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 投稿番号:100213 投稿日:2001年12月04日 23時01分30秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平宗清裔:観世・伊賀服部・本能寺真相

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

平 宗清が源 頼朝の1命を助け
後に柘植に土地を賜い
伊賀の実力者となったことから

平 宗清を祖として新しい発展がありました。
その中の1つが能の観世流の発展です。


観世流は本姓平氏俗姓服部氏、後結崎氏、後観世に改めました。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時05分28秒 ) パスワード
  

<初代>
弥平兵衛宗清の裔・服部治郎左衛門平 信有3男・結崎清次が観阿弥を称しました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時07分02秒 ) パスワード
  

<2代目>
元清は世阿弥を称しました。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時18分45秒 ) パスワード
  

2代目元清・世阿弥の息子の1人である元雅は十郎大夫称越智
(どうしてここで越智を称したのか分かりませんが)

2代目元清・世阿弥の弟である三郎の孫・吉久は越智氏の宮崎弥左衛門に跡目を継がせています。
(あ〜、ややこしい)
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時24分13秒 ) パスワード
  

<3代目>

まず最初に父・観阿弥と子・世阿弥の確執はよく知られています。


観世3世は初代・観阿弥(結崎清次)の4男四郎大夫の子・観世元重となり
音阿弥または宗休と称しました。


<4代目>

この子・政盛が4世を継ぎました。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時25分46秒 ) パスワード
  

<12代目>

12世重賢は後に服部周雪を称しています。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 23時55分52秒 ) パスワード
  

以上が私が調べられる範囲の観世家の流れですが


もともと伊賀の服部家と楠木家とが親戚だそうで
本来は南朝方なのに
観世さんの方は足利幕府に気に入られて「能」の家ということで
現在に繋がって日本のお家芸として厳然たる地位を占めていらっしゃいますねぇ。


これ以上書くと(あそこの服部家は)という話に口が滑るので
ここら辺りで止めておきます。


この能系統の伊賀の服部家の人物が徳川家康と2代目将軍秀忠に係わってるのは
私も知ってますが、この人物は謎が多いとされて歴史の中ではあんまり取り上げられてない
ですね。


私も、三河に移住した服部半蔵系の人物だ、と思います。
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 00時01分59秒 ) パスワード
  

以下さちこさんからの書き込みの1部:例によって無断転載、ごめん。


日曜日に弥富の服部家ホンヤさんへ行きました。
服部家一族という各地の服部家の由来や家系図を書いたもののコピーを見せていただきました。
縁側でお茶をすすりながらポカポカ暖かくてこのまま寝ちゃいそうなんて思ってみていたらた
ら。
二代将軍秀忠の生母お愛は、西郷清貞の養女で実父は伊賀の服部平太正尚。
というのがでてきたのです。

これってよく知られてることなのですか?
私は初耳だったのですが。
それともこんなの嘘だよ本当はこうだよとか、
何かご存知の方がいれば教えていただきたいのですが。

その系図は、伊賀の服部某からはじまっててやたら某が多いのですが、
観世家と祖を同じくする服部家ということです。
そしてその正尚のいとこが名張城主服部保章で
その娘が明智光秀の妻となっているのです。(女子としか書かれてません)
光秀のプライバシー(?)てあまり知られてないですよね。
私が知ってるのは細川玉子が光秀の娘だったことぐらで。
光秀の妻って?

そして正尚が本能寺の変を家康に告げたとあるのです。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 00時05分07秒 ) パスワード
  

>そして正尚が本能寺の変を家康に告げたとあるのです。

歴史の表舞台に書かれることはここから以降のお話ですね。
家康が伊賀の忍者の案内で伊賀越えして無事に三河に辿り着いたと。
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 00時15分55秒 ) パスワード
  

