シャベリン(アーツ) アクアジャンクション 式日
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100148 投稿日:2001年07月25日 23時57分20秒  パスワード
 お名前:源三
源氏方武将1波多野氏・大友氏
キーワード:源氏
コメントの種類 :人物  パスワード

平家を倒す原動力となった源氏方武将を紹介していくことにより、源氏方サイド
からみた都の平家一族をより客観的に洞察できるのではないかと思い、この不肖源三
めが筆を執らせていただきます。
第一弾は私めの出である波多野・大友氏を取り上げたいと思います。
これからは、できるだけ多くの書籍やhpの波多野・大友氏の記述を紹介して参ります・・・。一年ほどかけて書き込みたいと思います。永い目で見てよろしくお願い致します。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年07月26日 00時46分08秒 ) パスワード
  

はい、よろしくお願い致します。

波多野義常は治承4(1180)年頃は平家側に呼応した武士で
なかなかの人物だったと聞いています。

波多野氏は12世紀の東国武士団の中では異色の存在・大きな勢力を誇っていた
と聞いています。


楽しみにしています。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年08月06日 12時36分58秒 ) パスワード
  

今日読んでた「平家」の義朝都落ちに
波多野二郎が同行していたと書かれていました。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年08月08日 00時37分25秒 ) パスワード
  

この↑の書き方では不完全で不親切ですね。


義朝・朝長・頼朝と一緒したのは
鎌田政清・斎藤実盛・平賀義信・三浦義澄・佐渡式部重成・岡部六弥太・猪股小平六の7名。


あとは山科から宇治への道を辿って伊賀の山中へ分け入って東国を目指した
波多野二郎・平山武者所・熊谷次郎・足立右馬ジョウ・金子十郎ら。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年08月12日 14時43分56秒 ) パスワード
  

<次男の朝長は波多野遠義の娘との間の子供>と源三どのから教えて頂きました。

それで都落ちの時に波多野二郎が途中まで同行しているのですね。
[5]源三さんからのコメント(2001年09月01日 22時51分49秒 ) パスワード
  

●大友頼泰(おおともよりやす)墓所

頼泰は大友氏第3代総領。蒙古襲来に際し、時宗に命じられ九州へ下向。本来の根拠地は相模国大友郷(現在の神奈川県小田原市近郊)だったが、下向を機に親族の治める豊後国へ移った。

行き方
問い合わせ JR久大本線「大分」からバス
「田尻グリーンハイツ西区」下車、
徒歩約15分

常楽寺
電話:097-541-3226
※見学自由

●常楽寺(じょうらくじ)

臨済宗妙心寺派。大友氏第3代総領・頼泰公の菩提(ぼだい)寺。開基も頼泰公で、その位はいや墓所が置かれている。大分市南部の山腹に位置しており、寺からは大分市街が一望できる。

行き方
問い合わせ JR久大本線「大分」からバス
「田尻グリーンハイツ西区」下車、
徒歩約15分

電話:097-541-3226
※拝観自由

●大分市歴史資料館

古代から近世までの大分地方の歴史を網羅した資料館。常設展示の他、特別展示や史跡・文化財に関する情報提供および、各種講座などが開催されている。

行き方
問い合わせ JR久大本線「豊後国分」下車、
徒歩2分

電話:097-549-0880
開館時間:9時〜17時
月曜日、祝日の翌日、年末年始は休館

入館料:大人200円、高校生100円、
    小・中学生無料

●上野大友(うえのおおとも)館跡

大友氏の館があったといわれる場所。大友氏は、鎌倉時代から戦国時代まで九州の大分地方を支配した。石碑の他土塁跡なども残っている。民家の敷地部分も多いので見学には注意が必要。

行き方
問い合わせ JR久大本線「古国府」下車、
徒歩約20分

大分市教育委員会文化財課
電話:097-534-6111
※見学自由(住宅街にあるため、見学
の際は周辺住民への配慮が必要)









[6]源三さんからのコメント(2001年09月02日 15時45分58秒 ) パスワード
  

●大友氏(相模国足柄郡大友に起こり、のちょ豊後に渡り鎮西第一の大族となった
(藤原)秀郷流大友氏が著名。古代姓だが、発祥は大伴とは異なる。異説もあるが
、地名の由来は古代大伴氏の末とも。出羽の大族の大友氏は出自未詳。姓名順位722
位。)
●大友氏(相模国足柄郡大友村発祥の族は、藤原北家秀郷流で初代・能直以来、
豊後守護に任じ、(東方)鎮西奉行として勢力をふるった。戦国末期の北九州の
覇者・大友義鎮(宗麟)の時に全盛、九州六カ国守護伊予日向半国守護職になり
1559年に九州探題職になる。)また大伴氏の中に地名をおって発祥した大友氏に
仮託し大友を称するものもでた。

★大友氏系図

藤原秀郷−千常−文脩−脩行(近藤)−行景−景親−貞成(景頼武者所)−能成−大友能直●(母は波多野(大友)四郎経家娘、祖父の所領・相模大友郷継ぐ、称大友氏、一時、中原親能猶子になる。豊後、筑後守護職など、鎮西奉行職を代々世襲、●豊後の大友祖、大友初代)−親秀−*大友頼泰(蒙古襲来鎮西下向)−−つづく。

★大友氏系図∴大友能直●(母・波多野四郎経家女)−親秀(母・畠山(高山)四郎重範入道女)−頼泰(母・三浦肥前守平家連女、蒙古襲来豊後下向、豊後守護職兼鎮西奉行)−親時(左近将監、蔵人)−・・・大友義鎮(21代、宗麟、左衛門督、豊前
豊後筑前筑後肥前肥後守護日向伊予半国守護職、九州探題職。)

●波多野氏(相模国余綾郡(のちの大里郡)波多野(秦野)に起こるものは、藤原
秀郷末。秦野とも互用。異流が多い。姓名順位2878位。)
[7]源三さんからのコメント(2001年09月02日 15時59分32秒 ) パスワード
  

服部さん今日は!服部さんは平治、保元の乱の源氏方のことに興味がおありなんんですね!僕はあまり知りませんが、なんとなく勉強するうちにわかってきました。
そこらへんは、鎌倉以前の波多野氏の歴史かなんかでまた紹介したいと思います。
[8]源三さんからのコメント(2001年09月02日 16時46分06秒 ) パスワード
  

★大友氏

大友初代能直は、源頼朝の庶子ともいうが、また別に、藤原(相模国愛甲郡の古庄郷司の近藤(太郎、太)能成の長男で母(波多野<大友>四郎経家の娘)は中原親能の
妻と姉妹で、親能の妻が頼朝の子・三幡(夭折)の乳母であったことから、能直は
大友氏を名乗り、(中原)親能の養子となって、(源)頼朝に寵仁されたといわれる
。その後、(大友)能直は筑後、豊後、肥後の守護職に任ぜられた。

能直の庶子は能直が妻・深妙に預けた遺領の豊後大野庄を分割相続した。庶子は早く
からこの地に移住し、深妙は京都に在って後見している。嫡子親秀には本領の相模大友郷が与えられたが、三代・大友頼泰に至って初めて豊後に下向した。(蒙古襲来により)
守護大名としての大友氏の発展は、六代貞宗の頃からであり冷静に時勢の推移を洞察し、足利尊氏を武家政権の受け皿として、その軍勢催促に応じ鎮西探題・北条英時を壊滅させた。そして家督を継いだ貞宗七男の氏時は足利尊氏の子・義詮の信頼を受け、北条(鎮西)探題館で大友、少弐氏により憤死させられた菊池武時の子・武光(南朝方)との宿命的な戦いを展開し、九州において北朝勢力(武家方)の孤塁を死守したのである。(戦国大名出自事典から抜粋・・・。日本女子大・西村圭子著)
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年09月02日 21時45分03秒 ) パスワード
  

ここで菊池氏が出て来ますか。
最近親しくなった人と菊池氏+菊池の話題が出ていたので
偶然性をちょっと不思議に思います。
[10]源三さんからのコメント(2001年09月02日 23時34分13秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2001年09月03日 00時18分05秒
[11]源三さんからのコメント(2001年09月02日 23時45分07秒 ) パスワード
  

服部さん今晩は!確か、菊池姓は庶流で、菊地姓が本家系、総領家だそうです。
菊地氏(南朝)は大友氏(北朝)の南北朝期以来の宿敵でした。九州はものすごく
南朝勢力が強かったので、大友氏と少弐氏に菊地武時が九州の北条探題館において
だまし討ちされた恨みがかなり深かったことでしょう。南朝、北朝方が和解後、急速
に菊地氏は勢力を失い大友氏にのっとられることに。
[12]源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時32分54秒 ) パスワード
  

氏苗字事典から
●波多野氏−相模国余綾郡波多野より起るのは藤原秀郷六世経範(公俊)を祖とする
。他の流派もあるかなりある。

★大友氏−で有名なのは、豊後(大分)の守護大名で初代能直にはじまる系であろう
。大友能直は藤原秀郷の後裔近藤能成の子だが(一説に源頼朝の落胤とも)、諸系図
によって秀郷流波多野氏族(→母の父波多野(大友)経家の大友郷を継いだので)、
中原氏族(頼朝側近の斎院次官中原親能の猶子になったことから)藤原利仁流後藤則
明系とも(近藤行景が後藤則明の子ともいわれている。)藤原北家道長流とも(これ
は猶子になった中原親能自身が藤原道長の子・長家からはじめる御子左家系から中原
氏へ養子に入ったことから、ちなみに大江広元は中原親能の母違いの弟で同じ様に母
方の大江家へ養子に入った。)など異説が多い。

通説は前記近藤能成の長男の近藤氏の流れで、能直の母は相模国(神奈川)足柄郡
大友を領した波多野(大友)経家の娘、後に能直がこの大友村地頭職を継いだこと
から波多野氏流を称する系図が起り、また中原親能の妻※が能直の母の姉だったの
で、能直が中原氏の養子となった関係上中原氏流とも。

能直は源頼朝の有力な御家人となり豊後、筑後守護職、鎮西奉行となり、三代頼泰
の頃豊後に赴任、以後豊後を中心に肥前、豊前、筑後に栄えた。室町期守護大名に
成長し大友(義鎮)宗麟のとき全盛を迎える。やがて島津氏に敗れて昔日の勢威を
失うが、子孫は徳川幕府の※高家になった。家紋は北九州の名紋杏葉紋なお総領家だ
け大友を称した。

