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 投稿番号:100160 投稿日:2001年08月30日 00時38分50秒  パスワード
 お名前:服部 明子
北条時宗と蒙古来襲

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

1)
「日本の歴史第10巻」『蒙古襲来』(講談社)。
著者は筧雅博。

政治的事件は比較的簡単にあつかわれてましたけど、
当時の土地所有法の問題などが詳しくて、おもしろかった。


入門書としては
2)中公の黒田先生の本、

3)
小学館の網野先生の本がいいかな?

[1]源三さんからのコメント(2001年09月01日 15時09分08秒 ) パスワード
  

壱岐の平景隆の奮戦よかったね!
大友頼泰出てきたけどぶ男すぎ、もっとかっこいい人、榎木孝明などが颯爽と
登場してくれること期待していました・・・。
あの叔父さんが容眉(容姿)秀麗な源頼朝の庶子ともいわれている、頼朝の
寵童・大友能直の孫の大友頼泰と思うと見る気なくします。
軍議の席なんで菊池氏が横なのかな?島津氏や千葉氏のほうが先のはず。
菊池氏はあの席には座れない身分なはず。鎌倉御家人と九州御家人(武士)
の間には相当な身分、格式の差があったそうだから、今度の大河はかなり
史実からかけ離れています。
[2]源三さんからのコメント(2001年09月01日 22時36分13秒 ) パスワード
  

●北条時宗(前編)』(全2巻)
[B5変型判並製・200ページ]
NHK出版編
定価:本体1,000円+税

日本史上最大の国難といわれる13世紀鎌倉時代の「蒙古襲来」。この未曾有の危機に立ち向かい、2度の蒙古襲来を退けた若き執権、北条時宗。2001年のNHK大河ドラマは、時宗の生涯を軸に中世・日本の疾風怒濤の時代を描きます。本書はドラマのあらすじ、キャスト紹介、舞台地紹介、歴史エッセイなど関連記事が満載です。

(後編)予定価:本体950円+税 2001年6月発売予定

●『時宗(巻の壱)乱星』
[四六判上製 336ページ]
高橋克彦 著
定価:本体1,600円+税
源頼朝が開いた鎌倉幕府は13世紀半ば、北条氏がその実権を握っていた。幕府の体制を強化した北条時頼は蒙古の脅威が伝えられるなか、自らの後継者に時宗を指名、日本の将来を託すことを決意する。奥州藤原氏と平泉の興亡を壮大なスケールで描いた大作『炎立つ』に続き、高橋克彦が挑む歴史巨編。

★『時宗(巻の弐)連星』
[四六判上製 336ページ]
高橋克彦 著
定価:本体1,600円+税
三浦一族との戦いを制した北条時頼は、続けて九条道家の陰謀も封じ、政権の安定をはかった。その後、病のために執権職を辞して出家した時頼は、自らの後継者と決めた時宗を連れて廻国の旅に出る。海外から蒙古の脅威が日ましに伝えられる中、成長した時宗はこの国を守り抜くことを決意した。

★時宗(巻の参)震星』
[四六判上製 336ページ]
高橋克彦 著
定価:本体1,600円+税
父・時頼の遺志を受け継いだ時宗は、18才にして鎌倉幕府第八代執権となり、名実ともに日本の指導者となった。しかし海外では、蒙古が次の狙いを日本に定めていた。この国を守るべく、時宗と北条一族は蒙古軍と戦う決意を固める。かつてない壮絶な戦いが、ついに幕を開けた。

●『時頼と時宗』
[四六判並製・416ページ]
奥富敬之(日本医科大学教授)
著定価:本体1,700円+税
鎌倉幕府、執権政治、蒙古襲来……激動の中世に活躍した北条時頼と時宗、二人の執権の足跡をわかりやすく解説した一冊。

●決断 蒙古襲来と北条時宗』
[四六判上製・288ページ]
童門冬二著
定価:本体1,500円+税
元帝フビライと若き執権北条時宗が、世界史的必然により激突するまでを現代の視点で描ききる。

●『歴史・文化ガイド 北条時宗の時代』
[B5変型判並製・160ページ]
奥富敬之(日本医科大学教授)監修 NHK出版編
定価:本体1,300円+税
時宗の生きた鎌倉時代を、鎌倉と博多の中世遺跡から再現し、執権政治とは何かを解説します。

