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 投稿番号:100130 投稿日:2001年06月12日 23時19分16秒  パスワード
 お名前:源三
肥前・筑後の平家落人伝説、他

コメントの種類 :人物  パスワード

肥前・筑後の平家落人話をこれから、書いていきたいと思います。

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[1]堤源三さんからのコメント(2001年06月12日 23時44分26秒 ) パスワード
  

九州の落人伝説
http://www.google.com/search?q=cache :kukTraH-4us:www.kyu-teikyo.ac.jp/~nakai/hkom.htm+%90l%8Bg+%92%E7&hl=ja
平家の落人
http://www.slis.keio.ac.jp/~baku/no_1/05nkt03.html
[2]源三さんからのコメント(2001年06月12日 23時53分52秒 ) パスワード
  

上の上のhpのアドレス間違い。以下の通りです。
http://www.kyu-teikyo.ac.jp/~nakai/hkom.htm
平家落人伝説1、柳川
http://www.kyu-teikyo.ac.jp/~nakai/heike.htm
平家落人伝説2、高田
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年06月13日 10時58分19秒 ) パスワード
  

凄い量ですね。
一応目を通しましたが
頭の中がボォ〜ッとしています。

少しずつ暇にあかせて読み直します。



仲井さんにお仲間あり:「彦熱」のnyaoさんが自転車野郎です。
[4]源三さんからのコメント(2001年06月20日 11時33分24秒 ) パスワード
  

1●佐賀市重要無形文化財 小松の浮立(ふりゅう)

所在地 佐賀市蓮池町小松 保持者 小松浮立保存会 指定年月日 昭和四十二年二月十
一日
蓮池町の中央の田圃の一角に小さなお社が、木立に取り囲まれてぽつりと建っている
。入り口には鳥居も立派なものが建っており、その鳥居の東側に二個の力石が転がっ
ている。人通りは滅多にないので、町民でここに社があると気付く者もあまりない。
これが古老の話に伝えられた、祭神に平重盛卿を祭った小松神社である。
重盛は小松内大臣とも云われ、今から八百年程前、当時の日本の政治を左右していた
平氏のなかで人徳高く、父、平清盛でさえ一目おく武将であった。
寿永四年の春、栄華を誇った平家一門も、源義経の急追に、あえなく壇ノ浦の海のも
くずと消えたが、生き残った者が数船にわかれ、海岸づたいに南下し、九州の山々に
さまよい逃亡を続け、永い日数をかけて一部が筑後川沿を下り、今の佐賀県蓮池町に
来り土着し、永住の地と定めた。そして荒れはてていた田地を開拓し、源頼朝の目を
のがれていたが、永久元年(1219)源氏が滅んだので、土着していた人々は人徳者の
平重盛を慕い、社を建立し小松神社と名づけて心のよりどころとした。地名もこの時
代の前後に誰れ云うとなく重盛の別名をつけ小松の郷と、となえられた。
小松神社は落人達の信仰の的となり、重盛卿をなぐさめ農耕の暇の春秋二回を選び、
、神前で奉納した踊りが小松浮立のおこりである。しかし小松浮立の根源はここで新
しく発祥したものではなく、落人達が、京、浪華、兵庫で栄華をきわめていた時代、
平清盛が外国(今の中国)との貿易を盛んにするため、港を兵庫に定め、これを大々
的に築港した。この基礎工事の際、海が荒れてどうしても工事がはかどらなかった。
清盛はこれは海神の怒りにふれているとみなし、部下に命じ、当時の楽器、太鼓や鉦
をはやし立て人夫を督励し海神の怒りをなだめた。その効果はたちまち現れて海神の
怒りはとけ、海も鏡の如くなった。築港はめでたく完成し、唐船は和船と共に、出船
千叟、入船千叟の殷賑をきわめた。その後平家一門の人々は、築島築港の音頭を、館
の建設や住居の新築に演奏し、無事完成を祈するのがならわしとなった。これが小松
浮立の源となったものである。
佐賀市蓮池町の浮立は築島浮立の分かれで、落人達が昔をしのんで小松神社に奉納し
たのが小松浮立の始まりである。この浮立には楽器に笛がなく、一名笛なし浮立と云
われる。これは一の谷の戦に、源氏の急襲に完敗した平家一門が船で沖にのがれた時
、十六才の若武者平敦盛が日頃愛用していた笛を館に忘れ、取りにかえり再び船に引
きかえした際、熊谷次郎直実という源氏の荒武者に呼び止められ、討死にしたので、
浮立演奏の時に、笛を遠慮し楽器に入れずにそのまま今日に受けついでいるのである
。小松部落では、今でも家の新築の際は小松浮立が演奏される。
(復刻 佐賀市の文化財、非売品より抜粋)
なお、佐賀市蓮池町は佐賀市といっても佐賀市を正方形にたとえると、その東南にコ
ブのようにむりやりくっつけたほどの小さな町です。尚、蓮池町小松地区はその東端
の筑後川沿いです。尚、ここ蓮池は南北朝以来、源頼朝の重臣、八田知家の後裔、小
田氏が代々領していました。私の家に小田家から妻を迎えたりした仲はよかったよう
です。江戸時代は、鍋島支藩五万五千石の城下町でした。今は陣屋跡の掘割ともども
奇麗な公園になっています。