確かに千賀地の服部半蔵さんのお兄さん達は三河に移って徳川家康の配下にいたし
三河・岡崎には伊賀神社だったかそういうお社があるし

その一族の1人は名張を貰ってたのですか。
これは知らなかった。

明智光秀の妻の話も知りませんでした。
知ってるのは婚約時代に疱瘡にかかって顔がぐしゃぐしゃになったから
姉娘を替わりに差し出そうとしたら光秀が自分の妻は彼女しかいないから
と断わった、って。
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 01時00分36秒 ) パスワード
  

さちこさん


弥富の服部家ホンヤさんに匹敵する家として
三河?尾張?の猿投の服部家というのも南朝方の凄い家だそうで
この家が今でも存続してるのかどうか知りませんが

ここの家も徳川家との結び付きが非常に強いはずです。
服部半蔵はこの猿投の服部家にも出入りしてるそうなので。

この家、捜してみません?
[11]さんからのコメント(2001年12月05日 10時39分39秒 ) パスワード
  

>日曜日に弥富の服部家ホンヤさんへ行きました。
>服部家一族という各地の服部家の由来や家系図を書いたもののコピーを見せていただきました。

いいな〜、うらやましいです。

>正尚のいとこが名張城主服部保章で
>その娘が明智光秀の妻となっているのです。

これは聞いたことがあります。

明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、実は舅の服部保章の差し金ではないか、という説があるとも・・・

名張も伊賀天正の乱のときに壊滅的な被害を蒙っていますから。
服部保章は信長を相当恨んでいた筈だから、という訳です。
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 11時52分14秒 ) パスワード
  

という事は我が家は宿敵織田信長を明智を使って殺害し頬かむりした、と?


我が家は村人数万人を織田信長に殺されているので
その仇を取ったという訳か。


さちこさん
これはホンヤさんに是非ともお尋ねしてください。


一応ホンヤさんからは「信長を殺したのは光秀ではない」とはお聞きしてましたけど。
[13]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 12時24分36秒 ) パスワード
  

>服部家一族という各地の服部家の由来や家系図を書いたもののコピーを
>見せていただきました。

隈さん
これはホンヤさんによると本屋さんで手に入るとお聞きしました。
でも私には分かりませんが。

さちこさんがお聞きしてくれるかも。
[14]さちこさんからのコメント(2001年12月05日 22時26分31秒 ) パスワード
  

本能寺の変は今までも色んな説がありますが、
これは役者が揃ったなと言う感じですか?
家康の嫡男が信長に因縁つけられて自害させられてますよね。
家康も信長に恨みがあるはず。
本能寺の変の時最小限のお供だけ連れて堺見物してたとか。
無防備だったともとれますが、
側近にしか知られたくないことがあったとも考えられる。
関西にいたのは本当に偶然?
光秀は備中に向う途中急に進路を変えてるけど、
何か情報が入ったとか?
忍者を介して連絡を取りあってた可能性もありますよね。

本能寺の変、家康黒幕説のひとつに天海僧正が光秀だったというのがありますね。
光秀=天海は無理があると思いますが、この人は確かにくさい。
比叡山にいた頃に信長の焼き討ちにあってたと思いますます。
今の東京の上野にお寺を建てたりとかよく覚えてないですが、
上野にゆかりのある人。不忍池なんてあったような。
上野という名は藤堂高虎が伊賀上野を偲んでつけたと聞いたことあるけど。

この件では本当に色々頭の中がリンクします。

>疱瘡にかかった妻をもっらた。
光秀っていいヤツじゃん(泣)
肖像画見ても優しそうですよね。やはり単独の行動ではないような。
単なる怨恨だけでなく、
自分が汚名をかっぶても信長を倒したほうが世の為と考えたかも。
戦国の世を離れて静かにくらしたかったかもしれません。

光秀の妻は服部家の人なのですね。
じゃあ玉子は服部家の妻の子?

平熱名物オカルトがかりシリーズ。
私の母が細川家で先祖に玉子がいると言う話をきいたことがあるのですが。
詳しくは判らないのですけど。

いちどホンヤサンにもお話しお聞きして調べてみます。

>明子さん
 猿投の服部家ですか?
 私の場合地の利がロスよりはいいですから協力できることがあれば是非!