●『鎌倉びとの声を聞く』
[四六判上製・208ページ]
石井進(東京大学名誉教授・鶴見大学客員教授)著
定価:本体1,300円+税
「蒙古襲来絵詞」「霜月騒動」を通し、日本中世史研究第一人者が鎌倉びとの肉声に迫ります。

●『歴史よもやま話 蒙古襲来』
[四六判上製・336ページ]
白石一郎(作家)
定価:本体1,600円+税 3月15日発売予定
チンギス・カン、源頼朝から説き起こし、北条時宗とクビライ・カアンの対決、戦後の日元両国と東アジアの変貌を、博多在住の作家の洞察力で実証的に描く歴史エッセイ。





[3]服部 明子さんからのコメント(2001年09月02日 11時11分12秒 ) パスワード
  

壱岐の平 景隆について知りたいと思いました。
[4]源三さんからのコメント(2001年09月02日 15時53分33秒 ) パスワード
  

服部さん僕も、平景隆の出自に興味あります。系図に載ってませんね。
平家の庶流、末流に違いないことはわかるんですけど・・・。
その祖先が誰から出たかわからばいいですけど。
もしかして平景清(秀郷流伊藤氏一門)の系統かも・・・?
また調べておきます・・・。
[6]源三さんからのコメント(2001年09月03日 03時00分00秒 ) パスワード
  

★元寇に際して活躍した武士たち
大友頼泰(1222〜1300.79歳)

(おおともよりやす)
 鎌倉時代の武将。父は大友親秀。母は三浦家連女。初名泰直。従五位上。式部大輔・出羽守・丹後守。嘉禎二年(1326)家督。豊後守護・鎮西奉行として文永・弘安両役に際し、まず文永九年(1272)の初めに豊後に下向、鎮西の地頭・御家人を少弐氏とともに指揮した。これ以後大友氏は相模大友郷の本貫から豊後に移住、土着し、豊後の豪族的領主としての性格を強めた。法名は道忍。

武藤資能(1198〜1281.84歳)

(むとうすけよし)
 鎌倉中期の武将。父は武藤資頼。安貞二年(1228)、資頼の死去以後、寛喜二年 (1230)五月以前の時点で筑前・豊前・肥前・対馬の守護を兼帯。その後、文永十年(1273)十一月以前に壱岐守護にも任ず。父に続き大宰府に守護所を置いた。右衛門尉・豊前守・筑後守を歴任して正嘉二年(1258)二−四月ごろ大幸少弐となる。文永元年ごろ出家、法名覚恵。文永五年閏正月、高麗使節潘阜のもたらした元の国書を鎌倉幕府に取りつぎ、以後大宰府守護所は元使来朝の窓口として機能した。一方、蒙古襲来に備え大友頼泰とともに鎮西防衛の責任者として幕府から軍事統率権を委任され、一般に鎮西西方奉行と呼ばれた。文永十一年の蒙古襲来では三子景資を大将とし、子の経資とともに戦った。文永十二年初めに三前二島の守護職を経資に移譲、大宰少弐も辞した。弘安四年(1281)、蒙古の再来にも参戦し、その際、壱岐島の戦闘による負傷がもとで同年閏七月十三日没す。八十四歳。

武藤経資(?〜1291)

(むとうつねすけ)
 鎌倉中期の武将。嘉禄・安貞(1225−1229)のころ生れる。父は武藤資能。筑後守。資能の生年から大宰府執行として活動。文永十一年(1274)の蒙古襲来に参戦。同十二年初め、三前二島の守護職を資能から相伝、大宰少弐を兼ねる。弘安四年(1281)の蒙古再来では壱岐に渡り軍勢の指揮にあたる。弘安七年、大友頼泰らとともに、いわゆる鎮西特殊合議制訴訟機関の合奉行。同九年には鎮西談議所頭人として鎮西の訴訟を 取り扱い、また蒙古合戦の恩賞地配分に携わる。弘安七年、北条時宗の死を機に出家。法名浄恵。正応四年(1291)に没す。

河野通有(1250?−1311.62歳?)