ところで、服部さんがこのサイトをなさってるのでしょうか?スレッド、投稿の量
が凄いですね、何か平安末期が御専門なのでしょうか?語られてる内容が濃く、高尚
なのでびっくりしております、その博学さ、女性でこれほどディ−プに歴史を語られる
方って珍しいんじゃないでしょうか?ちょっと私の周りにはいません・・。よく幕末
好き、新選組命沖田様って方はたくさんいられますけど、平家物語とは?
何か女流漫画家のかたがこの時代題材にして作品を書かれたりして?その影響なの
でしょうか?うーん不思議?あっそうだ、皆さんの全スレッドコピーして読んでおり
ます。とにかく私かこの時代のこととくに平家サイドの歴史まったく詳しくありませ
ん。勉強させて頂いております。それと、それと、服部さんのスレッド読んでおりま
すと自家や全国の服部姓のこと探ってらっしゃるみたいですね、私も二三こころあた
りの話もっていますので、そちらのほうも書いていきたいとおもいます。
服部様皆様こんごともよろしくお願いします。 堤貞之・・・。
http://www.city.saga.saga.jp/doc/9a9c27f8ce45443e4925687400175761.html

佐賀市無形重要文化財、小松浮立のページです。
今日は、一日休みがとれましたので書き込みさせていただいてます。




[5]服部 明子さんからのコメント(2001年06月20日 13時22分21秒 ) パスワード
  

ご紹介ありがとうございました。

佐賀市重要無形民俗文化財


小松の浮立
所在地/佐賀市蓮池町大字小松
指定年月日/昭和42年2月11日

私にとっては佐賀って特別な所です。
小学校の時のクラスメートが東松浦郡鎮西町に引っ越して行ったり
最近の友人は「後藤新平」の家のすぐXなんです。
2人とも、これで郵便物が届くんですよ。便利です。
[6]源三さんからのコメント(2001年12月11日 06時31分12秒 ) パスワード
  