例の服部家の系図の本ですが、
気になったのでお借りしてコピーしました。
B4サイズで50枚ぐらいかな?
ちゃんと明子さんと隈さんの分もコピーしてきましたよ。
何かの機会にお渡ししてもいいしメール下されば送りますが。


[15]服部 明子さんからのコメント(2001年12月05日 22時42分05秒 ) パスワード
  

あらら嬉しい!
是非!
コピー欲しいです。


服部半蔵も怪しいですよ。
半蔵は家康の嫡男信康だっけ?のおもり役だったんです。
でもあんな事になった。

それで関係者が信康と築山殿の処刑をさせられることになって
半蔵は築山殿を斬ったのかな?

信長を暗殺したい動機、充分ありですよ。

この話題は別スレッドを立てましたから向こうに書き込みを整理したいと思ってます。
[17]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時11分39秒 ) パスワード
  

以上「本能寺の変の真相」につきましては別にスレッドをたてさせて頂きました。
[18]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時31分59秒 ) パスワード
  

隈さんお書きの川口家+観世流藤本家についての書き込みをこちらでも再アップ:


「向島岩子島史」より;
「川口家・・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、
宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、
宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞ヲ養子トス、
家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字」

以前服部さんが紹介して下さった家紋のHPを覗いたら、
「尾張大橋氏」の家系図に川口家との養子縁組のことが載っていました。
名前がちょっと違うけど(広貞?貞広?)。
大橋家の家紋は「茗荷に一文字」。これを丸で囲ったのが、川口家の家紋?


さらにもう一軒、
「藤本家・・・姓ハ桓武平氏服部重清四男稠賀、
始メ観世ヲ称シ後藤本ニ改ム家紋ハ上リ藤丸、重ネ三鱗」
[19]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時35分19秒 ) パスワード
  

へぇ〜・・・
改めて読み直してみると
日本の苗字の変化って凄いですね。

平氏から服部を名乗り観世になり藤本姓へ。
今頃この藤本さんはご自分のご先祖さまは藤原氏と思っていらっしゃるかも。
[20]さんからのコメント(2001年12月06日 09時53分31秒 ) パスワード
  

さちこさんのコメント;
>例の服部家の系図の本ですが、
>気になったのでお借りしてコピーしました。

>ちゃんと明子さんと隈さんの分もコピーしてきましたよ。
>何かの機会にお渡ししてもいいしメール下されば送りますが。

きゃ〜きゃ〜嬉しい!(^o^)
さちこさん、どうも有難うございます〜!!
私、本屋さんで買えるのなら買ってしまおうかと思っていたんですよ。
だから本当に助かります。

明子さんのコメント;
>今頃この藤本さんはご自分のご先祖さまは藤原氏と思っていらっしゃるかも。

そうかも知れませんね。
しかも家紋が「上り藤丸」ですから。

そういえば、この向島の観世系「藤本さん」関連で気になることが一つ。

足利義昭が備後鞆の浦に下向した時の従者の中に、「春阿弥」という人物がいたそうです。
武田信玄とも交流のあった『茶人』として名が出ていました。

この人が観世家出身かどうかまでは分かりませんが
(「○阿弥」というのは観世家に限らず僧体の芸能関係者に付けられる呼び名ですよね)、どんな人だったのか?「藤本さん」と関係あるのか?とても気になります。
[21]さんからのコメント(2001年12月06日 11時05分06秒 ) パスワード
  

え〜と、それで・・・

私が昨日パソコンを離れて考えていたことは、
みなさんが先に書いて下さったようですね (^^)

私も、徳川家康や服部半蔵は、本能寺の変に関わっていたと思います。
はっきりした動機(怨恨)があるし。
それに推理小説でよく言う、「一番得をした人間は誰か」ってヤツですね。

そういえば伊賀では「明智様」という言葉があって、後世も陰で民衆に崇拝されていたのですよね?
こうして見てくると、この「明智様」には何かもっと深い意味があるような気がしてならないのですが・・・

