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 投稿番号:100163 投稿日:2001年09月04日 12時59分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平宗清:大橋:観世:杉原:百地:藤堂:名張:黒田荘

コメントの種類 :人物  パスワード

平 忠盛の家人で池禅尼母子の家庭の家老職。
源 頼朝の命の恩人。
平家の西海落ちには同行せず。

後に頼朝から伊賀に土地を貰い
柘植の木を植え、根付いたら我が姓を「柘植」と変えようと言い
姓を変えた。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年09月04日 13時04分11秒 ) パスワード
  

平 宗清家系図:源三どの作成の系図より


≪平正度≫
貞季(駿河守)
正季
範季
季房
季宗
宗清
(弥平兵衛。
平治の乱に敗れ東国に逃れる途中の父・義朝にはぐれた源頼朝を尾張国で捕らえた)


一説に家貞の子供とも。
[2]さんからのコメント(2001年10月16日 11時39分10秒 ) パスワード
  

広島県・向島の服部家(私の母方の祖母の実家)は平宗清の系統だと地元の歴史書に載っていた、と以前書きましたが、詳しい系図が残っているわけではないし、未だ家紋は不明だし、今一つはっきりしない。
ただし、同じ村には他にも「伊賀平氏(平宗清)系」であると記された家があります。

「向島岩子島史」より;
「川口家・・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字」

以前服部さんが紹介して下さった家紋のHPを覗いたら、「尾張大橋氏」の家系図に川口家との養子縁組のことが載っていました。名前がちょっと違うけど(広貞?貞広?)。
大橋家の家紋は「茗荷に一文字」。これを丸で囲ったのが、川口家の家紋?
さらにもう一軒、
「藤本家・・・姓ハ桓武平氏服部重清四男稠賀、始メ観世ヲ称シ後藤本ニ改ム家紋ハ上リ藤丸、重ネ三鱗」
つまり能楽の観世家の系統ってことでしょうか?服部さん、この辺の系図についてご存知ですか?

しかし、どうして向島に平宗清末裔を名乗る人々がいるのか?南北朝時代にこの地を支配した杉原氏の家臣だったとか?(杉原氏は平家の末裔で、南北朝期の備後守護。杉原胤平は南朝方について後醍醐帝御還幸を護衛し、弟の勝平は新田義貞に従って勤皇軍に参加したが、胤平の息子達は足利氏に従った)
この島、昔は「楠」「新田」姓も多かったらしいんですよね・・・。みんな、南朝方の『有名人』にあやかって苗字をつけたとかね。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年10月16日 23時47分11秒 ) パスワード
  

「尾張大橋氏」は後醍醐天皇の親王を戴いて転戦した家です。
大橋の娘が後醍醐天皇の孫だかひ孫と結婚しています。
大橋家と服部家ホンヤは伊勢・尾張の南朝方の拠点「尾張津島神社」の神官です。
ですから大橋家と服部家が親戚関係にあっても全然不思議ではありません。

大橋家は後に娘が蜂須賀家に嫁ぎ
継子に蜂須賀小六がいます。

有名人にあやかって、というより有名人に関わりのある家だったと思うのです。
岡山や広島まで転居した理由は分かりませんが
南朝方子孫は全国に散っていると思います。

数年前上記の後醍醐天皇の親王さん直筆と言われる歌の書が
神戸の旧家で発見されたと新聞記事に出てました。

知らないだけで、忘れられているだけで、全国に存在してると思います。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年10月16日 23時54分28秒 ) パスワード
  

能と服部家の関係ですが

楠正成の妹と伊賀の服部氏が結婚しているんですよ。
こうして考えれば楠正成のゲリラ戦法(戦術)の出所が分かって来ると思います。

能の服部氏は後に敵の足利幕府と結んで体制側に入り込んで芸術にまで昇華しました。

[5]さんからのコメント(2001年10月17日 11時44分17秒 ) パスワード
  

私の個人的な考えでは・・・
向島には、杉原氏との関係で、南朝方の関係者が多く住み着いたのではないかと思っています。
杉原氏は伊勢平氏貞衡流で、祖先は平氏全盛時に忠盛、清盛、家盛、頼盛などに近侍した武士だったらしい。
ということは、杉原氏の祖先は平宗清とも親しい間柄だったのでは。
さらに、鎌倉後期には村上源氏土御門家に仕えて縁戚関係もあったため、皇室とも関わりがあり、最初の宮将軍・宗尊親王に従って鎌倉に下向・御家人になったということです。
後に土御門家から北畠親房が出ていることから、杉原氏が初め南朝方についた理由が推し量られます。
さらに時代は下って戦国時代には、杉原盛重という武将が特に忍者を重用していたとか。

杉原氏と服部家の関係が何か掴めると良いのですが。
という訳で、今私が一番読んでみたいのが去年発行された「向島町史」。
広島県立図書館にあるって聞いたけど、今なかなか広島まで行けそうにないので、直接買って取り寄せてしまおうか・・・でも、こういう本は高いんだよね・・・と思案中。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年10月17日 12時27分45秒 ) パスワード
  

交通費を考えると直接取り寄せて買ってしまう方が安くつくと思いますね。


杉原氏って美濃にも多いんじゃないかしら?