尚大友氏は他に古代氏族大友村主(すぐり)(近江滋賀郡大友郷)、近江佐々木氏流
、秋田では小野寺氏配下や波宇志別(はうしわけ)神社社家の大友氏ほか東北にも多
い。

[13]源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時49分01秒 ) パスワード
  


大友能直 ( おおともよしなお)

果たして源頼朝の落胤か

 1172−1223 鎌倉時代の武将。豊後大友氏の始祖。幼名一法師丸。 左近将監(さこんのしょうげん)、左衛門尉、豊前守、前豊前守。従五位下。法名 能蓮(のうれん)。承安2年(1172)壬辰正月3日生まれ。生国は相模国か。貞応2年(1223)11月27日京都で没。享年52歳。
〈出自に関する諸説〉
 大友氏及び一族諸氏の系図や「 大友記 」等江戸時代の 野史(やし)では、 源頼朝 の 妾(めかけ) 利根局(とねのつぼね)( 波多野経家(はたのつねいえ)三女)が懐妊し、彼女を京都の家臣 中原 親能(ちかよし) に与えて出産させたのが能直で、これを親能の養子にしたとする。「 志賀系図 」「 松野系図 」等では、利根局を近藤親成(能成の誤り)に遣わし、同家で生まれたとある。これに対し、近藤( 古庄(ふるしょう)ともいう)能成を実父とする説は太田亮等にはじまり、筆者もこれを主張する。同時代の『 玉葉(ぎょくよう) 』『 明月記(めいげつき) 』『 吾妻鏡(あずまかがみ) 』等の諸記録には全く頼朝 落胤(らくいん)説を裏づける記述はなく、『吾妻鏡』には4箇所も「古庄左近将監能直」と見える。最近発見された 野津本「北条系図 大友系図 」によると、次の通りである。
 本系図は鎌倉時代末期書写と確認される 大友氏系図 の唯一のもので、当時大友氏自体が 古庄(近藤) 能成(よしなり) 説を信じていたことを示すもので、同説の決定的史料となる。
〈大友氏 源(みなもと)姓のはじめ〉
 鎌倉期に源姓使用が皆無であるだけでなく、3代 頼泰(よりやす) は自ら「 平(たいら)」姓を用いている。北条 得宗(とくそう) 家から 猶子(ゆうし)関係を認められ、その権威を仮ったものであろう。建武3年(1336)2月15日 足利 尊氏(たかうじ) が西走中、大友千代松丸( 氏泰(うじやす) )に対し、 光厳院(こうごんいん)の命令により 御辺(ごへん)を 憑(たの)んで下向したとし、忠節が特に優れているので「兄弟におきては、猶子の儀」を認めるとの 御教書(みぎょうしょ)を与えた。大友一族を味方に引き入れるため、千代松丸兄弟を猶子と認めるというもので、翌年5月22日の 下文(くだしぶみ)に「源氏泰」とあるのが源姓の初見である(「 大友文書 」)。千代松丸が元服し、尊氏の一字を給わり氏泰と名乗ったものである。
「大友氏系図」をみると、氏泰の弟は 氏宗(うじむね) 氏時(うじとき) とすべて氏字を上につけている。先の「猶子の儀」が実行されたもので、 貞順(さだより) 等3人はすでに元服しており、かつ弟の千代松丸の 単独相続 に対する反発もあり、 諱(いみな)字を変えず、貞順 宗匡(むねただ(まさ)) 両人は 南朝 側についた。氏泰に対する源姓以後、 庶子 家まで源姓を用い始める。この尊氏の許した源姓をのち始祖能直にまで 遡及(そきゅう)させ、頼朝落胤説が成立したものと考える。野津本「北条系図 大友系図」発見の意義は大きい。
〈中原親能の養子となる〉
 『吾妻鏡』『玉葉』等に能直を「親能猶子」と記し、「 志賀文書 」にも彼自ら親能を「親父」と記しており、親能の養子たることは疑いない。その理由は 明瞭(めいりょう)でないが、実父古庄能成は相模国 愛甲郡古庄郷司(あいこうぐんふるしょうごうじ)というに過ぎず、大した 所領(しょりょう)もなく存在の影がうすく、あるいは早世したかとの説もある。能成と親能の妻は相模国波多野経家の娘で、経家からは両人は 相婿(あいむこ)。親能が幼稚の昔相模国人に養われたのは、この経家の家ではあるまいか。彼は「年来の 知音(ちいん)」「深甚の知音」(『玉葉』)といわれる頼朝の許へ、治承4年(1180)12月4日夜平家の 追捕(ついぶ)を逃れて宿直中の京都の源 雅頼(まさより)宅から脱出、鎌倉に下って幕府創業を 援(たす)けたらしい(ただし瀬野精一郎は確証がないという)。頼朝の信任篤い親能に能直を 托(たく)して、武家としての栄達を望んだのが、両親及び本人の願望ではなかったか。
〈 鎮西(ちんぜい)奉行 豊後守護 職(しき)の 補任(ぶにん)〉
 文治4年(1188)17才で元服、頼朝は「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として左近将監に 内挙(ないきょ)、10月拝任、12月17日営中に参賀した。文治5年奥州征伐には頼朝の 座右(ざゆう)に 近侍(きんじ)、 阿津賀志(あずかし)山で殊功を立て奥州に領地を与えられ、建久4年(1193)の富士 裾野(すその)の巻狩でも寝所に宿直して守備した。のち京都に居住し、鎌倉との間を往復している。
 建久4年ないし同7年の 鎮西奉行 、豊前 豊後 守護職 補任説(大友氏諸系図)は、初代鎮西奉行 天野遠景(あまのとおかげ) の離任が建久4〜6年の間で、次は養父中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) 両人であり誤り。豊前守護職も豊前守( 名国司(なこくし))の誤認。彼の所領 所職(しょしき)の多くは親能の譲与であるから、補任は親能死去の前々年建永元年(1206)ころと推定される。貞応2年(1223)11月2日所領 所職を嫡子 親秀(ちかひで) 以下諸子及び妻 深妙(しんみょう) に譲り、11月27日京都で死去。俗に 大野荘 藤北に居住、死去したとするは誤り。 謚号(しごう)勝光寺殿能蓮大禅定門。墓堂は 勝光寺(しょうこうじ) にあったと推定される。
 参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 芥川龍男『豊後大友氏』(『戦国史叢書』9) 渡辺澄夫「豊後大友氏の出自について」(『増訂豊後大友氏の研究』) 同「野津本「大友系図」の紹介」(『大分県地方史』第134号)
[渡辺 澄夫]
[14]源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時50分50秒 ) パスワード
  


大友頼泰 ( おおともよりやす)

豊後に下向土着した大友惣領家

 1222−1300 鎌倉時代後半の武将。豊後 守護 職(しき) 鎮西一方(ちんぜいいっぽう)奉行 職兼帯。初名 泰直(やすなお) 。童名薬師丸、太郎、 大炊助(おおいのすけ)、丹後守、出羽守、兵庫頭、法名 道忍(どうにん)。 謚号(しごう)常楽寺殿道忍大禅定門。貞応元年(1222)生まれ。父は大友2代 親秀(ちかひで) 、母は三浦 家連(いえつら)の娘。正安2年(1300)7月19日没、享年79歳。
〈初期の事績〉
 仁治3年(1242)以前に豊後守護職 鎮西一方奉行職を相伝したことはわかるが、正確な年次未詳。 能直(よしなお) 親秀同様にはじめは鎌倉 京都に在勤し、 守護代 ( 小田原(こだわら)氏 か)を派遣して支配した。宝治元年(1247)幕府は京都 大番(おおばん)23番を定め、各番3か月間在洛警固を命じたが、頼泰は18番。建長4年(1252)幕府が 格子上下番(こうしあげさげばん)を定めた時は、6番に名が見えるので、当時鎌倉にいた事がわかる。
〈豊後下国と要害警固〉
  蒙古(もうこ)襲来 が必至と見た幕府は、文永8年(1271)に西国に 所領(しょりょう)を有する御家人の下国警固を命じたが、この年下向したとするのがこれまでの通説。芥川龍男は文永9年4月23日以降という新説を出した。ただし頼泰は建長6年に 守護所 となる 高国府(たかごう) の一部を本主 備後法眼幸秀(びんごほうげんこうしゅう) から獲得しており、文永6年3月23日玖珠郡 野上 資直(すけなお) に今月中に上府を命じた 書下(かきくだし)(守護の命令書)によると、頼泰は在国しているらしい(『 大友家文書録 』)。文永8年9月、幕府は九州に所領を有する東国御家人に、下向して異国 防禦(ぼうぎょ)と悪党鎮圧を命じた。大友頼泰は翌年2月朔日(1日)、国内御家人に 廻文(かいぶん)を回し、東国御家人が下着するまでの3月 晦日(みそか)まで、筑前 肥前の要害を警固せよとの関東 御教書(みぎょうしょ)を伝達した。その役所(割当警備区域)を受け取り、御家人たちを配置するため、すでに代官(守護代)を派遣したので、各自彼から役所を受け取り警固に当たれ、と命じている(「 野上文書 」)。 異国警固番役 のはじまりであるが、その役所や分担期間は未詳。
〈 文永(ぶんえい)の 役(えき) 〉
 文永11年10月20日蒙古軍は、兵3万余、900 艘(そう)の軍船で博多湾に襲来、 今津(いまづ) 百道原(ももちばる) 博多方面から上陸してわが軍に損害を与えた。蒙古軍の集団戦法と「てっはう」等の新兵器に圧倒されたわが軍は、 大宰府 に向けて退却し 水城(みずき) の線に防衛線を 布(し)いた。蒙古軍はその夜全軍を船に引き上げた所、強風に遭い船が覆没して敗退した。大友頼泰に率いられた豊後御家人は 姪(めい)ノ 浜(はま) 百路原(ももちばる)等の博多西方海岸で戦った。戦後建治元年(1275)幕府は頼泰に対し、第一線で進み戦わず、又当境を守ると称し出陣しない者の多い事を責め、その人名を注進させ罪科に処する事を、御家人たちに布告させている。
〈異国警固番役 異国出兵 博多 石築地(いしついじ)〉
 蒙古再来必至と見、幕府は文永11年12月異国警固番役の体制を強化し、肥筑海岸の常時警固を令した。1年を春 夏 秋 冬の3か月あての4季に分け、春(筑前 肥後)、夏(肥前 豊前)、秋(豊後 筑後)、冬(日向 大隅 薩摩)に配当分番させた。勤務終了者には守護が 覆勘状(ふくかんじょう)(終了証)を出した。その後若干変更があるが、番役は幕府の存続する限り続けられた。
 幕府は高麗海岸の敵前進基地覆滅のため、異国出兵の計画を建治元年12月発令した。大友頼泰はこれを受け国内御家人に所領面積 領内船数 櫓(ろ) 水手(かこ) 梶取(かじとり)の名前と年齢等、及び出兵者の人数 年齢 武具等の報告や、船 船員等の博多 廻漕(かいそう)の準備を命じた。ただしこれは中止され、のち弘安4年(1281) 少弐(しょうに) 大友を大将とする再度の計画も発令の後中止された。
 これと平行して建治2年はじめころ、博多湾岸に 石築地 構築計画を発令、各国守護に実施させた。異国出兵者は免除(ただし中止)。豊後御家人の分担区域は長く不明であったが、「 杵築 生桑寺(いくわじ)文書 」から 香椎(かしい)前浜と判明、大友頼泰は香椎宮中に奉行所を置き指揮した。この石築地分担地が、各国警固役の分担地域となった。
〈弘安の役と戦後処理〉
 弘安4年蒙古が再来したが、石築地に阻まれ、一部が 志賀島(しかのしま)に上陸し大友軍と交戦し進行を阻止され、海上で台風にあい全滅した。戦後恩賞問題が続出し、幕府は御家人の鎌倉出訴を止めるため、弘安7年特殊合議訴訟機関を博多に設け、同9年 鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ) とした。少弐 大友 宇都宮 渋谷 が任命され、永仁元年(1293) 鎮西 探題(たんだい) 設置まで続く。恩賞は弘安9年から徳治2年(1307)まで7回実施が確認され、大友 少弐がこれを奉行している。戦後鎮西諸社への復興、弘安8年 豊後国 図田帳(ずでんちょう) の作成等に活躍。正安2年9月17日没。墓は大分市秋岡 常楽寺(じょうらくじ) 。
 参考文献 相田二郎『蒙古襲来の研究』 芥川龍男『豊後大友氏の研究』(『戦国史叢書』9)
[渡辺 澄夫]