やはり彼は、自分が犠牲になれば良いと、覚悟のうえで決起したのではないでしょうか。

>平熱名物オカルトがかりシリーズ。
>私の母が細川家で先祖に玉子がいると言う話をきいたことがあるのですが。

出ましたねぇ、さちこさんのお母様は細川家ですか!
これは足利義昭も一枚噛んでいたかな?
重臣だった細川藤孝は途中で義昭を見限って信長に付いているけど、
実は義昭や公家に情報を流していたりして・・・
[22]さんからのコメント(2001年12月06日 17時30分30秒 ) パスワード
  

皆さんはもちろんご存知と思いますが、細川藤孝=細川幽斎ですね。
幽斎の息子が忠興で、その奥様が玉子様。
つまり明智光秀とは縁戚関係にあって、もともとは仲が良かった。

幽斎は三淵伊賀守晴員の次男ということですが、
実の父は足利義晴だという説も一部にあります。
もしそれが本当なら、足利義昭とは兄弟って事になる。

将軍継承問題で三好一族に命を狙われて、興福寺に幽閉されていた足利義昭を
近江へ脱出させたのも幽斎。
あちこちの戦国大名を頼って転々とする義昭に長年従っていたが、
信長との対立姿勢を深めた義昭から離反して信長側に付いた。

本能寺の変の後、明智光秀は幽斎に手紙を送って救援を依頼したが、
幽斎は応じず、豊臣秀吉側に付いてしまった。

慶長五年(1600)、丹後田辺城にいた所を石田三成の軍に囲まれたが、
幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた。
その後はは徳川家康に仕え、優遇された。

何の事は無い、み〜んな内輪。
繋がってたんですね。

哀れなのは明智光秀。
やはり周囲の犠牲になって、美味しいところだけ取られてしまったのでは・・・
[23]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 21時28分07秒 ) パスワード
  

私は百地も信長暗殺にからんでいたのでは?と思い始めたのですよ。

どうして藤堂の国家老が百地の息子を伊賀に呼び戻したのか?
これは何かに報いて?と。
1640年。
ほとぼりが冷めた頃?
[24]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 22時46分12秒 ) パスワード
  

細川幽斎が立たなかった、というのも真意は謎ですね。

明智光秀にしたら絶対自分の味方をしてくれる筈だった。
それが何故?

その明智の「何故?」が今わたし達の「何故?」でもあります。

[25]さんからのコメント(2001年12月07日 17時37分32秒 ) パスワード
  

>百地も信長暗殺にからんでいたのでは?

私も同感です。
それもかなり直接的に関わっている可能性があるのでは…
証拠がある訳ではないけれど、後に何らかの形で優遇された人間は
やっぱりね…

伊賀天正の乱で最後の激戦地となったのが名張・柏原城。
竜口にも近いこの城で百地丹波は一族を率いて応戦したものの叶わず、
紀州へ逃れたという。

動機も充分あるし。

比較的深く関与していたのが徳川家康と服部半蔵、百地丹波あたりかな…
細川幽斎にも事前に情報は入っていたのでは。

それに、一部の公家が知っていたという噂もあるんですよね。

案外真相を知らなかったのは殺された信長本人と、明智光秀だけだったりして…
[26]服部 明子さんからのコメント(2001年12月07日 22時35分26秒 ) パスワード
  

>それに、一部の公家が知っていたという噂もあるんですよね。

阿部龍太郎さんの「信長燃ゆ」では首謀者は「近衛前久」公になってる。姓は迂路覚え。
明智にやらせた、と。

でも光秀の性格からすると「自分がやらねば」と思ったのはそうかも。
真面目だから。
でも光秀は填められたかも、という可能性もありますね。

本能寺でなにやら不穏な動きあり、との伝令を受けて
「殿の一大事!」
と駆けつけたのを討たれた?


