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 投稿番号:100161 投稿日:2001年08月31日 00時44分23秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平家物語の史跡を訪ねて 12

コメントの種類 :史蹟  パスワード

友人が京都・一の谷・石山寺その他に出掛けました。
紀行文を楽しみにしていたのですが
天候が悪くてはかばかしいのが書けないのだそうです。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年08月31日 00時53分20秒 ) パスワード
  

以下メール:


今回の旅は、初日だけはうまく予定通り進んだ。
2日目は、見事に雨で崩れた。
以降は、滅茶苦茶になっちゃった。

2日目は、四国に渡って「屋島」を見て、愛媛まで足を延ばす予定だった。
そしたら、渡る筈の明石大橋が、霧でかすんじゃうくらいの霧雨。
それで断念!

それで時間は中途半端だし、
そうかと言って次の京都までは戻る時間は無いし。

仕方なく、近くの源平碑に行ったり、六甲の山に登ったりでね。
碑はともかく、六甲に登ったって「六甲の夜景」なんて霧で見えるわけないよ。

ところで、亀ケ谷禅尼ってご存知?
知っていたら教えて。
石山寺で、頼朝と仲良く並んでの宝キョウ(字が出ない)印塔。
これって、いわく気味だよねえ。


でも、亀が谷禅尼と亀の前は別人でしょう。
亀の前は、伊豆からの関係と聞いたことがあるから、石山では遠過ぎる。
現地妻かなあ、とは思ったけど、
それにしては二人とも立派な供養塔で、重文に指定されている。
一体どんな女性だったのか?頼朝との関係は何だったのか?



「義仲の首塚」ね。
高台寺参道にあったという首塚。

あれも、今は駐車場になって、碑は壊されちゃったんだって。
ひどいもんだね。
移築しないところが、京都の気質かな。


昔バブル最盛期の東京は、一週間見ないと町が変わる、と言われた。
今でも新宿でさえ、しばらく見ないと店が変わってる。

もっともバブル期は、景気が良くて変わった。
今は、不景気でやっていけなくて変わる。

それは京都だって奈良だって同じ。
客も来ない、ちっぽけな店をやってるより、駐車場にした方が良い。
それも、たったの4台しか停まれない場所だよ。

そこの人にしてみれば、変てこりんな棒より、
高台寺に来る車を停めてお金を貰った方がいいに決まってる。
人の生活なんか見ていない我々は、彼等にしてみれば鬼に見えるかもね。

でもなあ、ちょっと残念。
パンフには、いまだに「高台寺の山門前にある」と書いてあるのに・・・。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年09月14日 23時22分12秒 ) パスワード
  

メールで頂きました:


【滋賀にて T】

源氏を追う旅を重ねて、もう何年目何回目になるのか、見当がつかない。
今夏も相変わらず、源氏を追っている。

一人の恋人から、こんなことを言われた。
「滋賀に行ったら、今井兼平の墓に詣でるのが常識だ」と。
私は反論した。
「兼平は義仲の家臣であって、源氏ではない。私の旅の行先まで指示するな!」と。
がしかし、滋賀で一番に行ったのは、兼平の墓である。

兼平のことを、ここで詳しくは述べまい。
街の喧騒から離れた住宅の中で、兼平の墓はオアシスのように緑を蓄えている。
蝉が経を読むように鳴き騒ぎ、木漏れ日が灯明のように墓石を照らす。
しかし暑い。
墓石に供えられた花は、夏の暑さで首を垂れていた。

兼平の壮絶な自害は、誰もが知っているとおりである。
こういう忠実な部下、というより仲間を持った義仲は何と幸せ者だろう。
ただ残念なのは、頭領である義仲は、天下をとれる器を持っていなかったことか。

死の直前は、一瞬の内に一生が走馬燈のように流れると言う。
刀をくわえ馬から飛び降りる時、兼平は義仲、巴、山吹らと遊び回った木曾のこと
が、頭に浮かんだに違いない。

兼平の墓の前で、私は義仲にかわって、「ごめんな」と何故か呟いていた。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年09月14日 23時24分58秒 ) パスワード
  

続き:


【滋賀にて U】

頼朝は、いわゆる「勝者の運」に恵まれている。
たった一つの選択で、常に「勝つ」方を選択してきた。
ここ建部大社でも、選択を「勝つ」方に引き寄せた場所の一つである。

