近藤栄次朗 株式会社 エミ くりらじ
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100237 投稿日:2002年03月03日 16時54分56秒  パスワード
 お名前:たまねこ
先祖を調べています:平家系有明氏
キーワード:惟経
コメントの種類 :その他  パスワード

ある不思議な夢を見て以来、ご先祖様のことが気になってしまいました。この年まで、日本史にも平家物語にも全く興味がなく、迷信や霊的なは一切信じたくなかったのですが、何かどうしても伝えたいことがあるようなので…。わかっているのは、平家一門であったこと、都落ちして西から北上していったことぐらいです。秋田に村を作ったので、その村に行けば家系図もあると父から聞いていたのですが、ホントかいな?という気持ちです。家紋は丸に三つ鱗、姓は有明です。九州出身と勘違いされることが多いけれど、地名ではなく、先祖が歌を詠むのが好きで、百人一首からに付けられた名前だという話も聞いているのですが、これもホントに?と半信半疑です。私の感じるところでは、鎌倉や伊豆、静岡の海岸方面にも縁があったか、住んでいたのではないかと…。どなたかご存知の方、または有明姓の方で不思議な夢を見られた方、いらっしゃったら教えていただけませんか?よろしくお願いします。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年03月03日 23時32分04秒 ) パスワード
  

たまねこさん

初めまして。
タイトルを一部変更させて頂きました。
多分このほうが検索で多くの方に見て頂けると思いますから。

有明でしたら「月」ですね。

なぞなぞがお好きなご先祖さまだったのでしょうね。
「そりちゃんさん」のご先祖さまにそっくり!
それに「鎌倉・伊豆・静岡」なんてまさに「そりちゃんさん」のご先祖さまに似てる!


私の仙台の友人はもとは「青森」の出身だそうで
平家が青森に落ちて行ったご子孫という事でした。
ですから「秋田」というのも同じでしょうね。


「月」には「配所の月を見る」という言葉もありますから
落ハク←漢字が無い!
ラクハクした身分をかこって名付けたのかも知れませんね。
でもせめての襟持に、優雅に「有明姓」を名乗ったのかも。


歌を詠む、身分の高い平家のご出身だったかも、ですね。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 01時01分04秒 ) パスワード
  

>家紋は丸に三つ鱗

鱗は本姓平氏・俗姓北条氏が代表ですね。
北条時政がらみ。
蛇のご加護があるように、ということで他の姓氏でも使用しますけど、

これも謎々じゃないかと思いますね。

平家という素性を出せないから平氏で力を持ってる北条氏の紋を使用?
または、もともと平氏の紋に鱗があって、平家の中にも使用してる人がいて、
北条時政も使用するになった、のかも。

現代から過去を推測するのは難しいですけど
私もたまねこさんのお宅は鎌倉から伊豆・静岡関係の平家だったように思いますね。
想像するのは大庭氏とか伊東氏とかに組みする坂東平氏系の平家。


鱗紋ですと北条時政の影に隠れて本当の事が出難いでしょうね。
本当はもっと前からあったと思います。
日本人は蛇を信仰してますから。
紋として古くからあったと思いますよ。
[3]たまねこさんからのコメント(2002年03月04日 01時11分55秒 ) パスワード
  

服部さん、コメントありがとうございます。
私もふと、月と落ちた身分をかけたのではないかと思ったのですが。
夢に出てきた男性が先祖かどうかはさだかではありませんが、
夢があまりにもリアルで、男性の言葉や立ち振る舞いが脳裏に
焼き付いてしまったものですから。実は、五感以外で感じていることが
たくさんあるのですけれど、それが本当にあったことなのか、
何か証拠がない限り、認めたくないのですよね〜。でも、ここに
来たのも、何かに導かれたからかもしれませんね。
[4]たまねこさんからのコメント(2002年03月04日 01時46分06秒 ) パスワード
  

服部さん、家紋のコメント、ありがとうございます。
関係ありませんが、巳年、蛇使い座のたまねこです。
家紋の件は、ご指摘があったように、北条氏の三つ鱗から
派生したものかと解釈されますが、ひょっとして北条氏より
前から使われていたかも?それも謎の一つです。
古くから、同じ土地に住んでいれば、先祖のことも多少は
わかるはずなのですが、どうも各地を転々とするのが業?
のようでして。私も何度かリハウスしています。
最近気づきましたが、どうやら出生地から、ほぼまっすぐ
南下しているようで、このままいくと鎌倉の海岸あたりに
たどり着いてしまいそうです。この場所に何か深い縁がある
のかもしれません。
[5]さんからのコメント(2002年03月04日 11時17分04秒 ) パスワード
  

たまねこさん、はじめまして。

ご先祖様の情報をお探しとのこと。

私は残念ながら坂東平氏に詳しくないのであまりコメント出来ないのですが、
たまねこさん同様ご先祖探しをしている私としては、共感するものがあります。

オカルトめいたことだけでなく、「証拠」が欲しいというお気持ち、良く分かります。
私の先祖も定住にこだわるタチではないのか、あまり足跡を残してくれず、
未だにはっきりした「証拠」を掴めないでいます。
でも、不思議と「五感以外で感じる」ことは多いんですよね。

私はあまり夢は見ないけれど、自分でも知らないうちに、ご先祖所縁の地を「吸い寄せられる様に」訪ねていることが多いみたいです。
ご先祖様について知っていた筈の親戚もほとんど亡くなったり、消息が分からなくなっているので、
現在は先祖に関係ありそうな土地の図書館に調査(レファレンス)依頼したりして痕跡を探しています。

たまねこさんも、何か有力な情報が得られると良いですね。
ここに来られた方の多くが新たに不思議なご縁の巡り合せを経験していらっしゃるようですので、それに期待します。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 11時27分33秒 ) パスワード
  

>どうも各地を転々とするのが業?
>のようでして。私も何度かリハウスしています。
>最近気づきましたが、どうやら出生地から、ほぼまっすぐ
>南下しているようで、このままいくと鎌倉の海岸あたりに
>たどり着いてしまいそうです。

はぁ〜
昔住んでた所に戻りたいのでしょうかね?

私も彷徨癖があるようで落ち着かない人間です。
いずれ伊賀に住んでみたいとも想ってますし。

う〜ん・・・
[7]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月04日 15時59分04秒 ) パスワード
  

そりちゃんです。たまねこさん、こんにちは。
他人事とは思えなくて思わずカキコミしています。

私も自分のご先祖の事を調べ始めて
はっきりと確信するにいたるまで約一年かかりました。
でも、調べていくと明子さんに以前いわれたの
ですが、本当に情報が飛び込んでくるのですよ。

また、隈さんがいうように知らず知らず
ご先祖に縁の土地に行っていたりするのですよ!

夢にまで現れてくださったのなら、
必ず何か伝えたいことが在るのだと思います。
きっとヒントをおいて下さると思いますよ。

時間はかかると思いますががんばってください!

私もまだ調査続行中の身ですが、今は花粉と
戦っています。
[8]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月04日 16時11分48秒 ) パスワード
  

gooの地図の検索をよく使うのですが、
「有明」とつく地名は
佐賀県杵島郡有明町
長崎県南高来郡有明町
熊本県天草郡有明町
鹿児島県曽於郡有明町
の以上4件のヒットでした。
東北にはない地名なのですね。
ということは、百人一首からとって姓を
なのったという口伝はかなり信頼できるもの
なのではないでしょうか。

勇気を出して本家に連絡をとって
家系図をみせてもらうのが
いいと思いますよ。
うちの本家は家系図を焼失してしまったので
もう調べようもないですから、
残っているのはすごい幸運と思いますよ。
がんばってください!
[9]たまねこさんからのコメント(2002年03月04日 17時31分01秒 ) パスワード
  

隈さん、そりちゃん、初めまして。コメント、ありがとうございます。
この掲示板を偶然みつけて、ひょっとしたら日頃の疑念が晴れるかも
と思って、情報を募らせていただきました。後から、みなさんの投稿を
じっくり読んだのですが、ちょっと出来過ぎだよ!?と思いましたね。
あくまでも五感以外で感じたことなのですが…、自分の先祖は遠い昔、
朝鮮半島?から船に乗って、海を渡ってやって来たらしいのです。
自分は純粋な日本人だと思っていたので、何のことやらと疑っていた
のですが、これは事実でしょうね。しばらくは平和で優雅な暮らしを
していたようなのですが、ある時期を境に隠遁の身になってしまい、
現在に至っているらしいのです。これも事実ですね。ただ、身を隠して
から何百年もの時間が流れているわけですから、その間、何をやって
いたのか考えたら、忍者でもやってたんじゃないの?という気がして
きたんですよ。服部さんは忍者の服部さんですよね?(おかしな表現
でスミマセン)何か、本当にご縁があったかもしれませんね。
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 23時09分52秒 ) パスワード
  

>自分の先祖は遠い昔、朝鮮半島?から船に乗って、海を渡ってやって来たらしいのです。

このあたりは「さちこさん」お得意の古代に栄えた帰化人・秦氏に係わってるかもですね。
スレッド立ててありますので是非ご覧になって下さい。

もし秦氏系でしたら感じることがあるでしょうし。


平家は伊賀・伊勢が本貫地で、伊賀平家は古代豪族・秦氏を受け継いでますから
参考になると思います。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 23時11分21秒 ) パスワード
  

下記です:

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100211_29.html
[12]川口 信さんからのコメント(2002年03月05日 13時26分04秒 ) パスワード
  

たまねこさん、初めまして。
 
 三ツ鱗紋について調べました。
まず、平維将系の北条家が主に、またその氏族関係が使用しています。
 
三ツ鱗紋はもともと鎌倉北条氏の家紋。源頼朝の妻・北条政子の父北条時政が、鎌倉幕府創設のころのある日、江ノ島神社に参篭して一族の繁栄を祈願したら、二十一日目の夜に女性が現れて、「言動が天道にはずれなければ七代続くであろと」、いったかと思うと、たちまち大蛇となって海中に消え、その跡に大きな鱗が三つ落ちていた。そこで北条家の家紋が「三ツ鱗」となったという話が「太平記」に記されております。
[13]川口さんの代理さんからのコメント(2002年03月05日 23時48分34秒 ) パスワード
  

川口さんの書き込みをこちらにも掲載させて頂きますね:


有明姓をGoogleで検索していたら、鎮西八郎為朝の所に来てしまいました。

   http://www.sysken.or.jp/Ushijima/DenHero.htm-6k

で、英雄人物伝説の中に入っていました。
勿論日本語検索です。
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年03月06日 01時06分54秒 ) パスワード
  

上記URLは私のマシンでは出なかったです。
[15]たまねこさんからのコメント(2002年03月06日 01時38分48秒 ) パスワード
  

服部さん、ありがとうございます。川口さんも家紋についての解説、ありがとうございました。大蛇ではなく、龍という説もあるのでは??いずれにせよ、鎌倉には縁がありそうです。昨夜、父がボケる前にと、先祖についてわかる範囲で教えて欲しいと
申しましたところ、「大丈夫か?」と心配されてしまいました。私の見た夢なのですが、海上でたくさんの船が浮かんでいる中、戦さをしているのです。弓矢が振ってくるように飛び交い、バタバタと人が倒れ、修羅場とはこのことかと思いました。夢の主と思われる、鎧を着て鉢巻をした男性は、敵と船に取り囲まれ、思うように身動きが取れません。傍らには、その場に不釣合いなおかっぱ?頭の男の子がいて、その子を取り囲むようにして、背後に何人かの部下がいました。男性と男の子の服装や顔立ちもよく覚えています。もはやこれまでという瞬間、男性が「ここで討ち死にするわけにいかぬ」と言って、降り注ぐ矢を背にして、自分たちの船を何とか必死に漕ぎ出すのでした。海岸にたくさんの首や屍、船や鎧の木片が打ち上げられて、それを海で暮らしている人たち?が、慣れた手付きで黙々と片付けていく場面もありました。物語はまだ続いたのですが、私は男性が後ろの部下にではなく、正面を向いて言葉を発した、その時の何ともやり切れない心情が忘れられなかったのです。最後の砦を守るため、戦場を去らなければならなかった無力感と、結局、お家再興は果たせなかったという無念さ。それがきっかけで、先祖について知りたいと思うようになったのです。それを父に話したところ、「平家物語にそんな話があったな。あれは作り物だ。そんなもの信じるのか?」と、蟹の話までされてしまいました。恐縮なのですが、平家物語は興味がなかったので、学校で習ったくらいです。父も高齢ですし、家系を知る手掛かりの人物は、みんな亡くなっているとのですが、秋田県の大曲に祖父の実家があり、そこに有明姓の人が多く住む村があるとのことでした。「もとは天皇に仕えていた身だとかいろいろ言い伝えがあるけど、昔のことだから」と興味なしでした。ついでに「秋田で忍者やってなかった?」と聞いてみましたが、呆れ果てて返事がありませんでした。名前については「どういうわけか、シャチハタにないんだよな」で終わりました…。こういうことって、身内の方が全然関心ないんですよね。私もそうでしたけど。みなさんの場合、どうですか?
[16]服部 明子さんからのコメント(2002年03月06日 02時46分41秒 ) パスワード
  

たまねこさん

我が家の父も同じですよ。
私の父は先祖に全く関心無し。
どうやら伊賀に行って何にも感じなかったそうで。何度も出掛けたそうですが。
ですから「たまねこ」さんのお父さまと同じですよ。

姉も弟も先祖には関心無し。
母の方はちゃんと家書があるので出が分かってる。私は84代目。


私の青森出身の友人やそりちゃんさん達のご先祖とご一緒に東北地方の落ちて行った
ようですね。
途中で青森に・福島に・秋田にと分かれたようですね。


おかっぱの男の子の近くにいた武将はどなたでしょうね?
代表的な人物は知盛さまか家長か
はたまた宗盛どのか?
平家物語や源平盛衰記をお読みになると特定出来るかも。


機会がありましたら下関の赤間神宮に是非いらっしゃって下さい。
凄い所ですよ。
私は行くまでお宮さんの1つにしか思ってませんでした。
平家の7盛塚に是非お参り下さい。
でも早めにどうぞ。
面白半分の観光客の来る前に。
[17]さんからのコメント(2002年03月06日 10時23分22秒 ) パスワード
  

>こういうことって、身内の方が全然関心ないんですよね。私もそうでしたけど。
>みなさんの場合、どうですか?

同じく、私の両親も、主人もほとんど興味なしです。
だからあんまりしつこくご先祖の事を訊くとうるさがられてしまいそうで、なかなか訊きづらいですね。

特に私の主人は歴史にも全く興味が無いようで、
私のしていることを「専業主婦のくだらん趣味」ぐらいにしか思っていない節が・・・(泣)
唯一、弟は少し話に興味を持って聞いてくれますが。
身内に協力者がいないのはキツイですね。


しかし、ご先祖様のリアルな夢を見れるなんていいですねぇ。
私の夢にご先祖様はなかなか現れてくれませんから、羨ましいです。
[18]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月06日 12時24分32秒 ) パスワード
  

いやー、皆さんもそうなのですね。
私も同じですよ。
父は調べてみろ、というだけで自分は動いてくれないし、
主人にはまたへんな事調べてるよ、といわれるし。

>しかし、ご先祖様のリアルな夢をみられるなんていいですねぇ。
本当に羨ましいです〜!
私も夢に見たことはありませんもの。

でも、調べていくと意外な協力者が得られたりするのですよね。
私は明子さんや隈さん・源三さん・皇竹さん・さちこさんにとても
助けていただきましたし、図書館の司書さん、本家のある土地の
役場の方にもとてもご協力していただけました。

そういう「想い」がきっと繋がっていくのではないかと思います。

今度寛文時代の宗門人別改帳がそのような縁で
手に入ることになり、もうワクワクです。

でも、この喜びを分かち合う人がファミリーにほしいですねぇ・・・

[19]服部 明子さんからのコメント(2002年03月06日 12時41分59秒 ) パスワード
  

多分ご先祖さまも
「子孫に知って欲しい人」と「もうどうでもいいや」と諦めのご先祖さまがいらっしゃる
のではありませんかねぇ?

その両者が一致しない事には向こうから来てくれないと思うのです。


そりちゃんさん:

>今度寛文時代の宗門人別改帳がそのような縁で
>手に入ることになり、もうワクワクです。

凄いですね。
こういうのって普通見せたりするものじゃないので
矢張り「そりちゃんさん」の熱意が通ったのでしょうね。
ご先祖さまもにこにこしてらっしゃるのではないでしょうか。
[20]源三さんからのコメント(2002年03月07日 01時32分15秒 ) パスワード
  

有明さんはじめまして、源三といいます。
早速ですが僕が思ったことは有明さんの先祖は和歌を嗜む大変風流な方
だったそうですが、「小倉百人一首」や「古今和歌集」など当時の
和歌集の著述に「有明」が出てくる和歌を抜粋してその言葉を和歌につかって
おられる作者を抽出してメモに取るなどするのもいいと思います。
やはり自分の和歌に「有明」の言葉を使う方はその言葉に思いいれがある
お方だと思います。その言葉を頻繁に使っている方の中にひっそりと静かに
有明さんの御先祖様がいるかもしれませんね。
有明の言葉は必ず「有明の月」という使い方するから、早朝のおぼろげな月が
好きな方だったのでしょうね。勝手なことを書いてすいません。なんとなく
気になり書き込ませていただきました。

それとそりちゃんさん今晩は、その後の御先祖調査はいかがでしょうか?
また僕の方でも何かあれば調べ見ておきますね。では・・・。
[21]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月07日 11時04分37秒 ) パスワード
  

たまねこさんへ

私も源三さんと同意見です。
ネットで検索したところ、数人の方が「有明」を使った
句を詠んでいましたよ。
もしかしたら、その人の一族か家族かまたは弟子であったとか
(お坊さんらしきかたも見受けられました)。
でも、本当にすばらしく風流なご先祖さまだったのですね〜。

源三さんへ
病のご回復お喜び申し上げます。
でもまだ早く休まれたほうがいいですよ。
(深夜のカキコミなので驚きました)
さて、私の調査のほうは本家の在る町の町史編纂委員会の
方に問い合わせて本を注文したときに、実は・・・
と先祖調査の話をしたところ、希望があれば注文した本
以外に使われている古文書の写しをお送りしますよ、と
おっしゃってくださり、先のカキコミにも載せましたが
寛文時代の人別帳の写しを送っていただけることに
成った次第です。
いつでも声をかけてくださいと快くおっしゃってくださり、
とても嬉しいです。
人別帳は上杉氏領時代のものなのですが、たぶん名前ぐらいは
のっているのでは、と信じているのですが。
もし、それに記載があれば過去帳の調査も進むのですよ〜。
なぜかというと、本家の叔父から送ってもらった過去帳の写しは
たぶん家長だった人もしくは成人(元服)した男子のほかは
妻・娘・子のような記載しかなく、誰某の娘とあればまだ
いいのですが、ただ娘としかない方が多く、戒名でしか
判断できないのです。
そして、よくわからないのが戒名に尼・比丘尼・法師と
ある方たちです。単純にお寺に出家した方と考えていいものか。
また、それとは別に○○寺第○世閑居とある方もおります。

戒名の勉強をしないといけないですね。

注文した本は近代の資料編なので古文書を徹底的に調べて
みようと。元禄時代の村絵地図つきなのですよ。うふふ。
でも、この本を購入したのはもちろん主人には内緒です。



[22]たまねこさんからのコメント(2002年03月07日 18時33分09秒 ) パスワード
  

みなさん、こんにちは。源三さん、初めまして。やはり、みなさんも、他の御家族は家系について、全く興味を示されていない御様子なのですね。先代も少しでも関心があれば、詳細な記録を残したでしょうし、私たちの代になって四苦八苦しながら調べなくても済むのですけれどね。姉は当てにならないので、弟に調べるよう頼んでいます。父曰く、だいぶ昔から秋田県大曲が本拠地で、有明姓は最近つけられたとか、改名したとかではなく、源平時代からじゃないかと。武道をやっておりますので、武士が先祖、ぐらいにしか思っていませんでしたけれど。
源三さんとそりちゃんのおっしゃるように「有明」と詠まれた歌をピックアップしてみました。たくさんの方が詠まれていますね。小さい頃、父から名前の話を聞いた時「歌を詠むのが好きな、偉い人からいただいた名前なのかな?」という印象を受けました。源三さんのおっしゃったような、風情のある意味合いなのかなと思っていました。でも最近は、名前に秘密?が隠されているような気がして。例えば、自分を月に見立てて、「自分たちはここにいるというのに、夜=世が明けていく」と落ちた身分と世を儚んで付けたとか。でも、そんなに高貴な方が御先祖様なわけない!ですよね。だから、調べようと思ったのです。有明海で鼻歌を歌いながら、ハゼを釣っていた猟師と判明したりして(苦笑)
夢の続きなのですが、船から下りた後、大きな川のある内陸部?でしょうか、「私たちは、ここで」と確か2人の部下と別れたのです。安堵感に満ちたにこやかな様子で別れました。その後も、何人かと途中で別れましたが、男性と男の子と何人かの者はさらに北に向かって進みました。この中に、そりちゃんたちの御先祖もいたりして??季節は戦さの時より暖かくうららかな陽気でした。最初にたどり着いたのが岩手らしいのですが…そんな話は聞いたこともないし。もっとも、この夢だって、私が見ただけですから。東北にも、九州にも一度も行ったことがないし、どこに何があるのか、場所がわからないのです。まず、日本地図が必要ですね。
先入観を持たないように、ある程度の事実がわかってから、平家物語を読もうと思っていましたが、似たような物語がありますか?そろそろ読んでみたいです。つい先日、神様にお仕えしている方に、相談に乗っていただきました。これも不思議なご縁で、お会いした方なのですが、今まで私が感じたもの全部がその方の感じたものと一致して、ビックリしちゃいました。こんなことってあるのか?と思いましたけど、やはり、私を今まで守ってくれた方?の中に、私がいつも感じていた位の高かった男性もいました。頭、おかしいのかな?と自分でもずーっと誰にも言わずに暮らしてたんですが「これからは助けてくれる者が現れる。次の段階に進んで、今まで以上に、関わった者たちを助けてやれるよう精進しなさい」って、最近言われてたんです。このことかって思いましたね。うちは無宗教で、現実しか信じない潔癖で厳格な家庭でしたから…これからは、自分の力を信じてみようかなと。因みに、私の役目は先祖の供養ではなくて(これは、充分されているそうです)、「自分たちのために散っていった者たちを慰めて欲しい」と。だから、「自分たち」って誰なの?って思って、調べてます。ハッキリした証拠がないと。
実は、夢の中で、男性と男の子と部下の一部はあれだけの矢が降ってきたのに無傷で、矢を避けることもしなかったのです。なぜ、無傷だったのかなぁ?と不思議に思ったところ、「神通力」という言葉が返ってきたんですよ。ではなぜ、その神通力で敵を倒せなかったのかな〜と思うと、「多勢に無勢は兵力だけではなかった。自分たちの身を守るのが精一杯だった」と。戦さがあると、呪術師?のような人たちも集まって、敵を倒そうと呪い?をかけるみたいなんです。それも戦術の一つだったとか。
後で、神主さんに「昔はそんなことやってたんですか?」と尋ねたら、本当にやっていたとおっしゃってました。
私が忍者との関連を疑っているのは、「神通力」という言葉です。今でいう超能力のことなんじゃないですか?どんな力かよくわかりませんが、運動神経だけでなく、一般の人より優れた何らかの能力があって、これを持った者やその子孫が忍者になったとか?例えば、危険を予知できるとか、敵を見抜けるとか、そういう能力が戦術に使われたなんてこと、ないでしょうかね??忍者の始まりって、いつ頃なのですか?
服部さんのおっしゃった下関の赤間神宮にも行ってみたいです。伊勢神宮にも何かありそう。
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年03月07日 23時41分47秒 ) パスワード
  

岩手ですか・・・

やっぱり東北が出て来ますね。
今では「平田さん」が「秋田」をお書きになってますね。


たまねこさんは「忍者」に引っ掛かるようですが
日本の忍者の始まりは聖徳太子のパトロンだった秦川勝が率いる帰化人集団で
その次に有名な所では平家の服部家長になります。この子孫が服部半蔵という訳です。
どっちにしろ伊賀平家がらみですね。
今は忍者=伊賀の服部になってますね。
もとは大陸からもたらされた技術だったのでしょうけど。よその忍者さん、ごめんなさい!


