|
|
![]() |
![]() |
![]() |
| [1] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 13時17分02秒 ) | パスワード |
![]() |
メールを頂きました:
栂尾の明恵上人(華厳宗中興)の父は、
平重国といって伊勢の伊藤党の出身で、
のちに平姓を名乗った
といいます。
外宮度会氏の妙見信仰を調べているうち、
明恵上人と古市がふかく関わっているようで、
気になるのです。
| [2] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 13時23分37秒 ) | パスワード |
![]() |
伊藤氏は藤原秀郷の子孫です。
藤原秀郷は中臣鎌足の子孫。
藤原秀郷は平 貞盛が従兄弟関係にあった平 将門を討つのに協力しました。
ここで平家と伊藤家のそもそもの同盟関係が始まりました。
平 貞盛の子孫は1006年伊勢に
藤原秀郷の子孫は伊豆の狩野氏を経由して伊勢に
こうして伊勢で再び親しい関係を始めました。
| [3] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 13時43分50秒 ) | パスワード |
![]() |
それで藤原氏が伊勢に来て俗姓「伊藤」になりました。
伊豆の伊東氏も藤原氏と聞きますが
私は<伊豆の東>に勢力を張ったから「伊東」氏と名乗った
と思ってます。
ま、同じ秀郷の子孫ではありますね。
伊豆半島だけで藤原氏は「河津」「伊東」「狩野」「土肥」「大森」
ちょっと西に行って「蒲原」「興津」
東では「松田」
が力を持ってましたね。
藤原秀郷の元々の土地は下野ですね。佐野。
あちらの方で大勢力を持ってますね。
「伊藤」氏と「伊東」氏は藤原氏出身を共通としてもちょっと系統が違うと思っています。
| [4] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 22時37分50秒 ) | パスワード |
![]() |
では今回は源平戦争当時の下野近辺(武蔵や常陸も含む)の当時の藤原姓の豪族達
を記してみます。
「那須」「芦野」「大田原」「伊王野」「佐久山」「氏家」「烏山」
「福原」「鹿沼」「宇都宮」
「茂木」「笠間」「宍戸」「小田」
「田沼」「皆河」「長沼」「佐野」「小山」「佐貫」「寒川」「結城」「辛島」
「下河辺」「大河戸」
上野地方:「那波」
| [5] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 22時46分49秒 ) | パスワード |
![]() |
源平当時、坂東は桓武平氏の巣窟でした。
それから甲斐や信州は清和源氏の巣。
ですから源平戦争当時は「源氏系」「藤原氏系」「平氏系」の3つ巴状態ね。
色で分けると3本の川のようになります。
当然「佐竹」を中心とする「小瀬」「稲木」「太田」「額田」が常陸で平氏勢力に
くさびのように食い込んでいるし
下野にも藤原氏勢力の中に「石橋氏」が食い込んでる。
| [6] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 10時31分13秒 ) | パスワード |
![]() |
明恵上人: 1173.1.8 〜 1232.1.19
父:平 重国
母:湯浅宗重の娘
生:紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の金屋町)
法然の思想に挑戦した人として知られていますね。
それから
釈迦信仰に戻ろうと。
捨身思想から右耳を切り落としたり
夢を冷静に受け止め分析していますね。
それから女性の救済を目指した。
こういう激しさには矢張り伊藤党の男という印象を持ちます。
| [7] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 10時45分50秒 ) | パスワード |
![]() |
<古市>
今はお伊勢さんの歓楽街ですね。行ったことはありませんが。
三重県お伊勢さんの古市の伊藤景綱が清盛の家人として保元の乱や平治の乱で活躍
し、
保元の乱では子供の伊藤五や六が源 為朝に矢を射られて怪我をしています。
景綱は「平治の乱」で大活躍をしています。
つまり熊野参りに出掛けた隙に源義朝がクーデターを起こしたのを
一早く押さえています。
もし景綱がいなかったら清盛は義朝に討ち取られていたかも知れません。
ですから平家の隆盛はひとえに景綱のお蔭ということになります。
伊藤五が忠景のちの忠清です。
忠清は清盛とは婚姻により義理の関係です。
忠清は清盛の次男の後見人をしていましたが次男は若死にしてしまいます。
| [8] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 10時52分45秒 ) | パスワード |
![]() |
<藤原・伊藤・平 忠清>
忠清は若い時18才の頃、泥棒を捕まえたりしてなかなかの武人だったそうです。
上総守となっていたのに実際には放任して坂東平氏を源 頼朝に走らせたのはこの人の怠慢ということでしょう。
富士川の戦いでは平 維盛の副将として従って逃げ帰り清盛の怒りをかっています。
長男忠綱は倶利伽羅峠で戦死。
五男は赤間神宮に墓のある上総五郎兵衛忠光。
七男が有名な悪七兵衛景清です。
この五男と七男の二人は頼朝暗殺未遂事件で有名です。
忠清の甥の飛騨の景経は平 宗盛の乳兄弟として壇の浦で戦死しています。
もう一人の甥は飛騨の景俊で壇の浦から脱出して頼朝暗殺計画に加わっている
はずですが最期ははっきりわかりません。
飛騨の兄弟は二人とも赤間神宮に墓があります。
忠清は1184年に平田家継・平 信兼と乱を起こして翌年斬死しています。
*平 信兼の子が有名な山木兼隆です。北条政子にふられた男。
| [9] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 11時04分26秒 ) | パスワード |
![]() |
>赤間神宮に墓があります。
「塚」のことです。
| [10] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 11時41分28秒 ) | パスワード |
![]() |
伊藤氏は南北朝時代は当然南朝方。
その後織田信長に対抗しました。
伊藤一族というのは水運を利用してなかなか儲けていたようです。
その1つが伊勢長島の城です。
当時の領主が乱暴者で城から追い出されました。
ふふふ
代わりに入ったのが服部党でございましてワタクシのご先祖さまという次第であります。
関ヶ原の時は大垣城主が伊藤氏でした。
石田三成が大垣城に入った為伊藤氏は戦後処理で城を失いました。
明治時代あたりに伊藤氏のある流れはお伊勢さんの神主さんになっていますが
古市に伊藤党の代官所があったと知ってなるほどと思いましたね。
元々そういう関係だったのか、と。
本当はあそこの家の宗旨は浄土真宗だもんね。
どうしてかな?と疑問に思ってたのですよ。←って内輪のお話ですが。
お伊勢さんの神主だから皇室が氏子という事で日本では特別というのは分かってたけど
それ以上のモノを感じるのは何故かな?と思ってたのですよ。
なるほどね〜
| [11] | ![]() | 源三さんからのコメント(2001年08月12日 14時33分37秒 ) | パスワード |
![]() |
服部さん今日は!
