新風会(アーツ) 近藤栄次朗 式日
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 投稿番号:100217 投稿日:2001年12月11日 06時53分16秒  パスワード
 お名前:源三
源平戦前後の九州の情勢

コメントの種類 :人物  パスワード

源平の戦いのプラスマイナス100年位の期間から、九州における平家の経済的基盤
つくりや、平家勢力、源氏勢力の変遷を見ていきたいと思います。

[1]源三さんからのコメント(2002年01月05日 01時56分15秒 ) パスワード
  


頼朝は先に平家と極めて親密であった●宇佐大宮司公通もおもいきってその罪を
許すこととした。安楽寺別当以上の大領主であるがこれは☆源氏も尊崇する八
幡宮の総本山の首長であることを考慮し別格として処分を思い止まったものであ
ろう。なお★公通は実は源義家の弟・義綱の実子で、宇佐公基の養子に迎えら
れた人物であって、★源氏と血縁のある人物であったことが(●宮内庁書陵部蔵
文書)一面寛大な処置になったのかもしれない。(中世の九州・外山幹男・教育社
歴史新書54p59)

清和天皇−貞純親王−経基王(賜源姓・源経基)−−−−−−−−−−−

−満仲−−頼光(摂津源氏)−頼国−頼弘−家光−淳国−・・・
| ├頼親(大和源氏)−・・ ├頼資
| | ・宇野・隈部祖 ├頼実
| | ├実国┌明国−行国−頼盛−行綱
| | | | ┌ 光定−義職−義定−・・
| | | | | ★(波多野義通へ養子)
| | | | ├頼重(称・陵助・みきさぎ下総
| | | | |下河辺住源義経一時滞在)
| | | | ┌光重★堀祖・堀三郎光重
| | | | | |実父は土岐(祖の)光信
| | | | | |源頼朝に仕え志水冠者源
| | | | | |義高を討つ後、難を逃れ
| | | | | |大友能直に寄食する。
| | | | | └★重政(★豊後大友家臣)
| | | | | (堀源大夫重政・次男)
| | (多田)├頼綱−仲政−頼政−仲綱(伊豆国司)
| | | └頼行=義行・波多野義通子
| | | └宗頼−頼重(小国)−頼衡┐
| | |┌−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
| | ||安富(住肥前国高来郡東郷深江村地頭職)
| | |└ 頼清−頼泰−泰長−深江泰重(号深江)
| | | 鎮西引付衆| (佐賀藩士)
| | | | 安富 安富
| | | └貞泰−・(略)− 純治−純泰
| | | |(安徳家へ)
| | | ●土岐(祖) └安徳純俊
| | ├国房−光国−光信−光基・・・
| | |(鳥羽院四天王↑ |
| | | (・深栖三郎)→└光重(★源仲政へ養子)
| | | |(号波多野御曹司)
| | | (源)└光定(伊勢守伊勢住)
| | | |(伊勢で源氏方)
| | |(★波多野義通へ養子)→└義職
| | |蔵人三郎・伊勢で源氏方→└義定(宇治)
| | ├頼仲 ├宇治朝定
| | ├師光 ├白河義典
| | | └中島義康
| | |
| | ├頼房 鎌倉幕府初代
| |(河内源氏祖) └頼任 ┌義国(新田足利祖)↓征夷大将軍
| └頼信−頼義−義家(八幡太郎)−義親−為義−義朝◆源頼朝
| |
| ●├義綱(賀茂次郎)−義仲(美濃祖・四男、他兄弟六人
| | | | 賀茂・宮・石橋・★服部祖)
| | | └盛宗(美濃祖) 討伐受け自害)
| | | └盛俊(★石橋祖)・・★筑後石橋
| | |氏(堤氏家臣・筑後はブリジストン石橋
| | ├義弘 └ 氏?有名(佐賀藩士石橋氏)
| | ├義俊(馬渡祖)−・・佐賀(藩士)馬渡氏。
| | |(白河上皇時代延暦寺僧兵鎮圧の冤罪
| | |を受け美濃国馬渡庄城主の源義俊が
| | |左遷され松浦党を頼り土着し名を本馬
| | |八郎義俊と改姓しその島名を馬渡島と
| | |改め、自ら★馬渡氏を名乗り松浦一党
| | |となる)→馬渡美濃八郎蒙古襲来功→
| | |→肥前国武雄の川古に移る。川古城主
| | ├義明
| | ├義範
| | ├義公
| | 肥前 ├義直
| | ★加茂氏→ ├義成−義勝−義村−義真−@
| |系図勅命下向 |@義賢−義遠(従四位左馬頭)−A
| |1176 8肥前鏡|社神事の勅命受け松浦郡草野庄に
| |下向す現七山 |村滝川居住し子孫、河上社大宮司
| |職(肥前一宮) |
| | └●宇佐大宮司公通(●宇佐大宮司
| | 公基養子)−●つづく
| |
| |A−義氏(弾正少弼★河上社大宮司肥前松隈氏系図)
| |
| └義光(新羅三郎・佐竹・武田・小笠原・南部などの祖)

