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 投稿番号:100156 投稿日:2001年08月13日 06時02分31秒  パスワード
 お名前:服部 明子
伊賀平内左衛門家長

コメントの種類 :人物  パスワード

初代伊賀平内左衛門家長は平 家貞の次男か三男かその辺り、
長男は貞能ですから嫡男でない事は確かと思います。

日本の情報収集活動では聖徳太子の次に名を連ねる人物かも知れません。
伊賀忍者を組織した祖とも呼ばれています。

平 知盛さまの後見人だったと思います。
平家物語では一緒に入水したことになっています。乳兄弟だったように書かれています。

清盛の父が初昇殿した時に護衛として家貞と家長父子がついて行ってますから
知盛さまと一緒に入水した人物は父の名を継承した息子の方だと思います。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 06時23分22秒 ) パスワード
  

皇竹さんの「知盛さま伝説」のスレッドの中に
伊賀平内左衛門家長について
皇竹さんと隈さんのお話にはスレッドの中に埋もれさせては惜しい
書き込みがございましたので
新しいスレッドを立てて浮かび上がらせることに致しました。

ご両者さまにはご理解頂きとう存じます。

該当URL:

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100079_34.html
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 06時29分47秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100079_34.html
の<4>に

兵庫県城崎郡余部村御崎には、
門脇宰相教盛卿と伊賀平内左衛門家長の霊を祀った平内神社があり、

そこの古文書によれば
主上ヲ兵船ニ還シ奉リ 右少弁藤原経房卿、門脇宰相教盛卿之ヲ奉シ侍リ
大将ニハ伊賀平内左衛門家長
・・・とある。
他にも一族郎党落ち延びた一団があった。
悪七平衛景清の名もみえる。
子孫の現・伊賀平内左衛門氏より(このスレッド上方に書かれる)中谷氏のもとへきた手紙によると、

知盛と一緒に海に沈んだはずの自分の先祖が、
壇ノ浦から脱出しているのだから、
知盛卿も脱出した可能性があると言っている。



伊賀平内左衛門家長は平家系図には家貞の子とある。


それぞれ奥地へ落ち延びたが、
平家への落人狩りも厳しく、
それでも隠しおおせたのは家長の知謀と配下の伊賀者達の活躍によるところが大きい。

山陰地方には伊賀姓が多い由。

安徳帝崩御後は目的を失いそれぞれ分散していった。


家長死去のあと、その子光長は伊賀に帰還し姓を千賀地(チガチ)と改め、予野に隠棲した。
その子孫は半蔵人(ハンクラウド)を代々名乗る。

半蔵人の半は平家の平を分解したもの。それが縮まり半蔵となる。

現伊賀平内左衛門氏の書かれた「壇ノ浦源平八百年」に詳しく書かれている由。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 06時35分29秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100079_34.html
の隈さんの書き込みから:


平宗清は八女市の西隣の筑後市に逃れた様です
(ちょっと訂正、どうも失礼しました)。
宗清寺は現在では筑後市鶴田にあります。

家長所縁の八女市新庄及び、
知盛の御子孫がいらっしゃるという八女市『平』
(たいら・・・それこそ、そのまんまな地名)から、
ほんの1km程の距離です。

「筑後市史」によれば、
もともとは同市尾島に宗清が平家人の霊を弔うために建てた庵が
1570-1573年に寺になり、
さらに1612年に鶴田に移築されたものだとか。

この「尾島」は多くの平家残党が捕まえられて斬首された場所で、
かつては数十墓の塚があったということです。

江戸時代に宿場町としてここを開発するため塚を掘り返すと、たくさんの朽ちた甲冑刀鏃が出てきたそうです。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年08月14日 10時15分58秒 ) パスワード
  