そうでしたか、平信兼の子がやはり山木判官平兼隆。最初に源氏軍に血祭りにあげられた。時政などに。
その後見役の豪傑・堤権守信遠は別動隊の佐々木三兄弟にその前に討ち取られる。
漫画吾妻鏡はわかりやすいですね・・・。
| [12] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 22時00分43秒 ) | パスワード |
![]() |
佐々木3兄弟がここに出て来ますか?
私はもっと後の時代、児島や藤戸で出て来るのかと思ってました。
というのはワタクシの不見識からですね。
佐々木盛綱の父は佐々木秀義・母は源 為義の娘なんですってね。
ということは頼朝のご親戚筋ですね。
佐々木秀義は1184年上記藤原忠清・平田家継・平 信兼らのグループに殺されていますね。
佐々木盛綱はなにやら問題を起こして追放されているのですか?
でも後に平賀朝雅の謀殺に手柄を挙げてるそうですね。
昔は子供を沢山作ったので
閨閥を調べると親戚回りになるんですよね。
だから人間関係が難しいけどみんな親戚。
だから頼朝の死後、我も我もと天下を狙ったでしょうね。
| [13] | ![]() | 皇竹さんからのコメント(2001年08月17日 16時31分31秒 ) | パスワード |
![]() |
>伊勢古市のすぐ近くに、外宮度会氏の妙見堂跡(859年〜)があり、<
>その旧跡について調べているうち、古市の伊藤党がうかびあがってきました。<
この件、(伊藤党とのつながり)
もう少し詳しく教えて下さい
妙見堂跡は確かに伊勢古市にありますが、伊藤党と関係があったとは
知りませんでした
| [14] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月25日 23時46分31秒 ) | パスワード |
![]() |
明子さん おはようございます。
皆様 こんばんわ はじめまして
私、伊藤性、藤原姓ではございませんが何故か藤原末裔
詳しくは宇部熱 たろー「地名について」に...。古いスレ上げて申訳ありません。
http://bbs.c-studio.net/ube_slink/101021_18.html
| [15] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月26日 02時58分07秒 ) | パスワード |
![]() |
拝見しました。
遠く山形県まで及ぶのですか。
ルーツ探しも大変ですね。
私は母方先祖をたずねて北上山地の山奥まで行きましたよ。
地元の人が整備してくれてて感激したものです。
藤原氏は日本で1番係累が多い氏族ですね。
鎌足公の子孫が日本を支配してた影響でしょう。
南家とか北家とか式家とか調べ出すと大変ですよね。
平家物語関係は出て来ませんか?
新しいスレッドお願い致します。
| [16] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年10月26日 09時39分23秒 ) | パスワード |
![]() |
いつも通りすがりさん、初めまして。
時々ここにお邪魔させて頂いている「隈」です。
宇部熱の「地名について」、拝見致しました。
>な、なんと私は広島県の大きな庄屋の400年の直系だったのです。
>その前は藤原家の末裔とか?
・・・あれ?ひょっとして、いつも通りすがりさんのルーツは尾道対岸の向島ですか?
いえ、というのも私の母の故郷が向島なんですが、そこに有名な藤原家末裔の庄屋の住居があると聞いているものですから。(もし違ったらすみません)
その家の祖先は、藤原百川だそうですけど。もともと平安時代にこの地に荘園を持っていて、鎌倉末期に子孫が京都の大原から下向してきたらしいです。
私事ですが、私の伯母(母の姉)も伊藤姓。
服部家の子孫の一人?である伯母が、結婚して「伊藤」になったのも、また一つの『縁』とでもいうもんなんでしょうか。
| [17] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月26日 10時25分49秒 ) | パスワード |
![]() |
>私事ですが、私の伯母(母の姉)も伊藤姓。
伊藤氏というのは本来は伊勢の藤原氏という意味ですから
伊賀の服部氏と仲が良くて当然なんですけど
なんか凄い話になって来ましたね。
もともと藤原姓と平姓は仲が良いらしいですね。
これで通りすがりさん宅が百川公のご子孫だとすると
オカルトかかって来ますねえ。
| [18] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月26日 22時54分51秒 ) | パスワード |
![]() |
隈さん はじめまして
> ・・・あれ?ひょっとして、
> いつも通りすがりさんのルーツは尾道対岸の向島ですか?
かなり古い記憶なんですが もう断片的にしか覚えてません。
キーワードが三原、竹原、尾道、鞆の浦だったかと島に行ったような...。
その古い大本家は
黒光りする床
壁掛けの電話器(例の耳に当てて、BOXに向かって喋る奴です)
爺様は生まれは広島のその大本家で下関の国の官史。
燕尾服姿で勲章を一杯ぶら下げてた写真のみ(私が1才の頃他界)
食糧難の闇市でひとりバターなんぞを購入していたとか
銀のナイフとフォークで食事していたとか(海苔巻とかを...。)(汗)
これしか記憶にないのです。母方はすべて山口県の人間です。
| [19] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年10月28日 16時38分31秒 ) | パスワード |
![]() |
私はその庄屋さんの姓を知っていますけど、いつも通りすがりさんが直系の子孫なら、それを書くと本名を暴露しちゃうかも知れないんですよね?(汗)
私の祖父の妹は、庄屋さんと同姓の家(たぶん同族)にお嫁に行っています。相手は職業軍人だったとか。
>キーワードが三原、竹原、尾道、鞆の浦だったかと島に行ったような...。
向島周辺の町の名が並んでいますね・・・何れも備後(広島県東部)の古い港町または城下町。
向島はその名のとおり、尾道とは尾道水道を挟んですぐ向かいの島。現在はしまなみ街道の通過点になっています。
しまなみ街道が通る前、島へは車で尾道大橋(有料)を渡るか、汽船で渡っていました(汽船に乗って5分で着きます)。
件の庄屋さん宅は、最近まで実際に子孫の方が住んでおられたもので、江戸初期の建築だそうです。江戸時代を通じて庄屋を務めた家で、一族はその後もずっと「地元の名士」だそうですよ。
| [20] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月28日 17時32分30秒 ) | パスワード |
![]() |
> 隈さん こんばんわ
> いつも通りすがりさんが直系の子孫なら、
> それを書くと本名を暴露しちゃうかも知れないんですよね?(汗)
あちこち熱でおんまり おとなしくないほうなんで...。(汗)
いろいろ情報ありがとうございます。
こんど家族にこの辺のところを聞いてみます。
| [21] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年10月28日 17時36分41秒 ) | パスワード |
![]() |
あっと、家紋は「藤下がり」と聞いております。
藤原だからかなー?