秀吉の正妻のねねさんの実家は杉なんとか言いましたよね。
浅野家ではない方。
確か杉原だったと思うのですけど。←迂路覚え。ごめんなさい。


杉原盛重なんていかにも平家系のような名前ですね。
そうだ
寛永なんとかという武士の家柄を書いた本に杉原氏の出自が出てるかも。

今はハワイにいるのでロスに戻ったら調べてみますね。
[7]さんからのコメント(2001年10月18日 10時52分37秒 ) パスワード
  

>交通費を考えると直接取り寄せて買ってしまう方が安くつくと思いますね。
なるほど、それも一理ありますね。う〜ん、買っちゃおうかなぁ・・・

>杉原氏って美濃にも多いんじゃないかしら?
>秀吉の正妻のねねさんの実家は杉なんとか言いましたよね。
そうそう、「杉原」だそうです。美濃の杉原氏も、元を辿れば同じ系統だといわれている様ですね。

杉原氏は、平清盛の3代前の正衡の兄である貞衡の末裔。貞衡の6代後の光平のときに杉原を名乗ったそうです(尊卑文脈より)。
他に、清盛の子・維盛の子孫だとする系図もあるようですが。
代々名前に「盛」や「平」を用いることが多かった様です。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年11月04日 02時45分22秒 ) パスワード
  

遅くなりました。

おねね:高台院

生まれは杉原(すぎはら)定利の娘であったが
尾張織田家足軽組頭浅野長勝の養女となった

と書かれていました。

浅野家は美濃土岐家出身だそうで源氏で美濃一円にある名前だそうです。
杉原(すぎわら)姓は伊勢平氏桑名族と書いてあります。室町幕府に仕えた、と。備後にも大族あり。
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年11月04日 02時47分55秒 ) パスワード
  

あらら

これで備後とつながりますね。(驚)
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年11月04日 07時22分31秒 ) パスワード
  

日本から送られて来たパンフレットを見てたら
「杉原記念館」
の紹介が載っていました。

岐阜県八百津町の杉原記念館の件ですが。

杉原千畝(すぎはら・ちうね)氏は旧リトアニア領事代理で
日本に呼び返される列車の中からも
ユダヤ人にビザを発行し続けたことで知られるヒューマニストでいらっしゃいます。

杉原領事を主人公にした「命のビザ」という映画が制作されています。


それにしても、丁度ハワイでおねねさんの実家の事を話題にしてた時に、
このパンフレットが日本から送られて来ていた、
というのが不思議です。
[11]さんからのコメント(2001年11月05日 11時14分27秒 ) パスワード
  

美濃・尾張の杉原氏と備後の杉原氏は、系図の途中に数代不明な箇所があるものの、やはり同族であることは間違いない様ですね。
鎌倉・室町時代には中央で政治に参加していた(裁判官をしていたらしい)。
南北朝時代の杉原氏は、胤平の代までは後醍醐天皇にお仕えしていましたが、息子の信平は結局北朝側について、その後は足利家に仕えたそうです。

・・・その杉原氏と足利家に絡んでの話なんですが(今話題になっている毛利氏にもちょっと関係あり)。
ちょうど私も、向島に繋がる非常に興味深い情報を入手した所なんですよ。
服部さんがあんまりタイミング良く話をしてきたので、私の方が驚いているところです!(ますますオカルトがかってきた〜)
まあ、聞いてください。

室町幕府最後の将軍が足利義昭であることはよく知られていますが、彼が備後に長逗留していたことは案外知られていないのでは。
織田信長と組んで将軍に就任した彼も、結局は信長と仲が悪くなって、今度は毛利氏を頼ろうと、家臣を連れて備後鞆の浦に押しかけた。
それまで信長との対決を避けてきた毛利氏も、信長との全面対決へ腹を決めざるを得なくなった。
毛利氏は一時村上水軍のお陰で織田軍に大勝したが、岡山の宇喜多氏が信長側についたことで劣勢になり、義昭公は京になかなか帰れなくなってしまった。

・・・で、結局義昭公が京に帰ったのは豊臣秀吉が国家統一を遂げた後だった訳なんですが、当時義昭公について鞆の浦へ下向した家臣に、石井清信という人がいたんです。
その息子(三男)の三郎兵衛哉数が、後に向島東村の里長になっている。
この石井家、元を辿ると公家流平家の西洞院家(!)。
実際、郷土資料によると江戸時代の向島東村の庄屋はずっと石井家だったらしい。
(ちなみに向島西村の庄屋が、例の藤原氏末裔のお家です。やっぱり藤原家と平家は仲が良いから?)

・・・あ、ずっと前に服部家が代々庄屋だった、と書いたかも知れませんが、庄屋ではなかった様ですね(汗)。でも、大地主だったことは確かなんですが。
うちの母が覚えているところでは、庭に大きな池があって、その上に母屋と離れをつなぐ橋が掛かっていたそうですから、家もかなり大きかったのでしょう。

石井氏が単独で向島に渡ったとは思えない、他にも家臣が同行した筈。
そこで早速私は「足利義昭」で検索し、義昭公の側近の一覧表を見つけて、思わず「あっ」と声を挙げました。
「杉原長盛」そして「服部要介」という名がある・・・

室町末期まで、杉原氏は足利家の側近だったのですね。
その上、義昭公の側近には服部氏もいたんです。
服部要介という人は、甲賀の和田出身ということです。伊賀・柘植のすぐ近く。

もちろん、うちの先祖と繋がるとは断定できませんが、「ひょっとして!?」なんて思ったりしています。
私の高祖父の名は「賢助」で、高祖父の父の名が「松之助」。代々「助」がつく名前だったらしい。「介」と「助」、読みは一緒だし・・・等と、想像が膨らむ私。
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年11月05日 11時38分14秒 ) パスワード
  

なんか本当に向こうから情報が転げ込んで来るでしょ?
こういうのって先祖のパワーが働くのでしょうかねえ?