[15]源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時56分30秒 ) パスワード
  

----------------------------------------------------------------

●波多野氏の起こりと勢力●

波多野家血統鑑によると、祖は天ノ児屋根命で、藤原鎌足―不比等―房前―藤成―豊沢―村雄―秀郷と続く。秀郷は田原藤太秀郷といい鎮守府将軍になっている。初めて波多野の姓をもちいたのは秀郷から6代目の経範からで、経範は相州(神奈川県秦野市)の祖となっており、さらに経範から6代目の義重は越前(福井県)の波多野の祖で永平寺を建立している。

丹波の波多野家は、義重から4代目の経基から(一説では義重の先代、忠綱の弟、経朝ともいう)で、その後、秀範、秀経と続く。永正年間(1504〜1520)に朝路山に城を築いたのは秀範のころだった。城下を“八上”と呼ぶことにした秀経(秀範の子)には男子が生まれず、同族の因幡(鳥取県)の秀行の子、千勝丸(千熊丸ともいう)を養子に迎え、元服して秀治と名乗らせた。

[16]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時02分20秒 ) パスワード
  

奈良時代・平安時代

「秦野」の由来

 秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もその1つです。平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野の古名は「幡多」だったと記載されています。いずれにしろ、秦野には古くから多くの人々が住みついて、困難を克服し新天地を形成していったと考えられます。

波多野氏の発祥と発展

 承平の乱(935)をおこした平将門は、藤原秀郷によって倒されました。秀郷はその功により、東国(武蔵・下野)の国司に任ぜられ、その子孫・藤原経範が秦野盆地の原野を開墾土着し、勢力を広めていったと考えられています。
 この経範は波多野氏を名のり、前九年の役(1051〜62)には、源頼義・義家父子に従い、東北平定におもむき活躍をしています。
波多野氏略系図
 藤原秀郷―→公光―→経範―→遠義―→義通――――→義常 松田  有経
     (相模守)         秀高 河村   忠綱 波多野
                      山北   義和 渋沢
                   経家 大友   高義 大槻
                   義景 大友   實方
                      波多野
                   実経 菖蒲
                   家通 沼田
                   坊門姫(頼朝兄・源朝長母)

鳥海の戦い(前九年の役)

 「陸奥話記」によると前九年の役に参加した波多野経範とその家来たちが、鳥海の戦いで、源頼義らと共に敵にかこまれてしまいました。経範らは自力で突破しましたが、敵中で苦戦していた頼義を救うため再び敵中にもどり、頼義を救ったものの、自らは戦死したと書かれています。


波多野氏と保元の乱

 保元元年(1156)、波多野義通は源義朝と共に後白河天皇方につき、崇徳上皇・源為義らと戦い勝利をおさめ、為義の幼い子4人を処罰したことが伝わっています。
[17]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時05分11秒 ) パスワード
  

鎌倉時代

波多野氏と源氏

 治承4年(1180)8月、平治の乱(1159)後伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、相模に入り石橋山で平氏側の大庭景親の軍勢と戦いを交えました。この時、頼朝の挙兵に参加した武者は、伊豆の北条氏、三浦半島の三浦一族と西相模の土肥一族らであり、波多野義常の一族は平氏側につきました。
 石橋山合戦に敗れた頼朝は、真鶴岬より海を渡り安房に逃がれ、その後、挙兵を聞き関東各地より参じた軍兵3万余を従え鎌倉へ入り、ここに本拠を定めました。10月、平氏の軍勢を富士側で迎え討つため鎌倉を出た頼朝は、その途中松田城を攻め落しました。この時、波多野義常は自害し、波多野氏の一族である山北の河村義秀も捕らわれの身となり、所領を没収されました。
 こうしたことから、波多野氏は、鎌倉幕府が開かれた時には、三浦氏などのような有力御家人にはなれませんでした。しかしその後、義常の弟忠綱は秦野の地の相続を許され、2代将軍頼家、3代将軍実朝に仕え、幕府の要職につきました。承久の乱(1221)後は、忠綱の子義重が軍功により越前(福井県)志比庄の地頭職を与えられ、後に曹洞宗の開祖道元を招いて永平寺を開創しました。この越前へ移った波多野氏は代々、出雲守、評定衆を継承することとなり、北条氏の執権政治の要職に伝え続けたため、次の時代へと勢力を保ち続けました。

実朝御首塚と金剛寺

 承久元年(1219)正月27日夜、3代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮の年頭の式に出席した帰りに、石段の所で兄頼家の遺子公暁により暗殺されました。公暁は実朝の首を抱えて逃走し、三浦義村の屋敷にむかいましたが、義村には北条氏より公暁追討が命じられており、そこで討たれました。
 三浦氏の家臣長尾定景父子とともに三浦義村より公暁を討ち取る命を受けた武常晴は、偶然に、実朝の首を得ることができました。常晴は、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。それが、現在東田原にある実朝の御首塚です。
 その後波多野氏は、実朝の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、首塚を飾っていた五輪木塔を石塔に替え、阿弥陀堂に移しました。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。

[18]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時16分33秒 ) パスワード
  

              
「波多野系図」では、波多野遠義の子に、波多野義通、河村秀高、
大友経家、波多野義景、菖蒲実経、沼田家通、河村実親をあげられる。                    
相模(現在の神奈川県)に拠った波多野一族は、源頼朝挙兵当時に
は平氏大庭景親方であったが、後に頼朝方についたという。   
 

源頼朝挙兵当時の相模の武士の波多野、菖蒲、松田、河村、大友、沼田氏は
波多野氏族。一族は当初平氏についていたが、後に源頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家
人となった。

■波多野経範と波多野氏                   
波多野氏は相模守藤原公光の次男経範が、摂関家領相模国余綾郡波
多野荘を領し、波多野を氏号とした。当時はこのように領地の地名
を氏号としたようである。沼田家通の長兄波多野義通は、波多野経
範より5代目に当たる。7代目波多野義重(出雲守)は六波羅評定
衆として在京、地頭職を持つ越前国志比荘に道元を請じ、永平寺を
創建した。                         


■大友四郎経家                       
大友経家は上野国利根郡を領した利根四郎のこととされる。経家の
娘利根局は源頼朝の侍女であったが、承安2年(1172年)に頼
朝卿の側室となり、後、斎院次官中親能原の妻となった。利根局の
子が大友能直で、頼朝卿が征夷大将軍に任ぜられた翌年の建久4年
(1193年)、頼朝卿より豊前と豊後の守護を命じられ、同7年
に豊後に下り九州大友氏の祖となった。            


■上野国沼田太郎                      
大友経家の子、利根局の兄妹に実秀があるが、彼は利根郡沼田郷に
あって、沼田太郎と称したらしい。              
「吾妻鏡」(北條本)によれば、建久元年(1190年)11月7
日條に、源頼朝が後白河法皇の召しに依って上京した時の先陣随兵
の中に、上野国(現在の群馬県)の沼田太郎の名が見える。『沼田
町史』(昭和27年8月群馬県沼田町発行)によれば、大友経家の
嫡子実秀が太郎と称していたことと、大友経家が利根郡司であった
とする記録(大友木村氏系図)をあげて、この実秀が沼田太郎であ
るとする。そして、大友実秀が「沼田」を称したのは、大友四郎経
家の弟に沼田六郎(菖蒲実経)、沼田七郎(家通)があったためと
いう(『沼田町史』)。                   


■相模国沼田氏族                      
「吾妻鏡」(北條本)に沼田七郎の名が見えるのは、建暦3年(1
213年)5月2日の合戦であり、この日に七郎は討死している。
「吾妻鏡」には沼田氏の名はいくつか出てくるが、上野国の沼田氏
を指す時は、必ず「上野」と併記されることから、併記のない沼田
氏は相模国の沼田氏をさしていると見られている。       
沼田家通は筑後守波多野遠義(4代目)の6男である。兄には波多
野二郎義通(5代目)、河村三郎秀高(山城権守)、大友四郎経家、
波多野五郎義景、菖蒲実経(沼田六郎)があり、弟に河村八郎実親
がある。                          
家通の嫡男は三郎家光(2代目)で、その後、五郎家村(3代目)、
五郎三郎家政(4代目)、又二郎助家(5代目)と続く。   