| [22] | ![]() | さちこさんからのコメント(2001年10月28日 23時26分35秒 ) | パスワード |
![]() |
少しお休みを頂いてたらこちらで興味深いお話沢山で驚きました。
隈さんへ。
以前、岡山の服部家についてなどのコメント、
とても参考にして読まさせていただきました。
私の父方の祖母が伊藤家から服部家へ嫁いでいるのです。
なんか不思議ですね。
去年の夏、四国になんとなく行ってみたくなり、
尾道に泊まって、しまなみ海道だったかな?
向島を通って今治へ。
そして祖谷峡まであしをのばしました。
祖谷へは露天風呂目当てで(笑)
谷底の祖谷川に温泉が湧いてて旅館のケーブルカーで降りていくのです。
まさしく秘境と言った所でした。
近くには平家屋敷なんかもあって。
その頃はまだあまり先祖のことにについて関心がなかったのです。
でもうちには一応、
平家の残党だったという話も伝わっていたのであちこち散策してみました。
それからしばらくしてから平家とは直接関係はなっかたのですが、
先祖のこと調べていて巡り巡ってこちらへたどり着きました。
なんか不思議なんですよね。
去年の四国の旅でご先祖様に導いていただいたような。
いつも通りすがりさんへ
うちは不思議と山口県とはご縁があるのです。
私の友人のお母さんとと父の友人が
偶然、同じ山口の町内で知りあいだったとか。
うちは自営業なんですがパートの人に山口の人が二人いて、
高校野球、宇部商を皆で応援したりしました。
11月には山口のとある場所から毎年松茸が届くのですよ。
(もうすぐですねぇ・・。ふっふっふ!)
| [23] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年10月29日 12時02分20秒 ) | パスワード |
![]() |
>あっと、家紋は「藤下がり」と聞いております。
>藤原だからかなー?
藤原家の代表紋・『下がり藤』ですね。なるほど、そうかも。
『○藤』とか、一見して藤原系だと分かる姓は『下がり藤』紋でないことが多い様ですが、逆に『藤』の付かない姓の場合は、藤原系であることの証に『下がり藤』紋をそのまま残すのかも知れないですね。
さちこさんへ・・・
>私の父方の祖母が伊藤家から服部家へ嫁いでいるのです。
いや〜、そうなんですかぁ、ほんとに不思議!
もともと私も自分の先祖が平家に関係あるなんて思ってもみませんでした。
でも、小さい頃下関に住んでいたので懐かしくてこのHPにやって来て、明子さんの『藤原姓と平(服部)姓は仲が良い』説を聞いて「あれ!?」と思った訳です。
・・・そう、私も山口県出身で、一時は京都や名古屋に住みましたが、現在は再び山口県内に住んでます。
山口県で生まれ育った父は、当時尾道に住んでいた母とお見合い結婚したのです。
去年、向島の先祖の戸籍を調べたら、曾祖父(母方の祖母の父)が下関で亡くなっていたことが判明してびっくり。しかもその曾祖父の養家が『伊勢本』姓で、家紋が『対い蝶』。伊勢平氏の伊勢家の家紋と同じ。
私のところに「女紋」として伝わっていた『対い蝶』が、実は廃家になった曾祖父の養家の家紋を残したものらしいと分かりました。
やっぱり御先祖様が導いてくれたのかな?
話が「伊藤」姓からそれてしまうけどもう一つ、私の父方の祖母の実家・山藤家の妙なご縁についての話。
山藤家は藤原秀郷の後裔と伝えられているそうで、江戸時代には摂津高槻藩の家老を務めた事もあったそうです。
そんな山藤家の「上司」である高槻藩主は、江戸初期を除いて代々永井家が務めました。この永井家、元は「長田」姓で、本姓平氏。
・・・そう、先祖はあの長田忠致。源頼朝の父、義朝をお風呂場で不意打ちにした人です。
長田家は忠致が頼朝に処刑された後、弟が後を継いだそうです。後世、子孫が徳川家に仕えることになり、「ウチの先祖を家来の先祖が殺した、というのはマズいから」と、改姓させられたのだとか。
| [24] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月29日 14時36分06秒 ) | パスワード |
![]() |
長田さんは
大変な人の父親を殺したばかりに
それも殺し方がまずかったし
日本史に悪名をトドメてしまいましたね。
ご子孫はやっぱり苦労なさっているのでしょうね。
今でも歴史をちょっと深く読めば名前が出て来るし
佐藤や鈴木とは違ってちょっと珍しい名字だし
結構印象に残る名字ですから
長田姓を「ながた」と読んで「永田」に変えたりして
身分を隠した関係者もいらっしゃるのでしょうね。
名字というのはたかが名前されど名前で
大変なんだ・・・
しみじみ
| [25] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年10月30日 09時42分16秒 ) | パスワード |
![]() |
以前服部さんにご紹介して頂いた家紋のHPに、長田氏の子孫の事が書かれていました(戦国武将の名字・永井氏の項)。
徳川家康の父・広忠に仕えた後、家康に仕えて嫡男信康の近習を務めたり、長久手の戦いで秀吉方の将・池田恒興を討ちとり、軍功を挙げたりと、ずいぶん活躍したようです。関が原の戦いの後も家康の片腕として重用され、出世したのです。
家康に「そちの先祖は・・・」と、当てこすりの一つも言われたかも知れませんが、かなり気に入られていたようだし、少なくとも戦国〜江戸時代には「汚名返上」できていた様ですね。
| [26] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年11月05日 11時56分33秒 ) | パスワード |
![]() |
> 隈さん > さちこさん こんにちわ
別のスレにあった
> 織田信長と組んで将軍に就任した彼も、結局は信長と仲が悪くなって、
> 今度は毛利氏を頼ろうと、家臣を連れて備後鞆の浦に押しかけた。
いろいろ家族に聞いてみましたらどうも向島じゃなくて福山の鞆らしいです。
直系なので、その本家は名前を書くと一発なので...。(汗)
「藤」の字は一字頂いております。途中で変わってもおりません。
これだけで知る人は判るかもしれませんが....。
爺様が役人として門司に勤めたので対岸の彦島に住んで....。
家督の相続の件はわかりませんが長男でしたから直系とのこと。
| [27] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年11月05日 13時17分07秒 ) | パスワード |
![]() |
>いろいろ家族に聞いてみましたらどうも向島じゃなくて福山の鞆らしいです。
>直系なので、その本家は名前を書くと一発なので...。(汗)
>「藤」の字は一字頂いております。途中で変わってもおりません。
あ、じゃあ違います。
すみません、余計な心配掛けてしまいましたね・・・
名前、バレてませんから大丈夫ですよー、安心してください。
向島の庄屋さんは、「藤」が付かないから。「吉原」さんとおっしゃいます。
(「藤」じゃなくて「原」をもらった?)