やっぱりたまねこさんも「帰化人・秦氏」や「伊賀」が引っ掛かってきますか。
ということは昔は伊賀にも関係ありだったのかしら?
坂東平氏が伊勢・伊賀に移って忍術を見て驚いてた?


「調伏」というのは今は知りませんがつい最近迄やってたと思いますね。
1番有名なところでは鎌倉時代の「蒙古来襲」の時の調伏だと思いますね。
「怨敵退散!」なんて呪文を唱えていたようですよ。
この時は天皇以下日本中のお寺や神社が「調伏」をやってた事になってます。


でも「供養をして欲しい」とおっしゃってるのではないということで安心しました。
供養はしっかりしてもらっている、なんていいですね。


>「自分たちのために散っていった者たちを慰めて欲しい」と。

非常に「平家的」ですね。
家族を大事にし、一族を大切にし、一門を大切にし、
自分達の為に散って行った者達にまで心を及ぼしている。
感動的です!
そういう名も無いような人々が忘れられているのが耐えられないとおっしゃってるようですね。


あの武将はどなたでしょうね?
北へ逃げた平家で私が知ってるのは服部家次とかいう人物で落人伝説があります。
でも群馬の山の中止まりです。
宇都宮氏を頼って行って断わられたのです。

それで私は平家の落人の落ち着き先は群馬止まりだったのですが
友人が青森の落人の子孫なので目から鱗だったのです。
今は目から鱗がポロポロ落ち続けている状態です。

もっともっと平家の落人の方の出現があるといいですね。
[24]川口 信さんからのコメント(2002年03月08日 11時27分05秒 ) パスワード
  

 「秋田県立博物館研究報告」という文書があります。それの第25号の文書中に有明姓を使用している人物がありました。

 有明雅弘さんと言う方です。下記アドレスです。一度博物館に問い合わせて「有明さん」に連絡してもらってはいかがでしょうか。

 http://www.akita-c.ed.jp/~hakubutu/activity/study/kenpo.htm

です。多分繋がると思いますが、度々他のスレッドで失敗しているので、駄目だったら「秋田県 研究報告」で検索してください。

[25]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月08日 11時42分57秒 ) パスワード
  

たまねこさん、こんにちは。
夢のお話を読まさせていただきました。
すごく、胸が熱くなりました。なんだか、泣きたいような
嬉しいような妙な気分です。

戦闘の後、生き延びて穏やかに主人から別れていく部下の
心情を思うと、本当になんともいえません。

そして、たまねこさんのご先祖さまの一門を思う気持ちにも
驚きと感動を覚えました。

私がこのように感じるのは、我が家が一族の主を守るために
働いていた伊藤の一族だからなのでしょうかね。
本当にいいお話を教えていただいてありがとうございました。

さて、東北で平家の落人伝説の残る地は
もっとあるのかもしれませんが、私が調べたときには
青森県黒石市大川原
   十和田湖付近
岩手県岩手郡雫石町
宮城県仙台市太白区坪沼
   柴田郡村田町
山形県新潟との県堺・三面山地
   米沢市中津川部落
   仁田沢
   西村山郡朝日村
福島県南会津郡檜枝岐村
   枝折峠

の以上でした。
でも、この他にもあると思われます。それに子孫ものちに
東北でかなり活躍してますし。葛西氏とか相馬氏とか。
伊達家も出自を藤原氏といっておりますが、私は常陸出身の
伊佐氏がもとなので、本当は平氏系だと思っています。
たぶん、頼朝の手前はばかったのかな〜と。
[26]服部 明子さんからのコメント(2002年03月08日 13時07分25秒 ) パスワード
  

Oh,my God! でしたよ!
>「秋田県立博物館研究報告」という文書があります。
>それの第25号の文書中に有明姓を使用している人物がありました。

秋田の有明氏がちょっと姿を現わしましたね。
たまねこさん、是非お問い合わせを!


そりちゃんさん
東北にも結構たくさん平家の落人村があったのですねぇ。
すべて私には初耳でした。
ありがとうございました。


どういう経緯で落ちて行ったのでしょうかねえ・・・
もともと何らかの引っ張り合いがあったと思うのですけどね。
どこかを、何かを頼って落ちて行ったと思ってます。
平家は日本全国の半分を領していましたから。
[27]たまねこさんからのコメント(2002年03月09日 01時23分47秒 ) パスワード
  

服部さん、川口さん、そりちゃん、貴重な情報を提供していただいて、本当に
ありがとうございます。感激です!後でさっそく調べてみます。相変わらず、
身内は非協力的で、誰も相手にしてくれません。墓参りにも行かない奴が、
先祖の話を口にするなんて、気は確かか?と思われているようです。
夢の中で、別れていった人々は、縁故を頼りに、各地に散って行きました。
生まれ故郷だとか、親戚・知人がいるといった具合に。昔の人の年齢って
パッと見ても正確にわからないと思いますが、男性は40ちょっと過ぎか、
或いはもっと若くて30過ぎ、顔立ちは目鼻立ちがハッキリした、今で言う
ソース顔(死語?)でした。髪は長いままオールバック?で、白の鉢巻してました。全体的に薄暗かったので、鮮明には見えなかったのですが、鉢巻や鎧には
紋章や飾りなども入っていたと思います。あたり一面に、幟のようなものが
散らばっていました。男の子は5〜8歳で、一重瞼で色白のぽっちゃりした
丸顔の子で、明るい青の着物を着ていました。顔立ちが全然違うので、親子には見えなかったのですが、一体、どんな間柄だったのか…?敵を背にして、船を
漕ぎ出したところで、女性の声で「どうしてもわかっていただきたいことがあります。私たちは誤って解釈されていますが…」という内容の訴え?が聞こえてきたのですが、高波のものすごい音にかき消されて聞き取れなかったのです。最後の「岩手に
たどり着きました」という言い回し?だけがハッキリ聞こえたのですけど…
ここから、秋田、青森に分かれていった可能性は充分ありますよね?途中で栃木、
群馬にも寄ったのかなぁと。当時の北関東や東北は、どんな場所だったのでしょうね?隠れ住むにはちょうどいい場所だったのでしょうか?当時の平家は、西日本に
追いやられていて、東日本の僻地に潜んでいた方が安全だったとか?

[28]たまねこさんからのコメント(2002年03月09日 02時46分11秒 ) パスワード
  

パソコンでいろいろ検索してみました。調伏を検索していたのですが、
偶然、川口さんがおっしゃった鎮西八郎為朝が「病の調伏と弓の使い手」
で出てきました。どこのホームページかと思ったら、ゲゲッ、実家のある
古河市でした。こんなことって、あるの?って感じです。
[29]たまねこさんからのコメント(2002年03月12日 00時37分08秒 ) パスワード
  

身内が、誰も協力してくれないので、なかなか先に進めません。
秋田に祖父の実家があったというので、それを頼りに調べるしかないのですが。
有明姓は、日本人の苗字姓氏事典に載っていないのですね。絶対、中国人じゃないんですけど。そんなに珍しい名前ではないと思っていたのに。以前住んでいたマンションの上階に住んでいたりとか、偶然、公共施設で名前を呼ばれているのを耳にしたり
とか、親戚かどうかは定かではないけれど、なぜか、有明姓の人に出会っていたものですから…変だな、この名前、抹殺されちゃったの?って気にもなってきました。
ミツウロコの家紋も気になるので、由来を調べてみたいと思います。

それと、全然、関係ないことなのですが、横浜市青葉区の驚(おどろき)神社の宮司
の服部さんと服部さんは、御親戚ではないですよね?
[30]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月12日 16時56分18秒 ) パスワード
  

たまねこさん、こんにちは。
有明姓は姓氏辞典にのっていないのですか。反田という私の姓はのっていても
「出自不明。石見に存す。」でした(泣)。でもあきらめずにがんばって!

私の場合は「山梨県に多いらしい」という情報を得たことで開けました。
有明姓も秋田には多いのかもしれませんよ。電話帳で(たいへんですが)
拾い出してみるとか、あと一部県別の姓氏家系大辞典もでているので、そちらの
方がより詳しい情報を得ることができると思います。

ご本家のある土地の町史を読んでみるのも参考になると思います。県立図書館だと
依頼すれば内容を検索して探してくれて、コピーして送ってくれたりもできますよ
(有料ですが)。

ある程度調べて、具体的なことがわかった段階でご家族に披露というか、報告して
みては?私も親戚に家系図を送るまで約一年近くかかりましたが、「調査」した
「証拠」というか、きちんとしたものをみると皆それまでは笑って聞くだけでしたが
少しいろいろ話したりできるようになりましたよ。本家の叔父もそれを見たので
重い腰をあげてくれたようですし。

また、戸籍でも明治初期までさかのぼれます。自分の戸籍のコピー・郵便小為替で
住民票の代金分・返送用封筒と申請用紙をおくれば、遠方でも住民票をとれるの
ですよ。
申請用紙には
本籍地(戸籍をとりたい人の住所)
筆頭者名(戸籍をとりたい人の名前)
申請者の住所・氏名(印)・電話番号
筆頭者との関係(孫・曾孫など)
謄本・抄本の区別(これは謄本で。家族すべての記載があるもの、と但書してました)
使用目的(私は墓碑新設のため調査、と書いてました。ごめんなさい)
必要枚数

とりあえず、自分の住民票をとることからですね。戸籍にもいろいろな情報が
載っていますよ。古くなればなるほど。自分からみて六代前まではとれますが、
たとえば父の兄弟の分はとれません。ですが、私はさきに書いたように
墓碑新設という理由で請求していたので、役場の方のご配慮で祖父の兄弟の
分まですべていただけました。「先祖調査」という理由ではなかには発行して
もらえないこともあると聞いたので、そのように書いてました。

時間と少しお金もかかりますが、気長に調べてみてください。
わたしもまた同姓アンケートをしようと準備中です。

うしろの(?)ご先祖さまにもよろしくお伝えください。

余談ですが私の読んでいる家紋の本に掲載されていたのですが、
平家の家紋は動物紋がおおいが他の一族とくらべてそれは非常に珍しいことで
ある、と。蝶・蟹・三鱗(蛇・龍)・蜻蛉(とんぼ)・鳩・馬とありますが、
動物には霊を宿らせる力があると昔は考えられていたそうで、平家の霊はこれら
動物体に宿り回天の気を待っており、その信仰の根本は妙見菩薩からきていると
ありました。
また鱗紋は「魚鱗」ではなく「竜鱗」で北条鱗は高さの低い二等辺三角形三個、
一門支流は正三角形を主に用いるとありました。霊異の強い印で一種の呪紋と
いってよいとありましたよ。
二等辺三角形と正三角形・・・微妙ですね。
[31]服部 明子さんからのコメント(2002年03月13日 14時03分48秒 ) パスワード
  

私の場合は「先祖の800年忌」を利用しました。
同族全てに連絡が取りたいから、と。


有明姓の方には今まで1度もお合いした事は無かったのですけど
これからは気を付けておきますね。
珍しいから、多分ご同族でいらしゃるかも、ですから。
[32]川口 信さんからのコメント(2002年03月13日 16時40分22秒 ) パスワード
  

 他のスレッドのことで検索していたら、偶然「平家物語和歌一覧」(覚一本)のなかに「ありあけ・・・」と歌った和歌がありました。作者名が書かれていないのでちょっと分からないですが。

   http://www.j-text.com/heike/hwaka.html

です。

 今度暇な時、現地調査(秋田県)をお勧めします。捜査の基本は足です。何か刑事じみてきましたが、きっと手ががりをつかめると思います。現代は恵まれています。私なんか時代が違うので、歴史読本の読者欄に投稿したりしてもずいぶん貴重な情報が入ってきました。もっと早くインターネットが出来ていればずいぶん助かったのにと思っています。

[33]服部 明子さんからのコメント(2002年03月13日 23時53分53秒 ) パスワード
  

「ありあけの月」で始まる歌ですか・・・

ふっと思ったのは「忠度」なんですけどね。

一の谷の合戦当時「明石」にいたのでしょうかね?その時の人?

この歌を詠んだ人だったらいいですね。
[34]たまねこさんからのコメント(2002年03月14日 01時37分11秒 ) パスワード
  

みなさん、貴重なご意見と情報、ありがとうございました。
川口さんのおっしゃるように、捜査の基本は足!ですね。まずは、図書館などに出向いてみます。兼盛は「有明…」と歌っていませんか?ちょっと気になりました。
実は、母の旧姓は松尾なのですが、祖父が「平田」家の子で、平田が亡くなったから再婚して松尾になったという話を、母が突然言い出してから、ますます「祟られてる」と勘違いされてしまって…。深入りしたくない!と協力を拒絶されてしまいました。そんなんじゃ、ないんだって〜。実家は茨城なので、秋田もそう遠くはないだろうし、現地調査も同行してもらえるかと考えたが、甘かった。家族に総スカンにあってしまいました。悲しい。私が見たのは、先祖ではなく、前世だったのかなぁ。(似たような負け戦さの夢、他にも見ているし)。秋田の大曲図書館に有明姓で、「秋田県近代農業史年表」という著書があったので、古くから住んでおられる方がいるのはわかりました。親戚なのは確かでしょうね。うちの家族のような反応をされると困るので、間接的に調べていった方が無難でしょうね。
大曲を中心に、郷土史などを読めば、ヒントが得られるかもしれないですね。

そりちゃんへ
県別の姓氏家大辞典があるのですか。それに載っていれば、手間が省けるのですが。本屋で手に入るのでしょうか?それと、三つ鱗についての情報、ありがとうございます。とても参考になりました。北条氏はひしゃげた三角形ですが、うちは正方形。一門支流というのですか。北条氏の三角の方が先に使われたのでしょうか。家紋を調べたら、三つ鱗のある家紋は北条氏の家紋から派生したものとあったのですが、どういう形で派生していったのか、興味があるのです。因みに、ミツウロコのマークは、お尋ねしたところ、鮮魚を扱っていた三つの運送店が由来なのだとか。てっきり、家紋からきているものかと思っていたのに、目から鱗でした。
[35]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月14日 14時06分24秒 ) パスワード
  

たまねこさん、こんにちは。ご家族の反応悲しいですね(TT)。
でも、地道にこつこつと調べていかれたらいいと思います。

県別の姓氏家系大辞典についてですが、角川から(角川書店ではないですが、
角川の関係のところから発刊されていたと思います)でていて、たしか
発刊されている県とされていない県とありました。例えば私は宮城県の
姓をしらべたのですが、千葉版を司書さ聞いたら「ない」といわれました。
千葉県なのに。でも、秋田版があるといいですね、というのも県別の
姓氏辞典には姓の紹介とともに、「○郡の○○家は藤原氏の出自で初代
○○からはじまり・・・」と、詳細な同姓の各お宅の紹介がされているのです。
とても参考になりますよ〜。

それか、もしかしたら県で作成した「姓氏」関連の本があるかもしれないですし、
あせらないでゆっくり&ご家族に変に心配されない程度にがんばってください。

>ミツウロコのマークは、お尋ねしたところ、鮮魚を扱っていた三つの
 運送店が由来なのだとか。

ええー、そうなのですか。運送店の名称はわかりますか?
よかったら教えてください。
[36]服部 明子さんからのコメント(2002年03月15日 00時05分37秒 ) パスワード
  

「松尾」姓と「平田」姓ですか・・・・


単純にビックリしています。
だって「松尾」姓と言ったら松尾大社にしても松尾芭蕉にしても

松尾大社は帰化人の「秦」さん関係の1つであり
松尾芭蕉は伊賀の忍者の一族の1つであります。
それも確か松尾芭蕉は大山田系なので「平田」関係ですよ!それも「百地」関係?!


はぁ〜

伊賀平家系のようですね????
たまねこさんが「忍者」にこだわるのを(どうして?)なんて思ってましたが
これで「忍者」がかなり係わってるというのが分かって来ましたね。
[37]たまねこさんからのコメント(2002年03月15日 01時19分09秒 ) パスワード
  

服部さん、こんばんは。
忠度ですか。薩摩の守。うーむ。文武両道で歌好きなんて、自分の感性に訴えてくるものがあります。でも、広島出身の母の「平田」姓を聞いて、海岸で片付け物してた漁民も先祖だったのか?と…

そりちゃん、こんばんは。
ミツウロコの三つの運送店は、高崎市の「水谷」「矢島」「梶山」です。昔は魚が唯一の蛋白源で、取り扱いが特別だったため、鮮魚運搬専門の運送会社を設立したそうです。
すいません、話がだいぶそれてしまいました。

そりちゃんが、ご先祖様を辿っていこうと思い立ったきっかけは何ですか?もしよろしかったら、教えてください。
[38]服部 明子さんからのコメント(2002年03月15日 08時45分37秒 ) パスワード
  

広島というのは「安芸国」ですから
それこそ清盛に直接関係します。

安芸国厳島神社はそれこそ平家の守り神ですから
平家の落人がラクハクして漁師になったのは当然でしょうし。

もともと平家は海に強くて泳ぎも達者で海に生きるのは非常に自然です。
それに安芸国には景清が埋蔵したという平家のお宝があるそうですし。

状況証拠は集まりますね。
[39]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月15日 13時11分44秒 ) パスワード
  

たまねこさん、だいぶしぼれてきましたね。
伊賀平家系でなにか詳しくわかるといいですね。
ところで、宮城県には重盛の孫・新蔵人長基と平貞能が落ち延びてきたと
いう言い伝えがあるそうです。

http://www.akiu.miyagi-fsci.or.jp/

私は幼い頃から父に「うちは平家だったらしい」とか父の母の実家は
昔は3万石の殿様で、世が世なら祖母はお姫様だった、とか
聞かされて育ちました。考古学とか興味がもともとあったので
おもしろいなぁ、と思う程度だったのですが、自分に子供ができてから
そういえば、そんなこと聞いてたけど実際はどうなのかな、とふと
疑問に思ったのが始まりですかね。
聞いてみたら、家には家紋がない、といわれて、そんなことないだろうと
思っていろいろ調べ始めたのですよ。結局家紋はあったのですが、後に
作られた紋で、もともとの家紋はわかりません。祖父の話では
子供の頃に見たそうなのですが祖父も故人となっており、誰もしらない
状態です。たぶん、もっと早くにきちんと調べればわかったと思うの
ですが、残念です。
現在は母方の祖母のみ存命で、その家については祖母に話を聞いたりして
ある程度わかりましたが、あとの3件(母方の祖父の家・父方の祖父と
祖母の家)については詳しくはわかりません。
きちんとわかったら、子供に話してやりたいのですよ。
それが、一番の目的かもしれないですね。

たまねこさんんも、ご先祖の記憶なのかご自分の前世の記憶かは
わかりませんが、そういう力があるというのは意味があると思うので
あせらずがんばってください。

ちなみに私はいま出羽信仰とお坊さんにすごくひっかかっています。
なにかご先祖と関係があるとおもっています。
[40]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月15日 13時13分52秒 ) パスワード
  

すみません、さきほどのリンクは「時の旅人」の「歴史伝説」を
ご参照ください。
[41]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月15日 13時18分44秒 ) パスワード
  

またまた、すみません。
検索してみたら県別の姓氏家系辞典は東北では
岩手と宮城しかまだ発刊されていませんでした。
[42]服部 明子さんからのコメント(2002年03月16日 12時52分19秒 ) パスワード
  

見て来ました。

貞能が宇都宮氏を頼って落ちて行ったのは「平家物語」に書かれていて
その後、どこへやら転居した話もどこかで聞いたことがあります。

貞能は重盛家の家老でしたから
主家の子孫を守ったというのは合理的に理解出来ます。


>父の母の実家は昔は3万石の殿様で、世が世なら祖母はお姫様だった、とか

例えば「伊藤氏」でも大垣3万石だか4万石の城持ちだったのが
関ヶ原で三成に味方したと解釈されて城を失っています。
それから徳川時代はやたらと改易とかお取り潰しが行なわれて
随分身分を失った方がいらっしゃいます。

こういうのをきちんと子孫に伝えてくれればいいのに
なかなかそういう家はないようで
惜しいですね。

時代が後になればなるほど調べるのが難しくなりますから。

今は出羽に関心があるのですか???
お寺さんも特定出来るといいですね。
頑張って古文書と戦って下さい。
[43]たまねこさんからのコメント(2002年03月17日 03時51分37秒 ) パスワード
  

服部さん、そりちゃん、こんばんは。
そうでしたか。やはり、半分は忍者?でしたか。実は、母の実家なんですが、その昔、朝鮮に渡って事業をやっておりました。結構、裕福だったらしいのですが、日本の敗戦のおかげで、財産は略奪、没収され、命からがら船に乗って広島に帰ったそうです。ですから、原爆には遭っていないのですが、何か、因縁めいたものを感じますね。母は先祖については、「海があるから猟師でもやっていたんじゃないの?」程度にしか思っていませんけれど。

貞能は都落ちに反対して、宇都宮氏が預かるというくだりがありますよね。北関東あたりに、子孫がいっぱいいるのでは?うちの場合、祖父が秋田から東京に上京して、たまたま父は私が生まれる前に、縁もゆかりもない古河市にやって来て、今に至っているわけですが、何か、あの土地にも呼ばれたんじゃないかという気がしてきましたね。小学生の時、平将門の話ばかりする先生がいたのを思い出します。全然、聞いてませんでしたけど。現在、私は横浜に住んでいますが、このまま南下すると鎌倉?だとすると、あの辺りで斬首された一族に会いに行けってことですかね。ブルブルッ。

そういえば、「呪紋」を検索していたら、ゲーム関係のサイトに行ってしまったのですよ。ところが、管理人さんが”有明三國”さんという方だったので、これはと思い、「御本名ですか?」とメールを出したのですが…きっと、不幸の手紙を受け取ったと思われたかも。芸名にするほどオシャレな名前だとは思えないのですが…

そりちゃんは、お子さんのためにも、ご自分の家系をはっきりさせたいのですね。そうですよね。子孫に語り継がれるような、素晴らしい物語が隠されているかもしれませんから。何とか解明して、お子さんにお話しできるようになるといいですね!
私の知っている”有明”の家は、晩婚或いは独り者、或いは私のように結婚しても子孫を作っていない人が多いです。先祖や子孫ばかりか、親戚も興味なしって感じの家ですよ。無宗教ですし。だから、家系を遡って調べるような人間が、自分と同世代ではいないと思います。「調べて欲しい」「協力する」と言ってくれているのは、もう、あの世に逝った人ぐらいじゃないかなぁと。私が知りたいのは、言い伝えではない事実なので、千年近く前の出来事に遡ると、どれだけ正確に調査できるのか…

とりあえず、本屋に立ち寄ってみたのですが、姓名辞典はありませんでした。人名辞典ならありましたが。これはお取り寄せですか。図書館にも行ってみます。多分、この名前の出自は出ていないと思いますが…出てたら、苦労しないですよね!