建部大社で面白いのは、北から真っ直ぐ伸びる参道の先に、神殿が見えない。
「おや?」と思いながら暫く行くと、東に直角に曲がる参道がある。
曲がった先には、今度は社殿が見えてくる。
地形的なこととか、経済的なこととか、そうした理由で参道をこうせざるを得なかったのであろうが、これを意図的に演出したとしたら、素晴らしい演出家の才能をもつ人物だ。

頼朝が伊豆に流される途中、弥平兵衛宗清〔頼朝を捕らえたのはいいが、徐々に頼朝に惚れ込んでしまった男〕の反対を押し切って泊まったのが、ここ近江・建部大社である。

その夜、頼朝は平家方の纐纈源五盛安〔実はこの男、かつて義朝の郎党だったのである〕に相伴されながら、神社に参篭した。

その時、盛安が頼朝にそっと近づき、「今、生きているのが不思議なくらいです。でも、清盛のいうように出家など、絶対してはなりませんぞ」と囁いたという。
結果的に、それに従った頼朝である。
この一言、この決断が、のちの武士政治の幕開けとなった。

その小さな舞台となった建部大社は、夏の日盛りの下、人一人いない中で佇んでいる。
さほど大きな神社ではないが、そういう歴史を持ったという目で見ると、何故か重々しく見えてくる。

建部大社に来て帰るまで、誰とも行き会わなかった静かな神社を、後ろ髪を引かれながらあとにした。
頼朝を本当に好きな私は、「頼朝と同じ場所にいる」というだけで、立ち去り難い感情をいつも味わう。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年09月15日 20時29分25秒 ) パスワード
  

続き:


【滋賀にて V】

次に訪れたのが、旅の主目的である石山寺。

まずは当然、初めに目に飛び込んできたのが山門。
琵琶湖に注ぐ、瀬田川に面している。
意に反して、思ったよりも小さな東大門である。

しかし、重要文化財に指定されている立派な門だ。
1190年といえば、頼朝が初めて上洛を果した年である。
この年に、頼朝の寄進で建立されている。
残念なことが一つ。
重文に「三社札」が、所狭しと貼られているのは如何なものか。
驚きとともに、その扱いに首を傾げる。

塔中が左右に建ち並ぶ参道を行く。
蝉の声しか聞こえない境内は、暑いのに鳥肌が立つ。
寺のかもし出す雰囲気なのだろうか、「やっと来たぞ」という感動なのか。

石段を上がった右側に、やはり頼朝の寄進で建てられた毘沙門堂。
これは明らかに、鎌倉造りの素晴らしい物だ。
重要文化財に、当然指定されているのだろうが、説明が何もない。
頼朝の寄進で建てられたのは分かるが、いつの頃なのか不明である。

更に上へと石段を上がると、国宝・多宝塔がそびえる。
1194年、翌年の東大寺大仏殿落慶供養の上洛に合わせるように、
やはり頼朝の寄進で建てられている。
現存する多宝塔では、日本最古で純和風様式である。
檜皮葺きの多宝塔は、高台に建ち、下からの参拝者を圧倒する。
流石は頼朝、後世に残る素晴らしいものを寄進したものだ、と一人悦に入る。

ふと、多宝塔の横を見ると、重要文化財・頼朝供養塔。
それは立派な宝篋印塔で、これだけ多くの寄進をした頼朝の供養塔があっても、何等
不思議ではない。
不思議なのは、頼朝の隣に建つもう一つの宝篋印塔である。
「亀が谷禅尼」とある。
この名前は、いまだかって聞いたことがない。

堂々と頼朝と並んで、まるで夫婦印塔のように寄り添っている。
いやいや、詮索はすまい。

広い境内を、ゆっくり味わいながら、夏の陽射しを遮ってくれるいっぱいの
緑を見ながら寺をあとにする。

駐車場に戻って車に乗る時、管理人の小父さんに言われた。
「引退をなさって、一人古都巡りですか。羨ましいですなあ」
ニッコリ笑って、「ありがとうございます」
走り出して、一人ブツブツ、「わたしゃ、まだ現役だわい」。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年09月16日 09時26分32秒 ) パスワード
  

続き:


【滋賀にて W】

膳所の義仲寺へ行く。
この寺は今まで3度足を運んだ。
それも、3度とも中には入れなかったのである。

大晦日に門を閉じている寺は珍しいし、朝の開門がデパート並に遅い寺もない。
それに「定休日」がある寺も、これまた余り聞いたことがない。
少なくとも、私のお庭である鎌倉では、そういう寺はなかったと記憶する。
運が悪いと言えばそれまでだが、行く度に門が閉ざされていたら、いい加減ヤケになる。