| [28] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年11月06日 09時30分09秒 ) | パスワード |
![]() |
この前は、備後で藤原家末裔の庄屋さんっていったら、他にあんまりいらっしゃらないのではと思ったのです。
でも、足利義昭の家臣が備後に落ち延びていることを考えると、藤原家末裔の家が備後に複数あっても不自然ではない訳ですね。
| [29] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年11月06日 17時03分16秒 ) | パスワード |
![]() |
> 隈さん こんにちわ。
例の場所を会社のイントラネットで見てみたら、同族らしき家々。(汗)
インターネットなら問題ないです。(笑)
でも、インターネットて便利ですね。ずいぶん引っかかってきました。
何かそのうち当たりそうです。情報ご存知でしたら教えて下さいね。
| [30] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年11月07日 12時58分49秒 ) | パスワード |
![]() |
いつも通りすがりさん、こんにちは。
>情報ご存知でしたら教えて下さいね。
とりあえず私が訪ねてきた足利義昭公に関するHPをご紹介致します。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiy9889/
義昭公の生涯について分かりやすく教えて頂きました。
このところ「備後向島岩子島史」に載っている姓氏録を見てるんですが、面白い傾向が現れています。
足利義昭や織田信長の家臣と同じ名前が続々出てきます。
杉原・服部・吉田・白川・伊勢・筒井・酒井(坂井)・金森・原・三好・舟橋・真田・渡・樋口・平田(=半田)・水野・・・
もしかしたら、ご親戚とか、お知り合いの姓があるかも知れませんね。
| [31] | ![]() | いつも通りすがりさんからのコメント(2001年11月15日 17時31分37秒 ) | パスワード |
![]() |
> 隈さん
いろいろありがとうございます。
> 藤原家の代表紋・『下がり藤』ですね。
私は家紋のことなぞあんまり気にも止めておらず、母にききましたら
単純な『下がり藤』じゃないそうです。
紋を入れる時もなかなかなくて困るそうで「絵」を必ず持参するそうです。
なので、写し取ったトレーシングペーパーの紋を裏表逆に入れられたり
上下逆さまだったりで苦労したとか....。
時間があるときにまたこの線で調べてみようかと...。
| [32] | ![]() | 隈さんからのコメント(2001年11月16日 14時32分13秒 ) | パスワード |
![]() |
家紋ってバリエーション豊富だから、入れて貰うとき寸分違わない様に、説明が結構大変ですよね。
うちに「家紋事典」があるけど、微妙に違うデザインがたくさんある。
それでもうちの女紋と「全く同じ」紋は載ってないです。
この辺は明子さんの方が詳しいと思うけど、分家は本家に遠慮してちょっと家紋のデザインを本家のものと変えたりするので、どんどんバリエーションが増えていったらしいですね。
| [33] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年11月16日 23時30分23秒 ) | パスワード |
![]() |
和服を作った時、私の母方の女紋も家紋の本には出てないそうで、絵を描いて持って行きました。
母方の本紋は折敷に3文字紋なんですけど
大坂の役で負けて落人になった時に本姓を隠し家紋も替えたので
江戸時代に姓の方は許されたけど家紋の方は許されなかったので
お墓の紋は17世紀の初めの紋を今でも使ってます。
この紋も普通の家紋の本には載って無いです。
松皮菱の尻合せと我が家では呼んでますが
ちゃんと名称があるそうです。
実際に使用してるのは「京極家」だそうで、なんで敵と同じ紋なのか実に不思議です。
家系書にはこの事情については書かれていないのですよ。
どうして紋の方は許されなかったのかそれも不思議です。
多分「河野姓」で「折敷に3文字紋」では老中・稲葉家の本家になってしまうので
まずかったからどっちか1つしか許されなかったのでしょう。
姓を戻すか紋を戻すか迫られて、私の先祖はどうして両方許して貰えないのか、
悔しかっただろうと思いますよ。
でも「大坂の役で落人になった過去」というのが我が家のアイデンティティなんですから
こういうのを子孫にちゃんと伝えなくてはいけないけど興味のある親戚はいませんねぇ。
(嘆)
| [34] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 10時14分19秒 ) | パスワード |
![]() |
今日読んでた本の情報:
伊藤氏は藤原秀郷の末裔・基景が伊勢に来住して名乗った。
| [35] | ![]() | くみんさんからのコメント(2002年07月31日 09時09分39秒 ) | パスワード |
![]() |
http://village.infoweb.ne.jp/~furuichi/mdata/furuichi/mac6ise2.htm
という古市姓の研究があります。平氏の発祥は伊勢なのですが、
その元は三重県鈴鹿市あたり。伊勢国の中心国府は昔は、鈴鹿でした。
鈴鹿は東海道の要衝。この地域を掌握する武士が天下を治めるという視点
もあります。源平では先ず、伊勢(鈴鹿)を握った平氏が勝ったわけです。
その平家の一党に古市(姓)の白子党がいたことが証明されているそうで
す。伊勢市の古市ではありません。実際、三重県の伊勢市には古市姓は少
なく、特化して多いのは三重県の北勢(四日市市と鈴鹿市)です。
四日市市で古市姓が殊に多い町があります。この村では、古市と吉原姓ば
かりだそうです。
| [36] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月31日 09時24分56秒 ) | パスワード |
![]() |
くみんさん
ありがとうございます。
| [37] | ![]() | 田中愛造さんからのコメント(2003年07月17日 23時38分19秒 ) | パスワード |
![]() |
服部先生教えて下さい。室岡氏に関し(紀州在)岩手岩波郡矢巾町室岡発祥、斯波氏に属し、後に南部藩士室岡氏で分限帳に(出が伊藤氏らしい)埼玉・東京・には多い姓で福岡は岩手から、移ったと有りました。伊藤氏も南家工藤系・北家佐藤系か判明ならず室岡氏もさだかならず。今は抜け出せず、もしも、の頼りで、お願い致します。
| [38] | ![]() | 服部 明子さんからのコメント(2003年07月18日 03時43分16秒 ) | パスワード |
![]() |
埋もれないよう
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100542.html
に新しくスレッドを立てさせて頂きました。
みなさん
新しい書き込みは新しいスレッドにお願いいたします。
| [39] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月19日 22時58分24秒 ) | パスワード |
![]() |
古市姓は四日市の大矢知に多いです。
少し上のほうの山城という地域は、野呂さんが多い。
近くの小杉という所には服部家が集ってる。
秦熱にいずれ書こうかと思ったのですが、
八風街道。
これらは滋賀県の近江八幡から伊勢へ繋ぐ道です。
古代からのルートらしいです。
今も滋賀県側と三重県側の道は鈴鹿山脈があり険しいのですが、
近江と伊勢の商人はこの道を通り行商をしていたらしい。
大矢知には天武天皇の壬申の乱に関する神社などが多くあるのです。
でも近江から以外に近いことを考えれば??