[44]源三さんからのコメント(2002年03月17日 10時28分57秒 ) パスワード
  

作家に有明夏男さんという方を発見しました。
引き続き気に留めて捜しておきますね。
相模発祥の豊後大友氏も平貞能の血筋で子孫です
初代の大友能直の母は秀郷流の波多野経家の三女と
なっていますが実は養女で実の父が平貞能です。
彼は宇都宮朝綱の縁で源頼朝に罪を許され彼の四人
の娘はそれぞれ関東御家人の鎌倉武士にそれぞれ
預けられたそうです。有明さんも宇都宮氏や平貞能
周辺から当たることは賢明だと思います。直接的で
はないにしろ周辺こぼれ話など間接的に関わっている
かもしれませんね。では・・・。
[45]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月17日 13時15分19秒 ) パスワード
  

突然お邪魔。

> 北アルプス連山を背にそびえる有明山”信濃富士”のふもとに位置
http://www4.ocn.ne.jp/~kougen-a/ari_toku.htm
当時,「鐘の鳴る丘」のモデルとなり,30年間時を刻んだ時計台の木造の旧建物は,地元 穂高町により,約600メートル離れた地に移築・復元され,「鐘の鳴る丘集会場」という,やはり 青少年の合宿訓練施設となって活用されています。
http://www4.ocn.ne.jp/~kougen-a/image/kyutyou22.jpg
http://www4.ocn.ne.jp/~kougen-a/ari_en.htm
> 明治時代,長野市鶴賀という場所に建て られていた木造3階建ての建物を,
> 大正8年「有明温泉」(穂高町有明宮城)が買い取って
> 温泉宿とする ため移築したのが,第1回目
http://www4.ocn.ne.jp/~kougen-a/ari_ta.htm
------------------
from 有明高原寮 http://www4.ocn.ne.jp/~kougen-a/
 長野県南安曇郡穂高町有明7299 TEL 0263-83-2204

[46]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月17日 13時53分05秒 ) パスワード
  

余談ですがこの「鐘の鳴る丘」のモデル、
岩手県江刺市 岩谷堂(羊羹と箪笥が有名)の明治記念館(旧共立病院)
http://www.ja-iwate.or.jp/group/camera/0110/image/04.jpg
http://www.iwate-tabi.or.jp/shousai/s3043_04.html
もそう呼ばれています。
ここら辺は奥州藤原の里ですね。(平泉町)
義経伝説 http://www.st.rim.or.jp/~success/yositune.htm
の義経最期の地とも言われる
高館義経堂 http://village.infoweb.ne.jp/~fwne0999/gikeidou.htm
もあります。 
[47]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月17日 14時04分59秒 ) パスワード
  

あらら、また岩屋と有明で「有明山」がひっかかった。
-------------
from 朝日新聞 asahi.com http://www.asahi.com/ 続日本百名山
http://www.asahi.com/nature/meizan/z02/outline3.html
> 旧記によれば、この山の開かれたのは大同二年(八〇七年)
> 天鈿女命(あめのうずめのみこと)の垂迹(すいじゃく)の地として
> 戸放大権現を祀ったという。
[48]服部 明子さんからのコメント(2002年03月17日 15時33分27秒 ) パスワード
  

江刺は私の母方の先祖が承久の変で負けて流され没した所で
私の日本の家具は「岩屋堂」の箪笥で揃えてあるのですが
なんか好きなのです。
好きな理由は木の色と木目の「暗さ」なんですけどね。あとは金具細工かしら。


良く分かりませんでしたけど
まさか先祖の墓参りに水沢江刺駅で降りるなんてビックリしました。
岩屋堂の箪笥のショールームが最初に目に入りましたから。印象として。

さらに「通りすがりさん」が江刺をお書きになって
なにか見えない糸で繋がってるというのを感じます。


将門でしたら
93年かそれ以前、母方先祖関係で竜ヶ崎の江戸崎に行って
そこから将門ゆかりの地を回りましたけど
この時は何にも感じませんでしたが

99年の春に上総国国分寺跡に行った時は将門の息吹きを感じて恐かったです。
将門が上総国を馬で蹂躙した感じがして
私が当時そこに住んでた気がして(国分寺の東に我が家の田んぼがあった気がした)


将門という人物には私はこだわりがあったのです。
気の毒な人という印象が最初にあって
気の毒な人にしたのが私の先祖だったのか、とショックで
私の先祖って結構ワルだったのだな、と。

今で表現すると、遺産相続で違法をする親戚とか、保険金殺人をする犯罪者、って感じ。

平 将門といったら日本史上のワルの1人だけど
私の先祖の方が本物のワルだったのじゃないか、と。

たまねこさんが、平 将門を感じるというの、私と全く同じです。
私の場合は「申し訳ない」という謝罪の感情を持ってるという事でしょうね。
でも貞盛に対しては何にも感じないのですよ。ワルだったと思う以外は。

将門が怒るのは当然で、だから馬で蹂躙に来て、私の一族も殺されるかも、
と思ったPTSD(心の傷)が1050年も経って再び起きた感じでした。


悪いのは我が家なのにという申し訳無さ
だけど怒った将門に自分が殺されるかも知れないと感じた恐怖
それらを経験して私は将門から解放された気がしてます。


岩井とかいう場所に日本で1番恐ろしい場所があるって言いません?
国王神社だったか将門を祀った神社。
その森に入った者は生きて出て来られないとかいう伝説があるとか。
[49]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月17日 18時43分40秒 ) パスワード
  

いやー、どーも私の検索マシンは「山」ばかり拾ってきます。
この長野県の「有明山」別名、信濃富士、有明富士といって
例の日中合作ドラマ「大地の子」で残留孤児の主人公が
子供の頃の記憶から「富士山」「子守唄」で自分のルーツを思い出す場面
覚えてますか?そー、それがその「信濃富士」なんです。
「有明天蚕紬」はこの有明の地名からきています。
又、近くに平家の隠し湯「古坂温泉」(生坂村)や屋敷温泉(栄村)があります。
  
で、実は北海道「北大雪」や長崎県にも「有明山」はありますねえ。

Keywordは私の感想としては 平家、義経、有明の月(叉は君)でしょーか?
以下を丹念に見られると或いはヒントが....。

 (平熱)肥前・筑後の平家落人伝説、他
http://bbs.c-studio.net/heike/100130.html

 天草本平家物語
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/am_heike.htm

 佐賀藩の科学技術 1/from 吉田 幸男さん
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/rekishi/1takeo.htm

 船弁慶
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/dc4/setsuinu/funabennkasi.htm
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/utahi/text/yo238.txt

 義経見参
> 世をそむく こころばかりは 有明の つきせぬ闇は 君にはるけむ
http://www.st.rim.or.jp/~success/saigyou6.html

 序章一 もののふの道
http://www02.u-page.so-net.ne.jp/rb3/masa-n/heikepre.html

 「建礼門院右京大夫集」の上巻
http://www.twinklemoon.com/heike/kenrei01.html

 水原一「『とはずがたり』の虚構性をめぐって→有明の阿闍梨
http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/just-mizuhara-hajime-kyokousei.htm

 科目「古典」長恨歌の比較文学的取り扱いへ→『和漢朗詠集』巻下 恋
http://www.sapporo-c.ed.jp/shinkawa-h/evening/hosoda/koku2.html

 石野のHP/有 名 古 典 あ ら す じ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yochicaz/tendoku.htm

最後にこの「お宝」の暗示でわ?
●野根七郎の埋蔵金/安芸郡東洋町
> 「朝日さし夕日輝く征木のもとに小判千両有明の月」
http://www.bekkoame.ne.jp/~m1911a1/treasure/tyu_shi.htm
[50]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月17日 19時13分35秒 ) パスワード
  

秋田、東北へ誘導するんですがどーも中部地方へ戻ってしまう、我が検索マシン
山中温泉は石川県です。

from おくの細道/江口聡さん
http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~eguchi/pdd/okuno.html
> 山中
> 温泉に浴す。其功有明に次と 云。
> 山中や菊はたおらぬ湯の匂
> あるじとする物は久米之助とて いまだ小童也。かれが父誹諧を 好み、
> 洛の貞室若輩のむかし 爰に来りし比、風雅に辱し められて、
> 洛に帰て貞徳の門人 となつて世にしらる。
> 功名の 後、此一村判詞の料を請ずと 云。今更むかし語とはなりぬ。
[52]服部 明子さんからのコメント(2002年03月17日 23時43分45秒 ) パスワード
  

さすが「いつもさん」通りの情報量!
凄いですね。
ありがとうございます。


>近くに平家の隠し湯「古坂温泉」(生坂村)や屋敷温泉(栄村)があります

有明+平家=???
途中で長野で分かれたのでしょうかね?

これは貴重な情報ですよ>たまねこさん
もしかすると秋田で得られない情報が長野で拾えるかも。
なんか、泣けません?
どういう事情だったか、一族の1部が「長野でもういいや」と脱落?

なにか事情があったかも、と思います。
[53]たまねこさんからのコメント(2002年03月18日 21時04分43秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。貴重なコメントや情報をお寄せいただき、何と感謝してよいやら。
源三さんのおっしゃった作家の「有明夏夫」は本名なんでしょうかね。前々から名前だけは知っていましたが、著書を読んだことがない…。宇都宮氏や貞能も当たってみます。

いつも通り@すがりさん、貴重な情報をたくさんお寄せいただき、ありがとうございました!私の頭の中にあるキーワードは「有明の月」「家紋の鱗」「神」「紫、朱色の衣」、なぜか「義経」と「藤原氏」です。いつも通り@すがりさん、何だかスゴイですね。それと”タダ”が付く名前も気になるのです。

有明という地名は九州から東北までありますね。信州の有明山や天草地方も引っかかったことがあるのですが、全国的にある名前なので、そう古くはない地名だろうと思って、詳しくは調べていませんでした。もっと調べてみます。
そういえば、平家落人伝説のある岩手県雫石町は、秋田県大曲市に近かったですね。

もとは九州地方に住んでいて、どんどん北上していったと考えれば、日本全国にゆかりの地があっても、おかしくはないですよね?東北だけでなく、信州、新潟、中部地方にも散らばって行ったのではないかと、今のところ推測しています。藤原氏の縁があって、隠れ住んでいた土地だとか…当時の政治情勢がわからないので、何とも言えませんが。東北地方で月の名前が付いた地名があれば、それも気になる…

服部さん、将門にPTSDがありましたか。怨念、強そうですものね〜。思い起こせば、その昔、大手町で働いていたことがあります。首塚が近くにありました。…調べてみたところ、他にもいくつか、都内の将門伝説のある神社の近くで働いていたことがわかりました。偶然にしては、ちょっと多すぎる。岩井の國王神社って、そんなに怖い所なのですか?生きて帰って来れないなんて、ひぇ〜。




[54]いつも通り@すがりさんからのコメント(2002年03月19日 01時19分25秒 ) パスワード
  

> 平家落人伝説のある岩手県雫石町
ここに[51]のKeywordの玄武(洞)があるのは有名ですね。
http://www.do-map.net/m.htm?E=OZyR1L_7oHu
葛根田(かっこんだ)川の上流に国の天然記念物柱状節理の断崖です。
数年前地震により残念ながら崩落してしまいました。

ここは秋田県の県境ですのでひょっとすると...。
この秋田側裏手は秘境の温泉宿、乳頭温泉郷です。
ただ、紫波地区は蝦夷地の勢力だったかも、勿論落ち延びるには格好の場所かも

しかし、この秋田、山形、岩手、平安時代より続く祭や踊りが多いです。
秋田県雄勝郡羽後町には義経郎党 鈴木三郎家重の末裔の秋田で最も古い
鈴木家住宅があります。苗字帯刀を許された家柄
雄勝郡雄勝町は小野小町の出身地です。ここいら辺はマタギ部落が多いです。
[55]たまねこさんからのコメント(2002年03月21日 03時19分56秒 ) パスワード
  

いつも通り@すがりさん、雫石町の情報、ありがとうございました。
『奥の細道』に出てくる山中温泉の話、じーんときました。父親が俳諧を好んでいるというのも、いい感触。松尾芭蕉というのが、何とも言えない。
落ちていく過程で、信州、東北、北陸の温泉町に住みつくようになったのでしょうか。

『埋蔵金』は絶対にあり得ませんよ〜。そんなお告げでもあったらいいですけど、逆に「金より大切なものがある」と説教されそうです。

『とはずがたり』に登場する、エロ高僧”有明の月”は性助法親王で、実在の人物なのですね。歌人でもあったなんて、そんな…。夢に出てきたのは、この人ではないのは確かです。でも、親戚ということも有り得る?うーむ。

『もののふの道』でピンときましたが、「有明の月も明石の…」という忠盛の詠んだ歌は、特別な思い入れがあったようですね。平家にとって、名誉な歌だったのでしょうか。

余談ですが、姉の近所に「有明の煎餅」という店があるそうで、ひょっとしたらと思って、聞いてみたところ、”ありあけのハーバー”がカッコ良くて付けてみたって…
せっかく、煎餅買ったのにと愚痴ってました。父も言っておりましたが、都内に住んでいた頃、親戚でもない有明さんが近所に住んでいたとか。生粋の朝鮮人とか、全く別の家系でもあるんでしょうかね?
[56]服部 明子さんからのコメント(2002年03月21日 14時33分58秒 ) パスワード
  

名古屋に「尾張」さんという
古代日本の地名となった古代大豪族の「尾張」さん一族がいらっしゃいますが

私の友人で「尾張」さんという方がいらっしゃるのですが
この方は「最近」そういう姓になった尾張さんなんですって。
元は「張」さんという半島出身の方です。

なるほどね。


名字は難しいですね。
でも「松尾芭蕉」が出て来て
あらあら、と思ってます。


芭蕉だって泊まる先が俳句仲間だけとは限りませんものね。
昔の先祖ゆかりの方の家に泊まったという事もあるでしょうしね。
そう考えたら、松尾芭蕉が「奥の細道」したのは、どういう意味だったのかな?と。

元が忍者だったのですから忍者仲間の家を尋ねて情報を得ていたのかしら?と。
幕府の為に情報収集したとして、真相に近い情報を得るには昔のお仲間がいいですよね。


思わぬところで思わぬ発見をしました。
[57]たまねこさんからのコメント(2002年03月22日 01時27分19秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。

> 山中
> 温泉に浴す。其功有明に次と 云。
山中温泉を調べてみたところ、「有明」ではなく、「有馬」の誤りとありました。
http://www.com.mie-u.ac.jp/~hama/study46.html

松尾芭蕉は、旅をしながら情報収集活動を続けていたのでしょうか?その時代、旅は唯一の情報の受け渡し手段だったでしょうから。

ところで、三種の神器のうち、剣は見つからなかったのですよね?生き残って、逃げる時に持って行ったのではないかと… 替え玉となって、身代わりに亡くなられた方々も、たくさんいらっしゃるはずです。気の毒でなりません。

「尾張」さんは、張さんだったということもあるのですか。なるほど。
私が勝手に推測してみたのですが、九州出身の「有明」さんは、もとは海賊か猟師で、有明海から名前を取ったとか、横浜辺りの「有明」さんは半島出身者とか… 
しかし、苗字って、思い立ったら、勝手に付けたり改名したりできるものなのでしょうか??

私のご先祖様は、やはり、東北に落ちて、信州、中部地方にも分かれていったのではないかと思います。いかにして、生き延びたのか、知りたいです。ハローページで、まずは東北から名前を調べていって、全国分布図を作ってみるしかないですね。



[58]服部 明子さんからのコメント(2002年03月22日 02時38分04秒 ) パスワード
  

>いかにして、生き延びたのか、知りたいです。

そうですよね。
だからたまねこさんが存在してるのですから。


>ハローページで、まずは東北から名前を調べていって、全国分布図を作ってみるしかないですね。

珍しい名字ですから電話帳でかなり調べられると思いますよ。
そこから平家の落人伝説のある家庭を絞ればいい。

どこで別れたか、それも分かって来ると思います。


矢張り電話帳集めからでしょうね。
1番最初に集めるのは秋田県大曲ですよ〜
ここの皆さんにお手紙送付からですね。
そして必ず分かった事をお知らせして上げて下さいね。


芭蕉の「奥の細道」に馬の尿する納屋で1泊した俳句がありますよね。
私はここの家のオヤジさんを怪しいとにらんでいるのです。
だって芭蕉のような有名な俳句の先生よ!それに幕府のお仕事もしてる。お金ならあるわけです。
そんな人がいくら泊まる所が無くても馬と一緒に寝たなんて。

風流だけど

そこに隠されてるのは何か?!
なんて勘繰りたい。

俳句愛好者の集まりだと言えば疑われないし
奥州で本当は一体何をしてたのだろう?と。
[59]いつも通りさんからのコメント(2002年03月22日 06時04分45秒 ) パスワード
  

> 矢張り電話帳集めからでしょうね。
> 1番最初に集めるのは秋田県大曲ですよ〜
確かに。秋田県大曲市で「有明」さんを検索しますと20件以上ありますね。
他の都市ではそうでもありません。

これは、NTTのエンゼルライン http://www.ntt-west.co.jp/angel/
を利用して調べます。こちらでソフトをインストールした上で
PCにモデムと電話線が必要です。

プライバシーの関係上検索対象が20件を超えると
「お調べの名義では特定できません」と言ってきます。
そこで、更に細かい住所を絞り込んで検索します。
[60]たまねこさんからのコメント(2002年03月25日 00時36分52秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。エンゼルラインがありましたか〜。そのようなものがあるだろうと思いましたが、すでに姉が図書館に出向いて、全国の電話帳で調べてくれました。一日粘って「半分しか調べられなかった」と申しておりましたが、もう半分!ありふれた名前でなくて、良かったかも。80件あったそうです。
北から調べて、北海道7件、秋田市14件、大曲市25件、盛岡と長野に1件ずつ、岐阜はなしで、福島や関西にもぼちぼちいるといった感じです。仕事があるので、また来週、北陸から調べるとのことです。張り切っていたので、エンゼルラインの事は内緒にしておきます?! 

北海道は意外でしたが、有明旅館というのもあったと言うので、ちょっと期待できそう。やはり、秋田ですね。こんなに出てきて、感動ものだと申しておりました。今のところ、秋田が本拠地のようなので、地名からとられた名前とは考えにくいですが、九州にこの名前の方がいるかどうかもポイントですね。

松尾芭蕉は、何だか怪しい人ですよね。ひょっとして、俳句の中にも、暗号めいたものが隠されていたりして。
[61]服部 明子さんからのコメント(2002年03月25日 01時24分03秒 ) パスワード
  

お姉さまには内緒が原則ですよ。
だって一生懸命やって下さってるんですもの。

さすがに秋田大曲でしたね。
ここの有明家ホンヤさんという方を捜して
コンタクトですね。


名字が珍しくて良かったですね。
(^^)
[62]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月25日 18時25分19秒 ) パスワード
  

よかったですね!発見できるとうれしいですよね〜。

とりあえず、東北だけでもわかれば、次は同姓アンケートですね!
がんばってください!私が「反田」姓のかたにしたときは二分の一の
確立で返事がいただけました。たぶん、皆同じ疑問を持っていると
思いますよ。「自分達はどこからきたのだろう」って。

もしかしたら、子孫の団結を考えてご先祖はわざと珍しい姓に
したのかしら?苦労もかなりありますが。(TT)

お姉さんが協力してくれて良かったですね!!
きっとだんだん「和」ができていきますよ。

私ものんびりしていたらもう4月。まだアンケートのお返事を
だしていないのですよ(汗)。ごめんなさい、山梨県の反田さん!
はやく、ご返送します!
[63]川口 信さんからのコメント(2002年03月25日 20時07分46秒 ) パスワード
  

みなさん、こんにわ、こんばんはの方が多いみたいですね。
 そりちゃん、初めまして、色々のところで活躍を拝見させてもらっています。

 同姓にあたるのが一番ですが。違った観点から調べました。
 「有明」とは月が残ったまま夜が明けること(古語辞典)
「有明の月」とは残月のこと。
有明姓を調べるなら、キーポイントは月、明と家紋の三つ鱗。

そこでいくら調べても北条氏以外使用した家が見つからない。

北条家関係の寺はパトロンの紋(三つ鱗)を使用している。鎌倉の建長寺、円覚寺、伊豆の祐宗寺、早雲寺派の寺など、その他多数あり。
 秩父三十四ヶ所めぐりの寺は観音信仰なので本尊は観音さま。だが宗派は一様でない。臨済宗の小林寺、西善寺、円融寺、宝雲寺等はそれぞれ、三つ鱗、亀甲うち三つ鱗、三つ鱗、平形三つ鱗を使用している。これらの寺は北条氏の縁による。
 また月・明を使用した北条氏では北条時頼が法名最明寺入道、関係の寺では明月院、浄光明寺などがあり、その他住職で月が入った名前を持った人が多数見出せる。北条家で子孫が不明とか、分からない家が多くある。この点から調べては。浅学のためぜんぜん方向が違っていたらご容赦ください。


[64]いつも通りさんからのコメント(2002年03月25日 20時30分59秒 ) パスワード
  

yahoo検索で 大曲 有明 だけで619ヒットします。http://google.yahoo.co.jp/bin/query?p=%c2%e7%b6%ca%a1%a1%cd%ad%cc%c0&hc=0&hs=0
こりゃー、大曲が本命に違いないですね。上記を丹念に見てみてください。
[65]そりちゃんさんからのコメント(2002年03月25日 23時39分12秒 ) パスワード
  

川口さん、こんばんは。
活躍というほど学がないので、恥ずかしいです。
そうですね、ちがう視点から考えてみるのも大切ですよね。
私も地名辞典や漢和辞典等で調べてみて、意外なことに
気づかされたりしました。

ちなみに姓は「音読み」ほど歴史が新しいそうです。
日本は古来大和言葉だったので、独特の言い回しが
ありますよね。その中で、「音読み」する文字は
比較的新しく造られたものだそうですよ。
新しいといっても、明治の帯名令のときではなく、
戦国期より古いそうなのですが。

