとえば子供が三人いるとすれば家督相続一人だけです。伊達家と同じですね.ただ天正18年までですけど、また、松田性は、使えなくなります。直系は工藤性に変えます。また武田氏も工藤性に変えます。きっと徳川家の系図作りの邪魔な性なんでしょう。また1634年6月23日三代将軍家光が上洛の途中小田原城の松田屋敷を自ら見るために足を運んでいる。その頃から、工藤性より松田性になおしている。と同時に名前を金と言う字使っている。金の字は、韓国系ですよ、藤原ですよ、と考えてください。


[94]松田邦義さんからのコメント(2006年06月19日 18時08分51秒 ) パスワード

 田中愛造様
  御返事を有り難う御座いました。先日こちらからご連絡を致しましたが、投稿欄に載っていませんでした。前回も投稿しても載りませんでしたので、同じような文面で3回も投稿してしまいました。メール等初心者ですので、色々ご迷惑をお掛け致しますが、宜しくお願い致します。最初に投稿をしてから暫くネットを見ていませんでしたので田中様よりせっかくご返事を頂いているのに日数が経ってしまい本当に申し訳有りませんでした。松田邦義。
[95]田中愛造さんからのコメント(2006年06月20日 00時31分14秒 ) パスワード

松田邦義様
 小生も初心者です、三年前いみじくも服部先生にご教授賜り、依頼平熱で勉強させて頂いて居ります。今では何とか手の方が先に進む様になって来ました。
 先にも申し上げましたが、松田様の疑問は、もよりの図書館で直に解決されると思われます、一度お出掛け下さい。更に又、平熱にtry頂ければ皆様からご指導戴ける事受けあいます。
[96]松田 浩さんからのコメント(2006年08月10日 14時03分00秒 ) パスワード

いろいろ調べたらここのページに着きました。以前下記のことが記入されてました。

>加賀国における松田家の家紋は丸に橘、丸に立ち沢潟などであります。

岩手県遠野市周辺に松田姓が多く、当家の家紋は、丸に橘です。
奥州藤原氏と関係があると以前調べた事はあるのですがよくわかりません。
加賀国と関係があるのでしょうか?明治になってから松田姓を使ったような
話も聞くのですがよくわかりません。なにか、わかるかもと思いコメント致します。
[97]ニワさんからのコメント(2006年10月27日 20時29分14秒 ) パスワード
URL=http://ameblo.jp/garden-garden21

突然ですが、抱き茗荷からここへたどり着きました。
私の家は、丸に抱き茗荷です。
今は、三河に住んでいますが、本家は、尾張の師勝です。
丹羽の家紋は丹羽扇が知られていますが、抱き茗荷です。
どうして、抱き茗荷か、丹羽扇とは違う系統と思いますが、わかりません。
尾張のかた、知っていたら教えてください。
東海高校へ行ったとき、講堂に抱き茗荷の紋がありました。
ここは、仏教の高校ですが、詳しく知りません。
今まで、なんとなく見ているだけでした。
いろいろ、教えてください。
[98]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年10月27日 21時20分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ニワさんへ
 
丹羽は天下の大姓で異流すこぶる多く、家紋も多く様々です。
丹羽氏の主要家紋については下記URLを参照のこと。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/crest/crestf.htm
 
浄土宗系寺院は、浄土宗の始祖法然が藤原氏秀郷流大友氏族立石氏から出たので抱き茗荷を使用。
茗荷紋は音が冥加に通じ縁起が良いので多くの家が使用したことから、家紋のみでの家系の判別は困難です。
[100]岡崎さんからのコメント(2006年12月12日 23時52分50秒 ) パスワード

はじめまして
「抱き茗荷」についてこんなにも熱く語られているところがあると知って驚きました!
我が家の家紋も「抱き茗荷」です。苗字は「岡崎」(「崎は『立』の崎です)明治19年式戸籍によると、三重県紀伊の国の出身です。現在の和歌山県の奥熊野地方にあたるのですが、ご先祖様が住んでいた「御船村大字北桧杖」には抱き茗荷を家紋とする家がたくさんあります。苗字はみなさんバラバラなのですが・・・
ご先祖様を調べるために、家紋についてもいろいろと調べてみたのですが、特にわかったことはありませんでした。
けれど、ここならば、何かわかるのではないかと期待大!です。
ご存知のことがありましたら、教えてください。