(こうのみちあり)
 鎌倉後期の伊予の武将。伊予国守護。六郎。弥九郎。蔵人。但馬守。父は通継。母は井門(いど)三郎長義の女。父の所領、伊予国石井郷を継承し縦淵城に拠る。剛勇の人で、弘安四年(1281)の蒙古来襲では、叔父通時・嫡子通忠と伊予の地頭以下、御家人を率いて筑前博多に向かい、箱崎に着陣した。博多の海岸に河野の後築地(うしろついじ)といわれる高い陣地を築き、決死の覚悟で戦いにのぞんだ。通時と小舟二艘に乗り、夷国船のように姿を変えて敵船に近づき、急に襲って将一人を捕膚とし、敵船に放火して帰った。瀬戸内海水軍の頭領としての経験を生かして戦果をあげたが、戦功により対馬守に任じられ、旧領を回復し、肥前国神崎荘内小崎郷ほか、肥後国下冬村、山崎荘などを恩賞地として与えられる。帰国後、周桑郡北条郷に長福寺を営み、通時ら戦死者の霊を弔った。応長元年(1311)七月十四日没す。諡号は長福寺殿天心紹普大居士。墓所は長福寺。

河野通時(?−1281)

(こうのみちとき)
 鎌倉中期の伊予の武将。左衛門四郎。伯耆守。通久の次男だが、実は通信の子で通久・通継の弟。本領の伊予国久米郡石井郷をめぐって兄通継その子道有と相論す。大力剛勇の士で弓の名手。建長三年(1251)一月八日、将軍家の弓始めに射手として参加、翌四年四月にも射手に選ばれる。正嘉二年(1258)一月の※飯(おうばん)に参列、弘安四年(1281)の蒙古来襲には甥の通有と筑前博多に参陣し、敵船を奇襲して軍功を立てたが、負傷のため船中で没す。
※土へんに「完」

菊池武房(1245〜1285)

(きくちたけふさ)
 鎌倉後期の肥後の武士。菊池隆泰の次男。武房以後、菊池氏の通字は「武」に変る。文永十一年(1274)十月の蒙古襲来に際し、弟有隆らとともに、その上陸を退けて活躍し、さらに弘安四年(1281)、再び襲来した元軍を、一族とともに防塁により迎え撃って功を立てる。文永十年閏五月二十九日の金沢実時あての書状が残っている。弘安八年一二月二十六日没す。

[7]源三さんからのコメント(2001年09月03日 03時14分16秒 ) パスワード
  

文永の役
第1次日本遠征

元軍戦闘組織

総司令官
征東都元帥
忻都

副司令官
征東都副元帥
洪茶丘



劉復享

高麗軍司令官
都督使
金方慶

蒙古軍=
高麗軍=
水手=
15000人
8000人
6700人

戦艦=
上陸用軽舟=
水舟=
300艘
300艘
300艘

1274年10月5日

元軍、対馬佐須浦へ上陸。守護代・宗助国80余騎を率いて出陣

1274年10月6日

宗助国、陣を構え元軍を迎え撃つが全滅、小太郎・兵衛次郎太宰府へ行く
息子・右馬次郎、養子・弥次郎、一族・右衛門三郎、越前五郎、甲斐六郎
流罪中の肥前御家人・口井勝三、源三郎兄弟、肥後の援軍・田井藤次郎
斉藤資定などが宗助国と共に戦死した。

1274年10月14日

元軍、壱岐西海岸に上陸。
守護代・平景隆100余騎を率い樋詰城前に陣をはる。
奮戦するも翌日陥落。平景隆・一族共に自害。郎党・宗三郎太宰府へ行く

1274年10月17日

元軍、肥前鷹島へ上陸。松浦党武士数百名を殺すがとどめを刺さず出発

1274年10月19日

元軍、洪茶丘率いる別働隊・今津へ上陸。監視隊を追い払い布陣する
原田氏・松浦党を破り麁原山を占拠。本隊の支援をする

1274年10月20日

元軍、金方慶率いる高麗軍・佐原・赤坂へ上陸。本隊箱崎・博多へ上陸
太宰少弐経資、鎌倉・京都へ急使を派遣、九州の守護・地頭を博多湾に集結させ
各地の守備につける。総大将・少弐経資、前線司令官・少弐景資

赤坂地区
菊池武房、詫磨氏、竹崎氏、白石氏、山田氏、原田氏
粟屋氏、日田氏、松浦党

箱崎地区
大友氏、島津氏

博多地区
菊池隆泰。康成、赤星氏、西郷氏、葉室氏、難波氏
戸次氏、千葉氏、野田氏、光友氏、山代氏、石志氏
城氏、龍造寺氏、大村氏、有馬氏、高木氏、深堀氏
山鹿氏、紀井氏、臼杵氏、児玉氏