たまねこさんは、無宗教とおっしゃっていましたが、
お葬式などは普通にしますよね?(お父様の実家ですとか、
お母様の実家ですとか。)そうすれば、必ずどこかに
菩提寺があり、お寺に過去帳も残っていると思いますよ。
神社で弔ったとしても、やはり記録があると思います。
そちらも調べてみてはいかがでしょうか?
うまくすると、1600年ぐらいまでは遡れると
思います。
[66]川口 信さんからのコメント(2002年03月26日 12時20分59秒 ) パスワード
  

 [63]追加:種子島氏は北条氏と同じ家紋。

 平安時代末期に種子島は伊佐平氏と思われる見和(現名)有光が1221年に御家人として守護所から安堵され、在地支配していた。

 平清盛のひ孫にあたる時信が始まりといわれ、時信は平家滅亡の後、北条時政の養子となり種子島ほか南海12島を与えられたという。

 北条氏族の岡野家は江戸幕府の旗本として記載が9家ありますが、家紋は7家が酸漿で、2家が三つ鱗を使用している。同じ氏族の平野、江間家も三つ鱗。
[67]たまねこさんからのコメント(2002年03月27日 02時49分48秒 ) パスワード
  

みなさん、こんぱんは。いつも貴重なご意見や情報を頂き、ありがとうございます。

いつも通り@すがりさん、「大曲、有明」はなかなか見所があって面白いです。全部見るのには、時間が掛かりそうですが。祖父が大曲出身で、父も子供の頃、里帰りしたことがあると申しておりましたので、ここは親戚に間違いないです。秋田県だけで44件ありました。検索をしていくと、塾をやっていたり、病院、呉服屋などを営んでいるのが伺えますね。アンケートを各家庭に郵送したら、一斉に怪しまれるに違いないので、まず、どこの家をあたればいいのか探ってみます。きっと、家系について、いろいろ調べている方もいるだろうと思いますので。

そりちゃんはアンケート調査をして、回収率50%ありましたか。結構、返事がいただけるものなのですね。

川口さんの家紋のお話、とても参考になりました。以前、家紋から、江間氏などの関係も考えたのですが、どうもわからなくて… 鱗紋自体は、北条氏が有名ですが、古代から使われていたらしいですね。うちの場合、言い伝えが本当だとすると、鎌倉時代から東北に潜んでいたということになるので、当時の鎌倉の北条氏とはどのような関係だったのか?? 江戸時代に勝手に話を作って、名前と家紋も作っちゃったなんて話が出てきたら、ショックで一週間寝込みそうです。とりあえず、大曲の家とコンタクトをとりたいと思います。

[68]川口 信さんからのコメント(2002年03月27日 13時21分09秒 ) パスワード
  

 将門関係で検索していたら、大曲の近くにありました。

 朱雀天皇のころ、天慶の乱(939年)に破れた平将門の一族は奥州に逃れ離散し、仏門に入ったり、深山に潜んだり、或いは行方知れずになった者がいたと言われている。

 平将門の姫「滝夜叉姫」は五人の家来に守られ、奥州の田沢湖町の近く「中生保内」に住まいし、村人の祖先になったと。(大曲仙北の歴史)より

 名前は替えたけど氏族の象徴である家紋は残して子孫に伝えようとしたのではないかと思えてならないのですが。(北条の方に誘導しているつもりはないのですが)

 また不思議な事に大曲に伊豆山神社があります。
伊豆山神社と言えば源頼朝と北条政子がここで逢い引きし、想いをとげたところから、縁結びの神様と知られている。なぜ?かな。本家は熱海市の近くなのに。
[69]服部 明子さんからのコメント(2002年03月27日 13時42分51秒 ) パスワード
  

平 将門の一族が逃げたかも、というのは考えていませんでしたが、当然でしょうね。


現在こそ家紋は勝手に変えられますが
(それどころかレンタルでヨソさんの家紋の着物を堂々着てる時代)

江戸時代は名字も家紋も勝手に変えたり出来なかったようですよ。
我が家の(母方)の家系書によれば
河野姓に戻るのが許されたのは幕末40年ほど前です。1820年代。
家紋の方はとうとう許されなかったようです。

ですから、たまねこさんのお宅の家紋がいつ使用開始になったか分かるといいですね。
明治以降でしたら江戸時代には秘密にしてた紋でしょうし。
こういう事が分かるといいですね。


私は「有明家のホンヤさんを捜しています」と最初にハッキリさせた方がいいと思いますよ。
そして
お宅さまのお家に伝わるお話を聞かせてください、と。

返信用の切手を貼った封筒を同封すればお返事はかなりので来ると思います。


で、だいたいホンヤさんというのが分かったら、
「有明姓の皆さんがお宅さまがホンヤさんだとおっしゃってるので」と
お手紙で改めて問い合わせたら良いんじゃないかと思います。

頑張ってね!
[70]たまねこさんからのコメント(2002年04月02日 02時08分06秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
秋田県の歴史について、いろいろ調べてみました。
直接、家系に関係ありそうなものは、?でしたが…

平家が滅亡したとされた後には、頼朝の勢力が拡大し、奥州合戦によって、平泉藤原氏が滅亡すると、関東武士団が東北各地を与えられ、地頭として支配するようになったのですね。
合戦が終結した頃、頼朝の家臣的立場であった「大河兼任の大反乱」が起こり、これも鎮圧されたわけですが、何故、大河兼任は頼朝に反抗したのでしょうね?

それと、あの地方では熊野信仰の修験道がさかんに行われていたことにも、引っ掛かるものがありました。

川口さんがおっしゃったように、大曲には伊豆山神社がありますが、由緒について調べたいのに、祭りしか出て来ない。名前の由来は鎌倉時代なんでしょうか?熱海や伊豆方面が好きなので、よく出掛けるのですが、あの辺の地名が秋田のどこかにあるとしたら、鎌倉時代の名残なのでしょうか?

あとですね、何だか気になったものが、大曲の「鹿島流し」という行事です。
http://www.obako.or.jp/kyokus1/dreams/What `s%20kasima.htm

それと、もう一つ、川口さんも気づいてしまいましたか。
私が父から聞いた言葉は(代々伝わっている言い回しでは)「昔は天皇に仕える身であったが、都落ちして、南から北上して秋田に住みついた」なのですが、何ゆえ、ご先祖様はあのような場所に落ちて行ったのか、一番最初に考えたのが、秋田に平家ゆかりの地があるのではないかということです。
将門の娘、滝夜叉の墓が秋田にあるので、ひょっとすると…と最初に考えたのですが、村人の祖先だったという話はビックリ、ちょっと怖いくらい。

実は私、蛙が好きなので、何か関係あるだろうと思って、蛙を祭っている神社とかお寺とか、名所を探していたのです。伊勢の二見興玉神社に行ってみたい!とか、その程度の収穫しかありませんでしたが。
蝦蟇から連想するもの「忍者」「妖術」「ガマの油」等も考えておりました。先祖は忍者ではなかったけれど、そのような術や儀式を執り行っていた、或いは山伏をやっていたとか…。

人名についても本で調べてみましたが、手掛かりなしでした。
因みに、作家の「有明夏夫」氏はペンネームで、本名は斎藤さん。大阪出身です。
呪紋の検索で偶然見つけた「有明三國」さんも関西人で、ハンドルネームだそうです。芸名にするほどのものかと…
日本人は8〜9割が地名を姓にする傾向があり、それは土地の支配者を周囲に示すためだということはわかりましたが、残りの1〜2割は何なんでしょうね?職業の他に考えられるものは?気まぐれで付けたとか?

九州地方の有明という地名は、全て有明海沿岸が由来で、長野県の有明山は早くに明けたという意味の「新開」が由来でした。

さて、こうなると、やはり大曲が曲者に違いないということがハッキリしましたので、何とか本家に行き当たらなければ…「墓参りさせて下さい!」という口実は、ちょっと気味悪いですかね?話がわかる方がいると、助かるのですが…
[71]服部 明子さんからのコメント(2002年04月02日 09時17分24秒 ) パスワード
  

蛙=ガマ=筑波山=坂東平氏???なんて連想を考えましたが・・・
なにかその内に繋がりそうですね。


さて「大河兼任」おおかわかねとうについてですが
大河姓は1つに秋田県大河郷、
津軽説、米代川流域説などあるそうです。
秋田県と書いてあるのを見た時ちょっとゾッとしましたよ。

1189年の奥州合戦の後に
従来の権益を鎌倉に制約された事とか
主人泰衡の仇を討つとかで
反乱を起こしたそうです。

初めは調子良く奥州と出羽を手中に納めて快進撃を続けたものの
木樵に斧で殺されたそうで

でも行動の早さと反乱の広がりは幕府を驚愕させたそうです。
[72]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年04月02日 16時30分19秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年04月02日 20時26分46秒
[73]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年04月02日 22時00分28秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年04月05日 09時43分51秒
[74]服部 明子さんからのコメント(2002年04月02日 22時38分08秒 ) パスワード
  

後鳥羽上皇が歌を詠んでいらっしゃるのですか。
そうしますと重仁親王がらみという事も繋がって来ますね。

いよいよ謎ですね。
[75]いつも通りさんからのコメント(2002年04月02日 22時55分11秒 ) パスワード
  

> 高麗郡は続日本紀によると霊亀2年(716年)に
> 駿河の国など7か国に在住していた朝鮮の帰化人約1,800名
> を移して置かれたという。

埼玉県日高市高麗(西武鉄道池袋線)
http://www.do-map.net/emmctl.htm?ENC=Z7h7iYaoDgOivUQxlqpVmzKIvMCNHRVs7iHWKCreWqNL%2FXHcE2UD1vloPT%2BLzI1zSD3TpKg5qnO3ZYq91fSzdekl7i8mj7VdMmwsVV3AbSTobEm%2B0rbBFIL4XPvQo9tu4gZZp3SHeJg4omf4VCnvrCJssPYv4U6GW6QE%2FpfGPcdx%2Fk6ZWRRnD6ctNiLDPaFpMAgkRmqcKMlI4ZexIo1muNFL4vnv%2FObDsn5JHczwIvLsOrT%2BIEM1EGHwKYS6gdhSauuOmGl%2BxaN3RHNYzaYQlz%2BUA6ddiTvR
とか
東京都狛江市
http://www.do-map.net/efactl.htm?ENC=fJ85WCWxbQUs5j3Gw6hNC6SiHDI7SsVn1Pln2Y2jsTj8jPJxRMDqXnmbjq3p6gxsC%2FmkpS8KY8w%3D
等はそーだと聞きました。
[76]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年04月02日 23時16分46秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年04月05日 09時45分36秒
[77]たまねこさんからのコメント(2002年04月04日 02時52分25秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。迷える子羊さん、初めまして。長野の「有明」情報、とても
参考になりました。
武田源氏の忠臣に、「反田」さんと共にいるのですか?後で調べてみます。

ところで、長野は熊が出る土地ですか?私の比較的新しい記憶?では、山菜でも採ってたのでしょうか、森林(山?)で、大きな黒い熊に遭遇し、勇敢な犬が立ち向かって行くのです。鉄砲を持っていなかったから、マタギではないと思いましたが。

もう一つ、年代がもっと遡るのですが、自分が生まれ育ったような平野で、戦闘のための馬を繁殖して調教している、若い弓の名手の記憶…「もはや、これまで」という瞬間に身を呈して助けてくれた「愛犬」や「愛馬」に対する気持ちが、夢で見た船上の合戦を後にする時の、自分たちの為に犠牲になった者たちへの断腸の思いと重なってくるのです。自責の念ですか。きっと、直接手を下すことはなくても、酷いことをしてきたんだと思いますよ。調べていくうちに、ハッキリわかってきました。

七世紀後半に、百済、高句麗が滅びて、多くの両国人が渡来して来たので、朝廷は
坂東の各地に移送して、農業に従事させたということですね。716年には、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野に居住の高麗人を武蔵国に再配置して、高麗郡を設けた。これは植民地政策の一環ですね。
船で渡ってきた自分の祖先は、もっと古い時代、人口密度が低くて、のどかな感じのする土地に住んでいたような気がします。もっと平和で、のんびりと時が流れて行くような…

さらに、相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野の六国の「富民千戸」(土豪、有力農民)が政府によって強制的に陸奥に移住させられ、前線の柵に配置されたという記録からして、坂東の民はひどい仕打ちを受けていたことがわかります。

陸奥、出羽には坂東人が常備兵力として充当されたので、その人口不足を補うために、俘囚(蝦夷の捕虜)が集団的に配置されたわけですが、それが将門が武夫(つわもの)を率いて反乱を起こす下地になっているのですね。東北とも縁が深いわけです。
朝廷に対する不満が貧富の差だけでなく、暴力と権力による横行を蔓延らせ…恐ろしいことです。

「将門記」には伴類の舎宅五百余家を焼き払った事が書かれていますが、これが、私の記憶にしばしば出てくる(しかも、ここ一番の冬の冷え込みという日でも、異常に熱さを感じます)、放火された家々なんじゃないかと思った時は、何とも言い難い気分になりました。

当初、平家落人伝説はインチキが多いだろうし、あれは僻地や過疎の同族を強固に結びつけるためのお伽話だと思っていましたし、まして、伝説の地でない地方に、何故
あのような話が出てくるのだろうと、不審に思って調査を始めたわけですが…きっと誰かが、あれはこういう作り話だよと言ってくれるのを待っていたのですよね。今は、ようやく、作り話ではないという確信が持てました。
ただ、これは、みなさんが思っている以上に、複雑な展開になると思います。血が血を呼んで、さらに濃くなっていく感じがします。近いうちに、現地調査もしたいと思っています。





[78]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年04月04日 08時42分39秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年04月05日 09時44分27秒
[79]たまねこさんからのコメント(2002年04月06日 17時47分46秒 ) パスワード
  

みなさん、こんにちは。
先ほど、姉から全国の「有明」姓・電話帳調査の報告がありましたので、お知らせしておきます。(しばらく連絡がなかったので、エンゼルラインの存在を知ってしまい、立腹なのかと冷や冷やしました。この後、手作業でデータ入力して送ってくるという…)

・北海道9 ・岩手1 ・秋田44 ・宮城2 ・福島1 
・新潟1 ・長野1 ・福井9 
・栃木1 ・群馬1 ・茨城1(実家です) ・埼玉6
・東京20 ・千葉1 ・神奈川6
・愛知2 ・兵庫3 ・大阪6 
・岡山1 ・愛媛4 ・香川8 ・徳島3

以上の結果が出ました。九州は0件でした。北海道には、有明町があったと思いますが、九州の有明海絡みの名前はなさそうですね。

全国にこれだけしかいない(電話帳未登録者が多数いるでしょうが)ということは、
全員同族の可能性は大きいですよね?
因みに、東京を中心とした関東地方に、ちらほらと件数があるのは、祖父が秋田から上京して居を構えましたので、その近親者です。

何だか、最近すっかりハマってしまった家系の謎。以前は全く興味のなかった平家物語、その他の古典も興味が沸いて、面白くなってしまいました。
今後は「東北・曲者伝説調査隊」でも結成しようかという話も…まだ、ないです。(会員が集まりそうにないので)

田沢湖の「たつこ姫」の伝説も怪しいですね。名前が似ていたので、一瞬、私のことかしら?と思いましたが、田沢湖の水を飲み干した記憶はない!ので、違います。
将門の三女・滝夜叉が田沢湖周辺の村人の祖先だったとしたら、この「たつこ」も子孫なんでしょうか?とてもおかしな伝説です。家紋の三つ鱗と関係あったりして?

http://www.ne.jp/asahi/odoru/nami/akita/tatsuko.html
[80]服部 明子さんからのコメント(2002年04月06日 23時01分38秒 ) パスワード
  

九州に有明海がらみの姓さえ無いというのが実に不思議でした。
佐賀や熊本にはゴロゴロしてるのかと思ってましたけど。。。
普通だったら臨海地区の人が名乗るでしょうに。


>将門の三女・滝夜叉が田沢湖周辺の村人の祖先だったとしたら、
>この「たつこ」も子孫なんでしょうか?とてもおかしな伝説です。
>家紋の三つ鱗と関係あったりして?

いよいよ面白くなりましたね。
有明氏は桓武天皇子孫でも平家(伊勢平氏)ではなく坂東平氏の流れだったのかしら?
そうすると三つ鱗紋もいよいよ説得力が出て来ますね。


将門の子孫らしくなって来ましたね。
[81]たまねこさんからのコメント(2002年04月07日 03時18分39秒 ) パスワード
  

緊急報告です!

名前の由来がハッキリわかりました。「明石」と詠まれた歌から来ています。
前に、「有明の月も 明石の浦風に…」という歌のことが話題になりましたが、念のため、他にも似たような歌を御存知の方、教えてください。やはり、歌を詠むのが好きだったようですね。

実は、先ほどまで、姉と「調査報告会」を開いて、情報交換していたいたのですが、御先祖様が来るわ、来るわで、すっかり「交霊会」?になってしまいました。
姉も私も、御先祖探しにすっかりハマってしまって、来週は図書館で勉強会だ!などと張り切っていたのですが、それを制止するように、「今は自分の婚家が大変な時だから(本当にそうなんです!)、私たちよりもそちらの力になりなさい。調べてくれるのは、有り難いけれど、時間があったら、自分たちのために使いなさい」と。
いろいろなことをしてきたらしいですが、調べられたら不都合なことや迷惑なことはないそうなので、安心しました。今後の調査計画も細かく尋ねられました。電話帳で調べたことをどうするのか?等。

それから、私たち姉妹以外にも、昔からの御縁が深い方々が、これを読んでいらっしゃると思いますので、この場をお借りしてお伝え致します。

「私たちのことを調べてくれたり、思い出したりしてくれるのは、大変有り難いことだし、とても感謝している。嬉しいことだ。でも、いくら調べてみても、歴史は変えられない。昔に遡って、深く考え込んでしまって、今の生活を疎かにすることはいけない。今を大切に生きて行って欲しい。」と申しておりました。協力して頂いているみなさんのことも、大変感謝しているようです。恐らく、いいえ、間違いなく、昔は近親者だったでしょうから…

とりあえず、調査は続行します。(ほどほどに) 三種の神器の「剣」の行方も気になるところですし。本家とも、そのうち、引き合わせてもらえるかもしれませんので。
その時は、いくつかの証拠が揃ってくると思います。

「歴史は変えられない」という言葉が、胸に響いてまいりました。確かに、その通りなのです。そして、何の因縁なんでしょうか、伊勢と坂東の二つが交わっているようです。


[82]いつも通りさんからのコメント(2002年04月07日 04時44分28秒 ) パスワード
  

へえ?備前や安芸は我が家との関連が....。熊野権現参拝に船上で鱸ですか?

 清盛登場 保元及び、平治の乱
http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike4.htm
源平盛衰記 二十六ですね。明子さんとは伊賀国山田郡平田郷の繋がりか?

 Chap 2 源平の巻 2.1 伊賀平氏の興隆
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/igaheishi.html

で、ついに
 天草本平家物語 卷一
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/am_heike.htm
となるわけですね。
[83]いつも通りさんからのコメント(2002年04月07日 04時52分08秒 ) パスワード
  

鱸(すずき)はこちら
 平家・和歌/古典芸能&文学/花遊戯
http://home.att.ne.jp/yellow/hanaasobi/koten/heike/heike.waka.html
[84]服部 明子さんからのコメント(2002年04月07日 23時58分57秒 ) パスワード
  

たまねこさん!

有明姓の出所、載ってますね。
下記にも載っていましたよ。
下記はわたくし関連を書き込みます:


いつもさんから頂いたURLです。
今から出勤なので整理してる暇もこのURLの方にご挨拶する時間もなくて
帰宅後連絡しようと思っています。
ごめんなさい。
いつもさん、いつもながら、感謝です。



http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/igaheishi.html

正慶の末孫になる正盛の頃には伊賀領内に随分領土を拡め
たが、永年元年(一〇九六)その子忠盛の生まれた頃には山田郡平田
がその根拠となっていたらしい。

上皇の専制君主ぶりを充分知って如才なかった彼は直ちに亡き女院
の菩提を弔う為と称して父祖代々の所領の中から伊賀阿拝郡鞆田村と
山田郡山田村の田畑と屋敷地を併せた計二十町を思いきって六條院に
寄進した。

伊勢平氏の開祖である維衝の嫡流があるかないかの存在となってい
るのに比べて末子の正盛の子孫がこのような栄達を得ているのは二十
余年前に伊賀の荘園を六條女院に献じたのが転機である。
 
従って正盛以後は伊賀平氏と称したほうが適切で今や忠盛は桓武平
氏の棟梁とも云うべき地位に立ち源氏を圧さえて武門のトップを占め
た。

伊賀山田郡平田を本拠とする平貞光の嫡流である家貞、服部郷の季
宗、伊勢関を本拠とする信兼、安濃津の貞清ら一門の家の子郎党をか
き集めてもその兵力は源氏の一割にも満たなかったと思われる。

平氏系図にもある通り家貞は忠盛には伯父系の一族であるが、この
時代にはその一の郎党として根拠地である伊賀国山田郡平田郷に代官
として住み、阿拝郡柘植郷に常駐する一族の季宗らと共に伊賀平氏の
武士団を編成し忠盛の両腕となった。
[85]たまねこさんからのコメント(2002年04月08日 02時27分56秒 ) パスワード
  

いつもさん、服部さん、ありがとうございます!
御先祖様について、私が知りたかった事柄が書かれていました。

忠盛はそうとして、彼の息子の中に、私の夢に現れた人がいる…
その人は、歌が好きな方で、ある歌から「有明」という姓を付けた。
それが、「明石」のあの歌であることが、ハッキリわかりました。

それと、名前が「タダ」が付く名前…これは、たくさんありますから、特定が難しかったです。
もちろん、清盛ではないし、彼とは血の繋がりが薄いと思ったので、妾?の子だったんじゃないかしらと感じてました。母方があまり高貴ではなかったので、一族にとっては、それほど重い立場を与えられなかったけれど、父親や兄弟の危機で、あの場にいたんじゃないかなぁという印象もありましたね。しかし、果たして「神通力」を使えるような人が、伊勢平氏にいたのか?それが最大の疑問でしたね。

自分たちもそうですが、その御先祖様も、生まれつき特異な力を持っている血だからこそ、導くことができるんじゃないかと思っていましたから。(ガマの妖術も、念力のことですかね?)