●伝説・踊り念仏の由来

筑後国三潴郡の江上の里に「吸い殺し田」という所があります。どうしてそんな恐ろ
しい名前が残っているのでしょう。今から七百年も昔、源氏と平家が家門の興亡を
賭けて、壇ノ浦という所で最後の決戦をしました。始めは勝ち戦だった平家も、潮の
流れに乗った源氏の激しい攻撃に敗れて、哀れにも幼い安徳天皇を始め一族残ら
ず波に沈んで亡びました。
平家の陣中に★悪七兵衛景清(平景清)という侍大将がいました。全盛の頃は都を
警備する重い役目の武将で、武勇の誉れ高い豪傑でした。壇ノ浦でも大長刀(なぎ
なた)を水車の様に振り回して、まるで鬼神の様な奮戦をしましたが、流れ矢に眼を
射抜かれてドッと小舟の中に倒れ気を失いました。
栄枯盛衰は世の習いとはいえ、哀れにもはかない平家の末路を悼む声がここ江上
の里にもささやかれる頃、有明の海から筑後川をさかのぼって、筒江の葭野(あし)
に水浸しの小舟が流れ着きました。その中には盲目となった景清と郎党の★堺の
平太が、人目を忍んで乗っていました。
戦に勝った源氏は平家の落ち武者を捕らえる為に、那須の大八を大将に大勢の追手
を差し向けました。
景清は今はこれまでと覚悟を決めて、切腹しようとしましたが、郎党の平太が、「この
場は私が身代わりになって防ぎますから、これを着て逃げて下さい。」といってぼろぼ
ろの乞食の着物を差し出し、自分が景清の衣服を着て★「平家の侍大将悪兵衛景清
これにあり、討ち取って手柄にせよ。」と叫んで斬り込んでいきました。その間に景清
は杖を頼りに、日向の国へ落ちて行きました。
・やがて平太は捕らえられて、偽者とわかると、怒った源氏の追手は平太を裸にして、
田んぼに生き埋めにして立ち去りました。生き埋めにされた平太の体には、蛭(ひる)
や蛇ややぶ蚊が生き血を吸い取り群がりました。・平太の苦しそうなうめき声が七日
七夜も、恐ろしくも恨めしげに聞こえました。
この田んぼに怪しい出来事が起き始めたのは、それからだと言います。田植えの娘
さんが、急に大熱を出して気違いになったり、稲刈りをしていたお百姓さんが突然雷
にうたれて死んだり、雨の夜に鬼火が燃え、風の夜は恨めしそうなうめき声が聞こえ
たりしました。 村の人達は、平太のたたりだと恐れて、亡霊を慰めるためにいろいろ
供養しましたが、効きめはありませんでした。
・その頃、京都東山の六波羅密寺を訪ねた白拍子がおりました。この寺は、空也上人
という偉いお坊さんが、仏の教えを広める為に建立された寺で、 平家の信仰が厚く
、平家が滅んでからも訪れる人もなく荒れ果てていました。
この白拍子は※堺の小菊といって、父は小菊が幼い頃、主人の供をして戦に出たま
ま討死にしたと聞かされ、供養のためお参りしていたのです。
小菊はちか頃不思議な夢を続けて見るので、お和尚さんに尋ねてみました。
その夢とは、父が生き埋めにされて、なぶり殺しにあっている夢でした。お和尚さんは
可哀相に思い、「筑紫に行って、父の亡霊を慰めてくるがよい。」と言って、空也上人
の和讃を教え、※魔除けの面と鈴を与えました。小菊は喜んで都を後に、はるばる
西海の果て筑紫の国・江上の里に着いた時、あの恐ろしい※「吸い殺し田」の噂を聞
いたのです。それは夢に見た父の最後とそっくりでした。小菊は田んぼのあぜに立っ
て「お父様」と言って泣きました。そして涙ながらに面をつけ、鈴を振って和讃を唱えま
した。※「三界広けれど来たり留まる処なし。四生の形は多けれど、生じて死せざる体
もなし。三界すべて無常なり、四生いづれも幻花なり。」
小菊の唱える和讃の声は、美しくもまた哀れを誘い、案内してきた村人達は貰い泣き
しながら、
「なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏。なむあみだぶつ。」と合掌しました。
・小菊は近くに庵(いおり)をむすび、髪をおろして尼になりました。不思議なことに
それからあの怪しい出来事は嘘の様になくなりました。村の人達は小菊を仏様の様に
あがめ、何か不幸があったり、困ったことが起こると、すぐ小菊に相談しました。
白拍子の小菊は唄や舞が上手でしたので、和讃に舞の手を振りつけて踊りました。
これが評判になって、弟子になる人も出来て、江上の※「踊り念仏」と呼ばれる様に
なりました。
のちに大永年間、豊後の大友一族でこの地に派遣された豊饒(ぶにょう)美作入道
永源という領主がこの話を聞き、感動して寺田三反三畝を寄進して「西方山九品寺」
をこの地に建立したと記録にあり、今もなお「寺家跡」として残っています。
・小菊が亡くなってからは、村人達は※「操り人形座」をつくり、祭りや葬式などに出て
、「念仏踊り」や「口説き・語り」をして明治頃まで続きました。
今も「踊り念仏」跡の石碑があります。尚、境家にはその当時の、踊り念仏の面と
鈴が保管されている・・・。
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・歴史資料 江上の踊り念仏
安永九年(1780)頃、領内には鉢開き(はちたたきともいう)が一四一名もいた。(御
旧制調書)。彼等の多くは、三潴郡江上村(現・城島町南部)に集住しており、天和
三年(1683)に書かれた「筑後地鑑」に、彼等の生活の様子が描写されている。
→同邑(江上村)に歌舞伎・傀儡(くぐつ)及び踊り念仏を業とする者あり。幾ど十家
に及ぶ。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童・俳優を専とし、人をしておとがいを解
かしむ。凶事には念仏諷経を専とし、人をして感を起こさしむ。その体凡俗にして、し
かも、ある時は衣冠を帯びて、郷士を形容し、ある時は褊綴を着て、僧侶に準擬す。
故にその居所を名づけて寺家といい、世俗呼びて鉢たたきといい、念仏坊という。そ
の先を問えば、伝えていう。空也上人の流れを汲む者なりと。(中略)
その家僕の者は四方を周流し、鉦鼓を打ちて、説教念仏と号じ、門前に立ち、戸外
に傍い、往生極楽の口説をなして、口を餬(カユ)し施米を受けて、生涯を営むものなり
。(後略)≒十七世紀後半の鉢たたきの生活に有様が、いきいきと描かれている。
彼等は九品宗の踊り念仏の流れを汲む人達であった。
近世に入り、寺檀制が成立し寺院が徐々に葬式を取り扱うようになるにつれ、凶事に
は念仏諷経を専とし、葬祭にかかわっていた鉢たたきは、次第にその道を断たれ、門
付けで説教念仏を行い施米などで生活を立てていく宗教人と変わっていったらしい。
・それも、後には@傀儡(くぐつ)に系統を引くと思われる江上操座や、同じ九品宗寺
院があった御原郡力武村(現・小郡市)では、彼等が有していた芸能が専門となって
ゆき、寛政八年(1796)ごろには力武村の歌八に支配される芸能集団に転化していく
事になる。(公用見聞録)安永九年から文政五年の間に、鉢たたきが三分の一ほどに
なるのは、それを反映するのであろう。(久留米市史、近世の宗教と教育・文化)