和田家というのは
南北朝時代は楠木家の親戚にありますし
源平時代は藤原姓伊藤家の家老の家でした。

地域的にもあの辺りは近いですから。
昔は甲賀と伊賀は同じ国だったそうです。
最近は滋賀と三重に分かれていますけど。


伊賀の柘植という所は凄い山の中なんですけど是非行ってみて下さい。
あの辺り凄いパワーが渦巻いてますよ。
柘植の向こうが甲賀です。
甲賀忍者の里です。
余りの近さにびっくりしました。
[13]さんからのコメント(2001年11月05日 12時42分07秒 ) パスワード
  

>和田家というのは
>南北朝時代は楠木家の親戚にありますし
>源平時代は藤原姓伊藤家の家老の家でした。

え!それじゃあ、向島にいる楠姓の人々もやっぱり石井家について来たのか・・・。
だんだん背筋が寒くなってきた・・・。

さっき述べた義昭公の家臣団一覧には、和田惟政の名もありました。
義昭公は、従兄弟の足利義親(後の義栄)を次期将軍に押し上げようと画策中だった三好氏や松永久秀に命を狙われて、しばらく和田家に匿われていたのです。

向島の人々の姓って不思議だと思っていたんですよね。
南朝・北朝に関わらず、室町時代の話に出てくる名前が多いから。
「高」さんとか、「筒井」さんとか。備後なのに、ルーツが伊勢・伊賀・近江・摂津に集中してる。
だから「有名武将にあやかったの?」って思ったんですよ。
もしかしたら、私の曾祖父の養家・伊勢本家の祖先もいっしょに来たのかな。
確か伊勢家も足利家の側近でしたよね?

>伊賀の柘植という所は凄い山の中なんですけど是非行ってみて下さい。
>あの辺り凄いパワーが渦巻いてますよ。

いつか是非行ってみたいですね。
私は直接パワーを感じる体質ではありませんが、何か不思議なことが起きるかも。
[14]服部 明子さんからのコメント(2001年11月05日 12時59分29秒 ) パスワード
  

江戸時代に江戸幕府の認めた家以外の人間は勝手に名字を名乗ってはいけない
というお布令が出たから、忘れた家もあったかも、とは思いますが
日本の家の在り方は決して名字を忘れてはいなかったと思いますよ。

明治時代にすべての日本国民は名字を名乗るようになって
昔の名字を名乗ったと思います。

ただ本姓を名乗るか俗姓を名乗るか、そこの悩みはあったと思います。
本家が厳然として力を持っていたら分家は遠慮したりはあったと思う。
家紋にしても本紋を使いたくても分家は遠慮があったかも。

明治になって意地でも本姓を頑張って登録した家はラッキーだと思いますね。
新田さんとか楠木さんなんて得な名字よね。


でもアイデンティティの問題で日本人は殆ど俗姓を登録したと思います。
ここの所を考えると涙が出て来ます。
[15]さんからのコメント(2001年11月07日 10時22分20秒 ) パスワード
  

>本家が厳然として力を持っていたら分家は遠慮したりはあったと思う。
>家紋にしても本紋を使いたくても分家は遠慮があったかも。

服部さんのお話を聞いてなるほど、と思います。
向島では「○○本」という姓が多いのですが、「備後向島岩子島史」でその由来をみると
<「○○」を名乗り、後に「○○本」と名乗る>とよく書かれているのです。
例えば「伊勢」・・・「伊勢本」、「宮」・・・「宮本」という具合。
本当はそのまま本姓を登録したいところを、分家だからちょっとだけ遠慮して「本」を付けたのでは。
うちの女紋になっている対い蝶紋も、羽の斑紋の数が3つだけど、伊勢家の家紋はもともと2つらしいし。
このぐらいの変化なら、ルーツが分かりやすいのですが。
[16]さんからのコメント(2001年11月07日 10時37分48秒 ) パスワード
  

足利義昭についてのHPの管理人さんに、服部要介という人物について尋ねてみました。
次のような回答をいただきました。

****************

もともとは伊賀黒田荘の住人のようで、義昭公が矢島から若狭へ移る際に随行していたので、和田家か六角家の家臣だったのかもしれません。
有名な服部半蔵(正成)の先祖も伊賀の住人で義晴に仕えていたそうなので、同じ一族かも?とか、和田惟政も忍者に関係があるひとのようなので、忍者の頭のような人だったかも?とかいろいろ想像してしまいますが・・・・。
ある程度調べがついたら家臣団でご紹介いたします。

****************

伊賀黒田荘って、確か悪党の活動が盛んだったところですよね。
やっぱり和田家の家臣かも。
[17]さんからのコメント(2001年11月07日 10時53分04秒 ) パスワード
  

上記のHPの掲示板を拝見したら、またまたびっくり。

御先祖様は足利義昭の従者だった、と昔自分のお祖父さんに聞いたことがある、という方の書き込みが(1週間前のもの)。
その方は一応ペンネームで書き込みされていたのですが、ご自分のHPへリンクを張っておられました。
もしやと思いクリックしたら、やっぱり・・・福山市(鞆の浦があるところ)出身の石井さんでした。