夢の中で、「自分たちは間違って解釈されているが」と強く言っていたので、当然、死んだはずの人間が、実は生きていたぐらいのことはあったと思います。身代わりに亡くなられた方々が多かったそうですから…そういった方に命を救われて、私たちが生き残ったのだと思います。

もう一つ、身分を推測しようと、直属の部下はどれくらいいたか尋ねたことがあったのですが、「最後は千(人?騎?)で、負け戦さが続いて、逃げ出すものや、敵に翻る者が多かった」と話してくれました。これをヒントにしながら、探していったわけですが。

最初は、まさか、ね!って感じでしたけれども、今は「そうなんだ」と納得しております。他にも、私たちの御先祖様がわかってきました。北陸に深い縁があるようです。

これは、伊勢平氏ではないと思いますが、左目を矢で射抜かれた方がいたようです。
多分、北条、源氏絡みの方で。

それと、右目が不自由…というか、不釣合いな方が、一族の長なのでしょうか?、強く感じられるのです。いつも、いろいろと進言、助言していただいている、子孫、一族思いの方です。何だか、電話帳調査の件で、「エンゼルライン」のことを姉に教えず、姉に労力を裂かせてしまったことを咎められてしまったようでした。(反省。でも、まだ秘密です)

[86]川口 信さんからのコメント(2002年04月08日 11時42分51秒 ) パスワード
  

たまねこさん 良かったですね。

 エピローグが近づきつつある。仕上げは先祖縁の地に行く事。その地には文書には書かれていない口伝などが残されていることが多い。私の場合も先祖縁の寺を訪れて発展がありました。

 ちなみに私の父のあだ名は「がま」さん。かわぐち→がまぐち→「がま」
で庭(2坪ぐらい)に小さな池があるが、小さな「ガマ」の置物があります。
なにかの因縁か他人事とは思えないです。
 頑張ってください!!
[87]服部 明子さんからのコメント(2002年04月08日 15時09分09秒 ) パスワード
  

>右目が不自由…というか、不釣合いな方が、一族の長なのでしょうか

それでしたら「忠盛公」がすがめとして有名です。
伊勢の平氏(=忠盛)はすがめ(=酢瓶)なり
と貴族達に目の事をからかわれています。

ちょっとゾッとしましたよ。


なんだか核心に近づいて来ましたね。
[88]さんからのコメント(2002年04月09日 09時16分54秒 ) パスワード
  

たまねこさん、どうもご無沙汰しています。

最近訳あって忙しく、今日もこれから出かけなくてはならないので
長居できませんが、気づいた事があるので、一言だけ。

ご先祖様が伊豆に関係ありそうとのこと。
こちらの人物との関連があるからでしょうか?


[山木兼隆(やまきかねたか)]???-1180

桓武平氏。平信兼の子。山木判官と称する。
1179年父に勘当され伊豆国山木郷に配流。翌年の以仁王の挙兵後、平時忠が伊豆の知行国主となると、国司平時兼の目代として伊豆国衙を支配。1180年源頼朝の襲撃を受けて敗死。


明子さんが以前書かれていた、「北条政子に振られ」て頼朝に殺された人ですね。

平田家継が伊賀で蜂起した時には、彼の父である平信兼だけでなく、
彼の兄弟達〜兼衡、信衡、兼時も一緒に戦った様です。
[89]たまねこさんからのコメント(2002年04月09日 23時08分00秒 ) パスワード
  

お久しぶりです。隈さん、こんばんは。山木兼隆ですか。いずれにせよ、数々の登場人物と血縁関係があることはわかりました。ここ2ヶ月ほど、あまりにも信じられない数々の出来事に遭遇し、自分は夢を見ているんじゃないか?といった心境です。まだ、完全に頭の中が整理できていないのですが、みなさんにお伝えします。

もともと、先祖にも歴史にも古典にも興味のない私が、いかにしてこの場をお借りして、みなさんにご協力いただくことになったかですが…ある方と出会った晩から始まりました。義兄の行き付けの店に飲みに連れていかれたのですが、そこのママさんが「神様とお話できる方」だったのです。私は極めて現実的な性分ですし、心理学を専攻しましたので、嘘をついている人はわかる!というのが自負もありました。
ところが、私が幼少からずっと「気のせいだ」と意識の隅に追いやっていた事柄を、見抜いてしまうのです。挙句の果てに「貴方は霊感が強い。テレビに出ているその辺の霊能者より上です」というから、ゲッ、冗談だろうと。
その方は、神主の資格も持っていて、体の不調を治療するのが得意分野なのです。私のような霊媒体質から始まって、修行を重ねていくうちに、神に仕える身になったとか。半信半疑で、その晩、床についたところ、例の夢を見てしまったのです。寝る前に、時代劇を見たら、残像が夢に出ることはあるでしょうが、そんな話は一言もしませんでしたから、これは何なの?私に何か伝えたいの?というところから、私の御先祖探しは始まりました。実は、そのお店に行く前は、長年にわたり、原因不明の体調不良に悩まされていたのです。以前から、頭の中で「次の段階に進め」という指令?があったのですが、ずっと気のせいに違いないと片付けていました。

その後も、夢に名刀?が出てきたり、起きている時も、ふっと遠い記憶のようなものが甦ってきました。その後、お店に出入りしていくうちに、不思議な現象が身の回りで起こるようになって、やはり、自分には目に見えない、何か変わった力が備わっているのを認識せざるを得ない状況になってしまいました。

みなさんのご協力によって、大した労力もなく、先祖探しを進めることができたということも、どなたかのお導きがあってこそ、だと思います。
自分の感じたものの確証を得たいと思う一心で、今までやってまいりましたが、今日はその一区切りになると思います。
自分の力ではハッキリわからないこともございましたので、前述の方のお力をお借りして、「有明家」の御先祖様、一族の方々とお話することができました。

まず、どのような方がいらっしゃったか、みなさんも気になるところだと思います。たくさんの武者ですね。私も姉も首に傷がありましたから、首をはねたりはねられたりする家系だということは知っていました。(姉は切腹して斬首された記憶があり、未だにバスに乗ると後ろが気になって仕方ないという、PTSDがあるとか)
刀傷が癒えていない人もいて、まだ敵を恨んでいる方もいました。
右目に斜め後頭部からの矢が貫かれた人、左目を矢で射抜かれた人もいましたが、今はきれいに治っているそうです。すが目の人もいたそうですよ。

「今まで、何度も何度も自分たちの存在をわかって欲しくて、いろいろ手を尽くしたが気づいてくれなかった。今回、やっとわかってくれて嬉しい。自分たちのことをいろいろと調べてくれて感謝するが、もうこれ以上は詮索しなくていい。そのために費やす時間を、人助けに使って欲しい。もう昔を振り返らず、今の生活を大切にして、与えられた立場の中で、今を生きて行って欲しい。自分の力を信じなさい。」とのことでした。
内心、わかってくれと言って調べさせておきながら、そろそろ手を引けとは何事か?協力していただいたみなさんにも、証拠の品をお見せしたいのに、と理不尽な気持ちになりましたので、「私の知的好奇心がそれを許しませんよ」と反論しました。

ところが、私のそういうところをちゃんと見抜いているのですね。凝り性だから、家事を忘れて没頭する、縁の地があれば回ってしまう。私の体質からして、今、墓参りなぞしたら、危ない目に遭う。もっと強くなってからにしろと。霊的な段階で留まらずに、上の段階に昇って、少しでも神様に近付けるようにと。私たちのことより、人助けをしろと。前世の墓参りをして、人生観が変わってしまった人の話もありましたし、私が天狗になるのも恐れて、それ以上先は調べなくて良いと言っているようです。天狗にはならなくとも、きっと、昔の栄華を偲んで、哀しい気分に支配されてしまうと心配されていました…
もう、気づいてくれただけで充分で、後は何もしなくて良いと…

とりあえず、疑問に感じていたことを尋ねてみました。遺産相続の件で、一族が争ったことがありましたが、もう誰も恨んでいないのですか?と。確かに、全員一致ではないのですが、「もう誰のことも恨んでいないから、安心してくれ」とのことでした。
落ち武者も多数いましたので、「本当に、今のような家になってしまったことを、誰も悲しんでいないのですね?あの時の怨みは消えたのですね?」という再度の問いにも「生きている時の世に世話をしてくれる者がいたように、今の世にも世話をしてくれる者がいるから、何も心配するな。だから、今を生きて行って欲しい」と…。

何か言いたいこと、悔しい気持ちをぶつけて欲しかったのですが、本当に平安な魂でした。みなさんにお伝えしたいことは何もないそうで、ただ、今を大切に生きていって欲しいの一点張りでした。過去を振り返って、それに囚われることのないようにと。
「いろいろな物語が語り継がれていますが、それについてはどうお考えですか?気に入らない話はありませんか?」の問いには、急にざわつきましたね。この話は全然、違うとか、この書き方が気に食わないとか、不満の声が沸き起こっていたのではないでしょうか。落ち武者だらけでしたから、生きていた人間も死んだことになっているに違いありません。ともあれ、良いことを語り継いでいる物語に関しては、素直に喜んでいたようです。平家物語は喜ばれているはずですよ。真実ではないと申しておりましたが。

それと、みなさんも気になっていることと思われます、三種の神器。「あれは、どうなったのですか?海に捨てたのですか?」という問いに、「内密に、内密に」隠してあるのだそうです。名刀も。戦時中もいろいろなお宝が没収されたそうですが、これだけは隠したそうです。「国宝ですから、お返ししなくて良いのですか?」と尋ねると、即座に「返す必要はない!」と。返すというなら、そのお手伝いを買って出るつもりでいたのに。
でも、そうですよね。このために戦って、こうなってしまったのですから…
みなさんは、どう思われるかわかりませんが、ごもっともな意見だと思いましたね。
私たちは、これを守るために、家を守るために戦ったのです。今頃、これを持って出てきても、私たちにとっては何の得にもなりません。もう全ては終わっているのです。ですから、どこかの名の知れぬ家の家宝として、大事に取っておいてもいいじゃないですか。それぐらいのことは、神様もお許しになると思います。

それにしても、御先祖様の信仰の厚さのおかげで、私たちは目に見えない巨額の財産を相続したのだと思うと、感無量です。そう思いつつ、今の世を生きていくことにいたしました。
「昔の栄華は残せなかったが、衣食住に困らないようにしてある。金や土地だけが財産ではない。もっと大切なものがある。」その意味が、今になってやっとわかったのです。しきりに、人助けをしろと申しておりましたので、頑張ってみようと思います。





[90]服部 明子さんからのコメント(2002年04月09日 23時27分34秒 ) パスワード
  

素晴らしいお話をありがとうございました。

私はどの戦いか分かりませんが戦いの雄叫びが聞こえます。
そして刀を受けて立った素手の両手の感触があり指が切れてポロポロ落ちる感触があります。


>「生きている時の世に世話をしてくれる者がいたように、
>今の世にも世話をしてくれる者がいるから、何も心配するな。
>だから、今を生きて行って欲しい」

>しきりに、人助けをしろと申しておりましたので、頑張ってみようと思います。

いいですね。
生きてた時に助けてくれる人がいた。
私もそうありたいと思っています。

貴重なお話をありがとうございました。
[91]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月10日 15時01分15秒 ) パスワード
  

しばらく実家に帰っている間にすごい事になってますね。
たまねこさん、良かったですね!

私もはっきりしたことが一つでもわかればいいのですけどね。
でも武田源氏の忠臣に反田姓の方がいるのですか?
あとでゆっくり調べてみようと思います。

私も夜がこわくて、田舎の夜道とかは平気なのですが、
夜眠るのが怖いというか、前世で夜襲にでもあったのですかね、
すごく気配を窺うのですよね。あまり人にいったことはないのですが、
たまねこさんと服部さんのお話を読んで、ふと考えてしまいました。

私も来月福島に行けそうなので、そこでまた何か発展があれば
いいのですが。霊感はまったくないのであまり期待はできないかな。

たまねこさん
私も熱中すると後先考えずに猪突猛進してしまうので、ご先祖さまからの
お話を肝に命じつつ、もう少し調べていこうと思っています。
もかしたら我が家のご先祖様も一緒にそちらにいたりして(^^)

(たまねこさんのスレを読んで以来、なぜか私はうちのご先祖は
えらい方の部下だったに違いないという気持ちでいっぱいなのです。
途中で別れたりした者の中にうちのご先祖がいたのではないかと
おもえてなりません。)
[92]さんからのコメント(2002年04月10日 15時21分11秒 ) パスワード
  

たまねこさん

実は私も、あなたに一度お礼を申し上げなければと思っていました。

私もここ2,3年『ご先祖探し』に熱中しながらも、気持ちに迷いがあったのですよ。
一体、こうする事をご先祖様は喜んでいるのか?余計な事だと迷惑がっているのか?
周囲が気味悪がって言うように、かえって「祟られる」のか?
それとも、「平家の子孫だ」なんて勝手な私の思い込みで、不思議な出来事だと思っていたのは単なる偶然なのか?

たまねこさんが伺ったというご先祖様のお言葉を拝見して、感動すると共に何だかホッとしました。
「ご先祖様は喜んでくれているんだ」と。
それと同時に「今の自分の生活を大切に」というお気持ちも痛い程伝わってきました。

《そうだよね、家事、育児もほったらかしで、ご先祖探しに明け暮れちゃ、いけないよね・・・》
これはそのまま私自身への戒めに、心に留めておかねば。
私もつい、のめり込んじゃうタチだけど、今は自分の家庭の事を優先するべきですね。

私事ですが・・・私には娘と息子が一人づついますが、娘は軽度(?)発達障害、
息子(9ヶ月)のほうは(彦熱には以前書きましたが)訳あって重症で、
生まれてから現在まで入院中です。
息子はもはや病院(集中治療室)にお任せするしかない状態で、時々面会に行くしか出来ることがないのですが、
娘は家族や周囲のサポート次第で今後伸びていく可能性もあり、今が結構大事な時期です。
(私が最近あまりここに現れないのは、娘と共に通園施設に通っているためです)

今はご先祖様への好奇心も少し『セーブ』して、娘のために頑張らないと(笑)。
子孫を立派に育て上げるのも、自分に課せられた義務だと思って。


・・・と書いていたら、先日出した手紙の返事が届きました。
先祖(広島県向島の服部家)の事を知っている可能性のある唯一の人だというので、
亡き祖母の異父弟の連絡先を母から聞いて、思い切って手紙を出したのです。

お返事には、「服部家の資産は代々受け継がれたものではなく、
祖父母(私からみて高祖父母にあたる)が一代で築いたものの様です」とありました。
ただ、その他に当時の屋敷や所有していた田畑の様子、
私の知らなかった若い頃の曾祖母や祖母のこと、
そして私が一番知りたがっていた菩提寺の事が書かれていました。

菩提寺の入口には、私の高祖父が寄進したという瓦屋根のついた門が立っていて、
高祖父母の墓石は山の中腹にあるそうです。

今度のゴールデンウィークには1泊の条件付ですが、
母、弟、主人、娘と一緒に、しまなみ海道に行く予定なので、寄れるといいな・・・

長々と書いてしまいましたが、まずはお礼を、と思ったもので。
上の手紙を出す勇気を出せたのも、たまねこさんやそりちゃんさんや、
その他ここの常連さん達が頑張っているのを拝見したからこそ、なのです。

みなさん、どうもありがとうございました。
[93]川口 信さんからのコメント(2002年04月10日 17時19分04秒 ) パスワード
  

隈さん、ご無沙汰しております。たびたび、他スレッドではすれ違っておりますが。

 コメントを拝見いたしました。色々と事情のある中で活躍されていること、感服いたしました。私もこうしてスレッドでコメントさせて貰えるのも隈さんのお陰あります。なぜか読んでいて涙が出てきます。

 私の娘は横浜国立大学でその道(養護・障害児教育)を学んで今は小学校の養護クラスの教諭をやっていますので、何かお役にたつことが ありましたら聞いておきます。メールでもかまいませんのでどうぞ。

 たいへんの事とは思いますが頑張って下さい。
[94]たまねこさんからのコメント(2002年04月11日 02時48分29秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
さぞかし、ヒンシュクをかってしまい、「退去命令」が出されるだろうと、荷物をまとめて?出て行くつもりでおりましたが…みなさんの、暖かい気持ちに触れることができて、大変うれしく思います。

余談ですが、現在、28匹ほど猫を飼っております。昔から、猫嫌いだった私なのですが、妙に人間臭かった初代猫が急死してからというもの、その猫の子孫を繁栄?させ、今に至っております。薄々感づいていたのですが、これも先祖が呼んだようですね。なぜか、生まれたばかりの頃の名前、大きくなってからの名前、血統書の名前と、3段階は付けます。血統書に付けるのは、主に月、星、太陽、火をモチーフにした名前。家の御祓いをしていただいた時、猫たちのことも見てもらったのですが、「これだけの数がいるのに、獣の気が全く感じられない」と驚かれていました。あの時代は、身代わりに亡くなった方や、不幸な子供たちも多かったですからね。幸せにしなければ、という使命感に燃えて世話しております。(だから、一日中、掃除のオバサン状態です)

そりちゃん、お久し振りです。福島に行かれるのですか。何か収穫があると良いですね。そりちゃんの御先祖様は、一生懸命探してくれている姿を見てらっしゃるはずです。きっと、何とか伝えようとなさっているところだと思いますよ。無意識にやってしまうことや、なぜかたどり着いてしまうものが怪しいところですよ。「これを見てくれ」と訴えてる時があるのだと思います。それをキャッチできれば、誰も苦労しないのですが…

武田源氏で調べてみたのですが、見つかりませんでしたね〜。調べ方が悪かったのかもしれませんが。でも、ピンと来るものがあったんですよ。最初にそりちゃんのコメントを見た時、甲斐の国が浮かんできました。
実は、先日、父と電話で話した時、父の前世のハイライトを見ちゃったのです。騎馬隊の先頭に立って「神も仏もあるものか!」って、叫んでました。ああ、だから何を言っても信じない人なんだと、みょーに納得しましたね。その時の冑や鎧で、武田信玄、一向一揆などを思い浮かべたのですけど…何分、歴史と数字に疎いので、どうなのか?
うちの場合、伊勢平氏以降、反体制側にまわって、東北、北陸の落ち武者(死んだはずの人ばかりですかね)が寄り集まって今に至ったような気がする(大河兼任の血も入ってるかも?)ので、そりちゃんの御先祖とも、どこかで必ず出会っているはず。
ただ、その時の姓は反田ではなかったのでは?同僚だった気もしますね。

隈さん、こんばんは。お子様、頑張っているのですね。さぞかし、御苦労が多いことかと思われますが、頑張って下さい!御先祖様も、自分の子孫の健康と繁栄を願っているはずですから…
ただ、ちょっと気になったのですが、お子様、お二人とも、ですか…武士系って、体にくることが多いらしいです。私も生まれ方が悪くて、首が回らない体だったのです。赤ん坊の時に手術をして、首は回るようになりましたが、跡は残っています。姉も赤ん坊の時、首の手術しています。私たちは首にきましたけれど、やはり、こういう家系は出てきやすいとか。そういうこともあるので、供養をしたり、神に祈ったりしたわけでしょうけど…

みなさんにお話した「神様とお話できる」方なんですけれど、ガンで余命幾ばくもないと宣告された方や、不妊症の方も治したそうです。「外科的な治療が必要な人は治せないけれど、霊的なものが妨げになっている人は取り除くことができる」そうです。占いとか、カウンセリング、宗教の類ではないです。お金も大して掛かりません。1回で効果ありですから、通院するより安上がりなくらい。人助けでやっている、本当に良心的な方です。最初は信じられませんでしたけどね。
実際、慢性的な不眠症と頭痛、関節痛、急な発熱は治りました。主人や姉夫婦も体調が良くなったようです。こういうものは治してもらえるのですが、隈さんのお宅の場合、どうなのでしょうね?
もし、病院の方でもなす術がない状態なのでしたら、神様に聞いてみるという手もありますよ。遠隔操作もできる方なので、今度、お店(夜は居酒屋、昼は相談をやっています)に行った時、隈さんのことを聞いてみましょうか?店で飲んでいる時にも、無料で治療してくれるので便利な店?なんですよ。
そこでたまたま飲んだお陰で、私の御先祖様にお会いすることができたのですから。
しかも、自分は殆ど動かず、2ヶ月でスピード解決!もちろん、数々の情報をお寄せ頂いたみなさんのご協力のおかげでもありますが。
自分の、今のスッキリとした気分を、みなさんにもお分けして差し上げたいくらいです。
ここでみなさんにお会いしたのも、御先祖様のお導きだと思っています。何か縁があるはずです。こちらの御先祖が、そちらに向かって交信しているのかもしれませんね。いろいろわかってきたことがあります。どうぞ私を利用してください。
書きにくい話は、携帯メールで聞いて下さい。



[95]服部 明子さんからのコメント(2002年04月11日 13時09分46秒 ) パスワード
  

親友の事なので私が書いてはちょっとまずいかも、とは思いますが

彼女のご先祖さまは義仲の侍大将だった人で
(これもオカルトめいた話なのですが)

井上靖の本を読んでたら彼女のご先祖かしら?と思う人物が出て来て
まさかねぇ、と思い本は処分してしまったのです。
ところが彼女が元来体の弱い人で(頭と芸術的な面は優れているけど)
いろいろ大病続きで膠原病になった時はご両親が有名なお寺のお坊さんに見て頂いたら
実は彼女の先祖が「部下を沢山死なせたから、食べ物と包帯を供えて欲しい」と言ってる、
と。

ここまでなら(ふぅ〜ん)で終わったのですが
彼女のご先祖の名前を聞いてビックリ!
井上靖の本の中で読んだお名前だったのです。
ウッソォ〜!でした。


猫達を28匹も飼っていらっしゃるというのはいいですね。
ペットは主人の為に死んだりしますし
何かそういう縁を感じます。
可愛がってあげて下さい。


>武田信玄、一向一揆などを思い浮かべたのですけど

実は最近日本人の作家の男性(母方ご先祖は平家)と
武田信玄と一向一揆の話などしてたのです。(父方ご先祖は武田の有名な家臣)

実は私が持ってた本の絵にも服部家の並び矢の紋をつけた武士が出てて
それは武田の家臣なんですよ。
川越の服部民俗資料館の服部さんとこは武田の家臣だったそうです。

ですから昔は平家でも当時武田源氏の家に仕えてた人がいたのだなぁ、と。

それに上記の日本人の作家の方が一向一揆の時の服部左京進って?とメールを下さった
という経緯もあるのです。
伊勢長島一揆の時には武田の家臣も駆せ参じてくれてたという話ですから。

「平熱」はオカルトかかってるけど・・・まさかまさかここまで・・・と驚いています。


さらにさらに不思議な事は
私の母がエスパというのを頼りにしてて
ここに月に1回お願いに行ってました。

家族の安泰とか弟の資格試験の事とか遠隔操作で。
お蔭さまで私も無事結婚を続けていますし
弟も無事各種資格試験に合格してます。

その方は亡くなってしまいまして奥さんが替わりにやってますけどその方ほどの力は無い
と母が申しておりました。


そういうパワーってあるようですよ。
アメリカでやってる日本人の方も「お金目当てにやってるのでなくて」という方がいらっしゃいました。

沢山お金を取ってお金目当てがミエミエでは離れて行くと思いますけど
ほんの志のお礼を母は払って家内安全を頂いてました。

母からそういう話を最近聞いて感心してしまいました。
私と弟の為に心をこめてお願いしてた、と。
我が家の場合は満願成就組です。
[96]服部 明子さんからのコメント(2002年04月11日 13時19分56秒 ) パスワード
  

>実は私が持ってた本の絵にも服部家の並び矢の紋をつけた武士が出てて
>それは武田の家臣なんですよ。

歴史の解説本です。
その中の口絵に「神も仏もあるものか!」と叫んでるとも取れる騎馬武士が疾走してます。

母衣衆と思います。

だから、もうビックリしてます。
この口絵の件は上記の服部民俗資料館の館長さん(服部さん)に当然連絡済みです。
お宅さまのご先祖さまでは?と。
[97]さんからのコメント(2002年04月11日 19時57分11秒 ) パスワード
  

川口さん

励ましのお言葉をどうも有難うございます。(涙)

さすがに昨年息子が出産翌日にして死にそうになってしまったときは、
ショックで思わず彦熱にグチを書いてしまいました。
その際は明子さん達にずいぶん心配を掛けてしまいました。m(_ _)m

それこそ「神も仏もあるものか!」の心境になりかけましたが、
マイナス思考ばかりでこちらが潰れてしまってはそれこそ「家庭崩壊」してしまう・・・
と思い、少しづつ平静を取り戻したところです。

今も息子は「かろうじて生きている」状態で、
私も母親として時々落ち込んでしまうこともあるのですが。

娘の方は、昨年まではかなり精神的に不安定な状態で大変でしたが
(息子の出産前後のゴタゴタも影響したのかも知れません)、
今年に入ってからかなり進歩がみられ、お陰様でずいぶん落ち着いてきました。
まだまだ普通の子の群れに交わるのは苦手な様ですが、園には楽しそうに通っています。
今は娘の笑顔が救いです。


たまねこさん

本当にご厚意感謝します。

・・・そうですね。もし今度その「神様とお話できる」方にお会いする機会がありましたら、聞いてみて下さいますか?