秦氏ネタなのでまたにしますが、
八風街道と国道一号線が交差する所が、
四日市市平町なのは驚きました。
平田耕一氏に(次回の三重衆議院に立候補)関しては書きましたが、
平田氏が気のどくだと友人に話した所。
「平田紡績の御曹司だから心配しなくても大丈夫」
とのことで、
平田紡績というのは今はないのですが、
戦前から紡績業で北勢はかなりのものだった、
平田紡績に限らず北勢では繊維産業が盛んでした。
いまはもう殆ど残ってないです。
平田紡績、平田魚網店というのがが前身だったらしいです。
この平町近く富田浜にあったそうです。
大矢知、八郷村とも言ったそうですが、
明治の頃、服部製糸工場というのもあったそうです。
川口さんじゃないけど〜
何でだろ〜何でだろ〜?
という気持ち。
明子さんの「平田家継は心の父」
宣言以来、何故か不思議と平田家と繋がる。
なんでだろ〜?
| [40] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年07月20日 11時52分23秒 ) | パスワード |
![]() |
大矢知?
大谷地?
どちらか知らないのですけど
我が家は「うどん」は<おおやち>から購入してました。
三重県だったのかしら?
三重県の地名は古過ぎて難しい。
古代のままだな、と。
ま、いつか伊賀大山田の平田村の明昌寺に行ってみます。
まだ恐くて行けないのですけどね。
| [41] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2003年07月20日 14時46分00秒 ) | パスワード |
![]() |
みなさん こんにちわ。
平田村の明昌寺は曹洞宗のお寺で、ここでもさちこさんのお好きな曹洞宗でした。やはり平家と関係が深いですね。大矢知の手延べそうめんは有名だそうです。まだ
食したことがない。
なんでかな?につられて。
(ウワサしてたでしょ、どうりでハクションが今日は多かった。)
川口家知行地の佐倉市青菅の近くに何故か「弥冨」の地名があります。
青菅の小正月の行事に「どんどれえ」(左義長の青菅地区の呼称)一般にはどんど焼きと言われているが、この行事を行うのは弥冨、志津地区の青菅のみです。
その地に貧乏旗本の家臣に「伊藤氏」が代々名を連ねております。署名入りの文書もありますので、間違いないのですが、尾張時代からのお付き合いかも。弥冨の地名は川口家が知行する以前からあるそうですが。
なかでも弥冨・原氏が有名で原氏は千葉家一族と云われております。大橋家も鎌倉時代に原氏とは関係がありますが、弥富原氏との関係はよく分かりません。
| [42] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月20日 21時44分31秒 ) | パスワード |
![]() |
>我が家は「うどん」は<おおやち>から購入してました。
三重県だったのかしら?
明子さん。
おおやち=大矢知は間違いないです。
素麺だけでなく、
冷麦、うどんも作ってます!
川口さんのおっしゃるとうり素麺で有名です。
奈良の三輪素麺に比べると知名度低いし、
全国的ではないと思ってました。
川口さんが大矢知素麺知ってるのなんでだろ?
明子さんの家が大矢知からうどん取り寄せていたのは何でだろ?
大矢知には平田家はありませんが、
隣の千代田村にこんなのがありました。
平田祐十郎君之碑
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/chiyoda.html
今、少し調べてる所ですが、
四日市に約120件の平田家があります。
四日市の北に集中してます。
位置関係を説明してもよく判らないと思うので、
大雑把に言えば平田の半数が、
直系三キロの円の中に集中してます。
大矢知の天武天皇の関しては。
↓
http://www.gtoweb.com/native/spot4_3.htm
はっきりした事は判らないですが、
「天武天皇迹太川御遥拝所跡」
この地で天武天皇は天照大神に勝利祈願をしたとされてます。
これが勝利に導き天皇家の天照信仰、斎宮制に繋がったと言う説もありますが、
後からのこじつけだったのかは判りません。
平田家に関してはまた続く。。。
川口さん弥富ですか?
原氏は秦氏ですね。
私の父の友人で、山口出身で親しい家に原さんがあります。
弥富というのは偶然ではないでしょうね。
| [43] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月20日 22時38分03秒 ) | パスワード |
![]() |
伊賀で仏像泥棒が多発!(7月18日中日新聞より)
三重県大山田村の薬師堂で十四体の仏像が盗まれました。
本尊の薬師如来像は無事だったものの、
盗まれた仏像は江戸時代の作で、指定定文化財ではないが、
地元のお年寄りが毎朝、
健康や家内安全を願い訪れ信仰を集めてるものだったらしい。
近隣の上野市や島ヶ原の寺など、四ヶ所でも、
昨年12月から今年2月にかけて計十一体の仏像盗まれている。
本当に罰当たりな話です。
組織的な?