→境の平太の娘や、平家の落ち武者の子孫は、正規の業をすることなく、こんな
踊り念仏などの歌舞音曲(かぶおんぎょく)などして代々、生きていたのかな?
中世の★傀儡(くぐつ)師の中に多く、平家残党やゆかりのものがいたのか?

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★傀儡子(くぐつ)⇒傀儡子は、★中世以後(平家落武者関係かな時代的に何か
関係あるのかな?)、人形まわしなどを主な職業とした一種の放浪民。11世紀から
12世紀にかけて生存した顕官にして、文人・大江匡房は「傀儡子記」という一書を
残して、我々に傀儡子なる民の実像を教えてくれている。
「傀儡子には定居なし。当家なし。穹廬氈帳(きゅうろせんちょう)。水草を逐いて、
移彳歩す。皮頁る北狄の俗に類す。男は皆弓馬を使う。狩猟を以って事となす。
(中略)一畝田を耕さず。一枝桑を採らず。」
すなわち、クグツという人々は、蒙古のパオ状のテント住居とともに移動した集団で
ある。※男子は弓馬をあやつり、狩猟を事業とし、農業にはたずさわらないのである
。彼が指摘している通り、※北狄つまり中国北方の騎馬民族に似ているのである。
彼らには財力があり、もとより武力があり、官権を排除して一国家の観をなした。