みんな光秀ならやりかねないと思ってるから家来達も「矢張り殿は上さまを」と
思ったかも。

凄い謎ですよね。
[27]服部 明子さんからのコメント(2001年12月08日 05時22分12秒 ) パスワード
  

>幽斎は三淵伊賀守晴員の次男ということですが、
>実の父は足利義晴だという説も一部にあります。

はい。
細川幽斎のママは足利義晴のお側室だったそうですね。
だから義晴の子だという説もありますね。
だから足利幕府のご重臣・細川家に養子に入ったのかも。

三淵さんって苗字も人物も辞書には全く載ってないのですが。。。
でも官職名は「伊賀守」?
一体何者?
[28]服部 明子さんからのコメント(2001年12月08日 05時37分26秒 ) パスワード
  

失礼をば致しました:ちょっと調べて来ましたr(^^;


http://homepage1.nifty.com/YMSKy/h-Asikaga.htm

三淵晴員
1500-1570
 
 
将軍家直臣三淵氏当主。
晴恒の養嗣子。
実父は細川元有。
[29]服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 22時54分27秒 ) パスワード
  

http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link1.htm

川口さまより頂いた宗清の子孫のURLです。
こちらにも転載しておきます。
川口さま、ありがとうございました。
[30]佐藤良昭さんからのコメント(2004年09月04日 13時09分31秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年09月04日 13時13分11秒
[31]佐藤良昭さんからのコメント(2004年09月04日 13時20分45秒 ) パスワード
  

細川幽斎覚書の翻刻書を読書中、幽斎の家系を調査中にこのサイトに興味を覚え、コメント致します。
世阿弥の「風姿花伝」に、能の由来について、推古天皇の時世、聖徳太子が帰化人秦河勝(はたのこうかつ)に言いつけて、世の安全と慰楽のため、芸能を創作させたのが始まりとしています。下って今日の観世一座や歌舞伎にもつながっているのです。だから、伊賀は秦氏一族が開いた土地なのです。俳聖芭蕉も伊賀出身です。勿論、芭蕉の句、幽斎の歌の鑑賞には能楽の基礎知識が必修と考えられます。皆様がコメントされておられる事柄から「秦氏の由来や、古代おける役割」等調べれば、殆どの疑問が纏められる(謎の糸が繋がれる)のではないかと考えます。本稿の目的とは少し飛躍したようですが!
[32]さちこさんからのコメント(2004年09月04日 23時27分39秒 ) パスワード
  

佐藤さんはじめまして。

何かと平熱には御無沙汰している身なので差し出がましいのですが。。
こちらのスレッドが久し振りに上がってるので驚きました。

何年か前の私の書き込みが懐かしいやら恥ずかしいやら。(笑)

佐藤家といえば家紋は源氏車?
去年九州の高千穂にいった時、
藤原秀郷を祖とする佐藤家の宿に泊まりました。
高千穂には源氏車の紋が沢山ありました。

良昭さんの佐藤家の家紋は?

長島温泉をご存知ですか?(知ってますよね?)←知らん?
天然ガスを掘ってたら偶然温泉が湧き出てきて今日に至るのですが。

長島観光開発の初代社長は服部家です。
スポンサーは名鉄など色々あるけど、
やはり桑名の財閥、佐藤家ですね。
サンジルシ、味噌、醤油の会社です。

良昭さんとサンジルシは関係ないかも知れないけど。

>謎の糸が繋がれる

そうなんです。
少しずつ繋がってる。今そんな感じかな?

もしご存知の事がありましたらよろしくお願いします。

芭蕉とその門人の曽良。
長島の我が服部家とは近しい関係だったようです。
[35]佐藤良昭さんからのコメント(2011年05月24日 21時53分29秒 ) パスワード