向島東村の庄屋さんの御子孫か、親戚ですね。
[18]服部 明子さんからのコメント(2001年11月07日 11時24分13秒 ) パスワード
  

戸部新十郎の「服部半蔵」の本に
半蔵も足利将軍家に仕えていた話が出ています。

半蔵の家はもともとは京都に蔵人として代々出ていたそうです。
それで半六蔵人が半蔵になった、と。
[19]さんからのコメント(2001年11月08日 10時43分08秒 ) パスワード
  

あっそうか、服部氏って、もともと足利将軍家と接点があったのですね。
なるほど。

さっき黒田荘の場所を確認しました。現在の三重県名張市ですね。
そういえば、名張は行ったことないけど、すぐ近くの室生寺(奈良県室生村)になら昔一度、一人で行きました。
当時通っていた予備校の講師が「君たちも受験勉強で忙しいかも知れんが、一度行ってみる価値がある」と薦めた場所です。
でも、本当に行ってみた学生は私ぐらいかも知れないけど。
やっぱりすごい田舎で、最寄の駅に降り立ったらしんと静まり返って、誰もいない。
やっと居たと思ったら、駅前の駐在所のお巡りさんが近所のお爺さんに大きな声で「おはようございます〜」って言ってるような、のどかな所でした。
あんまり寂しい感じはしなかったですね。何ていうか、「ほっとする」所。
実は室生寺そのものより、その村の雰囲気が気に入って、今も印象に残っているんです。
私の先祖もこんな所に住んでいたのでしょうかね。
[20]服部 明子さんからのコメント(2001年11月08日 13時43分34秒 ) パスワード
  

名張は南伊賀で
服部一族は北伊賀を治めていました。

当時南伊賀はどの家が支配してたのか?

黒田荘は東大寺が持ってたのでは?と思いますが記憶がはっきりしません。
歴史上「黒田荘」は大きな意味を持ってる荘園でど〜たらという話を読んだことがあります。今は既に忘れてしまっています。

当時の荘園問題を代表する1つだったような。

なにか出て来るといいですね。

私自身はやっぱり北伊賀ですね。
南伊賀はそんなにパワーを感じません。
でも私の家の親しい人の奥さまが名張のご出身で
定年退職なさってから奥様のご出身の名張に引っ越されたと知って

やっぱり縁があったのか、と鳥肌が立ったのを覚えてます。
[21]さんからのコメント(2001年11月09日 10時34分13秒 ) パスワード
  

服部さん、こちらのHP(忍者関連)を覗いて、またまたびっくり!

http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja03.html

名張(黒田荘)周辺は、百地家のテリトリーだったらしいです。
喰代より、むしろ名張が本拠地ですって。
しかも、百地丹波は室生村(竜口)で余生を送っていたのですね。
やっぱりわたし縁があるのかな(怖)
[22]服部 明子さんからのコメント(2001年11月09日 12時25分54秒 ) パスワード
  

あの写真は1級河川の服部川だと思いますよ。
1級河川は国が管理してるんですよ。
[23]服部 明子さんからのコメント(2001年11月09日 12時34分57秒 ) パスワード
  

やっぱり私も名張と縁があるみたいですね。
私の方からは感じませんが向こうからのパワーが来るんだ・・・
[24]服部 明子さんからのコメント(2001年11月09日 22時48分00秒 ) パスワード
  

そうそう服部半蔵の家は宗清の子孫を称していたのではありませんか?

服部家長の子孫から宗清になって半蔵という系図を見たことがあるけど
血流ということでは無くて「後継者」という意味だと思いますね。

伊賀の頭領が壇の浦以降、家長から宗清に渡った、と解釈すればいいと思ってます。
[25]さんからのコメント(2001年11月10日 11時22分00秒 ) パスワード
  

なるほど、分かりました。
同じ服部姓でも宗清末裔を名乗る家と、家長末裔を名乗る家があるので、どういう違いかな?と疑問に思っていました。
「後継者」だったら、各家の解釈によってどちらでも名乗れますね。
[26]服部 明子さんからのコメント(2001年11月10日 12時20分04秒 ) パスワード
  

東湯舟の藤林長門守も大山田(名張)の百地丹波守も千賀地の半蔵の家も
3つ巴で「家長」の子孫を名乗りたかったと思いますよ。

結局は千賀地の半蔵の家が徳川家康のバックを得て「家長」の子孫「宗清」の子孫を「「木票 木旁」」ひょうぼう(漢字が無い)出来たと思います。

半蔵は圧倒的に差を付けたけど
息子が改易された後、
百地の子孫が伊賀に来て実質的には後継者になったものの
もう時代は忍者を必要ともしてなかったし
土地の人も頭領だなんて認識を無くしてたのではないかな?

今でも百地って名乗る男性で凄い面魂の人がいるって聞いてるけど
機会があったら会えたらいいかな?
俗姓の百地より服部姓を名乗りたいのかな?