├満政(八島・木田・浦野・河辺・山田・小川・高田・足助・水野・小島・白川・吉野・
| 緒川・善積・辻・平野・彦坂・則松・足助・藤野・富田・河辺などの祖) −−

|−忠重−定宗−重宗−重実−浦野重遠-山田(河辺)重直-重満−・・
| ├木田重長 | ├足助重長-・重範
|鳥羽院北面四天王→└源重時−・・ └小河重房-重時└高田重宗
| (水野)└・・重定●
| (★豊後大友家臣)
├満季(高屋・小原・岸本・小椋・大町・石塔など祖)
| ┌行頼(東祖)
| ├頼季−忠季(土水祖) (伊那) 三河小島
├満快−満国−為満−源為公(伊那称信濃守)−為扶−公家・・忠家
| ↑ (妻清和源氏惣領↑源頼信娘・従五位下) | | └忠次
| ↑ ! ! 関東郡代↑
| (従五位上下野守・相模介 ) | | 徳川家康近習)
| | └林公扶 泉
| ┌‐−―−−−−−−−−−− −−−−−┘ └扶次→公季→扶衝
| | →−公衝→親衝(武勇の誉れ高く将軍源頼家遺子千寿丸を奉じ北条
| | 氏を討とうとしたが計画が漏れ、失敗し行方くらます)
| |
| ├為衝(中津乗祖)
| ├為邦(村上祖判官代)-国高-国忠(頼朝奥州戦功)-国平(夏目)-国宗
| ├為実(依田祖)
| ├為基(片切祖・源八)−(略)−・・・片桐勝元(近江住豊臣秀吉七本槍)
| └為氏 (堤祖・称堤源三) └貞隆(弟)(大和小泉藩主)−・・・
├満生
├満重−重長(稲垣祖?)
└満頼

※やはり今回も系図がちゃんと出ませんね?なんでだろ?
[2]源三さんからのコメント(2002年01月05日 02時03分05秒 ) パスワード
  


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前々回の、北条時宗は明子さんの御先祖の河野通有かっこよく登場
しましたね。河野家は九州にも土地があり、また、恩賞地がまたまた
九州に貰ったのでしょうね。大分の河野氏も元寇後来た人達みたいだし。
特に大友家の支族で国東半島を支配していた田原家と縁戚関係あったみたい
だし。肥前佐賀にも多くはないけど河野氏がいるのもその頃居住したんでしょうね。
佐賀出身の河野姓で有名なのは、現広島東洋カープの河野投手がいます。
大友頼泰も前回、前々回の場面で石土塁完成で島津殿と少弐殿と九州三人衆揃い
踏みで登場。石土塁完成で御家人達に偉そうに指図していました。謝国明に向かっ
ても偉そうに喋ってた。そらそうだね。少弐氏と共にもう一人の日本側の総大将とし
て大友頼泰は御家人を指揮しがんばったんだもん。

大友頼泰は子息・親時と共に志賀島攻防戦で見事、蒙古軍を撃退。
安達盛宗(泰盛二男)も志賀島攻防戦でがんばった。
子息、大友貞親は河野殿や、白石殿と共に夜陰に紛れて小舟で蒙古船団に夜襲
を連日連夜敢行して見事な勝利。

前回の場面ではやっと、大友頼泰が数回本格的なセリフで喋った。嬉しい。
島津殿も。何か偉そうに軍議の席で少弐殿の横でワーワー喋ってましたね。
御家人達に向かって。でも長門を守護した、大友頼泰の娘婿の北条宗頼(時宗
末弟)はとうとう出てきませんでしたね。うーん残念。千葉介殿、龍造寺殿もしかり
、竹崎を救った、白石殿も全く出てこなかったよね・・・。

大河「北条時宗」では「蒙古襲来」の場面が余りにも少なかったから、今度は、
「蒙古襲来」だけの番組を希望したいな・・・。

必死に戦った九州の武士・鎌倉武士などちょっとしか登場しなかったものね。
深堀、千葉、龍造寺、白石、大村、有馬、高木、後藤、まだまだいっぱい・・・。
---------------------------------------------------------------------
最近気になるのは、肥前の日向太郎通良、弟・幸通から小浜、西郷、綾部、藤木
、土井、白石、嬉野、多比良、本告氏が出る。これらの一族は平家には味方しないで
多分九州の中で平家に貿易などの利益を独占されてたからだろう。よって源氏方
に味方したりしてとことん平家に逆らっていた。彼等は皆、名前に一字、「通」の字を
代々名乗ってます。(これは伊予河野氏も通字は通ですよね、関係あるのかな?)