■圓珠姫伝説                        
日本最古の五十音順国語辞典「和訓栞」(谷川士清著、江戸時代中
期)には、「上野国沼田三郎家政の女が名誉の歌ありて、後伏見院
の御製を賜れる」とある。また「越の下草 」(天明6年宮永正雲著
)も次のように記す。                    
上野国沼田ノ庄ノ領主、沼田五郎藤原家政は俵藤太秀郷11代
の孫也。家政が女、圓珠姫とて和歌を得たる者あり。    
其歌に、                        
いとはやき梅の匂ひの花ごろも          
   春より先にほころびにけり       
 龍田山もみぢをわけて入月は           
  錦につつむ鏡なりけり        
後伏見院叡覧ましまして忝も御製を下さる。        
 上野や沼田のさとに圓なる            
 珠のありとは誰かしらまし     

[19]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時19分30秒 ) パスワード
  

沼田太郎が拠った上野国利根庄は、嫡子沼田太郎(大友実秀)が早世
し、また父大友四郎経家には男子がいなかったため、娘利根局の子、
能直(祖父大友経家の後を嗣ぐ。父は斎院次官中親能原であるが、源
頼朝の子であるとの説もある)に譲られた。前期沼田氏の後継者たる
べき大友能直は、九州に下って有力大名として発展したが、南北朝時
代に至り、8代目の大友氏時が、利根の川場に引退したことは、実に
そのゆかりの地である祖先の故地に帰ったものとみることができる。
[20]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時20分52秒 ) パスワード
  


中原親能 ( なかはらちかよし)

大友能直の養父

 1143−1208 鎌倉時代初期の京下りの幕府文官御家人。幕府 公文所寄人(くもんじょよりうど)、 公事奉行人(くじぶぎょうにん)、京都守護、 明法博士(みょうぼうはかせ)、美濃権守、式部大夫、 掃部頭(かもんのかみ)、 穀倉院別当(こくそういんべっとう)、正五位下、法名 寂忍(じゃくにん)。康治2年(1143)生まれ。承元2年(1208)12月18日没。享年66歳。出自については諸説あり。明法博士中原 広季(ひろすえ)の子で、 大江広元(おおえのひろもと)と兄弟とするもの(『 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』中原系図)、右京大夫藤原 光能(みつよし)の三男であるが、外祖父(母の父)中原広季の養子となったとするもの(『 大友家文書録 』)等あり、定説がない。 大友 能直(よしなお) の養父。
〈生立から関東下向まで〉
 親能は何かの事情で、幼少のころ相模国住人に養育され、そこで生長した。湯山学は、相模国足柄上郡の 波多野経家(はたのつねいえ)の 所領(しょりょう) 大友郷 ではなかったかと推定する(『地方史研究』第144号)。『 玉葉(ぎょくよう) 』には 源 頼朝(よりとも) と「年来の 知音(ちいん)」とか「甚深の知音」とある。親能が生まれた康治2年ころ、源 義朝(よしとも)は鎌倉に居り、4年後の久安3年(1147)に 熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)の娘との間に頼朝が生まれた。義朝の次子 朝長(ともなが)は波多野 義通(よしみち)の妹との間の子で、彼は相模国松田郷に居館を構えていた。親能と頼朝との交友関係は、監視つきの伊豆 流謫(りゅうてき)中は不自然で、それ以前の幼少時代の事であろうという(湯山学説)。これに対し瀬野精一郎は流人時代と主張する。
 親能はいずれのころからか上京、中納言源 雅頼(まさより)の 家人(けにん)となり、 後白河院(ごしらかわいん)の 院仕(いんじ)として仕えていた。治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の4か月後の12月4日夜半、宿直中の主雅頼の家から逐電した。頼朝との親交関係を探知して、平 時忠(ときただ)の命令で讃岐少将 時実(ときざね)を派遣して親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知して、逃亡したのである。頼朝の許に走って彼を 援(たす)けたと推定するが、瀬野精一郎は確証がないと述べている。
〈平家討伐に活躍〉
 『玉葉』に、親能を「漢字を読まざる人也」と評しているのは、東国で育った生活環境が就学の便を与えなかったことを示し、これが京都の公家生活を断念し、頼朝の許に走らせた原因であろう。寿永2年(1183)彼は義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌元暦元年(1184)正月入京、旧主雅頼宅に止宿、頼朝代官として万事を奉行した。2月の 一の谷の合戦 では、 搦手(からめて) 源 義経(よしつね) 軍に属し、同月16日後白河法皇の使として、頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日平家追討軍の奉行として上洛。まことに席の温まる暇のない活躍である。同年10月公文所 吉書始(きっしょはじめ)には、大江広元が別当、 寄人(よりうど)には中原親能 藤原 行政(ゆきまさ) 藤内遠元(とうないとおもと) 甲斐四郎 大中臣秋家(おおなかとみあきいえ) 藤判官代邦通(とうのほうがんだいくにみち)が任命された。ただし9月2日平家追討のため京都を立って西下した 源 範頼(のりより) 軍には、平家追討奉行として親能も従軍しているので、それは彼の出陣中の事である。厳寒中食糧 兵船もなく進退窮した範頼軍は、 緒方 惟栄(これよし) の提供した82 艘(そう)の兵船によって渡海し、九州の平家残党を平定し文治元年(1185)4月帰京した。
〈大友能直が中原親能の養子に〉
 文治元年4月1日波多野経家が 鎮西(ちんぜい)から帰東したが、彼を中原親能の 舅(しゅうと)と記している。「 波多野系図 」によると経家の次女が中原親能の妻となっており、その妹が 近藤( 古庄(ふるしょう)) 能成(よしなり)の妻となっており、その所生が大友能直である。能直の父能成は早世したか、経済的 社会的に微力のためか、歴史の表面に出ない。こうした関係からか、頼朝の信頼 篤(あつ)い中原親能に 托(たく)するのが、武士としての将来性に最も適しているとされたのではなかろうか。能直が「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として頼朝から愛されたのは、中原親能を介せずには理解することはできない。
〈京都守護 政所(まんどころ)公事奉行 鎮西奉行〉
 文治2年(1186)京都守護に任じて上洛、建久2年(1191)政所の公事奉行に任じられた。その後 天野遠景(あまのとおかげ) が建久4〜6年(1193〜95)の間に 鎮西奉行 を解任され、その跡に中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) が任命され、その鎮西奉行職が各国 守護 職(しき) に分化し、親能は豊後 筑後 肥後の守護職を兼ねたらしい(石井進説)。正治元年(1199)頼朝が死し、政子が将軍独裁を廃し北条 時政(ときまさ)ら13人の合議制としたが、親能はその一人に選ばれた。この年、頼朝の娘三幡が死んだが、 乳夫(めのと)である彼は入道し寂忍と号した。元久元年(1204)3月、親能が「鎮西 乃具(ないぐ)(年貢)」の勘定を命じられたのは、在職の証拠ではなかろうか。ただし瀬野精一郎は、彼の鎮西奉行は職権行使の裏付けがなく、これを否定する。建永元年(1208)ころ所領 所職(しょしき)を大友能直に譲り、承元2年(1208)12月京都で死去した。
 参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 石井進『日本中世国家史の研究』 渡辺澄夫『増訂豊後大友史の研究』
[渡辺 澄夫]

[21]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時23分37秒 ) パスワード
  

大友能直の養父(養子先)の中原親能とは?

斎院次官中原親能

 中原親能について見ていこう。大江廣元と中原親能、この二人は母は違うが、父は共に藤原光能という切っても切れない関係で結びついているのである。
まず『尊卑分脈』に次のように書かれている

  按大友家文書録系図纂大友実父藤光能卿、外祖父廣季為子後復本姓
そして『平安・鎌倉人名辞典』はその『尊卑分脈』の解説のように、つぎのようにかかれていた。
『鎌倉時代前期の明法博士、中原廣季の子、「大友系図では実父を参議藤原光能とし外祖父廣季に育てられ、中原姓を継いだが後に本姓に復したと」している。頼朝に従い武家方の貴重な能吏として信任を得、元歴元年には公文所の設置に際し、その寄人に選ばれている。また在京することも多く、九条兼実の摂政就任、平家追討などで頼朝の意を受け、公家の間を奔走している。その功があって斎院次官から式部大丞、さらに文治2年、京都守護として六波羅に赴く。頼朝の三女三幡の乳母夫であったため三幡の病死で出家、承元2年12月18日66歳で京都において死亡』

 これらの記録から大江広元と中原親能は異母兄弟であったことが明らかである。大江広元の母は碩学大江匡房の孫として生まれた。匡房は源師房と共に後三条天皇の改新政治を支え、延久の荘園整理などを断行しそののち白川・堀河天皇に仕えた。その孫でもなを藤原光能の正妻となり得ず、大江家に連れて帰られた廣元は母の兄、大江維光の養子となり、その後中原廣季に再嫁した母と共に中原家に移り廣季の養子になっている。従って中原家には腹違いではあるが藤原光能の子が二人いたことになる。
 そしてその後、藤原光能は足立遠元の娘を正妻として娶り知光、光俊を生んだ。さて、明法博士でも文章博士の家系でも正妻たり得ず、武藏武士の足立遠元の娘が正妻に収まったその謂われとはナンなのであろうか。もしかしたら足立遠元の娘は関東から来たのではなく、京都のいずれかの貴顕の子女が産んだ子であるのかもしれないし、また考えようによっては遠元自身が貴顕の血を引く存在であったかもしれない。