私は、クグツとはもともと朝鮮半島からやって来た騎馬民族の一派であったと考える
。後に一般の社会に吸収され、没し去って行き、わずかに遊芸者としてのみ、その
残像をとどめるのであるが、大江匡房が描いたクグツは、なお騎馬民族としての自立
的勢力を維持しつづけていた中世のクグツの姿であった。
おそらくこのクグツは、※天智の時代に見られる「浮浪」や奈良時代の記録に現われ
ている「雑色」とか「浮宕(とう)」とかいう流浪民・放浪民につながるものであろう。

「続日本記」には延暦二(783)年のこととして、次のような意味のことが書いてある。
神出鬼没のゲリラ戦で官軍(大和王権の軍隊)に挑んでいる北方の蝦夷に対して、
関東諸国の農民を主体とした正規軍は脆弱であった。これに比べて、※雑色や浮宕
など流浪民は弓馬を上手に繰り、すこぶる有力な戦士であった。後世のクグツ集団
は、こうした古代の流浪・放浪民の血流を汲む社会集団であったに違いない。

それでは、これら弓馬に巧みな人々とは、どのような出自であったのか。
私は朝鮮半島から渡来した高句麗や新羅、百済などの遺民であったのではないかと
思う。天智紀五年冬のこととして、百済人を東国に移住させたとみえる。
持統紀元年、帰化した高句麗人を常陸に、新羅人を下毛野、及び武蔵に定住させる
など、これ以後、朝鮮系の帰化人を関東など東国へ、しばしば移住させている。
こうした朝鮮系の人々は、たとえば平安期・嵯峨天皇の時代、遠江・駿河に定住させ
ていた新羅人が大挙し、叛乱をおこすなどしたように勢力をつちかっていくのである。

・私は、朝鮮半島から倭地に侵入してきた人々のうち、東国、西国を問わず、辺境の
地に入って自立的に民族共同体を維持したものが、その騎馬民族特有の移動性と
国権を排除する自立性の故に→浮浪とか浮宕・雑色とか呼ばれたものと考える。
(古代日本異族伝説の謎・田中勝也・大和書房の72傀儡子p178−9より)

→僕が思うに、高句麗、新羅、百済系の人々はきちっと大和朝廷の管理下のもと
で移住してきたものが殆どであったと思う。畿内の河内を中心に大和、近江に
彼等は居住地を与えられ、その土地を開墾していった、特に百済系は時の大和
政権が非常に密接な関係であったので畿内中心に居住。初め彼等は、大和の
高市郡に土地を与えられて居住したが甚だしく狭くなってきたので、河内に新しく
居住しなおした。仁徳、応神天皇の時の渡来人は百済系中心に漢人系、秦人系
が中心であった。彼等は時の政権と密接な関係あったので畿内を中心に住むこと
が許され、また彼等の先進性から大和政権の中心を担う人達にもなっていった。
彼等は巨大な河内湖(今の大阪市の大きさ程度)周辺に住んでを湖を埋め立てて
いった。かなりの土木技術を持っていた。彼等は河内中心に今の大阪府下や大和
、山城(秦氏)、近江に広がって居住した。
→後に白村江の戦い以後、亡命百済人も、時の政権には遇され、畿内中心に
住む。それ以外の渡来人は「下らない(百済ない)」者とされ、非常に冷遇された。
特に、高句麗人よりも、百済を滅ぼした新羅人には。で、この時期には畿内では
先住の渡来人でいっぱいだったので、高句麗人、新羅人はもとより百済人も東国
に多く送り込まれた。
→それ以外に昔から得手勝手(えてかって)に日本に来た、海洋性の今のロシア
の沿海州付近の民が中心に雑色、浮宕の浮浪民を形成していったと思う。
粛清(しゅくしん・ゆうろう、とも)人やオロチョン(オルシ、オロッコ)人、契丹人のツングー
ス系の北からの侵入が「上記」に。また粛慎人の騎馬軍団1000騎余りと遭遇した
安部頼時の話が、「今昔物語」「宇治拾遺物語」の中に描写されている。粛清人に
(ゆうろう)関しても騎馬だけでなく、周囲の土地に舟行して略奪強奪もかなりしてい
たらしい。北陸などでもしばしば彼等、北方海洋民族の侵入がかなりあったし、
「日本書紀」の欽明天皇期の粛慎人の佐渡島侵入、斎明天皇期の阿部比羅夫の
有名な北海道、陸奥、の蝦夷を動員して粛慎人(ゆうろう、オルシ)の国を討った話
など。
日本の南の九州でも、1019年の刀伊族の入寇(侵入)は有名。彼等も、同系の族
であるのは言うまでもない。又彼等の定住も話も多い。日本の律令制下、大隅国
(鹿児島県)姶羅の地に、もと南沃沮人が定住した。(桓檀古記)沃沮というのは、
朝鮮半島北東、日本海沿岸部の地で、沃沮人は扶餘・高句麗系民族で、海に出て
漁労をする業に長けていた。また「桓檀古記」は別のところで末廬つまり今、九州
佐賀県・松浦の地にゆうろう人が集まって住んだ。またゆうろう人は、姿形は扶餘
人に似ているがは言語は異なっていたので異族であったことが伺える。ゆうろう人
の故地は、北沃沮のすぐ北の地。