守護3家=
地頭・御家人31家=
合計=
各500人
各125人平均
約5375人

本土防衛戦史元寇参考

1274年10月20日

金方慶率いる高麗軍・百道原へ侵攻、菊池武房・詫磨頼秀軍を破る
本隊・箱崎にて島津久経軍と、息の浜にて少弐景資軍と戦いこれを退ける。が、
副司令官・劉復享が少弐景資のはなった矢により重傷をおう
日本軍は博多・箱崎を放棄、太宰府へ引く
日暮れにより元軍夜襲を恐れ船団へと帰還、作戦会議を開くき撤退が決定される
金方慶のみ反対し抗戦を訴えるが総司令官・忻都がこれを却下する
朝鮮へと帰還途中、大風雨に遭い船団は潰滅した

この日本遠征は伐宋作戦の一つで日本を「威嚇」するのが目的だった。
[8]源三さんからのコメント(2001年09月03日 03時20分01秒 ) パスワード
  

弘安の役
第2次日本遠征

元軍戦闘組織

総司令官
征東行省右丞相
アラカン

  アラカンの後任
アタハイ

東路軍 東路軍司令官
征東都元帥
忻都

東路軍副司令 征東都元帥 洪茶丘
高麗軍司令官 征東都元帥 金方慶

蒙漢軍=
(侍衛軍)
高麗軍=
水手=
15000人
(4000人)
10000人
17000人

戦艦=
900艘

江南軍 江南軍司令官
征東行省右丞相
アラカン

江南軍副司令
征東都元帥
范文虎

蛮子軍指揮官   夏貴

蛮子軍=
100000人

戦艦=
3500艘

総軍戦員総数14万200人

1281年1月

フビライ、第二次日本遠征作戦発令する

1281年5月3日

東路軍、合浦を出撃する、巨済島へ向かい錨をおろす

1281年5月21日

東路軍内高麗軍が対馬へ上陸、在地武士を蹴散らし占領する

1281年5月26日

東路軍、壱岐へ向かう途中暴風により2、3艘が沈んだ

1281年6月6日

東路軍主力、博多へ侵入し各所で上陸を試みるが撃退される
志賀島、能古島周辺へ碇泊、武士団の夜襲をうける
鎌倉武士団は、当初の予定通りの配置についた

香椎地区
大友頼泰=豊後

箱崎地区
島津久経=薩摩

博多地区
少弐経資=太宰府、北条宗政=筑後

今津地区
島津=日向・大隈

生の松原
安達盛宗=肥後

1281年6月8日

東路軍、再び上陸を試みるが大友貞親軍の迎撃により退く(志賀島攻防戦)

1281年6月9日

志賀島攻防戦に安達盛宗率いる関東軍が参戦、三度退かせる

1281年6月13日

東路軍、博多湾を離れ壱岐へ退く

1281年6月29日

鎌倉武士団、壱岐に駐屯する東路軍を急襲する
少弐経資・資時父子、島津久経・長久兄弟などが参戦、少弐資時が戦死する

1281年7月2日

鎌倉武士団、再び壱岐を急襲して東路軍を混乱させる
松浦党、彼杵、千葉、高木、龍造寺らが攻撃した
東路軍、江南軍との合流地点平戸へ移動する
総大将アタハイ緒将を集め作戦会議を開く

1281年7月27日

東路・江南両軍、東へ移動する

1281年閏7月1日

鷹島付近へ集結した元軍、暴風のため大きな被害を受ける

1281年閏7月2日

鎌倉武士団、被害をうけた元軍の掃討作戦を開始し、松浦・御厨へ移動する

1281年閏7月5日

元軍、鎌倉武士団の掃討作戦が本格化すると江南・合浦へ退却した
 
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年09月03日 10時21分32秒 ) パスワード
  

<7>
>この日本遠征は伐宋作戦の一つで日本を「威嚇」するのが目的だった。

あらら
日本はとばっちりを喰らったということですか・・・
[10]源三さんからのコメント(2001年12月11日 06時44分18秒 ) パスワード
  




弘安の役
第2次日本遠征

 