 ところでその中原親能がいつ頃から藤原を名乗るようになったのか判らないが、寿永2年10月半ばに頼朝が木曽義仲をうつべく義経を上方へ派遣したとき、その情報は10月17日、すでに九条兼実の知るところとなり、『玉葉』に、関東勢の大将軍は九郎である、ただし「実名はまだ判らない」と書いている。11月2日になっても、「九郎御曹司」としか判らなかったが、義経の名が判ったのはその二日後で、葉室一族に連なり「丹波足立系図」に「葉室・吉田中納言、勧修寺家人々先祖」と書かれた中納言吉田経房の日記『吉記』に「頼朝舎弟、字九郎冠者、その名義経」と書かれたのが最初だった。
『玉葉』には先ほどの10月17日の記事に続いて、
11月2日「頼朝の替わりに九郎御曹司を出で立たす」11月3日「頼朝上洛決定延引、その弟九郎冠者、五千余騎を副え、上洛せしむべしと」
11月7日「次官親能(斎院次官中原)並びに頼朝弟九郎等上洛と云々」と書かれている。
 これは、源九郎冠者義経がその名を都人に知られることになった記念すべき記録であるが、ここに「次官親能、並びに頼朝弟九郎等」と有るのに注目したい。九郎は大将軍であっても都人にとって、まだその時点では未知の人である。それよりは斎院次官親能の方が都人にとって親しみもあったのであろう。

 親能は、もと源中納言入道源雅頼の家人だったのである。先にも書いたように親能は幼年の頃から相模の波多野四郎経家の許で育ち、成人してから都に上がって雅頼の家人になっていた。当然相模時代に頼朝との面識があったし、父の光能、義祖父の足立遠元を通じて、籐九郎盛長や、佐々木兄弟とのつきあいもあったであろう。当然大江広元が近く鎌倉に下ることも知っていたに違いない。
 ところが頼朝が伊豆で挙兵したときは、京都の雅頼の屋敷に潜んでいて、大騒ぎになったということである。
そう言えば雅頼も、八条院・九条家・鎌倉などに連なる人脈の一人だったのである。
 『平家物語』巻第五、物怪、のなかに次のような一文がある

源中納言雅頼卿の許に、召し使われける青侍が見たりける夢も、怖ろしかりけり。たとへば大内の神祇官とおぼしき所に、束帯正しき上・の、数多寄り合ひ給ひて、議定の様なる事のありしに、末座なる上・の、平家の方人し給ふとおぼしきを、その中よりして追つ立てらる。遙かの座上に気高げなる御宿老のましましけるが、「この日頃平家の預かり奉る節刀をば召し返いて、伊豆國の流人前右兵衛佐頼朝に賜ばうずるなり」と仰せければ、その傍に猶御宿老のましましけるが、「その後はわが孫にも賜び候へ」とぞ仰せける。青侍夢の中に、或老翁に、次第にこれを問ひ奉る。「末座なる上・の、平家の方人し給ふとおぼしきは、厳島の大明神、節刀を頼朝に賜ばうと仰せらるるは、八幡大菩薩、その後わが孫にも賜べと仰せけるは、春日の大明神、かう申す翁は武内の明神」と答へ給ふと云ふ夢を見て、覚めて後、人にこれを語る程に、入道相国漏れ聞き給ひて、雅頼卿の許へ使者を立てて、「それに夢見の青侍の候なるを賜はって、委しう尋ね候はばや」と宣ひて、遣はされたりければ、かの夢見たりける青侍、悪しかりなんとや思ひけん、やがて逐電してけり。

 ここに出てくる青侍が藤原(中原)親能だと云われているのである。まさにこの時期に親能は源雅頼の屋敷に潜んでいて、平氏の追補に逢ったことを九条兼実が『玉葉』に書いているのである。こんな所に藤原親能が登場しているのも面白いが、注目されるのは夢の問題、たかが夢とは云いながら、平の清盛が生真面目にそれを聴こうとしたところに、この時代の夢に対する人々の思いが判るのである。

『吾妻鏡』文治2年3月2日、
「今日、故前宰相光能の後室比丘尼阿光、去月使者を関東に進じ、相伝の家領丹波国栗村庄、武士の為に妨を成さるる由之を訴申す、依って早く濫吹を停止す可きの
趣仰せらると云々、
  下す 丹波国栗村庄、
武士の狼藉を停止し、元の如く崇徳院の御領と為して、年貢を備進し、領家の進止に随はしむ可き事、
右件の庄は、崇徳院の御領たる可きの由、院宣を下さるる所なり、而るに在京の武士、事を兵粮の催しに寄せ、暗に以て押領す、今に於いては、早く元の如く彼の御領として、領家の進志に随ひて、年貢所当を備進せしむ可の状件の如し、以て下す、
    文治2年3月2日」

さて、ここに云う光能後室、比丘尼阿光が果たして足立遠元の娘であるかどうかは不明である。ただ大江維光の娘が中原廣季に再嫁したと有るところから、ひとたびは光能に嫁いだのであろう、とすればその後に嫁いだ足立遠元の娘は後添い、即ち後室となるわけである。藤原光能はその日から遡る三年と五日前、即ち寿永2年2月28日に無くなっている。光能は後白河法皇の側近として、頼朝に平家追討の院宣を下すなど、大天狗と頼朝から謗られた法皇とは違って、常に親頼朝的な立場で行動した。それは云うまでもなく足立遠元との婿、舅の関係が強い絆となっていたのであろう。
 中原親能は頼朝挙兵以前から伊豆地方に縁が深いが、それは少年時代から相模の波多野家で養育されて大きくなったことが関係している。この事は天野遠景が保元の乱以前から足立遠元の猶子となり、遠景の祖父、左大臣有仁親王の伊豆の天野御厨を相続し、頼朝の近辺に居たこととも関連していたのであろう。
 このように見てくると足立遠元、その猶子遠景、婿光能、光能の子親能、同じく廣元という遠元ファミリーの一族が、頼朝挙兵以前の早くから、遠く近く頼朝を取り巻き、見守る立場に立っいたことを物語っているのである。したがって公文所寄人の性格は、足立遠元を核として、鎌倉、京都、甲斐信濃、そして武蔵、いずれにしても初期の鎌倉政権にとって非常に重要な拠点を軸として構成された人事であったことが見て取れるのである。



[22]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時27分50秒 ) パスワード
  

 
中原親能
なかはら ちかよし:1143〜1208年
鎌倉幕府・御家人

掃部頭殿(かもんのかみ殿)と日向国図田帳に記されているのが彼である。

中原親能は大江姓で平安時代の代表的な学者であった大江匡房(おおえ まさふさ:1041〜1111)の子孫であり、大江広元と兄弟ともいわれ、法律の専門家であった明法博士中原家の養子となって、中原姓を称するようになったという。

源頼朝の腹心となって大江広元とともに草創期の鎌倉幕政に参与した。その後、頼朝の代官として源義経とともに上洛し、以後、京と鎌倉幕府の間を東奔西走した。文治元年(1185)には源範頼に従って平家追討のため周防国(山口県)から豊後国(大分県)に渡り、鎮西各地を転戦している。その後は鎌倉で頼朝の側近として重用されている。その所領所職は全国に散在していた。九州だけでも日向国五ケ所のほか豊後国・筑後国(福岡県)・肥前国(佐賀・長崎県)の七国に地頭職を保有していた。これらの鎮西の所領所職は、子の中原季時や養子の大友能直に譲られている。大友氏が豊後国に有した所領所職はそれであるとされている。

[23]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時36分16秒 ) パスワード
  

三浦義継は一人娘を西相模一帯に勢力を持っていた波多野党(義朝との関わりも深かった)の一族・大友経家(大住郡大友郷)に嫁がせ、波多野氏との結びつきを強めた。

●波多野氏周辺の関係図●

 波多野経範――経秀―――秀遠―――遠義―――+―波多野義通――義常
(波多野荘司)(民部丞)(刑部丞)(筑後権守)|       (右馬允)
                       |
                       +―河村秀高―――秀清
                       |
                       | 中原氏
                       |  ‖―――――中原久経
                       |  ‖    (典膳大夫)
                       +――娘
                       |  ‖―――――源朝長
                       | 源義朝   (中宮大夫)
                       |
                       +―大友経家 
                        (大友四郎)
                          ‖――――――――娘→ →
                   三浦義継―+―娘        ‖
                  (三浦荘司)|          ‖
                        +―三浦義明  +―中原親能→===大友能直
                         (三浦介)  |(掃部頭)  (左近将監)
                                |
                          藤原光能――+―大江広元
                         (上野介)   (掃部頭)

 
[24]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時40分38秒 ) パスワード
  

名越北条氏周辺略系図(■:越後守護職)

      +―北条時房―――――娘
      |(修理大夫)    ‖―――――教時
      |          ‖    (遠江守)
・北条時政―+―北条義時 +――名越朝時 
(遠江守)  (陸奥守) | (遠江守) 
         ‖   |   ‖―――+―江馬光時―時親
         ‖―――+●大友能直娘 |(越後守)(右馬助)
         ‖   |(豊前守)  |
・比企朝宗――――娘   |       +―時章―――公時―――時家
(内舎人)        |        (尾張守)(尾張守)(美作守)
             |            
             +――極楽寺重時           
               (陸奥守)          
                 ‖―――――赤橋長時―義宗―――久時――+―守時
               平時親卿娘  (武蔵守)(駿河守)(越後守)|(相模守)       
                                     |
                                     +―登子
                                      (足利尊氏正妻)

 
[25]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時49分57秒 ) パスワード
  

奥州平泉藤原氏討伐の記録の中の●大友能直の記述の項

ここに大友左近将監能直ハ、頼朝の左右をはなれざる他にことなる近侍にて、其夜も上臥(うわぶし)して御寝所の邊に有けるが、蜜にしのび出て、宮六?{杖(けんじょう)國平と共に厚加志山を越て敵陣に攻寄、西城戸が近親の郎從佐藤三郎秀員を父子討取ぬ、此國平は長井の齋藤別當實盛が外甥(おい)也、實盛平家に属し討死するの後、囚人となり上總權介廣常に召預けらる、壽永二年の冬、頼朝喞廣常を誅せられてのち、大友式部大輔親能に預らる、しかるに武勇の譽あるによつて、子細を頼朝へ言上し、此度子息能直に附たりける、親能兼日國平に申やう、能直此度はじめて戦場におもむくの間、汝扶助を加ふべしとたのミけるによつて、昨夜國平御寝所の邊に推参(すいさん)し、能直を招き出して伴ひ、かく高名をとげにける、さてまた大城戸より落行たる歩武者(かちむしゃ)ども、國分原鞭館(こくぶんはらむちだて)に走りかへりて、厚賀志・大城戸敗軍の次第一々に告けれバ、泰衡これを聞、おとろきあはてて玉造郡高波々(たかはば)の城をさして引退き、彼城にこもりけり、