そんな感じがしますが。
四日市の博物館で行われた、
伊賀、伊勢の仏像展ですが、
大山田村のは鼻の下に落書きがしてあるような髭が特徴的でした。
東大寺ともゆかりが深いところだったようです。
| [44] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月21日 21時32分56秒 ) | パスワード |
![]() |
今日は浜松に行ってきました。
天気予報は当たらずいい天気でした。
服部スッポン養殖所ありました!
あまり時間がなくてよる事が出来ませんでしたが、
次回はゼヒ!と思ってます。
浜名湖で鰻の養殖を始めたのは、
服部家だそうです。
この服部家の関してはよく判りませんが、
スッポンの養殖に関して今も独占してるそうで??
平田耕一氏に関しては、
父に聞いたところ、
平田紡績ではなく、千代田の平田だろうといってました。
友人の話とは食い違うのですが。
まあ、同じ一族でしょうね。
なんだかよそが忙しいようなので。。また。。
| [45] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月22日 21時47分51秒 ) | パスワード |
![]() |
古市さんのことから平田氏の話になってしまいましたが。
私は南四日市に住んでい良く知らなかったのですが、
北四日市では平田家は名門として知られてるそうです。
(あくまでも四日市の中ではと言うことですが)
平田家とは不思議な関りがあるのでつまらない話しですが書いてみます。
父が何故平田紡績の平田ではなく、
て千代田の平田などと知っているかというと、
平田耕一氏は四日市では大きな会社の社長だそうですが、
以前、中国専門の旅行社も経営していて父はそこのツアーで中国へ行ってました。
天安門事件で廃業になりましたが、
そこにいた社員が新しく会社を興し、
さすがに今年はいけませんでしたが、
毎年必ず中国に行っているのです。
二つ目、
私の行っていた高校ですが、
前身は紡績工場に勤める、
女工さんのために建てられた定時制の学校だったのを思い出し気になり調べました。
やはり。。。平田紡績でした。
その後、全日制もでき学校が大きくなったので、
何故か織田信長に責め滅ぼされた城の跡に校舎を移しました。
千代田という平田家の多い所とはすぐ近くなのです。
この辺りの平田家も信長と対立していたのではと思われますが。
この学校の校舎の裏に井戸があるのですが、
昔ここは信長に攻められた城の跡で、
信長に敗れたあと生き残った者も全て自害、
子供や女性はこの井戸に身を投げました。
それ以来夜中の12時に井戸に顔を映す自分の死に顔が見える、
髪の毛が早くのびるようになると言い伝えがある。
わざわざこんなことを由緒書きしてある学校でした。
ただでさえ、学校には怪談話が付き物なのに。。。
夏休みのクラブの合宿の時など、
夜、三年生に散々怪談話を聞かされたあと、
「はい、一年生。昼間、井戸のところに人数分の札を置いてきたので
一人ずつ順番に行ってとってくるように。」
とんでもない学校でした。
三つ目ですが、
弥富の平島(鯏浦とは隣)の伊藤家、
父の従兄弟になる家ですがここに平田家から嫁がきているそうです。
この名門の平田家ではないですが、
富田の辺りだそうですのでおそらく同じ系統の平田家ではないかと思います。
| [46] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2003年07月22日 22時57分27秒 ) | パスワード |
![]() |
伊藤さんのスレで「平田」になった。
に関して。名古屋両替町には、清洲越の際に九軒の金銀両替屋が移ってきたが、のち二家の平田家が残った(尾張志)。惣助家と新六家で、惣助家は東平田、新六家は西平田とよばれ、ともに尾張藩の庇護のもとに特権的家業を世襲した。年貢金をはじめとする諸上納金は、両平田家が認めた平田包のもの以外は藩の勘定所で受け付けなかったという。やがて藩財政の窮乏化が進み、勝手方用達の力が増大するにつれて平田家の経営は衰弱し、天保一二年には東平田家は両替町の呉服商伊藤家にその営業権を譲渡した。また西平田家も、安政二年に伊藤仁兵衛家に権利を買収された(名古屋商人史)
・・・姓氏歴史人物大辞典・愛知県版より
という話でした。あまり上記スレには関係ないのですが。あしからず、何でも鑑定団(何もお宝がないのですが、この番組が大好き)を見終わってふと明けてみたもので。
| [47] | ![]() | 当分ギャンブラーじゃないさんからのコメント(2003年07月23日 11時35分50秒 ) | パスワード |
![]() |
そうなんですか・・・
私の前世は金持ちの御令嬢でしたか・・・・
いやね、そういう話を私の前世の知り合いから言われてたのですよ。
んな事を言われたってねぇ
本人は自覚が無いので
まさかね・・・
と思って
現世ではそうありたいとギャンブルにのめり込んでるんですが
なかなか実現しないんで
ではこれからは気合を入れて頑張るかしらね。
両替商のお家再興めざして。。。
ふふふ
不敵な笑い
| [48] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月30日 13時08分32秒 ) | パスワード |
![]() |
こんな時間にと川口さんに叱られそうですが(笑)
少し驚いたので緊急報告。
今日仕事のついでに平田氏の多い四日市の千代田にいきました。
ありました!