池宮彰一郎の「平家」の平治合戦では
平六家長
と書かれていましたので6男だったのかしら?と思いました。



ま、六男とは限りませんけどね。
[5]皇竹さんからのコメント(2001年08月17日 16時22分55秒 ) パスワード
  

今一度、平内神社史考(但馬記写)による

(前略)寿永4年3月21日、平家一門長門壇ノ浦ニ於テ源氏ノ軍と戦ヒ
敗北シテ討死スルモノ逃グルモノ捕へらる者多キが中ニ死ヲ装ヒテ
主上ヲ兵船ニ還シ奉リ 右少弁藤原経房卿、門脇宰相教盛卿之ヲ奉シ侍リ
大将ニハ伊賀平内左衛門家長、伊賀平内兵衛宗長 主馬判官盛久 上総五郎兵衛忠光
弟悪七兵衛景清 越中次郎兵衛盛嗣 飛騨三郎左衛門景継 飛騨四郎兵衛景久 中村八郎
矢引六郎等各船ニ分乗シ馬関海峡ヲ経テ北海ニ出デ対馬国ヘ遷シ奉ラントス
偶々暴風起リ伯耆 因幡 但馬ノ海岸ニ漂着ス

現在の伊賀平内左衛門家長氏の著書「壇浦源平戦八百年」によれば
当時の伊賀平内左衛門家長は御座船そのままいち早く戦場より離脱したようである
幼帝お守役家長は幼帝の安全第一を考えた当然の策であった
しかも船はかなり大きなもので馬まで乗せていたという。

小説ではあるが、
吉川英治の「新平家物語」はこの壇ノ浦の最後の場面で、
知盛は伊賀平内左衛門を戦場から逃がしているのです
「伊賀平内左衛門はじめ、十数名の影は知盛の叱咤と同時に、
わらわらと飛び降りそうして忽ち闇のうちへ消え去った」のである。

平内神社史考の日付が3月21日となっている。これが?。
この時のお天気を調べた人の話によれば
この3月21日の馬関海峡は「暴風起リ」とあるが、
日記、玉葉には3月23日が大雨であったと記されていることから
低気圧の移動を考えるとどちらも正しいのかも知れない
3月24日とどう関係してくるのか、皆さん推理して下さい。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年08月17日 22時19分32秒 ) パスワード
  

平家物語とは全く違いますね。

この違い

なかなか面白いですね。
[7]さちこさんからのコメント(2001年09月20日 23時56分14秒 ) パスワード
  

明子さま
たいへんご無沙汰してしまいました。
数ヶ月前、服部家についていろいろ質問をしました服部さちこです。
覚えて下さってますか?
お礼を書こうと思いつつなんとなく出辛くなりました。
家長様についてのスッレッドでしたのでこちらにおじゃましました。

今度の日曜日、弥富服部家のホン家さんへ御伺いすることになりました!
ホン家さんのご都合が悪かったりとなかなか機会に恵まれなかったのですが
やっと念願(?)達成です!

でも・・・。
何をお話したらいいのか少し戸惑ってます。
ドキドキしてお電話したのですがお声だけでは弥富の普通のお宅。
何か心構えORアドバイスあれば教えてください。

今回のアメリカでの事件、
当初は現実とは信じがたく驚いて映像を眺めてるのみでした。
日を追うごとに被害に遭われたかた、そしてご家族の悲しみを感じます。
政治的背景などについては私になど理解におよびませんが。
ニューヨークに一日もはやく通常の平和な市民生活がおくれる日が来ることをことを願います。

明子さんもテロの最前線の職場でとてもお忙しくお疲れと思います。
頑張ってください。そしてオモロイ情報教えてくださいませ。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年09月21日 00時40分16秒 ) パスワード
  

メールさせて頂きました。
よろしくね。
[9]さんからのコメント(2005年10月01日 01時05分14秒 ) パスワード

はじめまして。こんばんは。
平知盛について調べていて、こちらに辿り着きました。

平家物語では知盛の乳母子を伊賀平内左衛門家長とし、
平家貞の子ということでしたが、違うのですね。

明子さんのお話しによると、伊賀平内左衛門家長の子が同じ名を継いでいる、
つまり家長ジュニアが知盛の乳母子ということですが。
とあるサイトに乳母子=家長、乳母=西光娘と書かれていて、
西光娘の夫が橘為範と書かれてありました。
これによれば家長の父=橘為範ということですが、真偽はいかがなものなのでしょう。