國衡最期

八月八日にハ厚賀志山を攻破られ
[26]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時50分10秒 ) パスワード
  

奥州平泉藤原氏討伐の記録の中の●大友能直の記述の項

ここに大友左近将監能直ハ、頼朝の左右をはなれざる他にことなる近侍にて、其夜も上臥(うわぶし)して御寝所の邊に有けるが、蜜にしのび出て、宮六?{杖(けんじょう)國平と共に厚加志山を越て敵陣に攻寄、西城戸が近親の郎從佐藤三郎秀員を父子討取ぬ、此國平は長井の齋藤別當實盛が外甥(おい)也、實盛平家に属し討死するの後、囚人となり上總權介廣常に召預けらる、壽永二年の冬、頼朝喞廣常を誅せられてのち、大友式部大輔親能に預らる、しかるに武勇の譽あるによつて、子細を頼朝へ言上し、此度子息能直に附たりける、親能兼日國平に申やう、能直此度はじめて戦場におもむくの間、汝扶助を加ふべしとたのミけるによつて、昨夜國平御寝所の邊に推参(すいさん)し、能直を招き出して伴ひ、かく高名をとげにける、さてまた大城戸より落行たる歩武者(かちむしゃ)ども、國分原鞭館(こくぶんはらむちだて)に走りかへりて、厚賀志・大城戸敗軍の次第一々に告けれバ、泰衡これを聞、おとろきあはてて玉造郡高波々(たかはば)の城をさして引退き、彼城にこもりけり、


國衡最期

八月八日にハ厚賀志山を攻破られ
[27]源三さんからのコメント(2001年09月03日 01時55分48秒 ) パスワード
  

曽我兄弟の仇討ち関係の大友氏に関する記述。

富士の裾野の巻狩の夜、曽我兄弟は父の敵工藤祐経を討ったが、兄十郎祐成は仁田忠常に斬られ、弟五郎時致は捕えられ、翌日竜ノ口の刑場で処刑された。兄十郎祐成の恋人虎御前は世を儚み、源頼朝の庶子大友能直を頼って豊後に下向し、豊後の各地に宝篋印塔を建てて恋人十郎祐成の菩提を弔った。「虎ヶ塔」というのがその塔であるという。」
ここに云うところの「曽我の仇討」は建久四年(一一九三)の事であり、
 (*大友能直について大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館刊行「大分県内石造文化財の現状と課題」の中では「通説では、大友氏の豊後下向は三代頼泰の時で、文永年間頃とされる」とあるが、
「神武天皇実在論 林房雄著(光文社)」では「大友能直は薩摩島津家の祖先とともに、源頼朝の庶子であり、豊前豊後両国の最初の国主に任ぜられた、今から約八百年前の人物である。深く学問を好み、とくに國史に興味をいだき、古老を招いて民間の伝承を聞き、埋もれた古文書を探り、家臣の中の学者秀才を集めて史局のごときものをつくって、「上記(うえつぶみ)」四十数巻を編集し、自ら序文を書いた。家臣の学者の中には大分出身の彫刻家故朝倉文夫氏の祖先、朝倉入道舜臣の名もあり、・・・・・・・・・・・。大友能直公の墓は、現在の大分県竹田市から二里ほど離れた村の廃寺に残っている。」とある。どちらが正しいかは判らない。)
 (*「上記(うえつふみ)」原本は四十数巻であったが、今は散逸して二十数巻となり、大分県立図書館に現存しているとのこと。)
[28]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時01分44秒 ) パスワード
  

曽我兄弟の仇討ち関係の大友能直の記述2

曽我の仇討ち

曽我兄弟の父、河津三郎祐泰(すけやす)が伊豆の伊東で工藤祐経(すけつね)の従者によって暗殺されたのは、安元二年(1176) 十月、伊豆奥野で行われた狩の帰途でした。暗殺の背景には、祐泰の父伊東祐親と工藤祐経との間に伊豆久須美荘をめぐる所領争いがあったといいます。

兄の曽我十郎祐成(すけなり)、弟の曽我五郎時致(ときむね)は武士道の 面目にかけて仇討の達成を念願しました。

兄弟の母は、身辺の平穏を望み、わが子に仇討ちの志を捨てさせようとしましたが、兄弟の父への思慕と、仇祐経に対する憎しみは強く、兄弟は仇討ちの初志を貫く心づもりでした。

今から約800年前の建久4年(1193)5月28日、源頼朝が富士山麓を舞台に大巻狩を催し最後の狩場として白糸の滝付近に陣を構えました。工藤祐経の陣は音止の滝の東方にあり、兄弟はこの夜、松明を手に幾つもの木戸に防げられながらも、ついに仇討ちを成し遂げました。

その時の様子をつぎのように伝 えています。
「廿八日、癸巳。小雨降る。日中以降霽(は)る。子の剋(きざみ)、故伊東次郎祐親(すけちか)法師が孫子、曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね)、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門尉祐経を殺戮(さつりく)す」

兄弟は駆けつけた部下たちと渡り合い、兄十郎は朝比奈四郎に斬殺され、弟五郎は頼朝の御前目指して奔参しましたが●大友能直(よしなお)に制せられ、小舎人五郎丸に捕らえられてしまいました。

翌29日。五郎に対する尋問が行われ、夜討ちの本意をただしたところ五郎は将軍の面前で直に言上したいと言いはり、許されてつぎのように述べました。

「祐経を討つ事父の尸骸(しがい)の恥を雪(すす)がんがために、ついに身の鬱憤の志を露はしをはんぬ。祐成九歳、時到七歳の年より以降(このかた)、しきりに会稽(かいけい)の存念を挿(はさ)み、片時も忘るることなし、しかうしてつひにこれを果たす。」と。

ついで五郎は、拝謁を遂げた後は面前で自害するつもりだったといい、皆を驚かせました。
兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣でしたので、その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆でありました。従って仇討ち成就は死を覚悟しての行動であったのです。
頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首による処刑を申し渡しました。

現在も工藤祐経の墓や兄弟が密談をしたといわれる曽我の隠れ岩があり、さらに、国道139号線を東へ入った所には、源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるためにつくられた曽我八幡社があります。 
[29]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時07分58秒 ) パスワード
  

奥州藤原氏との戦い、阿津賀志山の戦いから。

また親能(中原)が猶子左近(●大友)将監能直は、当時殊なる近仕として、

常に御座右に候ず。しかるに親能兼日に宮六イ/兼仗国平を招き、

談じて云はく、今度能直戦場に赴くの初めなり。

汝扶持を加へて合戦せしむべしてへり。よって国平固くその約を守り、

去夜ひそかに二品の御寝所の辺に推参し、能直を喚び出し、

これを相具して阿津賀志山を越え、攻め戦ふの間、

佐藤三郎秀員父子を討ち取りをはんぬ。

この宮六は、長井斉藤別当実盛が外甥なり。

実盛平家に属し、滅亡の後、囚人となる。

始め上総権介廣常(平)に召し預けられ、廣常誅戮せらるるの後、

また親能に預けらる。しかるに勇敢の誉あるによって、

親能子細を申して能直に付せしむと云々。
[30]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時18分17秒 ) パスワード
  

平貞能の四人の娘の一人が波多野(大友)四郎経家の養女になり、このひとが
大友能直の母の記述が・・・。

大橋家伝

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大橋の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして一人を●大友四郎経家に下された。これは豊前守●大友能直の母である。←(ほんとなの!)

 その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。
[31]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時22分20秒 ) パスワード
  

高野山の大友能直ゆかりのお寺

院名 本覚院 所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山618
情 報  本覚院は後鳥羽院の建久年間(1190年)行空上人が女流歌人小侍従の請によって登山し、弘仁年中弘法大師が自ら六地蔵菩薩を彫刻して安置せられた場所(現在の本覚院境内)に宿して読経していたところ、地蔵菩薩が出現し光を放って「汝ここに住せよ」と告げられたのである。行空は歓喜して遂に講坊を十二院建立し、常に法華経を講じていたので「講坊」と称せられた。第百十二代東山天皇が講坊を小侍従の戒名に因んで「本覚院」と改め今日に至っている。
 古来より伏見宮家菩提所でありまた源頼朝の子息である●大友一法師丸以来十九代、尾張徳川、臼杵稲葉、大洲加藤、岸和田岡部等の諸侯の帰依が厚く、特に稲葉家との縁により歴代住職は稲葉の姓を名乗ることになっている。

宝物
  弘法大師作愛染明王
  恵果和尚(空海の師 真言第七祖)自画像(重要文化財)
                         