アイデンティティの問題だから「百地で誇りに思ってる」とその方はおっしゃるかしら。
案外ご自分の「百地」姓の由来をご存じ無いかもね。
何かのきっかけで知るかも知れないけど、その時には周りには誰も説明してくれる人はいなくなってるかも。

そういう事が「自由で平等な時代」という事かも。
[27]さんからのコメント(2001年11月13日 10時11分55秒 ) パスワード
  

名張市竜口と、室生村瀧口にはそれぞれ百地家子孫の方のお家があるそうです。
その家のご主人が凄い面魂、かどうかは分からないけど(やっぱり一度お会いしたいような!?)。
観光地化されていない普通の農家だそうですが、数百年前の百地家の住居をそのまま残したもので、もちろん今も子孫の方がお住まいになっておられる様です。
[28]服部 明子さんからのコメント(2001年11月13日 10時47分59秒 ) パスワード
  

今名張市竜口を調べたら
<りゅうぐち>
と読むのだそうですよ。

そして地図に「百地三太夫屋敷」と書かれてました。
場所は名張市の1番南の村になります。
バスが通っているのか東に行くと赤目48滝に行きます。

そして宇陀郡室生村は 南隣になります。
[29]服部 明子さんからのコメント(2001年11月13日 11時04分42秒 ) パスワード
  

>名張市竜口と、室生村瀧口にはそれぞれ百地家子孫の方のお家があるそうです。

当時は別の行政でなく
同じ家の支配する1つの地域だったかも知れませんね。

百地家がその辺りを支配してたのでしょう。
[30]さんからのコメント(2001年11月16日 15時09分18秒 ) パスワード
  

>室生村瀧口

地図を見たら「龍口」となっていました。すいません、訂正。
すぐ隣に「瀧谷」という地名があったので、ごっちゃになってしまいました。
[31]さんからのコメント(2001年11月30日 09時38分12秒 ) パスワード
  

私の何やらオカルトめいた(?)体験もやっと一段落ついた、と思っていたら・・・

まだ終っていないらしい。

実はこの週末、久しぶりに久留米の主人の実家へ出かけるのです。
主人の母の17回忌のためで、親戚一同が集まるので、本来なら嫁の私がおもてなしをするべき。
そこを義父が、法要の後は皆で温泉旅館で食事をして泊まれば良いからと言って、予約を入れてくれたんですよ。

昨日主人が確認したら、「羽犬塚(筑後市)の近くの温泉」だとのこと。

羽犬塚・・・?確か最初は筑後川温泉って言っていたけど?
と胸騒ぎがしたので、場所を調べて血の気が引いた。

羽犬塚の近くの温泉って、船小屋温泉だと思うけど・・・

場所は筑後市尾島。たくさんの平家残党が捕まえられて斬首された場所。
(詳しくは8/13の「伊賀平内左衛門家長」のスレッドを見て下さい)
だから例の宗清寺も、元はここにあったんです。
現在は北東約1kmの所に移動していますが。
この近くには平重盛創建と伝えられる光明寺もありますし、水天宮の分社もあります。

こうなったら気合入れて息子の回復祈願をしなくては、と思っている私です。
[32]服部 明子さんからのコメント(2001年11月30日 11時21分39秒 ) パスワード
  

はぁ〜
凄いですね、凄い偶然!

お義父さまのご配慮で凄い所に行けることになりましたね。
是非お願いして来て下さい。
わたくしからもお祈り致しております。
[33]さんからのコメント(2001年11月30日 12時30分46秒 ) パスワード
  

明子さん、どうも有難うございます。

それでは行ってまいります。
[34]さんからのコメント(2001年12月04日 10時37分23秒 ) パスワード
  

結局尾島じゃなかった・・・

主人に再度確かめたら、彼は「浮羽」(筑後川温泉)と「羽犬塚」をごっちゃにしてました。
(そりゃあ、両方「羽」が付いてるけど!?)
すごいパワー!と感動した私って一体・・・

まあ、楽しかったのでいいんですけどね。
どうもお騒がせ致しました m(_ _)m

ちなみに、浮羽周辺にも一応平家伝説はあります。
壇ノ浦から逃れてきた平家武者達は高良山に隠れていたが、追っ手に見つかって筑後川に飛び込み、溺死した後に河童に姿を変えたというお話。

だからここの河童の頭領は平清盛の化身で、時々起こる洪水は平家の崇り、といわれた。
それで平清盛=河童を祀る神社(!)があります。
[35]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 21時37分03秒 ) パスワード
  

でも平家伝説があったのは同じなのですから良かったではありませんか。

高良山って結局は平家関連ですし。でしたよね?

やっぱりパワーが働いてると思いますよ。
(^^)
[36]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 02時08分44秒 ) パスワード
  

以下のお話は、特に服部半蔵の兄の子が藤堂采女として伊賀の国家老として入って来た部分
実は私の古いお友達(本姓藤原姓俗姓伊藤氏)の母上の家が
藤堂家の伊勢・伊賀の国家老をしていたのですよ。

結局やっぱり服部と伊藤は平 貞盛と藤原秀郷公以来、
伊賀と伊勢で1000年以上の繋がりがあるのですよ。


結局は平家一門というのは滅びて800年を経ってもやっぱり血でお互いを感じ取るんだ。

http://www.m-network.com/sengoku/ninja/ninja03.html

百地三太夫と服部半蔵の因縁話:
詳しくは上記でちゃんとご覧になって下さいね。


百地三太夫:

1571年百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物。
天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいたらしい。
乱の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波ともに移ったという。
天正伊賀の乱でリーダー的存在となった人物は三太夫ではない。


百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、
喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、
どうやらその本拠は竜口のようである。


天正伊賀の乱は柏原城を開城して終結したが、
このとき三太夫を含む百地丹波守以下百名ほどは高野山に下り、
やがて紀州根来の里に定着したという。


百地三太夫はこれをもって歴史から消えるのだが、
しばらくして思わぬところで今度は百地丹波の名が再び現れてくる。


1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されたのだが、
この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。
すなわち服部半蔵正成の兄なのである。
彼は紀州に隠棲していた百地丹波の子・保武を呼んで伊賀藩士に取り立て、
伊賀の名門藤林家を再興させる。
そしてこの藤林保武が後に忍術書の最高峰と言われる「萬川集海」を著すのである。