「きょうこそは開門している」と義仲寺に向かう。
今回、4回目の訪問で門が開いているのを見た時、逆に異様に感じてしまった。
来る度に閉まっているので、開いている方が「?」と思ってしまう。

それはそれとして、境内に入れさせて頂いた。
「句碑が沢山ありますから」と住職らしき人に言われた。
「そうか、俳人の墓が多いので、それに参る人が圧倒的に多いんだな」と納得する。
やはり芭蕉の墓の近くに眠りたい、という俳人が多いのだろう。

芭蕉が言ったという「義仲の隣に埋めろ」、との遺言は本当なのだろうか。
芭蕉が何故そんなに、義仲を愛したのだろうか。
まあ、それはいい。

個人の庭のような境内である。
静かである。
鹿威しが鳴る。
日陰に腰を降し義仲の墓と、寄りそうように立つ巴塚を、時を忘れて見入る。
「お前は、一気に色々なことをやり過ぎたよ」と一言苦言。
「頼朝と張り合う気持は分かるけどさ」ともう一言。

たっぷり時間をもらって「じゃあな」とここを去る。
そういう気軽な気がする、憎めない男。

あとから知った。
義仲とともに歩みながら、巴の陰でひっそり生きた「山吹」の塚があったことを。
そういう人に、何故か憧れる。
そういう人を、心から愛したいと感傷に耽る。

再び、義仲寺に行く理由ができた。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年09月16日 21時10分26秒 ) パスワード
  

続き:


【一ノ谷にて】

雌雄を決する源平の戦いは、ここから始まったと言っていい。
源氏にしてみれば、戦略に長けた義経がいたことが、勝利を得た要因の一つである。
平家側にしてみれば、敵に義経がいたことが不幸であった。

俗に言われる「鵯越」の大仕事はどの場所かという議論があると聞く。
何故なら決戦場となった一ノ谷と、今の鵯越とは距離的にかなり離れているからだろう。
それとどうしても、急な崖を義経に下りてもらいたいための願望からか。

「鹿が下りる所を、馬が下りられないわけがない」と崖を駆け下りたという。
今回、一ノ谷に立って思ったことは、
「義経は鵯越を下り、一ノ谷には横から突っ込んで来た」
と一人、結論を出してしまった。

霧雨の中、一人ゴンドラに揺られながら下を見ると、そこは正に直角に近い崖である。
ここを下りるなら、馬はおろか鹿でも下りることは困難だろう。
下りれば文字通り、「馬鹿」と言われてしまう。

鵯越の斜面なら、下りることは可能だ。
「源平合戦図屏風、義経鵯越の図」をよく見ると、急な斜面で描かれているが、
崖のようには描かれていない。
これらを総合すれば、義経は伝えられるように鵯越を下りたと考えられる。

一人結論を出したあと、一ノ谷近辺を探索。
まずは須磨浦公園西の、有名な「敦盛供養塔」。
これは、室町末期に建てられた、「源平死者の塚」であったのが、
いつのまにか「敦盛供養塔」に変わってしまったという。
拾尺の立派な五輪塔は、敦盛の方が相応しいと思ったのだろう。

その替わりに建てられたのが、公園東の「源平・戦の濱」碑なのだろうか。
今だ雨やまず、霧が視界を遮る。
一気に屋島に渡る夢が、脆くも崩れてしまった。

須磨浦公園から振り返ると、一ノ谷の上は霧で覆われていた。
源平が鎬を削ったこの地。
鵯越だの一ノ谷だの、そういう問題よりも命を賭けた多くの士が散っていった場所として
ここを心に刻み込みたい。
源平の士、安らかに。
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年09月23日 21時57分22秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


雲一つ無い秋晴れ。
でも、冬のように冷たい北風。

勇気を奮って、車の水拭きとワックス掛け。
2時間以上かかったかなあ。
このシリコン入りのワックスは、雨に降られても平気なの。
雑巾で一拭きで、綺麗になる代物。

掃除をしながら、何故か「日向薬師」に行きたくなってね。
ぶらっと、行ってみようかと。

日向薬師は、毎年のように頼朝と政子が大姫の病気治癒で通ったところ。
近くには、やっぱり毎年頼朝が刀を納めた、大山神社。
鎌倉から海老名を通り、大山街道を行ったんだろうなあ。
海老名からは、丹沢の大山がよく見える。
[8]俊寛僧都さんからのコメント(2002年05月13日 23時17分13秒 ) パスワード
  