日向太郎(藤原)通良や弟・幸通は、大治年中(1126〜30)に肥前国養父郡綾部庄
大進房跡に兄と共に下向してきた。その子孫は小浜、西郷、綾部、藤木、白石、
土井、嬉野氏がでる。兄・日向太郎通良(通信の子)は鎮西の源為朝の反乱の後、
これに呼応するかの様に、源氏の縁をもって平家に対して反乱を起す。平清盛は
すぐに筑後守平家貞を派遣し数ヶ月の激しい戦闘の後、これを鎮定する。(1160)
通良一族は敗れ多数が肥前国神埼郡の綾部城で戦死、通良は捕われて惨殺され
首は京都七条川原の獄門に懸けられ晒された。源氏の御代になり源頼朝は綾部
一族(通良孫)の旧領を回復して(その他の一族も)復帰させた。

※この反乱の平定で平清盛は一挙に二階級特進して正三位に叙せられる。

この反乱などは平安末期、平家一門の昇殿や施政に対して、新政権に従わない武士
達が各地で不満を爆発させる。伝えられる日向太郎通良の反乱も、平家に対する
不満が昂じ、法秩序の崩壊が引き金になっていた。保元元年(1156)に鎮西八郎源
為朝が九州総追捕使の命で下向、しばらくして通良は解任させられてしまう。
これと同じ頃、為朝の乱に呼応するかの様に日向太郎通良も綾部んぼ城に立て篭も
って反乱を起す。この謀叛は他の史書にも登載されており、源平盛衰記や歴代鎮西
要略にも詳しく述べられている。

尚、日向太郎通良子孫、綾部、白石、嬉野氏は藤原鎌足後裔を称している。
しかしそれ以前から嬉野氏を名乗る一族がいて、近世は大村藩士になってるものは
もと嬉野氏は、伊予の住人で河野高橋前司の霊為は、天慶の乱後に越智姓を名乗り
正暦五年(994)大村直澄に陪従した七氏の一人であるとしている。また深堀文書には
古代日奉姓ともあり、いずれも定め難い。嬉野氏は始め河野姓を名乗り、天文年間
(1531〜54)に嬉野刑部大輔が、嬉野、鹿島を領して嬉野をもって氏とするとある。

姓氏家系大辞典では河野中興の祖、嬉野刑部は城郭を浅浦に築き、天文年間に
藤津郡浜城で竜造寺隆信と戦うこと数回、力尽きて戦死したとある。またこの刑部大
輔の嫡子が大和守通広という。
弘安四年(1281)の蒙古合戦で勲功を賜わった嬉野犬童黒童の時、※すでに嬉野氏
(河野系)が在住して、しかも綾部の日向太郎通良(藤原姓)を祖とする白石宇礼志野
氏とは異なる出自であることがいえる。

蒙古合戦で勲功賞を賜る肥前の武将は、次の通りである。(一部)
肥前国 山代又三郎栄(松浦党)
〃 宇礼志野六郎道氏子息犬童黒童
〃 曾根崎淡路法橋慶増
〃 青方弥三郎家高
〃 深堀弥五郎時伸
〃 墓崎後藤十郎宗明法師子息五郎頼明
〃 藤津庄大村又二郎家信

★「嬉野氏系図」藤原姓(略)

通信−通良(日向太郎)
|(肥前権守、1126〜30に肥前下向)
└幸通−(小浜)通弘−白石通益−通常−通遠−通清−通平−通氏(六郎)−

┌犬童黒童(蒙古襲来勲功)
−通秀−通有−通直−通頼−通家−通臣−通治(宇礼志野嬉野)−通正−通信
−通久


★「嬉野氏系図」大村藩新撰士系録(略)
河野氏は其の先孝霊天皇より出て、延喜のころより(伊)予州に住す。
河野高橋前司霊為は「孝霊天皇の苗裔よ以て霊為姓、天慶乱後故有って越智姓
云々」是始祖也、正暦五年河野某奉陪従。直澄公大村に来たとき「陪従の七氏の
一つ也」その子孫連綿と絶えることはなかったが、しかるに戦国の際に家よ焼失して
家系は不詳。天文年間に嬉野刑部大輔は累世藤津郡嬉野鹿島を領して嬉野氏と
なし、是河野中興の祖也。
嬉野刑部大輔−通弘−某(元歌)−某(縫殿助)−某(与四右衛門)