また、紀州に残った弟の正武も忍術新楠流の開祖となり、
これも名高い「正忍記」を著す。

つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、
どちらも百地丹波の子によって完成されたのである。

改易された服部家に代わって半蔵の甥が伊賀の城代家老になって国を治め、
百地丹波の子が藤林家を再興し「萬川集海」「正忍記」を後世に残した。
これには泉下の半蔵正成もきっと喜んでいたことだろう。

ちなみに丹波は一度伊賀に帰ってきたものの伊賀には住まず、
天正伊賀の乱の最後の砦・柏原城にほど近い大和国竜口に隠棲して生を終えたという。
今も百地丹波の墓は伊賀ではなく、大和竜口にある。
[37]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 02時13分41秒 ) パスワード
  

>1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されたのだが、
>この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。
>すなわち服部半蔵正成の兄なのである。


という事はあの人のお母さまのご実家の本当の名は服部で平氏+お父さまは藤原氏。
もう再びオカルトだ。
[39]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 02時25分06秒 ) パスワード
  

実は上記の<26>の

<今でも百地って名乗る男性で凄い面魂の人がいる>
と教えてくれた人がこの男性なのですよ。
<ヤツは自分と同じ激しい目をしてた>って。


彼とも百地の男性とも私も含めて繋がってた・・・
同じ血を分け合ってた。
[40]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時13分43秒 ) パスワード
  

隈さんや〜

繋がりましたね。
服部要助。
やっぱり服部家というのは足利家に仕えてたってのは結構な人数仕えてたようですね。

百地の弟の方が紀州で楠木忍術を著わしてたなんて。
もともと服部家と楠木家は関係があったけど百地でも繋がってたんだ。

日本の家というのは8代遡るとみんな親戚って言うけど
さちこさんとこのママが細川家と繋がってたとは。

今は転居の自由で昔の繋がりなんてどんどん忘れていくんでしょうね。
私には岡山の服部は分かってたけど尾道の服部家と繋がるとか更にそこから尾張大橋家が
繋がってたなんて考えたこともなかった。

「気心が知れる」って日本語
血で繋がってるんだから
当然なんだって思いました。
[41]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 08時24分29秒 ) パスワード
  

<12>補足

和田賢秀

四条畷で楠木正行と共に奮戦した和田賢秀は正成の甥ですって。
正行が討ち死にすると和田賢秀は変装して敵将高師直の陣に潜入し
師直を刺そうとしたが発見され両膝を斬られ首を打たれた。

賢秀は相手がかつての部下湯浅太郎左衛門であったと知ると憤怒の余り
カッと目を見開き死んでからも目を閉じなかった。
為に湯浅は7日後に狂死したという。
[42]川口 信さんからのコメント(2002年01月24日 09時28分51秒 ) パスワード
  

初めまして投稿を読みました。
文中に出てくる平姓の川口家の末裔であります。平宗清の名前が出てきてびっくりしました。また、津島の大橋家の子孫でもあります。
以前から歴史興味あり、川口家のことを一人で調べておりました。投稿の中で川口、平宗清、大橋家などの名前があり、目的は違うかも知れませんが、私が調べたことをまとめた本がありますので、お送りしたいのですが。
 時々、投稿を拝見させてもらいます。
[43]服部 明子さんからのコメント(2002年01月25日 02時37分52秒 ) パスワード
  

川口さん

初めまして。
ということは平家系+南朝系ですね。

川口家について新しいスレッドをお立てになってご紹介下さい。
[44]川口 信さんからのコメント(2002年01月25日 10時16分17秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年01月25日 10時57分49秒
[45]川口 信さんからのコメント(2002年01月26日 07時55分04秒 ) パスワード
  

すみません、投稿欄を汚して
 まだ完成されてないホームページのアドレスを書き込みまして、よく考えたら恥ずかしくなってしまいましたので削除させていただきました。

 お邪魔でなければ、このスレッドのなかでお話させて頂ければ幸いです。興味ある事が一杯ありますし、隈さんや服部さんとお話できれば、いいのですが。

[46]服部 明子さんからのコメント(2002年01月26日 13時44分25秒 ) パスワード
  

では新しいスレッドをお立てしますね。

でも、ここではご遠慮はいらないのですよ。
[47]さんからのコメント(2002年01月26日 16時14分14秒 ) パスワード
  

最近ちょっと忙しくて、出遅れてしまいましたが・・・

川口さん、どうも初めまして!
「平宗清末裔の川口さんがいる」と書いた当の本人、隈です。

実は私も、実際に「私は平姓の川口です」と名乗る方にお会いした訳ではなく、
直接関係ないのに、郷土資料を見て
「ここにも服部氏の子孫がいる!」と勝手に書いてしまいました。

無責任ですみません・・・(汗)

でも、お会いできて嬉しいです!
なにしろ私もまだまだ知らないことだらけですので、情報交換させて頂ければ幸いです。

是非、川口さんが自らお調べになったご先祖のお話をお知らせ下さい。

「平宗清の名が出てきてびっくり」されたとのこと。
ということは、川口さんがお聞きになったご先祖様のお話では違っているとか・・・
その辺りについても私自身、興味があります。