うちの息子の場合、ちょっと事情が事情なもので。

>武士系って、体にくることが多いらしいです。
>私たちは首にきましたけれど

首、ですか・・・ちょっとドキリとしました。

私の娘の場合、異常があるのは「頭の中」の方で、
多分ちょっとDNAの組み合わせが悪かったんだと思っているのですが・・・


息子は、出産時に臍の緒が一回だけ首に巻き付いていて、心音が下がりかけました。


もっとも、その後私が数回いきんだだけで出てきて普通に泣き声を上げたし、
その場では大事に到らなかったのです。
臍の緒が首に巻き付いて生まれる、というのはさして珍しい事ではないし、
それが容態急変の原因かどうかは分からないのですが。

ただ、数ヵ月後に産院から取り寄せた看護記録には、生まれてしばらくしてからも
チアノーゼが出たり、手足が冷たかったことが記載されていました。

その晩チアノーゼ発作が出て何度も吐き、母乳を飲もうとしなくなった息子は
「胃軸捻転」(胃が捻れているため食物が通り難く、ガスが溜まり易い)と診断され、
新生児室で絶食、うつ伏せ寝又は斜め右上向き寝(ガスが溜まらない様にして、胃を空にする)でブドウ糖点滴を受けていました。

「大した異常ではない。今晩か、明朝にお母さんの所に返すから」
といわれた約8時間後、息子は呼吸停止・全身チアノーゼ状態で病院スタッフに発見されました。
小児科医が確かめた時点で、既に心肺停止していました。

容態急変の様子は誰も見ていません。
よって「原因は不明」だそうです。


・・・やはり、臍の緒が原因でしょうかねぇ(溜息)
もっとも、原因が何であれ、あまりに重症で今更どうしようもないのですが。
とにかく、生まれた翌日に誰も見ていない所で意識を失ったきりの息子が可哀想で。

すみません、息子の話を書くとどうも湿っぽくなっていけませんね。


取りあえず!明子さん、やっと向島服部家の菩提寺が分かりました。(^^)
私、もうここまで来たら伊賀平氏でも、岡山の秦氏でもいいですよ。

2人の子供の調子さえ安定していれば、是非ともお墓参りに行きたいです。


話が反れてしまいましたね。
どうぞ、たまねこさんのご先祖様のお話を続けて下さい。
[98]たまねこさんからのコメント(2002年04月12日 01時51分50秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
服部さんもやはり、並々ならぬパワーを受け取っている方だったのですね。歴史の解説本の口絵に、御先祖=父の前世が載っている?!としたら、やったね、お父さん、明日はホームランだ(古い!)になると良いですねぇ。しかし、戦場の絵は、どなたがお描きになったのでしょうね。今の報道カメラマン的立場の絵描きがいたのでしょうか?

隈さん、今、お子様が大変な時を過ごしていらっしゃると思いますが、常に希望を持って、明るい未来を想像して下さい!原因不明で容態が悪化したのなら、また、突然正常に戻る可能性もあるのではないかと。何とか、頑張ってもらいたいです。

人間の話ではないので、恐縮なのですが、うちにも生まれつき体の不自由な猫たちが
います。眼球がなかったり、すが目だったり。この子たちは他に異常がなく、元気に暮らしていますが、大変だったのは、外見上に現れない奇形。手術をして、病院通いをしても助からなかった命がたくさんあります。でも、中には、病院でも見放されたような子が、奇跡的に回復して今に至っている例も多くあるのです。「絶対、助けるんだ!」という強い気持ちで臨んで下さい。応援しています。

ところで、服部さんは、刀を素手で受けた感触が残っているのですか。指がポロポロは…痛い!私には、自分が負傷した感覚や記憶がないのです。犬にじゃれ付かれている感覚とかはあるのですけど。残っているのは、部下を失っていく時の無念さ、身を呈して守ってくれた者を置いて、後退する時のやりきれなさ…そういう感情だけです。「死に損ない」の感情に支配されて生きてきたことが多かったので、臨終の時はかえって安堵感に包まれていたのだと思います。あまり、好戦的なタイプではなかったようですし…ただ、どうもイヤな名前とか、地名があるんですよね〜。

御先祖様に導かれて気付いたことですが、今までに何度も何度も、信号を送っていたようですね。人の縁というのも、偶然ばかりではないということに、気付かされました。以前、鎌倉と伊豆に縁がありそうだと書きましたが、鎌倉には学生時代、行ったきり。それも、今思えば変!
大石君という友達と一緒に、「鎌倉好き」の新田君の案内で出掛けたのですが、「ここを案内したいんだ」「ここがいいんだよ」と案内される場所が、観光客どころか地元民も来るか?と思われるような険しい場所ばかり。最後には「一体、どこに連れていくんだよ〜」になっちゃいましたね。切通し、だったのでしょうか、ああいう場所は苦手なのです。名前も嫌ですけど。

そのメンバーで伊豆を旅したことがあったのですが、大石君の御姉様が土産に「赤福」を買ってきてくれと頼んだから、大変。どこを探し回ってもありませんでした。
御姉様曰く「絶対あるはずなのに、おかしい」…この勘違いに気付いたのは、だいぶ年月が経ってからです。みんな、お馬鹿だった。大石君のお母様は宮城出身の立派な家の方だったようで、こちらと縁があるんじゃないかと当時から思っていました。
蛇足ですが、吉良さんという方ともお会いしましたが、彼女の謀の数々に泣かされ通しでした。相性というのも、御先祖様からの因縁が大きいと思います。

でも、よくよく考えてみると、何気ない言葉や場所から、御先祖様が信号を送っていたのではないかと。因みに、現在の住所は「山田」が付いて、近所に大きな「蟹」の看板があります。入り口に大きな蟹の水槽がある、蟹専門店。ここに引っ越した翌日、そこで食事しました。蟹は好きではないので、「伊勢海老が食べたい」と愚痴りながら。この辺りは、飲食店に困らないのですが、母が訪れた時もなぜかここで。「平家蟹」の話はつい最近知りましたし、私のスカスカ頭では、蟹や海老で平家を連想できませんでした。父から「平家蟹」の話を聞いた時も、唐揚げにして食べる小さな蟹のことかと思いましたし。
一生懸命、信号を送ってくれても、私のようにミョーなところが鈍感な子孫だと、御先祖様は苦労しますね。私の場合、そうではありませんでしたが、言葉で誘導して信号送ってもダメなら、傷めつけてやる!という乱暴を働く先祖も多いみたいですから、くれぐれも気を付けないと。

川口さんへ。「ガマ」自体は家系と関係ないそうですよ。魔除けとか、守護神だとか
考えてみたのですが…ガマの妖術が使えないのは、残念!






[99]たまねこさんからのコメント(2002年04月12日 22時55分21秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
オツムの弱い私なりに考えたのですけどね、どうやって、目に見えない力を科学的に証明できるのだろうか?と。極めて現実的な性格なので、理論武装したいのですが、なかなかできずに困っています。

まず、最大の疑問なんですけれど、「一族」とはどこからどこまでの人を言うのか?血縁関係がなくても、その家に入れば一族とみなされるのか。郎党の家族も含まれるのか。或いは、血縁関係だけで成り立っているものなのか。血縁関係、主従関係でむすばれたものを全て一くくりで「一族」と称するなら、原始人も入っちゃうのでしょうか??重複している人たちも大勢いるってことですかね?
脱線しますけれど、平将門が縄文人のハーフだったとか、義経はジンギスカンだったとか、笑えますよね。

それにどうも、最近の人はあまり出て来ないという感があるのですけれど、それは何故なのかも疑問なのです。供養されてるってことかな?

それにしても、神様にお伺いを立てたり、一族の長とお話する時、他でも同じ時刻に同じ事をやっている方がいたら、どうなるのでしょう??神様は何人もいる?でも、同じ先祖は一人しかいないでしょう?むむむ…三次元に生きる私たちには、説明がつかない。多次元宇宙で説明できるのでしょうか?

もう一つ、”生まれ変わり”があると仮定して、前世の自分が今生の自分のところに、先祖としてやって来れるのは何故?
とどめに、姉曰く「あなたは、前世と今生で大違い!」…まさにその通りです。

この疑問が解ける日が、果たしてやって来るのでしょうか。哲学や宗教の域ではなく、科学的に説明できる日が。フロイトが精神分析を始めたように、誰かが目に見えない力について、様々な仮説を立てて、科学的な学問として発展させることが可能になればいいのに。どなたか研究なさっている方は…いないでしょうね〜。
しかし、このままでは、目に見えないのを良いことに、他人の弱みに付け込んで稼ぎする輩が後を絶たないと思うのです。これは人として許されないことです。

自分でも、まだ半信半疑の状態が続いていますが、とりあえず、信じるしかないと思っております。

そうだ!隈さんに伝言。
隈さんは、伊賀の服部さん関係の子孫なのですか?今、下のお子様は良くなっていますか?隈さんのお子様のお話を伺ってから、喉(特に左側)が締め付けられて、ふくらはぎに痛みを感じて、今も吐き気と悪寒がします。
実は、私、お話を聞いただけで、その人に憑いているものを引き寄せてしまうという特異体質なんです。これが結構しんどい。
私はまだまだ押さえ込む力が弱いので、お祈りしても大して効果はないかもしれませんが、お祈りする時、○○家の…と言わなければいけない関係上、ぜひ、姓を教えていただければと。携帯メールにお願いします。よろしく。

[100]服部 明子さんからのコメント(2002年04月12日 23時35分58秒 ) パスワード
  

>目に見えない力を科学的に証明できるのだろうか?と


私はDNAで説明出来るのでは?と思っているのですよ。
そこに過去の想い出を記録してるのでは?と。

血が騒ぐとかいう表現って要するに血の中のDNAが反応してるって事では?と。

今はまだ肉体的な特徴しか解明してないのでしょうけど
近い内に分かるのでは?と期待してます。


一族というのはやっぱり「血族」じゃないでしょうかね。それから「姓」ですね。
郎党などを表現する時は「一門」という言葉を使うそうですよ。
[101]たまねこさんからのコメント(2002年04月14日 12時08分16秒 ) パスワード
  

みなさん、こんにちは。DNAで先祖の記憶を解明できる時代が、早くやって来るといいですね。自分が誕生するまでの、両親の記憶が組み込まれているということですよね?

「有明の一族」とは、どこからどこまでを言うのか、疑問に思いましたので、前述のママさんに尋ねてみたのです。先祖とお話をした時、どこからどこまでの方々が集まっていたのか?

大まかに捉えれば、血族。まず、その”姓”を始めた以降の人々。それ以前の人々や、名前が違っている者でも、その血族であったり、その家に思い入れのある人々なら、関わってくるそうです。養子であっても、家を継いでいる者も含まれます。
そうなると、いろんなお宅と重複して、日本人全部が繋がってきてしまうことになりかねませんが、単にその姓を名乗るだけではなく、「どれだけ、この家に思いがあるか」が一番のポイントなのではないかと。ですから、忠誠を誓った家臣なども含まれることがあるそうです。さすがに、原始人はいなかったみたいです。

それと、前々から気になっていたので「その中に、自分の両目をえぐって差し出したような方は、いましたか?」とお尋ねしたところ、「いました」と。この方はどなたなのでしょう?私たちのために、体を張って戦ってくれた方々や、滅亡後も忠誠心を忘れなかった方々が多いと知り、改めて感謝の気持ちと敬意を表したいと思います。

そりちゃんへ伝言です。
そりちゃんが、一生懸命探している御先祖様ですが、やはり私の感じた「甲斐の国」で、武田源氏、一向一揆関連で、うちの先祖と同僚か何かでお会いしているようです。山梨だけでなく、他の場所でも、何度かお会いしている間柄のようですが、血縁関係はないそうです。
これは私が勝手に感じただけですが、多分、武田時代の先祖=父の前世は、最後は切腹して、さらに家が傾いちゃったんじゃないでしょうか…その後、武士をやめたかもしれません。

昨夜、お話して気付いたのですが、ママさんや、その神社関係の方とは、私たちとは武田の繋がりなんですよ。話せば話すほど、私たちと共通点も多くて、毎回ビックリしているのですけどね。

そりちゃんの御先祖は、私の御先祖と共に、これから芋づる式に解明されると思いますので、「果報は寝て待て」ですよ。家事と育児を頑張って下さい!


[102]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月14日 15時31分30秒 ) パスワード
  

たまねこさん、どうもありがとうございました!
やはり、甲斐の国が重要なポイントのようですね。
現在、反田姓の多くは山梨県と広島県に居住しているのですよ。
でも、武田源氏ですか。たぶん、その頃は違う姓を名乗っていたと
思うのですよね。で、何かがあって追われるか何かで福島に渡って
大槻姓に変えたのかな、と。

血縁ではないと思います。私はたぶん藤原氏の系列だと思いますので。
おそらく平氏に忠誠を誓っていた武士だったのではないかと。
うーん、そうすると武田源氏の勉強をしなくては。また宿題が増えて
しまいましたね(^^;

そうそう、市来島姫さんのサイトで「源義経の部屋」というHPが
あります。そこの二姫さんの日記を読んでみてください。
たまねこさんと近いかもと思ったのですが。
でも、ご先祖が生まれ変わって子孫として同じ家にまた生れてくる
ことってすごいですよね。平家の場合はやはり事実と史実がかなり
違うから子孫も本当のことを知らない場合がほとんどだろうし。
だから今このような形で「勉強」というか「復習」させられているのかな、
と夕べ考えてしまいました。

<山梨だけでなく、他の場所でも、何度かお会いしている間柄
すごくご縁があったのですね〜。
これからもよろしくお願いします。寝て待ってます〜(^^)
[103]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月14日 17時28分54秒 ) パスワード
  

ちょっと勉強してみました。

武田家は信義のときに頼朝に勘気をこうむり、失意の中
死んでいるそうです。
もしかしたら反頼朝派としてその後武田家に仕えたのでしょうか。
その後、武田信虎・信玄と続き勝頼の代で滅んでしまいます。

その後ご先祖は帰農したのかしら?

<両目をえぐった人

悪七兵衛景清では?
講談社の「再現日本史」の平安Iのなかに

文治元年(1185)11月頃
紀伊・岩室城に重盛の末子・忠房ら500人余りと篭城、
三ヶ月間の激戦もおよばず忠房は斬首、景清は
「源氏の世など見たくもない」
と目をえぐった。

とありました。

景清は平姓を名乗っていますが伊藤氏ですから、
私はすごく親しい想いを感じてしまいます。
[104]服部 明子さんからのコメント(2002年04月14日 22時04分00秒 ) パスワード
  

>自分の両目をえぐって差し出したような方は、いましたか?とお尋ねしたところ、
>「いました」と。
>この方はどなたなのでしょう?

そうですね。
藤原(平・伊藤)景清ですね。

景清の兄の忠光も頼朝暗殺で有名ですね。
景清の従兄弟達もなんとか頼朝を暗殺しようとしてました。

そうそう忠光は頼朝暗殺で近づく為に盲の振りをして目に魚の鱗を填めていた人ですね。
[105]たまねこさんからのコメント(2002年04月15日 00時48分41秒 ) パスワード
  

目に魚の鱗…コンタクトしてたんですか。はぁ〜。

先ほど、姉からの電話(通報?)で、広島の母方の怪しい家系を知ってしまいました。かなり複雑な家系らしいんですけど。何が複雑なのかわかりません。

以前、母は松尾姓ですが、祖父は松尾ではなく、平田の子だったというお話を書いたと思いますが…祖父の母(曾祖母?)は、加藤清正の子孫だとか。
母方の祖母は、土方歳三の家の養女だったそうです。

そんな話、初めて聞いたと、ビックリ。年末年始の時代劇スペシャル、忠臣蔵は何と
も思わないのに、なぜか、白虎隊と新撰組は泣いてしまうのですよね。「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、ひぃぃ〜と。…しかし、白虎隊は何故?親戚でもいたのでしょうか?

加藤清正は、いつの時代の何をやった人なのか、さっぱりわからなかったので、主人に尋ねてみたところ、「虎退治で有名だよ」と。それは、一休さんの話じゃなくて?
母方はハゲの家系ですし…

そんなことでは、申し訳ないなと、加藤清正で検索してみたところ、「馬の情報館」というサイトに出会いました。”日本画による代表的人物の乗馬姿”が素晴らしいです。貞盛、重盛、敦盛の姿もありますよ。

http://www.tctv.ne.jp/uma490/
[106]服部 明子さんからのコメント(2002年04月15日 02時09分48秒 ) パスワード
  

加藤清正は太閤・豊臣秀吉の従兄弟だかまた従兄弟に当たります。
ですから名古屋市中村区のご出身。現在の名古屋駅周辺です。
ということは伊賀・伊勢・尾張関係のようですね。

白虎隊で泣けるとか土方歳三とかっていうのは
幕末に京都で天皇さんをお守りしてたから
幕府方だったのでは?

幕末の会津藩主+尾張藩主+桑名藩主はもともとが美濃国にあった尾張藩の飛び地で
ここの高須家の3兄弟なんです。
この高須家と服部家のホンヤさんが引っ張り合があるんですけどね。


会津の藩主と桑名の藩主は仲が良くて一緒に京都を守ってました。
最後まで倒幕派と戦って
私の四日市の友人の家は奥羽に戦争に行くのが嫌で
13歳の息子に家督相続して逃げてしまいました。


やっぱり血の中のDNAは昔の出来事を記憶してると思うのですよ。
だから白虎隊とか見ると泣けて来るのじゃないですか?
心の琴線に触れるというのも同じじゃないかと思ってます。

日本人は8代遡ると
みんな親戚になってしまう
なんて私の夫の親戚の男の子(京大に留学してたのが)言ってました。

我が家も尾張の加藤氏とも親戚関係になるし。
広島でしたら「福島家」も尾張の出身で太閤・秀吉や加藤清正と従兄弟同士になります。
ですから加藤の一族の者が福島家にくっついて広島に行った可能性が充分ありますし
もともと親戚なんですから。

福島正則は旧姓が「鬼頭」と言います。
名古屋では「加藤・鬼頭は太閤さま以来の名門」なんて表現するそうです。
[107]たまねこさんからのコメント(2002年04月15日 23時55分49秒 ) パスワード
  

>日本人は8代遡るとみんな親戚になってしまう

そうですよね〜。うちの母のように、「日本人はみんな同じ家族」だから、敢えて先祖を知る必要はない!と思っていらっしゃる方の方が多いと思いますよ。私もそうでしたし。

母方の親戚は、広島以外に、名古屋、大阪、京都などに多いようですね。
東日本には、殆どいませんので、あちらの親戚は、茨城も横浜も埼玉も、「東京の○○さん」と言います。まるで区別付かないのか、大雑把なだけなのか??

しかし、よほどのご自慢の御先祖様でもいない限り、正確な家系が子孫に伝わる機会はないのでしょうね。
どんなに知られた名前でも、時代によっては、不名誉な名前に思われることもあったでしょうし、姓を隠したり、改姓したり、養子に出されたりで、各地を転々と…

御先祖様に「思い出してくれ〜」と、いきなり言われても、そう簡単には思い出せませんよ、普通。私には子孫がいませんけれど、この機会に、家系図を自分で作っておいた方が良いのかしら?いや、後世の子孫の課題として残しておいた方がいいですね。

先日、新聞の記事を見て、ふと思ったことがあります。
「秋田県立某中学校が、修学旅行先で有明海のガタリンピックに参加」…何か、臭い気がしました。わざわざ秋田から、修学旅行でこんな所に?
みなさんは、中学の修学旅行はどちらに行かれましたか?京都、奈良を差し置いて、何故、泥にまみれていた?のでしょう。
これが、ただの偶然だとしたら、凄い力で呼んでいることになりますね。

実は、秋田の有明一族は、み〜んな、自分たちのルーツを知っていて、知らないのは、私たちのような分家だけだったとか…
現地に行けば、小さい子供でも、「自分たちは○○の子孫」と話し、学校教育以外に平家物語が必修だったりして?

早く現地で確かめたいですけれど、今行ったら、帰って来れなくなりそうなので、(道に迷って遭難したり?)、もう少し時間をおいてから、必ず行ってみたいと思います。前世の自分の墓は、見たくないけれど…
[108]服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 03時32分02秒 ) パスワード
  

秋田の中学の修学旅行がなんで有明海でムツゴロウと仲良くしてたのでしょうね?