元軍戦闘組織

総司令官
征東行省右丞相
アラカン

  アラカンの後任
アタハイ


東路軍 東路軍司令官
征東都元帥
忻都

東路軍副司令 征東都元帥 洪茶丘
高麗軍司令官 征東都元帥 金方慶

 

蒙漢軍=
(侍衛軍)
高麗軍=
水手=
15000人
(4000人)
10000人
17000人

戦艦=
900艘

江南軍 江南軍司令官
征東行省右丞相
アラカン

江南軍副司令
征東都元帥
范文虎

蛮子軍指揮官   夏貴

 

蛮子軍=
100000人

戦艦=
3500艘

総軍戦員総数14万200人


歴史群像シリーズ【チンギス・ハーン】参考

1281年1月


フビライ、第二次日本遠征作戦発令する

1281年5月3日


東路軍、合浦を出撃する、巨済島へ向かい錨をおろす

1281年5月21日


東路軍内高麗軍が対馬へ上陸、在地武士を蹴散らし占領する

1281年5月26日


東路軍、壱岐へ向かう途中暴風により2、3艘が沈んだ

1281年6月6日


東路軍主力、博多へ侵入し各所で上陸を試みるが撃退される
志賀島、能古島周辺へ碇泊、武士団の夜襲をうける
鎌倉武士団は、当初の予定通りの配置についた

香椎地区
★大友頼泰=豊後

箱崎地区
島津久経=薩摩

博多地区
少弐経資=太宰府、北条宗政=筑後

今津地区
島津=日向・大隈

生の松原
安達盛宗=肥後

 

1281年6月8日


東路軍、再上陸を試みるが★大友貞親軍の迎撃により退く(志賀島攻防戦)

1281年6月9日


志賀島攻防戦に安達盛宗率いる関東軍が参戦、三度退かせる

1281年6月13日


東路軍、博多湾を離れ壱岐へ退く

1281年6月29日


鎌倉武士団、壱岐に駐屯する東路軍を急襲する
少弐経資・資時父子、島津久経・長久兄弟などが参戦、少弐資時が戦死する

1281年7月2日


鎌倉武士団、再び壱岐を急襲して東路軍を混乱させる松浦党、彼杵、★千葉、高木、★龍造寺らが攻撃
した東路軍、江南軍との合流地点平戸へ移動する
総大将アタハイ緒将を集め作戦会議を開く

1281年7月27日


東路・江南両軍、東へ移動する

1281年閏7月1日


鷹島付近へ集結した元軍、暴風のため大きな被害を受ける

1281年閏7月2日


鎌倉武士団、被害をうけた元軍の掃討作戦を開始し、松浦・御厨へ移動する

1281年閏7月5日


元軍、鎌倉武士団の掃討作戦が本格化すると江南・合浦へ退却した

 

今回も自然の力によって敗れたようだが、そうでもなか
った。負ける要素があった東路軍は内部に火種を持って
いた。他民族の混成軍であるためである特に洪茶丘と
金方慶は共に高麗人ではあるが立場は大きく違った国
を裏切った者と国のために戦う者、内部はガタガタであ
った江南軍は10万の兵のほとんどが宋からの投降兵
でその中でも下位の者達である主に屯田を目的として
いた者達で主力は東路軍であったこの両軍の間にも連
携が欠けていたのである

 

★松浦党〈元寇での活躍〉

文永十一(一二七四)年の文永の役の時、元寇は壱岐から松浦沿海を急襲
した。平戸や佐志、山代、石志氏などの松浦党の面々が奮戦するが、石志
二郎名や鷹島等、その子の三郎満などが戦死している。星賀の佐志氏も自
領を守って討ち死にしたと思われるが、後で恩賞をもらっているので、一族の
半分は福岡の百道原で戦死したのではないかとも思われる。その後、元軍
は博多湾に姿を現し、松浦党の大半はこの百道原で戦闘に参加している。
弘安の役(一二八一年)では、六月初めに博多を攻めた東路軍は、激戦の末
、六月中旬に博多侵攻を断念し、撤退を始めて壱岐に向かっている。東路軍
と合流予定だった江南軍は六月下旬に平戸に到着、壱岐にいる東路軍にた
だちに南下の指令を出しているが、東路軍が伊万里湾頭に姿を見せたのが
七月下旬。この遅れの原因は日本軍の追撃のほかに、東路軍の船が高麗
様式船で逆走不能な船団のため、北東の風が吹かないと壱岐から伊万里
湾への航行ができなかったためと思われる。伊万里湾口での攻防では、元
軍が松浦星鹿刈萱城周辺を襲った。志佐継、山代又三郎栄などの松浦党
の面々が奮戦したが、支えきれずに第二線とした城麓の原生林での戦いに
持ち込んでいる。密生林では鉄砲、毒矢が役に立たず、元軍は海上に逃走。
この場所を「逃げの浜」、戦勝の太刀を洗った場所を「太刀洗い」、血で赤く染めた岬を「血崎」(現在
の津崎)と呼んでおり、この原生林には四カ所に元軍将兵を埋めた「蒙古塚」
がある。元軍撃退の地は博多といわれるが、文永の役では一、二日、弘安
の役では東路軍と戦っただけ。松浦の地では、十万を超える大軍と約四十日にわたる激戦が続いた。松浦地方に生活している人たちは元軍を撃退した
のは松浦の地であるということを自覚してほしい