その他、言い伝え等、何でも構いません。

どうぞ「投稿欄を汚して」などとおっしゃらず、
遠慮なくご先祖様についてご紹介下さいませ。
[48]川口 信さんからのコメント(2002年01月26日 19時24分33秒 ) パスワード
  

川口家の先祖も平宗清の末裔の名乗り、現在一般にいわれていることは、弥兵衛宗清と右京大夫宗清とは別人であとあるとされています。
 前者は吾妻鏡等に池頼盛の家人として、捕らわれていた源頼朝の命乞いを平清盛の母・池禅尼にして、頼朝を助けた宗清で、これは「続群書類従第五巻上」の尊卑分脈脱漏平氏系図(136頁)に見えるが、これは「家清」となっているが「宗清」の誤写といわれている。後者は同書(122頁)見える公卿平氏である。
 
川口家においても、両者を混同して、事跡が入り乱れており、それは先祖を誇るあまり、事実以上の誇張が加えられ、誇張はその始祖の部分で顕著に見られる。

高棟王ー惟範ー時望ー真村ー親信ー行義ー範国ー径方ー知信ー信範ー信実ー宗清

高棟王ー国香ー貞盛ー惟衛ー正度ー貞季ー正季ー範季ー季房ー季宗ー家清(宗清)

以上のようになる。
柘植氏が柘植の姓を名乗った事情を考えれば池頼盛の家人であることは歴然としている。
 壇ノ浦において、平氏滅亡する。その後、頼朝卿、池大納言頼盛及び宗清を招請すれど、再び世にその名を現わすを欲せず、固辞して伊賀の地にこもる。歌って曰く「柘植の野にこしつる花をうえおきて我が行くすえをいはふべき哉」と言い、これより柘植姓をなのったとある。

 川口家においては、公卿平氏の系統を名乗っておるが、柘植氏と同じような事が言われております。

中世の川口家は尾張に住み、一族であった津島の大橋家の次男盛祐が養子に入り、川口の基礎をつくりました。
この大橋家は桓武平氏家貞流を後醍醐天皇の皇子、宗良親王の末裔「神王」が家督を継いだ家で、詳しく説明を加えて見ますと後醍醐天皇の子、宗良親王、その子尹良親王、またその子良王が諸国流浪の時、桃井、世良田等数多くの武士が護衛して尾張奴の城(津島市)の城主大橋三河守定省の所に無事送り届け、神王が大橋和泉守信重と名乗り、津島神社、奴野城と美濃高須城の城主として四家七苗字党の長としていた。
 
四家七苗字党とは大橋、岡本、山川、恒川が四家で、堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村でのち宇佐美、宇都宮、開田、野々村を加えて十五家として、尾張、美濃のうち、高拾弐万石を領していた。

 とりあえず、この辺で。なのか分からないことがありましたら、項目を挙げてくだされば、私の分かる範囲内でお知らせいたします。

 今後ともよろしくお願い致します。
[49]川口 信さんからのコメント(2002年01月28日 10時09分16秒 ) パスワード
  

隈さん、服部さんへ

 挨拶の文もなく始めてしまって御免なさい。
既に、ご存知のことばかりで申し訳ありません。なな苗字党の服部氏の名前は服部伊賀守宗純です。
 川口家が広島の三原市にあると以前姓氏大辞典でみたことがあります。
 大橋家の続きを述べますと、大橋大膳大夫定広(神王の子)が、大橋家を継ぎ、次男盛祐が川口家へ、三男宗祐は家康公に従い蟹江の戦いで討死、四男広政は三河の大浜社人の一族、長田平大夫政広の養子になり、その孫伝八郎直勝の時、大江流「永井」に変えのち大名となっております。
女子一人は森小太郎可行の妻となり、その子孫三左衛門可成、長可、蘭丸等が有名で森忠政が大名となっております。もう一人の女子は、服部さんのお指摘の通り蜂須賀
小六郎正利の妻となりました。この家も大名として、明治まで続いております。
 次男盛祐の妻は、大河内左衛門佐元綱の娘(華陽院殿)であります。
名前をお富またはお万などと言われており、徳川家康公の祖父の松平清康の一時、妻でもあった人物で、家康公の母・伝通院殿の母親であります。
華陽院殿の出生・婚姻について色々と説があり、この事から家康公の替え玉説、四人説などが発生しております。

 蜂須賀家と一族という事になり、豊臣秀吉公が岐阜に一夜城を築いたときのメンバーに蜂須賀、川口久助の名前があります。
 平家の話題から外れてしまいましたが、面白いことなので(自分本位)書かせてもらいました。



[50]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 00時09分06秒 ) パスワード
  

>蜂須賀家と一族という事になり、豊臣秀吉公が岐阜に一夜城を築いたときのメンバーに
>蜂須賀、川口久助の名前があります。

上記の書き込みもあちらに転載させて頂きますね。


蜂須賀家に大橋家から嫁(正妻)に行って
そこに継子の小六がいて
と日本の歴史に書かれる「大橋家」ってどんな家だったのか
うまくご紹介になっています。
ありがとうございます。