平家物語と平家琵琶に興味をもっているものです。
このコーナーの最初に亀ケ谷禅尼ってご存知と書いてありました。
私もよく知りませんが、鎌倉の方でしたら亀谷(kamegayatu)という地名をご存知ありませんでしょうか。
吾妻鏡で亀谷と言いますと掃部頭中原親能(Kamonnokami nakaharanochikayosi)を指していると思います。亀ケ谷禅尼とは、親能の奥方かもしれません。
 親能と大江広元とは、義理の兄弟
 文治二年 京都守護職になりました。頼朝に信任が厚く、在京して頼朝の意をうけ公家の間を奔走していました。
間違いとは思いますが参考までに            
 
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年05月14日 10時56分03秒 ) パスワード
  

ありがとうございました。
早速メールで知らせますね。
[10]川口 信さんからのコメント(2002年05月14日 12時33分03秒 ) パスワード
  

  >親能と大江広元とは、義理の兄弟とありますが、

 正確には同父異母の兄弟です。

 
 詳しくは下記URLで斎院次官中原親能は:

  http://www2.ocn.ne.jp/~t-adachi/nakahara.html

 大江廣元は:
  
  http://www2.ocn.ne.jp/~t-adachi/o-e.html
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年05月14日 21時35分29秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。
早速知らせます。
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年05月14日 21時53分46秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100291_2.html

3者の関係について新しくスレッドを立てさせて頂きました。
ありがとうございました。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年05月14日 23時45分51秒 ) パスワード
  

メールを頂きましたのでご紹介させて頂きます。


亀ケ谷禅尼について、ありがとうございます。

中原親能のことを亀谷と言っていることを初めて知りました。
だから亀ケ谷禅尼=親能の室と、とれないことはありませんね。


私の推測では、頼朝と並べて供養塔を建てるのなら、
親能の方がいいのではと思いますが如何?
何故、奥方の名で建てたか不思議なんですよね。


私の資料では、中原親能と大江広元は実の兄弟と覚えておりますが。
親能は、広元とともに源氏3代に仕えた重臣。

3代に亘って仕えた重臣は、そういませんから
有能か、世渡りがうまいかどちらかでしょう。
広元も政子にうまく取り入って政治生命を延ばした男。
なかなかです。
[14]服部 明子さんからのコメント(2002年05月29日 22時56分47秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


「亀ケ谷禅尼はどんな人だったのかな」と思いながら、亀ケ谷を登る。


坂を下り切れば、新装なった「岩船地蔵堂」に着く。
大姫の供養に建立されたと言う。
「頼朝公御息女」は、大姫だけではない。

余りにも古くなった堂を新らしく建て直した。
頼朝史跡が、こうして大切にされることは嬉しい。

残念なことは、以前の地蔵堂は中の地蔵が見えた。
新しい堂は、扉をきちんと閉め中が見えない。


御成町を通り、今まで行ったことの無い「問注所跡」へ向かう。
御成小学校の正門前に、それはあった。

代々三善氏が世襲し、鎌倉地域以外の全国の訴訟を扱った。
政所、公文所とともにあった、幕府の一機関である。


その足で妙本寺へ。
竹の御所跡の碑を見て、墓に向かう。
墓には誰が供えたのだろう。
新しい花が、初夏の日に鮮やかだ。

竹の御前こと、○子の墓とある。
(○は部首は女、旁は美と書く。 そういう字がないのだ。 読みも不明)



紫陽花の前は、静かな古都での心和む一日。
[15]服部 明子さんからのコメント(2002年05月30日 22時38分51秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


初夏の鎌倉散歩コースのご紹介です。

北条高時腹切りやぐらからのハイキングコースで妙本寺に行くには
ちょっとした山歩きですが、寺の裏に出てきます。
恋人と二人で行くと、手を差し伸べるところとか、抱きかかえるような急なところもあり
なかなか面白いコースです。


他に鎌倉アルプスという明王院から明月院までの、長距離コースもあります。
そこには大江広元の墓といわれる七重石塔などがあり、
こちらは鎌倉時代に戻れる楽しみなコースですが、
厳しいですから駄目でしょうね。
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