大友頼泰 ( おおともよりやす)

豊後に下向土着した大友惣領家

 1222−1300 鎌倉時代後半の武将。豊後 守護 職(しき) 鎮西一方(ちんぜ
いいっぽう)奉行 職兼帯。初名 泰直(やすなお) 。童名薬師丸、太郎、 大炊
助(おおいのすけ)、丹後守、出羽守、兵庫頭、法名 道忍(どうにん)。 謚号(し
ごう)常楽寺殿道忍大禅定門。貞応元年(1222)生まれ。父は大友2代 親秀
(ちかひで) 、母は三浦 家連(いえつら)の娘。正安2年(1300)7月19日没、享
年79歳。

〈 文永(ぶんえい)の 役(えき) 〉
 文永11年10月20日蒙古軍は、兵3万余、900 艘(そう)の軍船で博多湾に
襲来、 今津(いまづ) 百道原(ももちばる) 博多方面から上陸してわが軍に損
害を与えた。蒙古軍の集団戦法と「てっはう」等の新兵器に圧倒されたわが
軍は、 大宰府 に向けて退却し 水城(みずき) の線に防衛線を 布(し)いた。
蒙古軍はその夜全軍を船に引上げた所、強風に遭い船が覆没して敗退した
★大友頼泰
に率いられた豊後御家人は 姪(めい)ノ 浜(はま) 百路原(ももちばる)等の博
多西方海岸で戦った。戦後建治元年(1275)幕府は頼泰に対し、第一線で進
み戦わず、又当境を守ると称し出陣しない者の多い事を責め、その人名を注
進させ罪科に処する事を、御家人たちに布告させている。

〈異国警固番役 異国出兵 博多 石築地(いしついじ)〉
 蒙古再来必至と見、幕府は文永11年12月異国警固番役の体制を強化し、
肥筑海岸の常時警固を令した。1年を春 夏 秋 冬の3か月あての4季に分け
、春(筑前 肥後)、夏(肥前 豊前)、秋(豊後 筑後)、冬(日向 大隅 薩摩)に配当
分番させた。勤務終了者には守護が 覆勘状(ふくかんじょう)(終了証)を出した
。その後若干変更があるが、番役は幕府の存続する限り続けられた。
 幕府は高麗海岸の敵前進基地覆滅のため、異国出兵の計画を建治元年
12月発令した。★大友頼泰はこれを受け国内御家人に所領面積 領内船数 櫓
(ろ) 水手(かこ) 梶取(かじとり)の名前と年齢等、及び出兵者の人数 年齢 武
具等の報告や、船 船員等の博多 廻漕(かいそう)の準備を命じた。ただしこ
れは中止され、のち弘安4年(1281) 少弐(しょうに) 大友を大将とする再度の
計画も発令の後中止された。

 これと平行して建治2年はじめころ、博多湾岸に 石築地 構築計画を発令、
各国守護に実施させた。異国出兵者は免除(ただし中止)。豊後御家人の分
担区域は長く不明であったが、「 杵築 生桑寺(いくわじ)文書 」から 香椎(か
しい)前浜と判明★大友頼泰は香椎宮中に奉行所を置き指揮した。この石築
地分担地が、各国警固役の分担地域となった。