本当に、知盛の乳母と乳母子は誰なのか、気になります。
明子さんは知盛の乳母の名をご存知ですか? ご存知でしたら教えて下さい。
[16]明子さんからのコメント(2005年10月01日 07時35分58秒 ) パスワード

雪さん

まず「全く分かりません」と書いておきます。


当時は乳母(の夫の家)というのは唯1つだけじゃなかったという事がありますね。
有力者であればあるほど乳母(の夫になりたがった人物)が複数存在した。
当時の平家に乳母が必要なら平家に連らなる男ならみんな自分が乳母の夫になりたかった。
また平家の方でも優秀な人材が欲しいから優秀な人間に子供を託したかった。
またおっぱいをあげる女だってただ1人じゃ足りませんから
乳母の夫の家ではおっぱいの出る女を複数用意したでしょう。

ということは「乳母の夫」というのは1人じゃないということが分かりますね。


秀吉でも甥の秀次に守り役をたくさんつけてますね。
1番有名なところは津島の服部小平太でしょう。今川義元に1番槍をつけた人。
責任取らされて切腹してますね。


以下はわたくしの推理ですが
清盛の祖父の代からの大事な家来が家貞。その6男が家長。
この家長が知盛さまの家の家老だった。

また家老も1人じゃないですね。
筆頭家老は家長でその下の家老達の1人が橘為範だったと思います。

この橘さんは知盛さまの2男である知忠さまを守ってあちこちし(岡山だったか潜伏してますね)
伊賀の北(服部ですね)で養育した。
そして知忠さまも橘さんも自害した。
その後伊賀の北部で育てられた知忠さまの子孫が北姓を名乗って足利義満の暗殺を企て失敗。


家長という人は清盛の父・忠盛が1132年に初昇殿した時
家貞と一緒に警備に出向いた年が16歳となってますから
1117年生まれという計算になりますよね。(当時は数えで表現しましたから)

ということは家長は知盛さまの乳母の夫でもありえた。
また家長の子が乳母子として知盛さまと入水したということも有り得る。
家長の子の服部時定というのも知盛さまと一緒に入水している。
当時の有力者というのは子供が30人〜50人ぐらいいてもちっともおかしくないです。


また家長以外の乳母の夫の一族の乳母子も知盛さまと一緒に入水している。


「平家物語」はストーリーですから象徴としての知盛さまの乳母の夫の代表が服部家長だと思います。
家長自身は脱出している話をあちこちできいています。
[17]明子さんからのコメント(2005年10月01日 07時37分04秒 ) パスワード

つづき

西光という人物は
藤原家成の養子でありーーーーーーーーーーーーーーーーーーー清盛方の人物(下記成親の父)
さらに信西の乳母子でもありーーーーーーーーーーーーーーーー反清盛の人物
藤原成親と一緒に鹿ヶ谷の陰謀に加わり拷問後斬首になったーー反清盛で重盛維盛の妻の家


この西光の娘が橘為範と結婚して知盛さまの2男の乳母になったというわけですね。


>これによれば家長の父=橘為範ということですが、真偽はいかがなものなのでしょう。

真偽は「わかりません」。

橘為範の息子の1人が家長という名を名乗ったとも考えられますが
普通は息子は橘為Xまたは橘範Xというように父の名を通字として使ったと思いますから
あの家長が橘為範の息子と解釈するのは苦しいと思います。

立派な家は通字というのを(今でも)守りますから
それに橘為範の息子が家長と名乗ったとしたら「大変な理由」があったと思いますよ。
主筋や同僚の名をそのまま名乗るというのは考えられません。


もし橘為範が俗姓服部家長の姉妹あたりを母としているなら有り得た「大変な理由」だと思います。
それに知忠さまを養育して潜伏したのが伊賀の北部ですから←服部家の領地
橘為範の母の里ということだったでしょう、と推測します。