墨俣築城に「大橋家」の一族の川口氏が出て来るのは当然ですね。
そして蜂須賀との関係も良好だったというのが分かります。
私が読んだ小説でも小六は大橋家から来ていた正妻さんに一目置いてましたから。
[51]服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 22時51分08秒 ) パスワード
  

http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link1.htm

川口さまに頂いた宗清子孫のURLです。
こちらにも転載致します。

川口さま、ありがとうございました。
[52]宗清隆也さんからのコメント(2002年12月13日 19時32分43秒 ) パスワード
  

初めまして。
『宗清・・・』で検索した所こちらに辿りついたのです、がここまで早足に見せて頂きあまりに『宗清』と言う名前が出ていて少し不思議に思っています。

と、言うのも、申し遅れましたが私の名前は『宗清隆也(ムネキヨタカヤ)』と申します。
自分は昭和40年に東大阪で生まれて現在も在住しております。
父は、広島県三次市の出身で、今までは『毛利元就の家臣で小関宗清之神の末裔・・・』と漠然と聞いておりましたが、ここで出てくる『宗清』と関係がありそうなので何かわかる事があれば教えて貰えればとカキコしてみました。

ただ、私自身は歴史にうとく難しい事はわからないのですがご迷惑でなければお願いします。
[53]服部 明子さんからのコメント(2002年12月14日 00時14分42秒 ) パスワード
  

よく分かりませんが

「小関」という名字でしたら
三重県の関の、ちょっと遠慮して「小関」とでも名乗ったのでしょうか?
関=平資盛が叱責されて行ってた所ですね。
そこで子が生まれたという事ですから。

それに宗清というのも伊賀系にありますから


一見した所では「平家」系のお名前のようですね。
[54]宗清隆也さんからのコメント(2002年12月16日 22時30分09秒 ) パスワード
  

へぇ〜・・・
さすがによく知ってますねぇ〜
でも、毛利元就との接点ってあるんですかぁ?

それから、宗清って言うのが『伊賀系』にある・・・って事ですが、宗清と言う名の方が伊賀界隈にいらっしゃると言う事ですかぁ?
[55]服部 明子さんからのコメント(2002年12月16日 23時34分22秒 ) パスワード
  

「宗清」というのは

・まず平家の本貫地が伊勢・伊賀で
・平治の乱で源頼朝を捕らえたのが「平宗清」です。
・壇の浦の合戦で平家が滅びた後、平家で許されたのが池の大納言家と宗清でした。
・宗清寺というのが八女あたりにありますし
・宗清の家が伊賀で支配的な地位を得ました。

ですから、その関係で「宗清」の子孫を名乗る人は多く
また大阪の方に姓が「宗清」というお宅があるのを数年前気が付きました。


宗清という名は(21世紀はどうでもないでしょうが)江戸時代までは伊賀には大きな
力を持っていたと思いますよ。
伊賀では宗清子孫または家長子孫というのが支配層の誇りだったと思います。
我が家は家長の子孫になりますが。
[56]宗清隆也さんからのコメント(2002年12月18日 23時22分54秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。
凄いですねぇ〜!
特に、自分が苦手なジャンルだけによくそれだけ覚えてらっしゃると関心する次第です。
『好きこそモノの上手なれ・・・』と言う事も手伝っているのでしょうが本当に頭の下がる思い・・・と同時にあまりにオウチャクな自分が恥ずかしく感じる程です。
とは言え、ついでと言っては失礼ですが、もう一つ教えて下さい。

『八女』と言う所の宗清寺と言う所に行って見たいのですが、詳しい場所はご存知でしょうか?
また、宗清寺へ行くと何かしら、らしい 資料などはあるか否かご存知ですか?

余談までに、国道1号線を走って亀山〜国道23号線に出るまでの途中に『八女』と言う所があった様に記憶していますが、おっしゃっている所は同じですか?
(ちなみに私は明日そちら方面に出張に行きます。)

最後に、大変失礼ですが、ご自身も宗清の血筋の方になるのですか?

[57]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 04時22分00秒 ) パスワード
  

三重じゃなくて私の書いた「八女」って佐賀県か福岡県の方です。
私は土地鑑が無いので何故か「八女」という印象が強くて。

我が家は「家長」の子孫だそうです。
宗清の従兄弟ですね。
[58]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 04時36分17秒 ) パスワード
  

他のスレッドを検索しましたら隈さんが
「宗清寺は現在では筑後市鶴田にあります」
とお書きです。

久留米に安徳天皇が逃れたというお話があり
その時に隈さんがお書きです。
[59]服部 明子さんからのコメント(2002年12月19日 04時42分41秒 ) パスワード
  

ちょっと検索に行って来ました:


道場山宗清寺

「當寺創起畧記」という、お寺の由来が書かれた書物には
「治承年中右大臣宗盛公筑紫九州之地征鎮之〜」と書き出されており、
このお寺が治承(1177)4年5月7日道場山
(八女の里市の塚)に平宗清(宗盛)によって開基されたことが記されています。
(寺院・福岡県筑後市鶴田1449)


1997年当時はこのお寺を紹介したサイトが存在してましたが
見つかりませんでした。
[60]宗清隆也さんからのコメント(2003年01月01日 17時41分38秒 ) パスワード
  

あけましておめでとうございます。

せっかく色々な情報を頂きながらお礼を返すのが遅くなりすいませんでした。
無知な自分ですがさわりは分かった・・・と言った所です。
また、逆にそれ以上になると複雑な人間模様がありそうですね・・・

それから『宗清寺』探して頂いてありがとうございます。
しかしながら、福岡まで探しに行くには少々時間と労力を要するので、出張ではなく旅行等のついでに行ってみたいと思います。

どうも有り難うございました。

東大阪市 宗清 でした。
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