●〈弘安の役と戦後処理〉
 弘安4年蒙古が再来したが、石築地に阻まれ、一部が 志賀島(しかのしま)に上陸し★大友軍と交戦し進行を阻止され海上で台風にあい全滅した。戦後
恩賞問題が続出し、幕府は御家人の鎌倉出訴を止めるため、弘安7年特殊
合議訴訟機関を博多に設け、同9年 鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ) とした
。少弐 大友 宇都宮 渋谷 が任命され、永仁元年(1293) 鎮西 探題(たんだい)
設置まで続く。恩賞は弘安9年から徳治2年(1307)まで7回実施が確認され
、大友 少弐がこれを奉行している。戦後鎮西諸社への復興、弘安8年 豊後国
図田帳(ずでんちょう) の作成等に活躍。正安2年9月17日没。墓は大分市
秋岡 常楽寺(じょうらくじ) 。
 参考文献 相田二郎『蒙古襲来の研究』芥川龍男『豊後大友氏の研究』
(『戦国史叢書』9)[渡辺 澄夫



 参考資料
・モンゴル秘史全三巻(東洋文庫)
・モンゴル帝国史全六巻(東洋文庫)
・元史全十五巻(中華書房)
・遊牧民から見た世界史(杉山正明 日本経済新聞社)
・大モンゴルの時代(杉山正明、北川誠一 中央公論社世界の歴史第九巻)
・宋と元(宮崎市定 中央公論社世界の歴史第六巻)
・モンゴルと大明帝国(愛宕松男、寺田隆信 講談社学術文庫)
・モンゴル帝国の興亡 上下巻(杉山正明 講談社現代新書)
・ジンギス・カンの謎(川崎淳之助 講談社現代新書)
・鎌倉幕府(石井進 中央公論社日本の歴史第七巻)
・蒙古襲来(黒田俊雄 中央公論社日本の歴史第八巻)
・平家物語全二巻(日本古典文学全集29 小学館)
・吾妻鏡全五冊(龍肅訳註 岩波文庫)
・武士の時代(五味文彦 岩波ジュニア新書)
・つわものの賦(永井路子 文芸春秋)
・蒙古襲来の研究(相田二郎 吉川弘文館)
・蒙古襲来(山口修 桃源社)
・蒙古襲来(海津一朗 吉川弘文館)
・元寇と松浦党 松浦党研究第二集(芸文堂)
・元寇と松浦党 松浦党研究第三集(芸文堂)
・海から甦る元寇〈弘安伊万里湾役について〉(古賀稔康)
・元寇物語(田中政喜 青雲書房)
・覇者の條件(海音寺潮五郎 文春文庫)
・チンギス・ハーンの一族全四巻(陳舜臣 集英社文庫)
・北条政子(永井路子 文春文庫)
 右は参考書のごく一部です。

両軍が予定通りに行動していたら、四千五百艘という途方もない船団が博多湾を
埋めつくすことになっていただろう。
 日本は元軍の手違いに助けられたといっていい。
 しかも日本の防衛対策も前回の文永の役の時とは格段に異なっていた。

 鎮西奉行の少弐経資、同じく★大友頼泰、薩摩など三ヵ国の守護島津久経、肥
前松浦党の面々などが九州全域から博多湾沿岸一帯に馳せ集っていた。その上
に肥後の守護に任じられた幕府筆頭御家人の二男の安達盛宗、筑後の守護に任
じられた北条宗政などが関東の軍勢を引き連れて参加している。

 しかも博多湾沿岸には今津から香椎に至る十四キロメートルの石築地がまるで
屏風を立てたように張りめぐらされ、室見川や多々良川には乱杭が打ち込まれ、元
軍の上陸を一歩も許さぬ備えが出来上がっていた。
 つまり博多は城塞都市と化していたのだ。

 九州各国の兵達はそれぞれが分担して築いた石垣の内側を部署として、効率よく
配備されている。どこから元軍が上陸しても自分達が汗水たらして築きあげた石垣
を越えさせないと勇み立っている。
 兵数については明確な資料はないが、文永の役の五千人や一万人という数とは
比較にならぬ多さだったろう。

 元軍は志賀島から能古島の沖に錨をおろしたが、高さ三メートルの石垣を見てお
どろき、上陸地点を探しあぐねて夜を迎えた。
 その六月六日の夜である。
 肥前唐津の御家人草野次郎経永が敵の上陸を待たず、二艘の船に家臣らを分乗
させ、暗闇の中を櫓音を殺して敵船の一艘に忍び寄り、乗り移ることに成功した。


