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 投稿番号:100305 投稿日:2002年05月28日 05時07分31秒  パスワード
 お名前:服部 明子
源平武将軍装美を競う:為盛・知度・義仲

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

池の大納言家のご子孫のかたより源平盛衰記に記される
倶利伽羅峠の戦いにおける源平武将の華やかな軍装についての記載を
メールにてお知らせ頂きました。


平家の公達が戦さに出陣する時の衣装のきらびやかさ・華やかさについては
周知の事実ではありますが
源氏方の義仲もなかなかの洒落者だった様子が見て取れます。


私だけが楽しんではもったいないので皆さんにもご紹介致します。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年05月28日 05時09分17秒 ) パスワード
  

<その1>

源平盛衰記巻二十九に、
倶利伽羅合戦における平知度、平為盛、源義仲三者の装束が記されていました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年05月28日 05時16分49秒 ) パスワード
  

<その2>

『去程に夜明日出る程に成にけり。

参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、
西の山の麓を北に向て、五十餘騎を相具して、声をあげ、
鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、

右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。

此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、
義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、
餘すな者共とて、
紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。
眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。

其體等倫に異也。

二百餘騎を率して、北の山の上より落し合て押圍み、取籠て戦けり。

知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。

知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。

二の太刀に頸を打落てけり。

同太郎重義続いて落重る。

知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんとす。

親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。

太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。

爰にてぞ源平両氏の兵、数を盡て討れにけり。

知度朝臣は難遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。

兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり
。』
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年05月28日 05時20分06秒 ) パスワード
  

<その3>

知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬、
為盛は魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬、
義仲は紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬、

と、確かに服部様のおっしゃるように三者三様きらびやかですね。

[4]服部 明子さんからのコメント(2002年05月28日 05時29分23秒 ) パスワード
  

日本文化の特徴の1つに「着る物」の重要性があると思います。

衣装比べ、衣装合わせという言葉があったように
特に平安時代の貴族は男女問わず美しい着物を手に入れて競ったことが源氏物語にも
描かれています。

中には衣装の重みで後ろに引っ繰り返ってしまった美女もいたとか。

平家物語の中にも公達の美しさは描かれています。
特に維盛・資盛・敦盛の美しさを知らぬ人はいないでしょう。


上記の為盛・知度・義仲の軍装の美しさは日本衣装文化武将編ですね。
(^^)
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年05月28日 06時00分29秒 ) パスワード
  

このメールを下さった方は上記為盛の子孫になります。
池の大納言頼盛の息子為盛の御子孫でいらっしゃいます。
[6]takahiroさんからのコメント(2002年09月22日 19時47分00秒 ) パスワード
  

池大納言平頼盛の第2子、平為盛は、平家一門の中では、知名度のあまり高
くない人物であると思われますが、為盛につき、経歴として残されている事
績を記します。

 池大納言平頼盛の第2子として生まれる(生年未詳、1150年頃と思われる)
 蔵人に補される
 紀伊守に補される(1175年12月)
 右兵衛佐に補される
 紀伊守重任(1180年1月)
 加賀守に補される(1181年7月)
 兄保盛と共に熊野討伐に出陣(1181年9月)
 兄保盛と共に諸国追討計画、南海道方面大将に任ぜられる(1182年、実施されず)
 倶利伽羅峠合戦討死す(1183年5月12日)

 兄弟に保盛、仲盛、知重、光盛、保業、静遍
 姉妹に藤原基家室、平清経室、平清宗室

 
 為盛が討死した倶利伽羅峠には、五輪の塔「為盛塚」が弔われている
 
 「為盛塚」(小矢部市教育委員会による説明碑)
   為盛は池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183年)砺波山の
   源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、
   加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎をひきいて源氏に逆襲したが、義仲の
   部将樋口兼光に首をはねられた。この塚は、勇敢な部将為盛を弔うたもの
   で、墓は地、水、火、風、空を表す五輪の塔で、高さ1.6m、鎌倉時代の
   建設である。市は昭和44年9月20日、この史蹟を文化財に指定した。
               昭和46年12月 小矢部市教育委員会 


[7]服部 明子さんからのコメント(2002年09月22日 22時02分53秒 ) パスワード
  

takahiro さま

ここに埋もれるのは惜しいので
新しくスレッドを立てさせて頂きますね。
[8]takahiroさんからのコメント(2003年07月03日 00時41分56秒 ) パスワード
  

池大納言平頼盛の第2子、「平為盛」は、平家一門の中ではマイナーな存在
ですが、池宮版『平家』(下巻)におき一瞬ですが登場しています。

「(寿永二年五月十二日倶利伽羅峠合戦に)平家軍は、またしても為すところ
 なく敗れた。僅かに伝わる平家の健闘は、一武将として参軍した平為盛の討
 死であった。平為盛は、池大納言頼盛(清盛の弟)の三子、倶利伽羅峠大敗
 の翌朝、残兵五十余騎を集めて義仲軍に果敢な突撃を試み、維盛以下の本営
 の退却を援け、全員壮烈な討死を遂げた。」

また[6]において、平為盛経歴に「蔵人に補される」と記載していましたが、
『蔵人補任』によるとこれは永万元年のことで、おそらく為盛十五歳前後の
初叙任(正六位上)の事であろうと思われます。仕えていた天皇は二条天皇
であり、帝の崩御後は「院判官代」に補されたとあり、当時の「院」とは、
後白河法皇を指すと思われますので、その後暫くは後白河に仕え、後、紀伊
守、加賀守、右兵衛佐(従四位下)を歴任し、上記寿永二年、倶利伽羅峠合
戦にて討死しています。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月03日 01時57分21秒 ) パスワード
  

>維盛以下の本営の退却を援け、全員壮烈な討死を遂げた。

殿軍を務めたのでしたか。
殿軍は「死」覚悟ですから、みごとに務めを果たした、という事になりますね。

また小松家出身の総大将維盛を助けてというところに意味が深いですね。

おもわず涙が零れてしまいました。
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