[32]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時25分24秒 ) パスワード
  

大友氏・立花氏(日本史小百科 家系、豊田武著、東京堂出版)
鎌倉時代以来の豊後の名門
 大友氏は豊後国の守護大名である。初代能直(よしなお)は、源頼朝の落胤といわれる。実際には、相模国大住郡古庄郷司近藤能成の子である。建久元年(1190)当時、『吾妻鏡』に三か所にわたって「古庄左近将監能直」とあるのが、その証拠である。母は同じ相模の足下郡大友郷の郷司で、藤原秀郷の後裔波多野経家の娘であり、その姉の夫は京都の下級公家で、京都から下って頼朝に仕え、天野遠景に代って鎮西奉行となった中原親能である。能直はこの親能の猶子(ゆうし)となり、やがて頼朝の有力な御家人となった。『吾妻鏡』には、頼朝の「無双寵仁、殊に近仕をなし、常に御左右に候す」とある。能直は本領の大友郷を母から譲られ、長じて豊後・筑後の守護職と、鎮西奉行に任ぜられて、これを子孫に伝えた。大友氏の豊後国への下向は、蒙吉襲来により、幕府から鎮西所領への下向が、東国の御家人に命ぜられた文永年問(1264-74)、三代頼泰の時と考えられる。ニ代親秀・三代頼泰の頃は、惣領制のもとに庶子が九州各地の所領と分割譲与されたときで、詫磨・志賀・田原・一万田・戸次をはじめとして、元吉・鷹尾・狭間などの庶子家が分出し、一族は豊後を中心に、肥前・豊前・筑後にまで広がった。南北朝期、大友氏では庶子の大友貞順(さだきよ)だけが南朝方についたほか一貫して足利氏に属し、動乱に乗じて寺社領をあわせ、少弐・菊池氏などの諸豪族と戦って勢力をのぱし、北九州の有力な守護大名に成長した。延文四年(1359)足利義詮は、大友氏の惣領権を保証し、大友名字は能直以来、惣領の号であるから、庶子がかってに自称することは甚だ理由がない。早く自由の儀をとどめて、先例に任すべしと申し渡している(立花家蔵大友文書)。こうして大友宗家は、領国内においてしだいに一族を家臣として統御し、有力土豪を被官化して領国支配の体制を整えていったが、のち両流に分れ、交代で家督を継ぐことになった。これに中国地方の大内氏ががらみ、一族間の争いが続いた。しかし大友二十代の義鑑(よしあき)が出て、大内義隆とも和議が成立し、その子義鎮(宗麟)のときには、大友氏の全盛期を迎えた。永禄二年(1559)には、豊前・筑前両国の守護にも補任され、九州九か国守講中六か国を兼有、さらに九州探題にも補任され、龍造寺氏・島津氏と九州を三分する覇権を確立した。彼はキリシタンに帰依し、天正十年(1582)、有馬・大村両氏とともに、わが国最初の遣欧使節を派遣した。宗麟は晩年、子の義統(よしむね)に家督を譲り、なお攻務をみたが、やがて保護したキリシタンと仏教徒との対立や、一族家臣の離反などにあい、そのカはしだいに哀えはじめ、本国豊後を島津氏に奪われ、不遇のうちに没した。義統は天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐に従い、豊後一国を安堵されたが、文禄二年(1593)朝鮮在陣中の失敗が秀吉の怒りにふれて改易された。関ケ原の戦い(1600)では豊臣方に属して豊後で挙兵したが、黒田氏に敗れ、義統は江戸に幽閉された。しかしその子孫は江戸幕府に仕えて、高家に列せられ、明治維新に及んだ。
 立花氏は大友氏の一族で、大友氏泰の庶兄貞載(さだとし)が、南北朝期に筑前国粕星郡立花城に拠ったのに始まる。豊臣氏のとき、宗茂(むねしげ)が出て、大名として筑後国柳川を領し、小田原征伐や文禄・慶長の役に活耀、関ケ原の戦いで豊臣氏についたため、陸奥棚倉に滅封されたが、元和六年(1620)柳川に復活、十二万石を領した。ついで、島原の乱(1637)に活躍し、徳川将軍の相伴衆となった。

[33]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時27分27秒 ) パスワード
  

◆別府温泉の歴史

別府温泉は、8世紀の初めに編まえた「伊予国風土記」に「神代の昔、少彦名の命と大国主の命の二柱が伊予の国を訪れた時、少彦名の命が病を得て卒倒し、嘆き悲しんだ大国主の命が、豊後水道の海底に長いパイプを敷いて、別府の温泉を道後へ運び、少彦名の命を湯浴みさせ、病気が回復した」と記されています。豊後風土記にも赤湯泉(血の池地獄)などの記述があります。
鎌倉時代は、●大友頼泰が元寇の役で傷を負った武士を癒すため、別府、鉄輪、浜脇などに療養所をつくったとの記録が残されています。
江戸時代・元禄7年には、医学者貝原益軒が残した「豊国紀行」にも温泉場の賑わいが記述されています。明治にはいると、「上総堀り」による掘削技術が進み、別府温泉は一気に発展し、明治の後期でも約1,000孔の掘削井があったと言われています。昭和においては、戦後の社会情勢の安定化や経済復興に伴い、温泉開発の勢いが増し、昭和30年代から40年代は急激な温泉開発の時代でありました。
[34]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時30分48秒 ) パスワード
  

大友21代大友義鎮(宗麟)

大友 宗麟  亨録三(1530)年〜天正一五(1587)年
大友家は鎌倉幕府を興した源頼朝の庶流らしく、れっきとした源氏である。鎌倉時代に豊後守護として、九州入りしている。さて宗麟であるが、家督を継ぐのに一苦労があった。実父である義鑑が、側室の子に家督を譲ろうと考える様になった。しかし「二階段崩れの乱」にて義鑑は瀕死の重傷を負うこととなり、宗麟(当時は義鎮)が家督を譲る事を了承する結果となる。その後の宗麟は、大内義隆が陶晴隆によって討たれると、北九州の平定に掛かる。宗麟は名実供のに北九州の支配者となった。しかし海外貿易を優先するためか、キリシタン保護に積極的であり、自らも洗礼を受けることとなる。宗麟が隠居してから2年後の1578年、九州南部の統治者島津氏が北上してきた。宗麟はキリシタン信徒を従え、みずから出陣するが「耳川の合戦」にて惨敗する事となり、大友家の存続に危機が訪れる。宗麟は中央での覇者である豊臣秀吉に援助をこうが、逆に秀吉の九州進出の良い口実となってしまったことは言うまでもない。その後北九州を統治していた大友家は、豊後一国に治められる。
[35]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時44分44秒 ) パスワード
  

大友能直の出自は源頼朝の庶子とも藤原氏ともいわれている。彼は鎌倉幕府よ
り豊後守護職に任じられているが、能直自身は現地に着任しなかったといわれて
いる。
おおともよしなお●大友能直 一一七二―一二二三 鎌倉時代前期の有力御家人。
豊後の守護として下向し、子孫代々同国に勢力をはった。幼名一法師丸。豊前守、
従五位下。法名勝光寺殿二豊太守能蓮大禅定門。承安二年(一一七二)正月三日
生。出自については異説があり、諸系図では源頼朝の庶子と伝える。つまり波多
野(大友)四郎経家の三女利根局が頼朝に仕え、その寵愛をうけて懐妊、そのま
ま近藤能成の妻となって能直を生んだというのであるが、一方近藤能成こそ実父
であるという説も強い。すなわち、波多野四郎経家の娘が、中原季広の子である
親能の妻となり、その妹は近藤景頼の子能成の妻となって能直を生んだ。そこで
母方の縁で能直は中原親能の養子となり、相模大友郷司職が大友氏の所領として
伝えられていることから、経家はこの地を女婿親能に与え、親能から能直に伝え
たのであろうというのである。近藤能成は相模古庄郷司であり、古庄姓を称して
おり、大友郷とも近接し、地方小豪族間の婚姻として理解されるので、後説に説
得力があるといえよう。文治四年(一一八八)十七歳で元服、同五年頼朝の奥州
藤原泰衡征伐に従い、建久四年(一一九三)富士裾野の巻狩で、曾我兄弟の仇討
の騒ぎの時に、頼朝の身辺を守るなど信頼を得、同七年正月十一日豊前・豊後両
国守護職兼鎮西奉行、六月十一日豊後国速見郡浜脇浦から入部、承元元年(一二
〇七)ごろ筑後守護となっている。しかしこの間鎌倉と京都をしきりに往来し、
建保元年(一二一三)和田義盛の乱の時も京都六波羅に滞在していた。豊後その
他九州には守護代を配していたようであるが、貞応二年(一二二三)十一月二十
七日京都にて死去。五十二歳。廟所は大分県大野郡大野町藤北にある。死に先立
ち所領所職を妻深妙ならびに諸子に譲った。大友氏が豊後大野荘を中心に勢力を
伸ばす基盤がここにつくられた。

 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第二巻・「大友能直」項
[36]源三さんからのコメント(2001年09月03日 02時52分05秒 ) パスワード
  

元寇に際し活躍

大友頼泰(1222〜1300.79歳)

(おおともよりやす)
 鎌倉時代の武将。父は大友親秀。母は三浦家連女。初名泰直。従五位上。式部大輔・出羽守・丹後守。嘉禎二年(1326)家督。豊後守護・鎮西奉行として文永・弘安両役に際し、まず文永九年(1272)の初めに豊後に下向、鎮西の地頭・御家人を少弐氏とともに指揮した。これ以後大友氏は相模大友郷の本貫から豊後に移住、土着し、豊後の豪族的領主としての性格を強めた。法名は道忍。

(新人物往来社『鎌倉・室町人名事典』外山幹夫氏)
[37]源三さんからのコメント(2001年09月03日 03時28分47秒 ) パスワード
  

源氏太刀−大友家伝来

http://www.daikakuji.or.jp/bunkazai/kougei/tachi.htm
[38]服部 明子さんからのコメント(2001年09月03日 10時31分23秒 ) パスワード
  

大覚寺にあるのですか。

大覚寺は今では時代劇の舞台のお寺だけど
由緒あるお寺に凄い刀が納められていたのですねえ。
[39]源三さんからのコメント(2001年09月04日 07時01分39秒 ) パスワード
  

・(相模国発祥)豊後大友氏ゆかりの八幡朝見神社

http://www.coara.or.jp/~yuki/beppu/muramatu/beppu032.htm

・豊後大友氏ゆかりの八幡宮


http://www.jhs.oita-u.ac.jp/his/yusu.htm
[40]源三さんからのコメント(2001年09月04日 07時30分07秒 ) パスワード
  

●初代・大友能直が源頼朝から拝領した大友家伝来の刀を
大友21代宗麟(義鎮)が豊臣秀吉に差し出す。

(これは前述の大覚寺の源満仲以来の源家の刀とは別のもの)
↑ ↑源頼光、源頼信(河内源氏祖)の父←源義家、頼朝、足利先祖。 清和源氏の祖・源経基(経基王)の子。

大友VS島津の戦,秀吉が調停に 宗麟と秀吉 大阪城で会見  

秀吉を頼みとして天正14年(1586年)宗麟は大阪城にて島津征伐を請うた。秀吉は弟の羽柴秀長,
前田利家らをずらりと並べ宗麟に謁見した。又千利休に茶の接待などを命じている。そして,
自ら大阪城内を案内したりして天守閣では親しく宗麟の手をとり肩を組んだりして宗麟に
いたりつくせりのことをした。これより先に宗麟は大友家の名宝を秀吉に献上している。その一つは★「吉光お腰物骨喰」(
ほねばみ)(★源頼朝から大友家初代が拝領した物)この★名刀は現在京都の豊国神社に保存されている。現在大阪城にある
お茶の「金屋の御座敷」(復元したもの)も案内されて宗麟は最高の名誉と面目の至りであったと
大友家文書の記録がある。秀 吉は宗麟の頼みに答えて翌15年大軍をもって九州に出陣した。