ようするに、肥前の嬉野氏には伊予河野系と藤原姓・日向太郎・藤原通良系
があるってことですね。
しかし、両者に共通するのは、代々の通字の”通”の文字
うーん両者は何らかの関係はあると思うのは僕だけではないでしょうね・・・。
とにかく日向太郎(藤原)通良の弟・幸通の末孫・小浜、西郷、綾部、藤木、白石、
土井、嬉野(宇礼志野)は藤原鎌足後裔の藤原姓。

嬉野(宇礼志野)氏に二流派あり、前期・嬉野(宇礼志野)氏は伊予から来た、
大村直澄に臣従してきた河野氏系であった。
後期に(白石)通治から、嬉野(宇礼志野)姓を名乗る、白石氏が出る。
その嬉野氏は、藤原姓・日向太郎通良・弟・幸通系。


[3]服部 明子さんからのコメント(2002年01月05日 22時32分43秒 ) パスワード
  

凄いスレッドが立ちましたね。
感激してます!
[4]源三さんからのコメント(2002年01月08日 23時57分45秒 ) パスワード
  

服部さん、こんばんわ。喜んでいただき何よりです。
服部さんの御見解はいかがでしょうか?
肥前の河野氏とか日向一族と伊予河野氏との関係を。
僕はなにか興味があります。引き続き僕は勉強したい事柄です。

[5]松隈篤郎さんからのコメント(2002年08月16日 15時23分29秒 ) パスワード
  

パソコンを始めて2月一寸、何気なく我が姓を検索し本ページにたどり着き皆様方の勉強ぶりに驚いて、コメント挿して頂きます。 私の4代前に小城藩士松隈享安{医者}の跡目相続後いまの姓を名乗ってその出は同藩士松田氏次男と迄しか解りりません{除籍謄本による}代々早折で分家のため殆どいい伝えが無く残念に思います。古文書などの読み下しは不得手な小生なのでいつかは又よませてください。
皆様の御健精をお祈り致します。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年08月16日 23時30分19秒 ) パスワード
  

松隈さん

初めまして。


松隈氏は私の持ってる資料では
肥前の松隈氏は清和源氏賀茂氏の一族で
筑前の松隈氏も源氏
と出ています。
[7]嘉村孝さんからのコメント(2002年08月22日 20時21分00秒 ) パスワード
  

後鳥羽上皇について書かねばなりませんが、たまたま
こちらを発見したので、河野さんのことをかきます。
佐賀の河野は一つ、元こう恩賞地だった神埼の荘にかかわるかと思います。
ここは3300町歩といわれますが、小さな保単位で恩賞地になりました。
その中に河野さんももらった記録があります。
[8]曽根崎さんからのコメント(2003年02月03日 13時26分33秒 ) パスワード
  

御先祖様の事を調べていたらここに着ました。
私は2.源三さんのコメントの中で、「蒙古合戦で勲功賞を賜る肥前の武将」で
出てきました「曾根崎淡路法橋慶増」の子孫の曽根崎と申します。
色々調べていましたが資料が少なく御先祖様の事を調べることが出来ません。
アドバイスを頂けると幸いです。
家の家系図ではもっと前の御先祖様は奥州から肥前国へ来たみたいです。
[10]服部 明子さんからのコメント(2003年02月03日 15時02分31秒 ) パスワード
  

曽根崎さま

源三どののメール住所は上記より下記のように変更になっています。

<<<hbc24847@mopera.ne.jp>>>

ウイルスが飛んで行かないように括弧でくくっておきました。

何か分かると良いですね。
[11]曽根崎さんからのコメント(2003年02月03日 15時36分02秒 ) パスワード
  

服部さま有り難う御座います。
頑張ってみます。
[26]sakさんからのコメント(2018年05月14日 13時45分58秒 ) パスワード

「越智姓 嬉野刑部大輔大和守 通廣」から下の家系図があります。

通廣(広)-通明-通直-(その後「通」を使った名前はなく、ここから河野、長澤と氏を改)と続いています。

その下に「系列河野○○祖」「系列嬉野○○○祖」と書いてあります。

元歌の方は縫殿助-與四右ヱ門-縫殿助まで記載がありました。

通明の代から、天正年中民部大輔純忠懇命に…大村…帰る…食録二百石を賜ふ…などと記載がありますが、漢文で書かれており難しいですね。

メルアドはダミーです。
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