[101]松田さんからのコメント(2007年08月25日 15時52分28秒 ) パスワード

こんにちわ、私は備中の松田家の子孫だと教えられて育ちましたが、当時は興味も無くあまり気にしていなかったのですが、二十歳を越えたころから気になりだしたのですが、その頃には父も母も亡くなってしまいわかりませんでした。
私なりに色々調べてはいるのですが、もし何か知っている方おられましたらよろしくお願いいたします。
[102]服部さんからのコメント(2007年09月12日 18時57分24秒 ) パスワード

我が家の家紋も「抱き茗荷」です。
しかも、苗字は服部。 父もその兄弟も他界していますが、信州松本の出。
代々農業に従事していたようですが、幾つかの棟で囲まれた住まいで天井には黒っぽい駕籠が吊るしてあったと聞いています。 
[103]服部さんからのコメント(2007年09月12日 19時13分43秒 ) パスワード

書き忘れてました。
「服部」という苗字は「呉 ハトリ」の系列だとか「機織」がなまったとか色々な謂れがあるようです。 
自分の苗字なので忌憚なくいえるのですが、皆さんご存知でしょうか?
服という文字、PCなどでは同じに書きますが正式には「肉月」なんですよ。
夜空に仰ぎ見る月ではないようです。
つくりの方は、船に乗るときに渡る板がありますよね。 あれを意味する形だと聞いたことがあります。

どのように頑張っても(日本語でも中国語でも)「はっとり」とは発音できないのに苗字だけはこのように読むんですね。 我ながら不思議な苗字です。
[104]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年09月12日 22時02分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

服部さんへ
 
新撰姓氏録の太秦公宿禰条に、
『大鷦鷯天皇[諡は仁徳]の御世に、百二十七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢ら使めたまひき。天皇、詔して曰はく、「秦王の献れる糸、綿、絹帛は、朕服用るに、柔軟にして、温煖きこと肌膚の如し」とのたまふ。よりて姓を波多と賜ひき。』とある。
秦はシンと呼ぶのだが、肌が波多に通じハタと訓読みされる様になったわけである。
 
ここから推測すると、部民を波多織部(秦織部)と総称したのでしょう。
ハタオリベはハトリベと次第に転訛。
大化の改新で部民が解放されると、ベが省略されハトリ、後世はハットリと転訛する。
神服部、殿服部、呉服部などの秦織部を構成する職業部は、二字好字化の流れで服部に漢字表記を統一。以降服部はハットリの慣用訓が定着する。
 
同様に春日(カスガ)、飛鳥(アスカ)、日下(クサカ)、長谷(ハセ)などの特殊慣用訓の例もある。
[105]大橋 昌美さんからのコメント(2013年07月04日 09時05分49秒 ) パスワード

はじめまして 大橋と申します。実家が愛知の津島にあります。津島神社の近くにあります。ご先祖さまのお墓を建てさせて頂くことになり、家系図を作成しましたが、津島のお寺が火事で過去帳が燃えてないので、昔のことがわかりません。大橋家の家紋が丸に抱き茗荷です。調べていたら、このサイトに出会いました。武家の家でということしかわかりません。誰かわかるかた、教えて頂けませんか 宜しくお願いします
[106]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年07月04日 10時50分48秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

大橋 昌美さん へ
 
大橋は約139,000人、愛知県だけでも15,000人近く存在する天下の大姓です。
また丸に抱き茗荷の家も山ほど存在します。
家紋からの手がかりでは、肥後発祥の桓武平氏貞季流大橋氏の末裔です。
下記URL系図に貴家の先祖が見当たれば、幸運と思ってください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01109a.htm
[107]日本人さんからのコメント(2013年07月09日 00時58分24秒 ) パスワード

「丸に抱き茗荷」です。
御先祖様はおそらく、お百姓さんだと思われます。
[108]津島の大橋さんからのコメント(2013年07月29日 18時36分31秒 ) パスワード

大橋 昌美さん へ

同じ津島17代めの大橋です。

私の家紋は抱き茗荷の中に 一 と入ってます。

日本の苗字七千傑さんのURL家系図にあると
いいですね

『NPO法人まちづくり津島』で情報集めれますよ・・・きっと
http://www.npo-tsushima.org/
[109]管理者 aさんからのコメント(2013年07月29日 22時48分00秒 ) パスワード

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