大砲で島津軍を撃退  
島津軍が豊後に侵入してくると、宗麟は領民を臼杵の丹生城にいれ保護した。城を囲まれて宗麟は南蛮製の大砲(国崩しと言われ、現在は東京都の靖国神社にある、レプリカを大分市歴史歴史料館)を島津軍に打ち込んだ。一貫目もある玉は天地を振動させて島津軍を殺傷した。これが日本最初の大砲の実戦使用とされる。
[41]源三さんからのコメント(2001年09月04日 07時38分21秒 ) パスワード
  

服部さん、大覚寺の刀といい豐国神社の刀といい今回いい発見ができました!
柳川の立花博物館のものといい近いうちに見に行きたいと思います・・・。
↑初代・大友能直の源頼朝拝領の「下黒の旗」
先の吉光の短刀は足利尊氏拝領の記述が?
また調べておきます。
[42]源三さんからのコメント(2001年12月11日 06時48分57秒 ) パスワード
  

●波多野(大友)四郎経家は三浦義継の一人娘を妻とし実子・実秀がいたが子がなかったので、外孫の能直に本領の相模大友郷を相伝させた。中原親能はその甥の能直を養子にしたのである。母方の相模国で成人した親能は、頼朝のもとで政所別当を勤めた大江広元と兄弟で、幕府の創業期に大きな働きをした。能直の祖先・則明は源頼義の郎従で前九年の役で活躍した。


●大河ドラマの名セリフより

大河ドラマ『毛利元就』より ナレーション・この頃(毛利)隆元と(小早川)隆景
は大友義鎮傘下にある門司城を攻めるため下関に本陣を構えていました。
吉川元春・「九州攻めの兄上と隆景いかなる様子でありましょうな!?大友
は当家の牙を抜かんとやっきになっておりますゆえ兄上とて楽ないくさではご
ざいますまい!」
(毛利)元就★「元春よ!わしは不思議でならぬ!安芸の国人であった毛利
が今では九州随一と言われる大友にまで敵視されておる。あの頃、毛利な
ど誰の目の中にも入っておらぬ敵とも思うてはもらえなんだ。それが今では
あの大友までがと思うとわしゃ不思議でならんのうー!元春よ!わしは、の
、人よりすぐれた男でもないのに一代でこうなるんだぞ!夢のごとき話がまこ
とにあるのじゃから世の中というものわからぬものじゃのー!ウッ、フッ、フッ、
フッ・・・。」
→(まことに下剋上武士・毛利元就をあらわしたセリフだと思いますが皆さん
はどうでしょうか?)


●(現在・大分県日出町に住んだ大友旗下の武将たち。)

【留意】この頁は大友氏が盛んなりし室町期のはなしです。

南北朝以降は、郷土日出町のあちこちにある残った土地を、大友氏は旗下の諸将に宛行
った(あておこなう=宛がう事)ようです.ですから、辻間、藤原、大神等に大友惣領家の家来
衆が居住しておりました.また、中世の土地制度は本当に複雑で、土地支配が地頭・田所職・
公文等々入り乱れておりまして、その中に他の諸将の配下が混在居住しておったようです。
河野氏(こうの)・伊東氏・広岡氏・阿南氏・佐藤氏・河内氏が見られます。

・速見郡史から転記。

河野氏
【河野氏】はもとは越智をなのっていたそうです.伊予の国の河野氏より出た子孫と伝えられ、南北朝時代の騒乱で豊後に下り、大神郷藤原に住み着いたのだそうです。亨徳の頃に「刑部入道大覚」の名が見られ、井手八幡の大宮司を勤めていたとも伝えられています.更に、文禄の頃には「河野伝兵衛入道覚為」の名がみられています.高麗との戦いにも名前が出ています.


伊東氏
【伊東氏】大神郷藤原に住み、「伊東八郎祐益」(後に鎮綱)は大友氏の命により、種子島に渡り、鉄砲製作鍛冶の法を学んで帰り、大友氏の鉄砲作りに従事しました.そのため、「豊後鉄砲鍛冶の租」といわれたそうです.祐益の弟も鉄砲鍛冶に勤め、兄弟で東の鍛冶と西の鍛冶のニ家に分かれたそうです.
大友氏が滅びてからは、鍛治師の甚介は山香の鶴成に移り住んだそうです.西鍛冶は江戸期になって日出に移り、木下氏に仕えたそうです.(伊東氏については藤原村で詳しく説明したい) 
                   
阿南氏
【阿南氏】阿南氏は大神惟基(これもと)の次男、阿南次郎惟季の子孫.惟季が大神の郷司になってからは、これより子孫代々田所職を務めたそうです.


広岡氏
 廣岡氏は紀氏より出た氏で、代々「赤松村」の地頭でした.元亀の頃には「廣岡和泉守」という名前が出ています.その子が「生地玄蕃丞親安」と言い、二人の子供がありました。生地嘉右衛門と木村紀伊守鎮秀正室.嘉右衛門には3子があり、(長男は茂右衛門・次男は三郎左衛門で稲光家を継ぐ・長女は野原村正野原氏に嫁ぐ)


★渡辺氏
渡邊氏は仁明天皇の五代の孫・渡邊源五綱の子孫と言われ、足利直義に仕えていたが、その子孫文和・延文の頃、豊後の大友氏に仕え、海部郡(あまべ)中村70町・速見郡真那井50町賜り、真那井に城を築きました.長門守守親の頃、大友氏に背くの聞こえあって大友親著は木付氏に攻めさせました。(詳しくは他の頁にて述べています)この時、中村の土地没収されたり、安堵されたりして、後に五家に分かれて、この地の地頭をつとめる.


★河内氏・佐藤氏
河内氏は大友氏に仕え、殿中衆のひとりだったそうです.佐藤氏は、奥佐藤氏の出身で佐藤忠信の曽孫「縫殿助忠直」建治2年、豊後に下り大友親時に仕える.大神郷の久保に住んでいました.譫井佐藤はその末裔なんだそうです.


その他
の大友氏の士で大神
郷に所領する諸氏
帯刀・大津留・堂園・白仁・天徳寺・工藤・富松・永松・上尾・麻生
・立石・木付・寺澤の名がみられる。




・500年前に居住していた武将
話はちょっと古いんでございますが、今から550年前の室町時代のことです.辻間村には大友氏の家来衆がたくさん住んでございました.城内家文書の中に、下のような文書がみられました.大変に興味がございましたので書き上げてみました.大友氏が武将に与えた名主職等記録書です.

 もともと、辻間村は鎌倉期には幕府の北条氏が地頭職でした.しかし、幕府が滅び、南北朝期になると、地頭職は大友庶家の『田原氏能』に与えられていました。更に、応永29年(1422年)には大友親著は、この時代の地頭職『田原親幸』の地頭職を安堵しています.ですから、この頃の辻間は大友氏一族の完全支配地だったのです.

辻間は大友給金家臣の住宅団地

資料の白仁氏は辻間の是次名の名主職(みょうしゅしょく)に命じられ、「惟高」は日出荘公文職の津島惟高と想像されます.為直は分かりませんが、日出荘の荘官ではないかと思われています。と速見郡史にかかれています.この文書の応仁元年とあるのは応仁の乱(室町時代)おこった年です.、この乱は、それから10年ほど続くと言う大変な時代でした.室町幕府もこれを境に衰退していき、やがて戦国期にはいっていきます.
 資料の中の「御意のごとく、小作所自作候こそ、御奉公のたよりになる・・・」に注目してみましょう.兵農分離がまだ完全に行われてない為、耕作する武士、それが主への奉公につながる・・・と述べているのに注目すべきでしょう.半農半兵がまだ続いている時代だったようです.完全に分離するのは秀吉の「刀狩」だといわれています.
 辻間に大友氏の家来に名主職が与えられ、次々と送られてきます。まさに、『大友武将の住宅団地化』していきます。上の資料の他に次ぎのような人物が辻間に住んでいました。




  清原氏とは

 豊後では鎌倉期に「玖珠郡」一帯に勢力を持った武士団、清原氏がよく知られています.『豊後清原氏』と呼ばれ、その祖は「清原正高」(都の貴族の末裔)という人物.由あって、この地の客人となっていました.横笛の妙手の彼を慕う、「小松女院」は、はるか都より尋ね来て、正高が豪族の婿養子になり、子供まである事を知り、「三日月の滝」に身を投じて死んでいったと言う伝説の人物.また、宇佐地方の地頭36人衆の中にも清原系松木●原口等の名が出ています.

 しかし、何と言っても、東北の清原氏が有名です.天武天皇の流れをくむ一族と伝えられ、前九年の役(1051年〜)で安倍氏を討つのに活躍したのは清原氏、後三年の役では清原同族どうしの争いに源氏(義家)に介入され、滅ぼされます.しかし、安倍氏の血を引き、清原氏に育てられた『清原清衡(きよひら)』が生き残り、平泉を中心に勢力を伸ばしていきます.やがて、東北の藤原三代を築きます.彼こそ、中尊寺の金色堂で有名な藤原清衡でした.
[43]服部 明子さんからのコメント(2001年12月11日 12時17分19秒 ) パスワード
  

名門・波多野氏はなかなかややこしいんですねぇ。
妻に同じく名門・三浦氏より迎えていたのですか。

戦国時代明智と交渉した波多野兄弟も一族でしょうか?
織田信長が波多野兄弟の命乞いを認めなかったために明智の伯母が殺された
とも聞きますが。

同じ九州の名門同士ということで
松田聖子さんと歯医者の波多野さんはもともとご縁があったのですね。
[44]岩永正人さんからのコメント(2009年03月07日 21時01分40秒 ) パスワード

比企氏は秀郷流と聞いていましたが、金剛寺比企系図にはその源流は佐伯 藤原改姓 波多野にあるとあります。

佐伯経範 藤改姓経秀 秀遠 遠義 義通 義常
              遠光 遠泰 遠宗 朝宗
                      =能員

経範は鎮守府軍監 経秀が相模波多野荘を賜ったとあります。秀遠の子に遠光が比企祖となっています。波多野氏ならば、頼朝の乳母を出すのも当然ですね。

これについて、詳細をお知らせください。

 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.08 by Rapha. WEB design Rapha.