 先日、twitterとfacebookを開き、自身を検索しましたら、6年前にここにかき寄せておりました。「さちこ」さんに繋がる知人がいらっしやいます。東京近郊にお住まいの河西さんです。奥の細道に随行した曾良の姓は河合氏で、諏訪大社の諏訪が郷里で、河西さんはその末裔と伺いました。多分、河合曾良についての研究の出版物を著作されておられます。
 さて、私佐藤家の家紋は「丸に桔梗」で岐阜県の岐部一族と同じです。明智光秀や最後の大師「天海」等で、そして日光東照宮では我家の家紋が沢山あるので驚いた記憶があります。「天海」大師が三代家光まで権勢を有した事は史実であり、家紋が丸に桔梗から光秀に繋がるとの噂が広かったと考えられます。私の父からは徳川家の旗本だったと聞いております。祖父の履歴書には本籍が東京府麹町区六番町と記されており、桑名の佐藤家との直接の繋がりは無いと思われます。
 付言して、細川幽斎(藤孝)の研究は上智大学の土田将雄先生の著作がございます。「衆妙集」等の歌集も研究され、素晴しい家集としても重宝されております。
[36]勝島 淳夫さんからのコメント(2012年07月27日 19時26分11秒 ) パスワード

インターネット読み専門。投稿は初めてで勝手が判りません。失礼あれば御免。
私の姓は勝島。平宗清の子孫。伊賀惣国一揆の一員。天正伊賀の乱で敗戦。尾道向島へ移動。回船問屋鰯屋設立。幕末に三原本陣安井氏山科屋に吸収合併?。明治になって東京で山科汽船会社設立。経営者一族として勝島再建。第2次世界大戦敗戦で会社消滅。勝島家は宝塚、山科家は豊橋で陸に上がった河童として生存中です。
勝島の菩提寺は尾道の光明寺。江戸初期からほぼ揃って墓存在。17世紀末頃の勝島惟恭(号・敬仲・翼斉)が町人学者として頼山陽、菅茶山らと交際。勝島の来歴を調査した惟恭らの文書が戦災を免れ、存在。
このホームページで尾道向島に平宗清の御子孫が数家お住まいと知り、懐かしくなり投稿した次第です。又、鰯屋についても不明点が多く、お教え下さる方も探しております。
[37]勝島浩之さんからのコメント(2012年09月04日 12時33分03秒 ) パスワード

初めまして。私は、勝島浩之と申します。家系や先祖などどうなっているのか知りたく書き込みしました。現在三重に住んでいます。父は芳雄といい、その父親は佐一郎と云います。八人兄弟(父芳雄)で2番目の兄(芳雄より上)が豊一といい、柘植に婿養子に出ています。「柘植」「勝島」など何かつながりがあるのだろうと思っていますが・・・。ちなみに士族であったと亡き母親から聞いておりました。(嫁いだときに甲冑などがあったとのこと)
また、家系図については、戦争により喪失したともきいております。
[38]勝島淳夫さんからのコメント(2013年01月12日 15時53分17秒 ) パスワード

勝島浩之さん、私とあなたの祖先は1581年より前には伊賀の予野字馬田にあった勝島城(名前だけ残っている。忍者屋敷のようなものだったのでしょう)で一緒に暮らしていただろうと思います。私どもの祖先の一人勝島惟恭(ちょっとだけ知られている商人国文学者)等が、尾道に来てからの詳細な約90人分の家系図を纏めています(但し全て光明寺系、この地方には他にも勝島氏がいらっしゃることをネット上で見ております。例えば、獣医学の祖とされる勝島仙之助も当地方の出身。でも、光明寺系ではありません。私どもの系とどんな関係なのか知りたいです)が、尾道光明寺系の祖で伊賀から来た与兵衛から更に遡って系図を拡大すべく、伊賀へ調査にまで出かけたのですが、石の手水鉢を見付けただけに終り、私ども後世の者に調査を継続するよう書き残しています。惟恭らは、伊賀勝島は平宗清ーー宗成から別れたとしており、現在はネットなどで情報が当時より詳細に判るので、この見方は間違っていないようです。中央権力には属さないが、武士であったことは確かです。天正伊賀の乱で、与兵衛が戦っている様子を「伊陽太平記」が記していて、その抜粋を惟恭が残しており、この原本を見たいのですが、未だ果たせずにいます。勝島は伊賀忍者一覧等に出ています。
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