以上
これでしたら合理的だと思います。
[18]明子さんからのコメント(2005年10月01日 07時37分52秒 ) パスワード

更にもう1つ考えられる可能性として
西光の娘の母という人物がひょっとすると家貞の娘か一族の女性だったかも知れませんね。


家貞は重盛の家の家老を6代に渡って勤めた。
家貞の嫡男が貞能ですから(家長の兄ですね)
成親がらみで西光と結婚した女性がいるかも。

でも西光は清盛を裏切ってますから西光関係の女達は微妙な立場に置かれたでしょう。


貞能がらみで重盛の小松家にくっついているわけにもいかず
家長がらみで知盛さまの家にくっつく格好になったのかもですね。


みんな親戚なんですよ。姻戚。閨閥。結婚を通じて複雑に絡み合っている。
そういうのは外野にはワケ分からないから
家長(関係)の乳母子という形になったと思います。

もしかすると家長自身が養子や融子にしたかも知れないし。


足利義満暗殺未遂事件を調べたら橘為範の子(または子孫)の名が出てくるかもですね。
[19]さんからのコメント(2005年10月02日 13時37分56秒 ) パスワード

さっそくのご回答、ありがとうございました。
なるほど、やっぱり歴史は複雑で、絶対の回答は無いのですね。

でも、すごく分かり易い説明で、しかも私の考えの及ばないような
可能性も提示して頂いたので、更に興味が湧いてきました。
自分でももっと本を読んだりして調べて、考えてみます。

ところで、もう少しお聞きしてもよろしいでしょうか。
家長とは全く関係のないことなので、横に逸れてしまいますが。

平家が都落ちする前の六波羅では、
一門の人間がそれぞれ居を構えていたのですよね?
平家物語によれば、重盛は幼い頃から父母と離れて
小松殿に住んでいたそうですが、
やはり知盛もある程度の年齢になったら六波羅に自邸を
持ったのだと思います。
それについて、いつぐらいにどこへ屋敷を持ったのか、
詳しく残っている資料になかなか出逢えません。

重衡や宗盛の屋敷は西八条第と同じ八条大路沿いにあったようですから、
知盛の邸宅もそのあたりだったのかなと思うのですが……どうなのでしょう。

また、知人から彼らは役職によって住む屋敷が決まっていて、
その屋敷を借りていたのだときいたのですが、本当なのでしょうか?
江戸時代なら役職ごとに、役宅を幕府から借りる形で
住んでいたのはわかります。
でも、平家の一門(というかこの時代の武士)は違う気がします。
個人個人で家を持っていて、人物を役職名で呼んだりするのと同じように、
屋敷のことを例えば”近衛少将の邸”とか呼ぶだけではないかと。
それを役職ごとに借りたと勘違いしているのかな、
なんて思うのですが、私の方が勘違いですか?

スレッドの主旨とは違った質問ですみません。
よろしかったら教えていただけたらと思います。
[20]明子さんからのコメント(2005年10月02日 21時07分45秒 ) パスワード

雪さん

私もわかりませんが

平家の人というのは六波羅あたりに纏まって住んでたという話をよく読みます。
そして場所が俗姓のようになって小松だの門脇だのと呼ばれてますね。
それから資盛どのは岳父の屋敷の持明院の中将でしたっけ?

この時代というのは日本人の苗字が貴族だけでなくどんどん増えた時代で
場所やら屋号やら役職やらで自由に呼ばれるようになって苗字として定着した
と思っています。



もし歴史的事実の段階でお知りになりたかったら
東大助教授の本郷先生が適任と思います。
お問い合わせになったら良いと思いますよ。

わたくしの名前はお出しにならないでね。
(あの素人が勝手なことを想像して楽しんでる人の知り合いなの?)なんて
思われてしまいますでしょうから。

先生はとても親切な方で人格者でいらっしゃいますよ。
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