浄土真宗本願寺派の寺。
寺には平田家のはかはありませんでしたが、
(藤原家、長谷川家などが少しあっただけ)
お布施の一覧(?)には平田家がありました。
近くの共同墓地に南無阿弥陀仏と書かれた墓石の平田家のものがありました。
バリバリですね(笑)
家紋は丸に片喰。
春日部という墓も多かったので調べてみたら、
春日部氏は富田進士家資の子孫でした。
私の学校だったところに城を建てたのが春日部氏です。
驚きました。
ここの平田家、家継にやはり関係ありそう。
大矢知の古市家の家紋は、
またでました!丸に抱き茗荷です。
| [49] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2003年07月30日 18時42分00秒 ) | パスワード |
![]() |
さちこさん 叱るなんて、トンでもありません。大歓迎です。
やっとこの一週間あたりで蝉の鳴き声をきくような時期になりましたが、関東地方はまだ梅雨明けの宣言がまだです。
「名古屋市西区山田町平田字城の切」
というところに平田城と呼ばれる城があったと日本城郭全集(愛知・岐阜)版に記述があります。
城主は平田源左衛門といい、和泉守とも伊豆守とも称したという。しかし菩提寺である平田寺の過去帳に、「平田寺殿前泉州大守麟嶽宗竜大居士、元亀二年(1571)四月十八日薨」とあるのを見れば、和泉守がほんとうらしい。平田氏は尾張守護の斯波氏の一族といわれているが、はっきりしていない。・・・略
とあります。筆者の「柳史郎」殿は私が華陽院殿を調べていたころに大変お世話になった人です。
平田氏でも流れが違う一族かもしれませんが、あっちのスレでなんか消化不良になったみたいなので、こちらでも、ちょっと。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BN03/sansaku_koshigaya.htm
には平田篤胤の仮寓の跡が。
http://www.ne.jp/asahi/makkou/seto/sansen.htm
ここには、平田靱負ゆかりの治水神社(薩摩藩士の偉業をたたえた神社)が画像になっております。
>大矢知の古市家の家紋は、
>またでました!丸に抱き茗荷です
いいですね。抱き茗荷。私は茗荷が大好きで素麺に刻んで入れて食べて、夏を乗り切るのは毎年のことです。(アレ〜?)
古市氏については、武家家伝にありました。家紋は何故か「菊」紋関係もありました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hul_iti.html
伊藤氏についてはちょっと油断しておりまして。なんにも調べてありません。
と色々とアラカルトです。
| [50] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月30日 22時14分39秒 ) | パスワード |
![]() |
二年前の隈さんの書き込み。
>向島の庄屋さんは、「吉原」さんとおっしゃいます。
大矢知には古市とともに吉原が多いのです。
吉原さんの家紋はうっかりしてました。
車で20分位でいけるとこなのでまた見てきます。
千代田という所は、
江戸時代は千代田村という小さな集落で、
明治になって合併し八郷村になりました。
今も30〜40件ぐらいの小さな町です。
お寺は浄土真宗のこの寺だけで、
この町に住む人は全てこの寺の檀家そんな感じの田舎です。
藤原家はこの寺の住職の家のようです。
藤原家は一軒だけみたいです。
春日部、長谷川、平田、
この3軒が殆どです。(80%位?)
平田、長谷川は四日市の他の地域にもありますが、
春日部はここに特に集中してます。
春日部氏の祖とする、
富田進士家資と三日平氏の乱。
千代田ではないけど八郷村に服部製糸工場があったこと、
これは偶然ではないなと思います。
長谷川家はどういうご縁なのか。
何紋というのか判りませんが、
大波の紋でした。
秦河勝の子孫と称する長谷川家(党)だったりして(笑)
大矢知のお墓には、
三つ鱗の平野家が一基。
八本矢車の服部家一基。
(北勢には八本矢車の服部家が今のところ多いです)
このあたり服部家が多い割にお墓が少ないです。
どうしても共同墓地や大きな寺が目立つのでそこへ行ってしまいますが、
このあたりで大きな寺は大抵真宗です。
目立たない小さな寺にあるかもしれないなと思ってるのですが。
例の学校の同級生に、
藤原町の寺の服部さんとう子がいました。
明子さんと同姓同名(笑)
それから、
秦さんも二基ありました。
その一つに、
秦家、羽田家の墓と一つの墓石に二つの苗字が書いてあるものがありました。
同じ、ハタはハタだけど。。。
こんなの初めてみました。
(さすが謎の帰化人!)
この墓があるのが、
お寺だか神社だかよく判らない所の裏で。
階段の横にお地蔵さんが並んでいて寺のようなのですが、
登った所に鳥居があって、
しめ縄張ってある神社のような建物があるのですが。
横に阿弥陀如来像のあるお堂もあってこちらはお寺みたい。
雰囲気としては氏神さんのような感じですが、
〇〇神社とも、〇〇宗〇〇寺とも書いてなく、
神社なのかお寺なのかはっきりせいや!
という感じ。
まあうちの寺の長禅寺も入り口に鳥居があるのであまり言えませんが(笑)
薩摩の方が聞いたら「おい。おい・・。」
という感じかも?
今まであまり気にしてなかったのですが、
伊勢にはこういったところ多いのかも?
>平田氏は尾張守護の斯波氏の一族・・・・
ここでも服部家との関係が?
山田町というのが大山田と関連付けたくなりますが。
どうなのでしょうか。
>平田靱負ゆかりの治水神社
この神社の建立に尽力を尽くしたのが服部家の人です。
この神社に服部翁の銅像があるそうです。
| [51] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年07月31日 22時00分29秒 ) | パスワード |
![]() |
七月も終わりになってやっと夏らしくなりかけましたか?
暑中お見舞いに。
私の母校の例の髪伸びの井戸のURLです。
http://nagata.kanagata.net/ise_shiseki/kayo_jyo.htm
萱生城、戦国時代春日部氏が城主だったようですが、
萱=かや=加耶に通じ、
秦氏のルーツは不明ですが日本に渡来するまで、
加耶(今の釜山のあたり)にとどまっていたそうです。
萱の地名は秦氏ちなむものらしいです。
去年、昼寝の枕にしていた「秦氏の研究」。
読み返してみると、
春日、千代郷、長谷川党は繋がってます。
やはり田原本町あたりで(世阿弥ゆかりの地です)
オカルトの世界かも?やはり。。。
十市の長谷川党の家紋が判ればいいのですが。
波紋の長谷川氏について調べても判りません。
よろしくお願いします。
三日平氏の富田氏ですが、
地名が苗字になったか、
苗字が富田という地名になったか判りません。
私はおそらく地名であっただろうと思います。
富田町の平田漁網店についてありましたのでよければご参照を。
(あれ?平田紡績まだあったの?)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuji/hirata.html
| [52] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2003年07月31日 22時28分13秒 ) | パスワード |
![]() |
さちこさん この夏には名古屋までは行けないが、静岡あたりまでは足を伸ばしてみます。
>明子さんが見たという派手な電車ってもしかして黄色とオレンジのですか?
>それは四日市の富田から藤原へいく電車です。阿下喜線と並行してます。
>私はそれに乗って通学してました。派手で悪かったわね!