校長先生が有明姓?
それとも八郎潟との干潟干拓問題から?
どうしてでしょうね。


たまねこさんは秋田にいらっしゃるのがいいですね。
田沢湖などいろいろ回って来られると良いかもです。
[109]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月16日 11時35分17秒 ) パスワード
  

修学旅行は私も妙なのですよ。中学は会津若松で白虎隊のお墓に行きましたし、
高校は蔵王でスキー(笑)。ご先祖様が呼んでいたということなのでしょうか。

そうそう、甲斐の国についてですが、父方の祖母の松原家は源氏系で
たぶん南部氏族で久慈氏のわかれのようです。
母方の祖母の市川家は発祥地が甲斐のようですし、いままであまり
気にしていなかったのですが、地縁があるようです。

旅で不思議なことといえば、山登りが嫌いな私が唯一いった旅に
木曽路を歩く旅があります。南木曽〜妻籠〜馬籠と行きました。
今思えばこれも呼ばれたのかな、と。

ご先祖はだんだん北上していったのは間違いないと思っています。

たまねこさん、やはり子孫に伝えていったほうがよいのでは?
今回が真実を残す最後のチャンスなのでは?
だって私の家なんかぜんぜんわからないし〜(TT)
家系図ではなくても、たまねこさんの調べたことをまとめておくだけでも
よいと思いますよ。私もいま調査した内容をパソコンに打ち込んで
叔父に渡そうと思っていますし。もったいないですよ。
[110]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月16日 14時54分54秒 ) パスワード
  

伊藤氏の姓氏家系辞典の写しを見ていたら、
甲斐と諏訪に武田家関連の記述がありました。
しかも諏訪の伊藤氏はもとは工藤・伊東で祐清のときに伊藤九郎と
称し、木曽義仲に従い功があったと。家記によるとこの伊藤家は
祐清の息子・清長から出たとのこと。代々武田家に仕え、祐時は
信虎・信玄二代に仕え、その息子祐行は勝頼に仕えたと。その次は
重時で伊藤玄蕃といい武田家が滅亡の後浪人し、小坂の里に潜居
帰農したとありました。

この伊藤家と関係があるかはわかりませんが、確かに武田家に仕えていた
同族がいたことがわかりました。
[111]たまねこさんからのコメント(2002年04月16日 20時44分42秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。

そりちゃんも、そろそろ御先祖様に辿りつけると良いですね!

加藤清正を調べていたら、「お城と戦国大名」というサイトを見つけました。
お城紹介、戦国大名名鑑、歴史年表などがあって、わかりやすくて面白いです。
家紋と軍旗も出ていますから、何か手掛かりがあると良いですね。

加藤清正の軍旗、「南無妙法蓮華経」と書かれていました。そのまんまじゃないかって感じ。他に気の利いた言葉はなかったのか?

広島の母の実家では、朝起きると、一家揃って「南無妙法蓮華経」と唱えておりました。結構、熱心にやってたみたいですよ。私は、宗教を毛嫌いしていた父の影響で、今でも無宗教ですけどね。

そういえば、一つ気になることが…
「義経」という名前を聞くと、敵対心や憐憫、同情というよりも、もっと別の感情が
生じてくるのですよ。合戦以外の場所で、出会ったことがあるんじゃないかなと…
その時は、敵味方ではなく、どちらかというと、持ちつ持たれつという関係?だったのではないかと。
義経は確か、自害したことになっていますよね?自分の前世同様、生きてたのかなぁ
?それとも、逃亡している間に、接触したのかなぁ?むむ…そこまで思い出せない。
[112]服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時06分32秒 ) パスワード
  

>「南無妙法蓮華経」

おやおや宗教が一緒ですか。
やっぱりご先祖さまが加藤清正説はかなりしんぴょう性が高いかも、ですよ。

伊勢・尾張って伊勢長島一揆でお馴染みのように
一向宗の勢力が強い所でして
浄土真宗(本願寺)
になります。

加藤姓で「南無妙法蓮華経」でしたら清正って感じ!
宗教ってそんなに変更しないですからね・・・
[113]たまねこさんからのコメント(2002年04月19日 23時50分39秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。

私、だんだん哀しくなってまいりました。出火原因がわかりましたので、”火事”にうなされることはなくなりましたが、遠い昔のつらい記憶がだんだん甦ってきたのです。鮮明ではありませんが、記憶の断片が少しずつ繋がってきて、私の見たあの合戦の夢の謎が解けてきたのです。私の先祖=前世の記憶です。

「ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし」
この歌は辞世の句ではなく、旅立つ者へのはなむけの言葉でした。
自分は、敵に首を取られることなく、最後の最後まで戦う覚悟でいました。
お世話になった方に、最後の御挨拶に伺うことで、自分の生に対する執着を絶ち切ったのです。もともと平家にとって、さほど重要な存在ではありませんでしたから。

それが、ああ、大誤算!大勘違い!の結末になってしまいました。平家は、世間で言われているよりも、なかなかクレバーな人の集まりですよ。

悲しいかな、自分は、やっぱり昔からマヌケだったかもしれない。
(そのお陰で、私たちは子孫として生き残ったわけですけれどね〜)
[114]服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 00時48分09秒 ) パスワード
  

>最後の御挨拶に伺うことで

藤原俊成(定家のパパ)のお宅に歌を持参してお別れをしていますね。
「さざなみや〜」の歌がその1つだったと思います。
俊成も「詠み人知らず」として歌集に入れてますよね。


ご先祖さまは忠度のようですか?
何か他にもおっしゃてるようでしたらお知らせを。


>自分の生に対する執着を絶ち切ったのです。
>それが、ああ、大誤算!大勘違い!の結末になってしまいました。

ここは忠度最期のシーンの事なのでしょうかね?
もっと詳しく知りたいですね。
[115]たまねこさんからのコメント(2002年04月21日 02時50分34秒 ) パスワード
  

先日、松尾芭蕉の「奥の細道」を旅するといった趣向のテレビ番組(再放送)をたまたま見ていたのですが、何だか懐かしい感じがいたしました。途中、”義経”と”平泉”あたりで、首が痛くなってきた(というより、攣ってくる感じ)ので、ここで何かあったに違いないと思いましたね。

年代的にも、都落ちしてから、能登や東北で、義経や大河兼任に会った可能性は、充分考えられますね。当時の利害関係は一致していたと思います。「打倒、頼朝」ですか。義経に対して、多少の憎さは残っていたものの、結局、頼朝に利用されただけで、自分と似たような立場にあったということで、一緒に戦ったのかも。もう、その時は、お家より武士として生き死にすることの方が、大切だったと思います。

ここからは、まだ、絶対的な確信はないので、冗談半分で読んで下さいね。
私が見た船上の合戦の夢の中に、夢の主=先祖=前世と思われる40前後の男性が出てきましたが、他に印象に残った人物は、小さい男の子と、その隣に付いていた初老の男性、20代の長身の男性2人。それと、中高年の男性。このメンバーは、京都に戻る時から、行動を共にしてきた者たちと思われます。あと何人かいましたが、船の漕ぎ手や、どさくさに紛れてやって来た人もいるので、正確な数はわかりません。

袴姿の男の子は、顔が似ていませんので、自分の子ではないと思います。むしろ、囮役を買って出てくれた者に似ています。彼とは、あの世で会う約束をしたはずです。この大役は、全く血縁関係のない部下ではなく、母方の血縁者だったかも知れません。というのも、すでにその時、頼りにできる部下もなかったからです。寄せ集めの軍は、逃げることばかり考えていましたし、敗色が濃くなっていくにつれ、敵に寝返る者が続出していたからです。武士も人の子ですから、命も惜しいし、死人から貰える褒美はないと考えていたのでしょう。

京都に引き返した上、敵を騙し騙し、次の目的地へと向かいましたので、随分と時間が掛かってしまいました。何とか、兄たちに追いつかなければなりません。
きらびやかな装飾を施した甲冑では、すぐに目を付けられ、首を取られるのがオチですから、できるだけ敵を切ってやろうと、粗末な鎧を付けて、粗末な軍船に乗りこみました。子供も含め、一行は死ぬ覚悟で戦場を目指しました。

着いてみると、燦燦たる状態で、敵の矢が降ってくるばかりではありませんか。自分を見知っている者は誰もいません。辺りは薄暗く、必死で兄たちを探しましたが、少し遠くに敵の大きな船があり、そこに捕らえられた人影が小さく見えるだけです。
反旗を翻した軍もいくつかありました。指揮官を失い、逃げ惑い、哀れに散っていく無数の者たち。自分は剣を抜くことも忘れ、呆然と立ち尽くしていました。壊滅するのは、時間の問題でしょう。もう、残されたのは、自分一人だけなのか…、実際は数分だったでしょうが、自分の人生の中で一番長く感じられた時間、苦渋の決断を下す瞬間、「ここで討ち死にするわけにはいかない」と、発したのです。無人の船や、屍だらけの船を掻き分け、掻き分け、後退し、船を必死で出しました。

兄たちが生き延びていたと知ったのは、だいぶ月日がたってからです。それを知った時、嬉しさではなく、何ともいえない虚脱感に襲われ、自分の運命を呪いました。
兄たちが生きている、それが作戦だと知っていたら、自分はあの場で心置きなく戦うことができたのです。死に場所を奪われたような気分でした。勝手な行動をして、戦さに遅れて来たのだから、お互い様だと言われれば、返す言葉もありませんでしたが…

というわけで、とんだ勘違いをしたお陰で、生き延びてしまったというお話でした。
みなさんの夢を壊すのは忍びないですけれど、実際は、「大悲千禄本」に出てくるキャラクターに近かったと思います。遅刻の常習犯だったとか、そんな話はなかったでしょうかね?






行動を共にし、北に落ちていった一行は、途中で別れた何人かが東国武士、子供と自分と一緒にさらに北に向かった初老の男性は、能登、東北に通じていた者だったと思います。


[116]服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 10時06分47秒 ) パスワード
  

やっぱり東北へ落ちていったようですね。
辿り着いた先が秋田大曲ということになりますか。

初老の男性ってどなたでしょうね?

それにしても合戦のシーンは前世の記憶で書いているのですねぇ。
とても普通の人間にはここまでは書けません。

遅刻の常習者・・・思い当たりませんが・・・いそうですよね。
どなたなんでしょうね。

でもほのぼのとしていいですね。
[117]たまねこさんからのコメント(2002年04月21日 20時05分29秒 ) パスワード
  

まだ、頭の中が整理できない状態ですが、最後の合戦は、寒くも暑くもない季節で、北上して、陸を歩いていた時は、だいぶ暖かくなっていたのは確かです。

”一の谷”の季節は冬だったと思います。自分は、後方で守備を担当していたはずですが、「だめだ、こりゃ」と思ったんでしょうかね、早々と切り上げたような気がします。このまま戦っていても、戦力が減る一方なので、ここは長期に備えて、ひとまず退陣しなければと考えたのでしょうか。因みに、合戦中、義経を見なかったように思いますし、有名な”逆落とし”も現場を見ていません。もし、見ていたら、脳裏に焼き付いていたはずですから…
或いは、別の場所で戦っていた可能性があるのではないかと思うのですが、「場所を間違えたまま戦っていた」なんてことでしたら、ちょっと困りますね〜。

しかし、そこからが大変だったのです。どうやって、先に進むか。辺りには、うようよ敵がおりましたから、敵の目をくらまして、突破しなければならなかったのです。
そこで、囮作戦を使いました。その後も、西に向かうため、回り道をしたりで、だいぶ時間を取られたのです。(遅刻の言い訳にしか聞こえませんね。)

ですから、最後の合戦は”壇ノ浦”だったと思います。もちろん、そんな話はないでしょうけれど。余談ですが、その時着ていた鎧の胸板辺りに、赤い小さな斑点が見えました。紋章か血なのか、ずっと悩んでいたのですが(つまらないことで悩む性質なのです)、あれは小さな日の丸だったのでは。当時、流行っていたのですよね?

航海の途中、船を休めたり、支援者の所にも行きましたから、海沿いの能登に寄ったかもしれませんね。ずっと漂流していたわけではなく、いくつかの中継地がありましたから。日本海を回っていったということですね。

問題の、最初に落ち着いた先は、やはり今の岩手県だと思います。当時の東北は、陸奥と出羽で、落ちていった一族が、青森、山形、宮城、福島など、転々としていたのではないかと考えています。当時の東北の山奥では、自分たちのような者は場違いだったと思われますし、婚姻も、豪族か同じような身の上の者に限られていたのではないかと推測します。しかし、そんな人間、そうたくさんいたわけではありませんので、おのずと血も限られていたのでは?将門の子孫と伊勢平氏の子孫が、そこで結びついたと考えるのであります。
私には”貴種願望”はありませんが、実は”奇種”なのかもしれません。ううっ。

うちの場合も、最初から秋田に定住していたわけではなく、能登に縁があったようなので、だんだん秋田に移動したのではないでしょうか。能登経由で伊賀者が諜報活動をしていたので、九州の生存者の話を聞くことになるのです。忍者といっても、御馴染みのあの格好で、日本中を走り回っていたわけではなく、中継地点まで行って、バケツリレーのように、情報や品物を運んでいたのです。本当に御苦労なことでした。
[118]服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 21時31分41秒 ) パスワード
  

非常に「そうだったろうな」とは思うのですが

福井県?水津の戦い・・・・・・1181年9月6日で根井行親 vs 平通盛(根井の勝ち)
福井県?ヒウチケ城の戦い・・・1183年4月27日平泉寺長吏斎明 vs 平維盛(維盛の勝ち)
富山県?般若野の戦い・・・・・・・・・・5月9日で今井兼平 vs 平盛俊(今井の勝ち)
富山県?倶利伽羅峠の戦い・・・・・・・・5月11日木曾義仲 vs 平維盛(義仲の勝ち)
石川県?篠原の戦い・・・・・・・・・・・6月1日で木曾義仲 vs 平 維盛(義仲の勝ち)


この中で般若野戦いが盛俊なので(あれ?)と思いました。それに場所も能登だし。
盛俊どのは確か越中守だったような記憶です。

上記の戦いが日本海側の戦いなのでそこから東北に落ちて行くのに近かったのかしら?と。
[119]たまねこさんからのコメント(2002年04月22日 00時25分30秒 ) パスワード
  

北陸で、これだけ戦っていたのですか。

とすると、能登に縁があって、その手引きで…というのは、この戦いで落ちた人たちが、その後、何らかの形で接触してきたか、最後まで同伴していた者が、このあたりと繋がりがある人物だったか…だと思います。それほど付き合いの長い人物ではなかったと感じるので。身内から庇護を受けられるような雰囲気ではなかったと思います。どうでも良い存在だったのかも。
兄弟仲は、仲と言うほどのものではなく、父親の存在が大きかったようです。

たまたま生き延びていたから、復興の動きに乗せられたのでしょうね。とにかく、数が足りませんでしたから。結局、どこに落ちても、この道でしか生きていけなかったというのは、今思えば悲しい…

船は随分漕ぎましたから(自分は漕がなかったけれど)、結構な距離だったと思います。1〜2日では着きませんでしたから。最初に見た海は、瀬戸内海のようでした。

最期の姿は想像したくないのですが、恐らく、「山野に屍をさらさばさらせ」だったでしょう。戦って死んでいくのが、仕事なのですから。

もうずっと以前から、「海に帰りたい」と訴えているので、私の死後は太平洋の海に、猫たちの骨や形見と一緒に散骨してもらおうと思っております。これで、浮かばれるんじゃないでしょうか。
[120]服部 明子さんからのコメント(2002年04月22日 10時25分54秒 ) パスワード
  

ワタシは土地鑑が無いので
上記の戦いの確かな国名:どこが越中やら加賀やら能登やら区別がつかないのですけど

壇の浦から能登を目指したとしてもおかしくないですね。
たまねこさんの落ち着くべき場所は「海」ですか。

赤間神宮の前の海、
階段になってて
あそこに立つと吸い込まれそうで怖かったですよ。
高さはほんの60センチか1メートルぐらいなんですけどね。
他の所ではそんな風に思わなかったのですけどね。
[121]たまねこさんからのコメント(2002年04月22日 20時40分28秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。
一つ、思い出したことがあるので、書いておきます。

>ワタシは土地鑑が無いので
そんな、服部さん。私は土地鑑どころか、その時代背景すら、把握していない、トンチンカンな人間ですから、今後も、いろいろと御教授をお願い致します。まだ完全に思い出せないので、矛盾点はどんどん突いて下さい。よろしくお願いします!

壇の浦は下関ですよね。ここから、いきなり東北を目指そう!なんて、思っていなかったはずです。第一、ちょっと無謀じゃありませんか?
東北行きは、当初から計画、予定されていたものではなく、船を漕ぎ出したのは、あくまでも戦地から離れるためだったに過ぎないと思います。

夢の中で、合戦の現場の後に見た、海岸に首や死体が打ち上げられている場面、あれが最初の経由地だったのではないかと。船をどこかに置いて、海岸沿いを歩いていたのだと思います。潮の流れがわかれば、場所が特定できるかもしれませんが、このような漂着物があるということは、戦地からそう遠くはない海岸だったのではないかと考えます。
船や鎧の木片は、波打ち際に山積みされたままでしたが、死体と首は運び出され、松の木が並んでいる砂浜に、大きな穴を掘り、埋めていました。お坊さんが念仏を唱えている間、作業に加わった男たちも手を合わせていました。その作業が延々と繰り返されていました。役人らしき人物が立ち話をしている以外、みんな無言で、手馴れた感じで作業をしていました。哀れんでいる様子もなく、「今日も漁に出られない。かといって、きちんと弔わないと祟りがあるかもしれないからな」その程度のことを考えていたのでしょうね。

そこが自分のテリトリーだったのか、個人的付き合いがあったのかは定かではないのですが、そこにしばし滞在して、今後の身の振り方を話し合ったと思います。同伴者は東国武士と、東北に居を構えている豪族出身らしき人物だったので、おのずと北上することになったのです。伊勢や京都の出身者はいませんでしたけれど、身のこなしからして、それなりの身分の人たちだったと思います。

陸を行くより、船で行く方が安全だと考えたのでしょうか、長旅に備えて、食料や物資を調達しました。
しばらく進むと、高波に襲われて、船の漕ぎ手がバランスを崩して転落。波に飲まれてしまいました。船は大きく揺れましたので、転覆しなかったのが不思議なくらいです。水飛沫がすごくて、船に入った水を外に汲み出したりしました。
ここから、日本海を廻って、能登を目指したのでしょうか?この地に何かある、保護援助を受けるというよりは、単なる船着き場にしただけかもしれません。ここで船を下りて、内陸部をてくてくと歩いて行ったのではないかと思います。

その頃、ぽかぽか陽気の季節になっていました。東北地方は西日本より寒いでしょうから、ここに辿り着くまでには、だいぶ日数が経っていると思われます。
同行した人物については、何とか思い出そうと試みているところです。あの方々のお陰で、東北に身を隠すことができたのには、間違いありませんから。
[122]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月22日 22時18分42秒 ) パスワード
  

こんばんは。たまねこさんから語られるお話はとても興味深いですね。
当時の戦いが淡々と語られていて、なんだか私も納得できます。
平家物語は仏教の説話的ですものね。

私も往時のことを思い出せたらな、と思ってしまいます。
甲斐武田に関しても、やはりネット上ではこれ以上はわかりませんし、
図書館に行くしかないようです。甲斐の伊藤氏と関係があるのかも
わかりませんし、ちょっと諦め気味になってきています。
今度の福島行きでケリをつけようかと。
父は近くにある伊達家関連の桑折西山城に連れて行くとはりきっているの
ですが、関係ないと思うのですよね(^^;

何か収穫があることを願っています。
[123]川口 信さんからのコメント(2002年04月23日 16時53分08秒 ) パスワード
  

今日、図書館で「日本紋章学」(1383ページ)を借りてきて読んでいるところです。

 例によってシツッコク(何を隠そう、私も蛇年生まれ)「三鱗紋」を調べてみました。

 ビックリしました。使用家に藤林家、平野家、河野家がズラッと並んでありました。

 藤林家とは伊賀の忍者で大神氏の出、平野家は秦氏の出(平氏維将流の家もある)、河野家は越智氏河野支流でこのスレッドに関係する皆様の家々であります。

 また、「蒙古来襲絵詞」の中にある秋田城介会見の条に見える参侯人の図に、この紋章を付けているものがある。(文永九年の船旗に三鱗紋が付けてある)恐らく北条一族の者であろう。若狭田島村の秦氏の所蔵する旗に、この紋章がある。若狭は北条氏の頃は地頭得宗領であったから、北条氏との関係が深かったので、この旗も北条氏から下したものであろうと。書かれております。

 以上のようにこのスレッドの有明姓の調査に加わった人々は「三鱗」でも関係しており、今更ながら、血の濃さ・結びつきに驚かされました。話題が反れたかもしれませんが、参考にして貰えれば幸いです。

 
[124]服部 明子さんからのコメント(2002年04月23日 22時00分47秒 ) パスワード
  

面白い話が出て来ましたね。
「鱗」で繋がってるかも、なんて。
[125]たまねこさんからのコメント(2002年04月24日 00時25分56秒 ) パスワード
  

みなさん、こんばんは。

スゴイですね、川口さん。鱗で繋がっていたとは。この鱗紋は、結構古くから使われていたようです。鱗紋は数々ありますが、三つというのも、何か深い意味がありそうです。

おとといでしたか、船の航路について考えながら眠りに就いたところ、(サンフラワー号で旅している姿でも見ればよかったのですが)滞在先とおぼしき場所が出てきました。漁村とは全く違う、整然とした町並みや風景が見えました。何やら誰かが話し合っている様子でした。

一度目が覚めて、また眠りに就いたところ、今度はあの男性が出てきたのです。見たこともない人を二度も見るなんて、普通では考えられないっ。
どなたか、忠度の肖像画を御存知の方、おりませんか?確認したいのです。中肉中背で、腕は太め。目鼻立ちクッキリで、今では男前といえますが、当時はむさ苦しい顔だったのではないかと。涼やかで細い切れ長の目元、細い顎、薄い眉が美男子の条件
でしたから。因みに、先日、たまたま見かけた宗盛の肖像画、私のイメージしていた人物とそっくりでした。一言で申し上げますと、あの方は武士には向いておりませんでした。人柄は決して悪くありません。最期は、本当にお気の毒だったと思います。

どのような夢だったか、お話しておきます。
うっそうとした森の中で、多数の敵に追われる姿。剣を抜いて追ってくる者たち、大きな杉の木の上から、矢を放っている敵が何人かいました。待ち伏せされていたようです。道なき道を、矢を放ちながら逃げて行きました。それほど長い距離は走りませんでしたが、隠れるようにして、小川のある谷らしき所を降りていきました。敵は道に迷ったとみえ、男性は一息つきます。ところが、後ろを振り返ると、2m近くある大男が追って来るではありませんか。大男は動きが鈍かったので、向き合って、何度も切りつけたのですが、急所を外したのか、なまくら刀だったのか、なかなか倒れない。このままでは、辛かろうと、首を狙うのですが、右肩にしか届かない。それではと、至近距離で、心臓目掛けて矢を放ちました。
そこで、目が覚めてしまいました。最後まで見たくない夢でした…

あまりにもリアルな感触で、自分の中にある闘争本能を覗いてしまったような恐ろしさ… どんなに綺麗事言っても、自分にはこの血が流れているってことなのですね。
人を切って、生き延びてきたわけですから。

ところで、そりちゃん、福島で何か収穫があるといいですね。血縁関係はないけれど、うちの先祖と何度かお会いしている(同僚として)ようなので、ひょっとしたら、行動パターンが似ているのではないかと。
有明は本拠地が秋田ですが、分家は別の土地に散らばって、何ヶ所も転々とする傾向があるので、そりちゃんの御先祖も戦地を渡り歩いていたとか。(渡り鳥ですかね)
古くから農業や商業を営んでいる方なら、ずっとその地で暮らしていたでしょうけれどね。功名心もなく、名前も適当に名乗って、合戦に参加していたかもしれないですよ。でも、そんな奇特な人、いないですか…
[126]服部 明子さんからのコメント(2002年04月24日 00時56分22秒 ) パスワード
  

私のイメージでも宗盛は武士じゃないですね。
いい家の御曹子とは思いますが
家柄はいいから平和な時代に2代目として世間に出てたら結構良い人物で終われた
と思います。

ママの時子さんが武士の子とか政治家とかそういう教育をしてなかったんだろうな、
なんて思いました。
結婚するにはいい夫だったんじゃないかな、なんて思ったりしてます。



忠度の肖像画というのは見た事無いです。

腕が太いというのはそうだったと思いますよ。
なかなかの武人だったようですから。

2mというと為朝でしょうかねぇ。
ちょっと時代が違いますが。

「利家とまつ」に出て来た足立という尾張の美濃国斎藤道三に仕えてた人物も2mぐらいありそうですね。


源平戦あたりだったら「弁慶」でしょうか?