元軍の船団も次々と襲撃してくる日本兵に閉口したのだろう。主力を志賀島の沖合
に移動させた。博多湾岸には石築地がめぐらされ、河口には乱杭が立ち並んでい
て上陸できない。あきらめて石築地の見えない志賀島へ回ったのである。

 志賀島は福岡市東北方の陸繋島で周囲は約十二キロメートル、高台が約二百メ
ートルの小島である。海の中道と呼ばれる陸路でつながっているが、満潮時には陸
路は波にふさがれて消え、干潮時に姿をあらわす。
 江戸時代の天明四年(一七八四)、この島の叶(かな)の崎(さき)で「漢委奴国王」
の五文字を刻んだ金印が発見されたことで世間によく知られている。

 元軍は博多湾頭の中央突破をあきらめて、※この志賀島に上陸した。
 海の中道が主戦場となったのである。

この地域の防衛を分担していたのは香椎に石築地を築いた豊後の★大友頼泰で
ある。大友家の豊後勢を先頭に箱崎の薩摩勢、博多の少弐勢などが、志賀島めが

けて殺到した。
※志賀島には元の蒙古勢をはじめ高麗勢の主立つ将軍達が次々と上陸していた。

 合戦は六月八日にはじまり、十三日に至るまで※六日間に亘って繰り広げられた。

 おそらく両軍は※死力を尽くして戦い、戦況は一進一退であったであろう。


弘安の役ー元軍再び来襲、台風で大半が海のもくずに
紀元1281年7月1日 北九州 :5日以来北九州を襲っていた元軍は、前夜から荒れ狂った大型台風により壊滅的な打撃を受け、海辺には溺死体が山のように打ち上げられている。
今回の元軍は、きん都、洪茶丘(こうさきょう)、金方慶(きほうけい)の率いるモンゴル,漢、高麗の連合軍4万2000千人、軍船900隻の東路軍と、阿刺かん(あらかん)、氾文虎(はんぶんこ)率いる旧南宗の江南軍10万人、軍船3500隻で、二手に分かれて朝鮮と中国江南から出発し、6月15日に壱岐で落ち合う予定であった。

しかし東路軍が対馬に姿を現したのは5月21日で、一部は上陸し殺戮をしたのちさらに壱岐を襲い、6月6日主力は博多湾に向かった。日本側の応戦体制は万全であった。石塁を見て上陸をあきらめ、志賀島、能古島に停泊した東路軍に対し小舟で夜襲をかけた。はじめは大きな戦果をあげたが、元軍は船を鎖でつなぎあわせて防戦し、日本側の被害が大きくなった。

陸上でも8日から13日にかけ志賀島に続く海の中道で●大友頼泰率いる豊後武士、安達盛宗率いる肥後武士が奮戦するが、元軍撃退にはいたらなかった。東路軍は江南軍と合流するため壱岐に引き返すが、江南軍は阿刺かん(あらかん)が急病で阿塔海(あたはい)に代わるなどで到着は7月初旬以降、しかも合流地点は平戸となった。

兵14万、軍船4000以上が東進を始めたのは7月下旬で、先頭が博多湾に達しても、後尾はまだ東支那海という大軍であった。そして7月30日から閏7月1日にかけて台風が襲い、急造軍船はひとたまりもなく兵もろとも海のもくずと消えたのであった。主力のいる肥前国鷹島に残った船が終結し、氾文虎ら首脳が善後策を協議するが、閏7月5日日本軍の猛攻で将軍らは兵をすてほうほうのていで逃げ帰る。


最終的には14万の大軍はその4分の3を失うに至る。こうして戦闘は終わるが、御家人の異国警護番役は続き、大きな負担を残すことになる。

[11]服部 明子さんからのコメント(2001年12月11日 12時04分24秒 ) パスワード
  

<5>の<壱岐>は私の勘違いです。

平 知盛さまの3男・知宗は「対馬」を乗っ取った人物です。
長崎県というのは分かってるけどいつも対馬と壱岐が混乱するんです。

すみません。
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年12月11日 12時08分42秒 ) パスワード
  

蒙古来襲

とても詳しく更によく整理されてますよね。
知りたい人にとても役に立つと思います。

ありがとうございました。


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