桑名が懐かしいので旧々のスレから引っ張ってきました。
「髪のび井戸」にはすごいことが書かれておりますね。歴史が生きておりますね。こうして土地の歴史を学ぶ訳ですか。
十市の長谷川については今度調べてみますね。
富田は伊勢平氏に同国朝明(あさけ)郡富田庄より起こる氏があり。と
ではこのへんで、おやすみなさい!!。
| [53] | ![]() | 田中愛造さんからのコメント(2003年08月01日 03時17分02秒 ) |
![]() |
本人によりコメントは削除されました。 2003年08月01日 03時19分11秒
| [54] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年08月01日 04時41分34秒 ) | パスワード |
![]() |
あの「髪伸び井戸」怖いですね。
由緒書きも怖いけど写真も怖い。
怖いって意味は「自分の先祖達の経験」という事なんですけど。
女性達の悲鳴に自分の中の血が反応しますから。
| [55] | ![]() | 田中愛造さんからのコメント(2003年08月02日 02時37分40秒 ) | パスワード |
![]() |
さちこさん!この前、有難とう。
十市の長谷川は(使い鷹)です。尾張の平田氏、源氏足利一族斯波氏の出で、川口さんの通りです。平氏系で無い証拠に和泉守は、源左衛門。平家なら平左衛門で、先ず大方、源の名は使わないと思います。織田の家臣(明子様憤慨かも)と云う事で、足利・織田・斯波家臣約6000名ほど探しましたが出てこない。唯、(日本城郭)では元亀二年四月十八日歿とあるも、和泉守斬殺されし折、弟大膳助が敵討ちしたのが、永禄八年五月二十日でした。???
| [56] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年08月03日 00時30分30秒 ) | パスワード |
![]() |
「丙戍旦於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」
これは天武天皇が朝明で伊勢神宮に戦勝を祈願したとされる記述です。
迹太川というのは今の朝明川、(最近までオオ川と呼ばれたそうです)
天武天皇戦勝祈願の場所というのは諸説あり、
大矢知や、
羽津山と言う説もあります。
このあたりは、イカルガ町といわれるところもあり、
昔は法隆寺の荘園だったそうです。
伊賀留我神社と書いて、いかるが神社というのもあります。
ここが、天武天皇の戦勝祈願場所だったという説も?
私の学校だった所は朝明川に沿った低い山の上です。
天然の要塞といった所でしょうか?
何故戦場になったか?
この位置からは、
海がよく見えるのです。
晴れた日には伊勢湾から、渥美半島、知多半島、
以外に思うかも知れませんが、
伊勢と神島と至近距離です。
この城からは水軍の動きが手にとるように判る。
少し天武天皇からずれましたが、
この地形を考えると、
この地で伊勢神宮に戦勝祈願したかが判るように思います。
田中愛造さん。
ありがとうございます。
十市の長谷川の家紋は使い鷹でしたか。残念。。
金春禅竹の(能の金春流の人)明宿集には、
秦河勝が子孫に、
武を伝えた者が大和の長谷川党
雅楽を伝えたのが四天王伶人
猿楽を伝えたのが当坐円満井金春太夫也(金春流)としてます。
少し眉唾物かもしれませんが。。
ちなみに金春禅竹は世阿弥の娘を嫁にしています。
長谷川党のハセガワとは、
秦河勝が大和の初瀬川から流れてきたという伝承があり、
初瀬川流域の秦氏が、長谷川と称したらしいです。
これが長谷川姓の発祥であると言う説もありますが。
長谷が普通にはハセと読めないことからも、
長谷川、帰化人説には納得するところもありますが。
春日部を調べてたら、
秦氏を称する平田家もありました(笑)
春日部も秦氏系になるらしい。
伊勢平氏を調べていて、
なんだか振り出しに戻る状態です(泣)
髪伸びの井戸、
今は懐かしい事ばかりです。
派手な電車に乗って通学した事も。
派手なのには事情があって、
何しろ田舎なので、山や田んぼ、緑だらけ、
以前は深緑色の車体だったそうですが、
遮断機のない踏み切りが多く目立たなくて危険なので黄色くしたのです。
「髪伸びの井戸、
ではなくて髪生え(毛生え)の井戸だったらいいのにな〜」
そんなジョークもありました。
何しろ忘れっぽい伊勢人ですから(笑)
誰?誰?毛生えの井戸なら行ってみたいと言ってるの?
川口さん?それとも秦さん?
| [57] | ![]() | 川口 信さんからのコメント(2003年08月03日 06時51分02秒 ) | パスワード |
![]() |
さちこさん 心配ご無用です。
私はまだ髪の毛は沢山あります、この歳まであればもう十分です。
十市 長谷川 家紋で検索しましたら。下記のようなURLがありました。
http://www3.kcn.ne.jp/~hata6144/sub2.htm
十八世紀前半ごろに作られた「春日大宮若宮御祭礼図」(以下「祭礼本」)では、願主人の由緒が比較的詳しく語られている。その要点は、@中世では長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党によって勤められていた、A奉仕に当たる国人は、一、二郡から五、七村を領有し、自ら狩をして鳥獣を献上した、B献上された供物の例、C天正年中、大和に入部した秀長は、伊賀から大和武士を呼び返し流鏑馬を復興した。
長谷川氏については、大和城上郡長谷の地に起こった長谷川党は、のち常陸に栄える。ほかに当地発祥の秀郷流下河辺氏の族は駿河に移り、幕臣となる。また美濃発祥の橘姓など各地に諸流がある。幕臣の長谷川氏は左藤巴。
長谷川氏では丸に剣片喰・架に繋ぎ鷹、左三藤巴・梅紋などが使用されている。
ついでに古市(ふるいち)(こいち)古代姓の古市村主は河内古市郡古市郷発祥の百済族。のち大和添上郡古市城による氏は清原姓。この族に茶道の古市家が出る。伊勢の古市氏は度会郡古市発祥の伊藤氏族ほか数流ある。
| [58] | ![]() | さちこさんからのコメント(2003年08月03日 15時41分34秒 ) | パスワード |
![]() |
川口さん。
よけいな心配でしたか(笑)
参考になる資料ありがとうございました。
やはり田原本町ですね。
私が先祖に関心を持ったのは秦氏と服部家の関係からなのですが。
弥富、服部で検索したら、
田原本町の村屋坐弥富津比売神社