それとも、ひょっとすると、この夢は大河兼任の時代の夢だったのでしょうか?
落ち武者になってどんどん北上してる時の様子を夢に見てるのでしょうかね?
武士としては、何等かの形で戦争に参加して家を再興しなくてはいけないので
戦さがあれば飛び入り参加という事もあったのか。
テキトーにやってたというのも分かる気がします。
[127]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月24日 18時02分19秒 ) パスワード
  

たまねこさん、肖像画あるといいですね(^^)

<そりちゃんのご先祖も戦地を渡り歩いていたとか
そうなのかしら、どうなのでしょう?
でも、本家には昔は刀がゴロゴロあったそうです。良い物から悪い物まで。
悪いものは三つに折ってナイフのようにして使っていたそうです。
鎧とかも在ったらしいのですが、現在もあるのかどうかは知りません。
大槻家では「兵左衛門」「庄兵衛」「忠右衛門」を襲名していたようです。

また、鹿島神社の祭神タケミカヅチノミコトは武神なので、たぶん武家に
間違いないと思うのですが、大槻と反田の関係がはっきりしないので
もしかしたら大槻家を乗っ取ったのかしら、とか考えています。
でも、そういう事ってたぶんずっとご近所で話されると思うのですよ。
聞かないので、それはないかなと思っています(ホッ)。

たまねこさん、兵左衛門で何か感じたらご一報くだされ。
[128]服部 明子さんからのコメント(2002年04月24日 21時56分46秒 ) パスワード
  

>兵左衛門

平左衛門さんなら「平家」または「平氏」ってハッキリするんですけどね。
[129]たまねこさんからのコメント(2002年04月24日 23時07分55秒 ) パスワード
  

実は、今日一日、ずっと考えていたのですよね。東北に手引きしてくれた初老の男性の名前。○○左衛門か右衛門か。結局、わからずじまいでしたが、ここで兵左衛門さんですか〜。何か縁があったりして?

夢に出てきた大男、弁慶とか為朝とか言いたいところですが、全然違いますよ。だって、身なりが…。 ”樵”でも通用しそうな衣装でした。この夢は、東北で落ち武者狩りが始まった頃なんでしょうかね。もうその頃には、隠れおおせるだけの土地鑑があったようです。一人でいたところを、多数の敵に追われていましたからね。でも、武士より樵に囲まれる方が怖い。

やっぱり、落武者狩りは流行ってたみたいです。懸賞金目当てで。せっかく支度金を付けて里子に出した子供も、懸賞金欲しさに売られたとか、気に入らない隣人は、みんな平家にされて処分されたとか、ひどい世の中だったみたいです。平家を討って後悔した人々少なくはなかったと思いますよ。そういう人たちが集まって、反乱に参加したのではないでしょうか?

草薙の剣のレプリカは、確か4つあったと思います。こうなることを予測して、作らせておいたのですね。(賢い。)1つは海の中へ。残りは全国の平氏残党が持っています。年代ものですので、今となってはどれが本物なのか、全部揃えて比べてみないとわからないでしょうね、多分。剣と安徳帝はセット物ですから、本物は安徳帝の子孫の方々がお持ちでしょう。レプリカの方も、家宝として大切に守られているか、或いは神社に奉納されているかで、決して、土中に埋まって放置されている状態ではないと思います。
[130]服部 明子さんからのコメント(2002年04月25日 12時16分08秒 ) パスワード
  

ひょっとすると「安徳天皇」も4系統存在したのかも知れませんね。

後醍醐天皇の南北朝の戦いの時でさえ偽物を渡したなどと言ってますから。
こういうのは常套手段だったのかも。

だいたい平安末期にどうこうされたという品物だったら
今の私達の世代が真贋見分けるのって難しいでしょうね。
草薙の剣自体が神話の世界のお話の剣なのですから。
学者としては「認めない」のが安泰でしょうし。
持ってる家も世に出せないモノですし。
ロマンの彼方に埋もれているのが1番でしょうね。

たまねこさんの夢の中で本当はどこにあるのが本物で
どの伝説が本物の安徳天皇の居場所だったか
分かるといいのですけど。

あの落人の方はどうなって行くのでしょうね?
[131]たまねこさんからのコメント(2002年04月26日 01時03分25秒 ) パスワード
  

草薙の剣って、もうボロボロなんじゃないですか。大切に保管されているから、かろうじて原型は留めているものの。

安徳帝の身代わりだけでなく、替え玉何人かを用意して、いかなる時にも名乗りを上げられるように準備していたのだと思います。落ちた後も、各地で連絡を取り合って、無事を確認しつつ、復興作戦を練っていたと思います。いずれも失敗に終わりましたが。
安徳帝の伝説は、全国にどれくらいあるのでしょうか?替え玉が多かったから、同じ数だけ伝説があったのではないでしょうか。成長していく姿は人目に付かないわけですから、誰が剣を持って出て行っても良かったかもしれませんが。とにかく、家さえ復興すればよしと。でも、結局、安徳帝も出番がなく、宝の持ち腐れで終わっちゃったのですね。ご本人は、九州・四国あたりで、逃げ回ることもなく、のんびりと暮らしたのではないかと思います。しっかり、子孫も残して。

また今日も、あの初老の男性の名前を思い出そうと頑張ってしまいました。(けっして、暇ではないのですが)○○ベエか、○○ヘイか。○○衛門は新しい名前でしょうから、違いますね。
どうして、こだわっているのかといいますと、この人物も先祖に当たるからです。その昔、東国から東北に落ち延びて、200年の間に定住して、財を成していったようです。この初老の男性に対して、部下ではなく、父親のような気持ちが強く感じられました。
婿のような形で、その家にお世話になりました。子供が生まれる頃には、別の場所に家を構えて…周りは木に囲まれていて、馬が通れる道もなく、他に家もありませんでした。

人間の記憶って、勝手なものでして、思い出したくないような忌々しい出来事は、意識の奥深く隠してしまうのに(だから、夢で見るのですね)、楽しかったことは簡単に思い出せるのです。昔のことを覚えているというのは、特異体質に違いありませんが…

手製の弓を、せっせと作っていたのですよ。森の中を歩くわけですから、普通の弓だと、木々に引っ掛かってしまう。生活の知恵ですね。威力の程は?ですけど。他にすることがなかっただけかもしれませんが、小さな弓を作って、子供相手に教えたりしてました。庭にいくつも的を作って… 子供たちの顔まではっきり覚えています。なぜか、泣けてきます。しかし、これで人生終わっちゃったら、情けないかも?
[132]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月26日 02時41分18秒 ) パスワード
  

初老の男性は、将門系の落人だった方なのでしょうか。
それでしたら、同族を助けようと思うのも納得できますものね。
自分達も大変だったから。

<落ちた後も連絡を取り合って
以前日本全国の落人の里を調べたときに、地図上で見ると大きな山を一つ
挟んで在村しているところがほとんどでした。例えば福島県檜枝岐村と
栃木県栗山村とか。山深い土地なら連絡を取り合っていたとしても
近隣の村の人々の目にはつかないでしょうし、武芸の鍛錬をするにも
最適だったと思います。生活はかなり厳しいものだったでしょうが。

たぶん、近くの落人の里同士でグループ活動し、さらに離れた土地の同士と
連絡を取りあったりしていたのではないでしょうか。

<小さな弓を作って、子供に教えたりしていました。
忠度公のお気持ちがわかるような気がします。子供相手に、とはご自分の
お子様だったのでしょうか?
なんだかセツナイです。

ところで忠度公の画像を検索してみたら次のが引っかかりました。
たまねこさん、どうかしら?怒らないでね(^^)

http://www.niji.ac.jp/databases/db-room/syouzou/tt06/html/b01tt06c.htm
[133]そりちゃんさんからのコメント(2002年04月26日 02時46分58秒 ) パスワード
  

ごめんなさい。上のアドレス間違っていました。
こちらで行ってください。

http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/syouzou/tt06/html/b01tt06c.htm
[134]服部 明子さんからのコメント(2002年04月26日 09時50分53秒 ) パスワード
  

小さな弓というのはそれこそ鳥を射たりしてたのには最適だったと思います。
こちらの方が実用的だったのじゃないか、と。


そりちゃんさん

よく見つけましたね。
凄い!


さて、たまねこさん、いかがでしょう?
似てました?
[135]たまねこさんからのコメント(2002年04月28日 02時21分23秒 ) パスワード
  

そりちゃん、スゴイです!
あの肖像画、どちらかというと、身代わりになってくれた縁者に似ています。でも、顔の輪郭から飛び出た濃い眉毛と鼻の形、(美しく描こうと試みたのか)涼しげな目元に仕上げたクッキリ二重?は似ているかも?かなり笑えます。

>初老の男性は、将門系の落人だった方なのでしょうか。
そうなんです。将門の娘、滝夜叉姫が田沢湖周辺の村に住みついて、村人の祖になったという話も出てきましたが、娘とその家来以外にも、将門の血を引く者で、東北に定住した者がいたようですね。まだ、細かい事情は思い出せないのですが…

そして、またしても凄い!
>以前日本全国の落人の里を調べたときに、地図上で見ると大きな山を一つ
挟んで在村しているところがほとんどでした。
そうなのですね?私は地図を見ていないので、地理や位置関係はさっぱりわからなかったのですが、当時の住居跡が今は更地になっているのが目に浮かんで、山に住んでいたのがわかりました。

当時は、木が生い茂っていたので、森に囲まれた場所だと思っていたのですが、住居と庭があった場所は更地になっていて、周りは所々伐採された山のようです。玄関口から庭があった方向を見渡すと、右が急斜面、道路を挟んだ左手に伐採でハゲてしまった小さな山?が見えます。人が住むような場所ではないですね。タイヤの跡がありますが、開発途中で投げ出しちゃったような場所なのかも。

とにかく、不便この上ない場所。敵も来ないかもしれませんが、来たら逃げられない特殊な地形です。定期的に、物資と情報が送られて来ましたが、自分も時々、山を降りて狩りをしたみたいです。

>小さな弓というのはそれこそ鳥を射たりしてたのには最適だったと思います。
そうです。追いかけられた時も、鳥を求めて歩いていたのです。川で魚を射ることも多かったです。
…何だか、ここまで思い出して、ふと気付いたのですが、「お家再興」よりも日々の生活に明け暮れていたようですね。恨みや無念さが、あまり感じられないのです。自分だけが生き残ったわけではなかったので、「無事で良かったじゃないか」と、肩の荷を早々と下ろしちゃったのだと思います。もう家族には会えないけれど、それぞれ第二の人生を行き抜いて、今の家を守って行こうと決心したのかもしれませんね。恐らく、各地の残党もそうだったのではないでしょうか。これが、今に続く子孫繁栄の秘訣だったりして。もう、表舞台に出て来ない代わりに、衣食住足りた生活を保障されたのだと思っています。(悪運強いし)

たくさんの子供たちに、弓や読み書きを教えていたようですが、親戚の子たちも含まれていたようです。長男が10歳位の時、下の娘は3歳位だったのかな。長男はヒョロヒョロとしていて、祖父や母に似て目が丸い。娘は父に似て、目鼻立ちくっきりの整った顔立ちをしてました。これが秋田美人の原型…だったらいいですけどね〜。

[136]服部 明子さんからのコメント(2002年04月28日 13時07分45秒 ) パスワード
  

幸せみたいですね。
このささやかな幸せを守っていければいい、みたいな。
落人の生活がちょっと見えた感じ。
[137]たまねこさんからのコメント(2002年04月30日 00時26分17秒 ) パスワード
  

山を降りてから、最初に定住した場所は、家紋と関係があるとすれば、やはり田沢湖だったのかも。岩手と秋田の県境にありますし。

田沢湖町の由来について、こうありました。
近世まで,田沢の潟と呼ばれていた田沢湖の地名も,一説によれば,アイヌ語で「トッコニガタ」(竜の住む湖)から「タッコガタ」(辰子潟)となり現在の田沢湖になったといわれる。

鱗紋は”辰”の象徴で、「丸に三つ鱗」というのは、ひょっとしたら、三つの家を統合して、丸く一つにまとめてみましたとか?それとも、単に書きやすかったから、だったりして。
[138]たまねこさんからのコメント(2002年05月25日 00時09分51秒 ) パスワード
  

最近、家紋(丸に三つ鱗)にハマっております。(巳年のせい?)
どうも、「有明」姓は、鎌倉時代からずっと使われていたものではなく、曽祖父(江戸時代)以前は、別の姓を名乗っていたような気がします。何らかの不都合が生じて(またまた姓を名乗れなくなった)、近代に入り、昔の姓に戻したという可能性もありそう。
その点、家紋は、同族団の関係や由来についてもわかるものなので、面白いですね。同じ家紋を使用している家を調べているところです。
ここのところ、妙に引っ掛かっているのは、淡路氏。赤松一族とも関係があったのかどうか??

遅れ馳せながら、今日、「あきた 名字と家紋」丸山浩一著を入手しましたので、ここに書かれている「有明」姓について、ご紹介させていただきます。

『月が空に残っていながら夜が明けることを有明けというが地名にもある。九州の有明海が有名だが沿岸の佐賀・熊本には町村合併による有明町もみえる。江戸時代には長野県穂高町、新潟県神林村に有明村があり、穂高町の有明山は信州富士とよばれる。地名語源は不明であるが、その瑞祥性や商品にちなんで商家の屋号にも有明屋として使われた。
県内55世帯で大曲市30世帯と集中する。大曲では江戸期有明屋を称し文化・文政の頃肝煎になった系もあり名字帯刀を許されている。』
家紋:丸に三つ鱗、二輪に三つ鱗

以上です。平家落人とは一言も書かれておりません。
因みに、「小松」姓には、平家落人伝承を持つ家系があると書かれております。大曲には「小松」姓が多いので、こちらと混同した可能性もあるかもしれないと考えてみたこともありますが、家紋が違いますし、間違えるということは考えにくい。

以前、電話帳調査をした結果、九州には一軒もないことや、地名が由来でないこともわかっております。やはり、他言無用?の口伝があり、現在でも秘密が守られているということがわかり、安心いたしました。

さっそく父に、祖父の実家(本家だと思います)が商家だったかどうか尋ねてみたところ、「何だかよくわからないけれど、とにかく大きな家だった」…65年ほど前に訪ねて行き、それ以来、お付き合いはないので、そんな印象しかないのも無理はないですね。しかし、家系図も家宝もあるというのですから、それなりの家というのは信憑性が高いかも。田舎にしては(失礼!)、教育レベルが高いですし、貧乏でボキャ貧なのは私たちぐらいですか…。

前述の本に、『商品にちなんで…』と書いてありましたので、「和菓子屋でもやっていて、”銘菓・有明の月”なんてあったのでは?」と尋ねたところ、「そういえば、家に着くなり、いきなり大福を出された」と申しておりました。駅の売店にも出店?していたらしく、親戚一同、バラエティに富んだ職業でしたが、「畑を耕しているという話は聞いたことがない」そうです。お医者様も多いみたいですね。

そんなわけで、同族の方がこれを見ていたとしても、「アホか」と一瞥するだけで、御丁寧に名乗ってくださる方は、残念ながら、皆無に等しいと判断した次第です。

ただ、一つだけ気掛かりなことがあります。私の前世の、そのまた前世の時代の先祖(500年位前?)が、何か、教えに背いてしまったらしく(その時代には、よくある当たり前の行いだったようですが)、成仏できないで苦しんでいるようなのです。家がさらに没落していったことと関係があるかもしれない。それで私に一族の供養を頼んでいるようなのですが、一体、この時代にどのような事件があったのか?御存知の一族の方がおりましたら、こっそりと教えていただきたいところです。
[139]服部 明子さんからのコメント(2002年05月25日 11時08分19秒 ) パスワード
  

>何か、教えに背いてしまったらしく
>(その時代には、よくある当たり前の行いだったようですが)、


500年ほど前でしたら
銀閣が建てられ
応仁の乱があって戦国時代になって行き
また蓮如が石山本願寺を立て
各地に一揆もよく起きましたし


私の先祖は主家を出奔して戦国時代の風雲に飛び込みました。


たまねこさんのご先祖さまはどんな裏切りをなさったのでしょうね?
[140]いつも通りさんからのコメント(2002年05月25日 16時45分14秒 ) パスワード
  

> 今日、「あきた 名字と家紋」丸山浩一著を入手しましたので、
結構、彦熱と彦熱の総力ネットお調べの内容が裏付けされましたね。
しかし、ここのパワー大したもんですね。
ほとんど違わないじゃないですか?

しかし、このスレも352KBとえらく重くなってきましたね。
続編のスレをお立てになられると良いと思いますが...。
[141]たまねこさんからのコメント(2002年05月28日 00時17分20秒 ) パスワード
  

本当に、重くなりましたね。(…スイマセン)
別スレッドを立てていただくとしたら、「全国の鱗紋集まれ!鱗紋友の会会員募集中!?」ですかね〜。北条氏に限らず、三つ鱗は桓武平氏の子孫が使うことが多いとされていますから、ひょっとしたら、これを見ている方に中にもいらっしゃるかも。
家紋の由来について、情報を募りたいですね。

手元にある本で、三つ鱗紋を使用している姓を探していたところ、”九曜紋”でしたが、『戸沢(澤)』姓に、こう書かれておりました。

桓武平氏貞盛の子孫で平兼盛が陸中国雫石荘戸沢(岩手県雫石町)を領し戸沢氏を称した。兼盛は鎌倉初期に羽州鳳仙台(田沢湖町)に移り同地の豪族に成長。南北朝期の戸沢一族は岩手の雫石町と仙北郡にわたって勢力をもった。

戸沢氏は後の戦国大名ですか。兼盛が貞盛の子孫とは知りませんでした。(無知…)

実は、私が先祖探しをしようと思いたった時、百人一首や千人万首などの和歌を探しました。ここに先祖の謎が隠されていると思っていたのですが、最初に目に入ったのが、どういうわけか兼盛。歌を見ているうちに、なぜか、この掲示板を発見したのですよ、確か。怪しい巡り合わせとでもいいましょうか。

>たまねこさんのご先祖さまはどんな裏切りをなさったのでしょうね?

私のDNAからは、出世欲や功名心は殆ど感じられません。恐らく、主君に背くことができず、教え(信仰)に背いて、罪なき人々を苦しめたのではないかと…
結局、味方に騙まし討ちに遭い、手柄は横取りされ、汚名を着せられたまま、討死、或いは自害に追い込まれたのだと思います。それ以来、「神も仏も身内も」信じることができないような生活を余儀なくされたのかも… 生きる為に職人、商人になったということですね。或いは修験山伏や、闇の世界で暗躍していたとか。

しかし、戦国時代なら、こんな話、いくらでもありそうですね。以前の姓がわからない限り、調べようがない… 後は家紋の鱗に賭けてみるか!?(魚屋の鱗だったりして)

[142]いつも通りさんからのコメント(2002年05月28日 02時11分21秒 ) パスワード
  

>たまねこさん 重すぎるので(書きたいことがあったので...)

 全国の鱗紋集まれ! 平家系有明氏vol.2
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100304_2.html

のスレ勝手に立てちゃいました。残念ながら
> 全国の鱗紋集まれ!鱗紋友の会会員募集中!?」
の全文字が入りませんでした。重ね重ね(…スイマセン)
[143]しんさんからのコメント(2005年01月15日 12時25分52秒 ) パスワード

みなさん初めまして。
去年30歳になり急に自分の家系やルーツを知りたくなり、最近少しずつ調べています。
姓は平、家紋は五七桐、今分かることは、自分の平姓は仙台から来ているみたいです。
どなたか、知っていることがあれば助言してください。
[144]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月15日 13時03分18秒 ) パスワード

しんさん

初めまして。

桐紋は使用度が高いそうですよ。

後醍醐天皇が足利尊氏に下賜して以来(価値が暴落して)あちこちの家で使われるようになったそうです。
豊臣秀吉が織田信長から下賜されたことは(桐紋の格が1番下がった話として)有名ですよね。
秀吉には名誉この上もないことだったけど。
織田信長にしてみれば将軍足利義昭からもらって有難迷惑だったんでしょうね。



家紋は1家に1紋というわけじゃないですからいろいろな家で併用されたので
しんさん宅は他にどんな紋を御使用なのかそこが分かると良いですね。


平さんは坂東平氏や伊勢平氏が有名ですが堂上平氏もいらっしゃるわけで
青森の平さんでしたら平家落人かな?と。(代表的美女では鈴木京香さんだそうですよ)


ご親戚の長老などに「うちの先祖は?」と話題を振って系図を持っている方を聞き出すことでしょうね。


平姓では
宗、伊勢、津田、岩城、生島、織田、神部、島、中川、柘植、久留、坂部、宮川、斎木、薬師寺、
木原、長田、長屋、大塚、東、片山、紫野、高山、中根、今、小南、巨勢、橘、今堀、山中
その他が使用だそうです。
[145]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月16日 03時25分05秒 ) パスワード

代表的なところでは良文流の高山氏が五三の桐紋だそうです。
[146]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年01月16日 09時39分16秒 ) パスワード

高山氏で著名なのは「高山彦九郎」と「高山樗牛」で

高山彦九郎は桓武平氏秩父系、上野国緑野郡高山出身で、彼は上野国新田郡細谷生まれで太田に神社があるそうです。
小学校の歴史では御所を遥拝している尊王の士として習った記憶。
バリバリの南朝方。


高山樗牛は羽前鶴岡の人で
ここの家紋が五七の桐紋だったら近いかもですね。


名字や家紋からは分からないですね。いくらでも変化しますから。


確かなのは
明治の初めの御先祖さまの戸籍を手に入れることですね。
江戸時代にどこにいたのかだいたい分かるでしょうから。

それから長老にあたる一族の老人からお聞きしたり系図を持っている人を捜すことでしょうね。

お彼岸やお盆などの機会が絶好のチャンスと思います。
[147]しんさんからのコメント(2005年01月17日 09時35分39秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんありがとうございます。自分はまだまだ勉強不足なので,これから平家のことを学んで行きたいと思います。
[148]管理人の代理さんからのコメント(2005年01月17日 15時24分09秒 ) パスワード

スレッドが長くなりましたので一応ここで終了させて頂きます。
このスレッドに関するレスは新しいスレッドをお立てになってください。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.20 by Rapha. WEB design Rapha.