かって中国東北部・満州の地に※扶餘という騎馬民族が栄えた。西晋末の北方
異民族侵入による動乱の中にあって、早くから中国帝権とと協調した数少ない国の
一つであった。一度は梟族鮮卑の為、滅亡の悲運にさらされたが、晋に援けられ
て復興すると数奇な国運をたどった。この扶餘族の支族で朝鮮半島に興隆したのが
★高句麗と百済であった。高句麗は遠い時代の光栄ある北方国家・辰の直系の
後継王権というべきであろう。後に高句麗の遺領に建国された渤海が辰の後裔を
自負したことがこのことを推測させる。※百済は扶餘の直系を自称して、後代、扶餘
を国の別号にした。正史にみるかぎり、大和王権の成立以前の高句麗人、百済人の
日本渡来を証すものはない。しかし彼等が日本民族の形成にあたって重要な因子に
なっていたであろうことは推測に難くない。

⇒倭に入った扶餘王−中国の正史伝説によれば、晋の太康六(285)年、鮮卑族の慕
容かい、が扶餘を攻撃した。扶餘王・依廬は自殺し、その子弟は逃亡して沃沮に入っ
たという。翌七(286)年、晋は依廬の子・依羅を救援して、鮮卑に反撃し、依羅は扶餘
の故国を回復したのである。
ところで「桓檀古記」はこうした経緯について次の様な異伝を語っている。
鮮卑・慕容かい、に攻められた扶餘王・依廬は自殺しようとしたが、その時、子の扶羅
(依羅と同じ)に白狼山を越えて海を渡るように命じた。扶羅は、この遺言に従い、この
時、数千人が扶羅と行を共にした。彼等は遂に倭人を平定して倭人の王になった。

「桓檀古記」は、これと共に次のような異伝も語っている。
はじめ依廬は鮮卑に攻められて逃亡し、海に浮かんで再び帰らなかった。依廬の子
弟らは沃沮に逃げ込んでこの地を保った。翌年、依廬の子・依羅が王になったが、後
にまた鮮卑の慕容かい、が扶餘を攻めた。依羅は数千人を率いて海を越え、遂に
倭人を平定して倭王になった。

これらの伝説によれば、扶餘の王子・依羅或いは扶餘王・依廬自身が、海を渡って
倭人の国に侵入して、倭人を支配したというのである。これは依廬が自殺し、子・依羅
は晋の助けをかりて扶餘の故国を回復したのみとする正史伝説と異なり、極めて
ユニークな内容となっている。注目は依羅ないし依廬が倭地に入ったというモチーフ
が繰り返し述べられていることである。またこの伝説が述べられている倭人の国も
、はたして日本列島のことか、それとも南韓沿岸部にあった倭人の住地であったか
わからない。倭人は南韓にも広く定住していたからである。

いやーまたつい脱線してしまいました。いや反省・・・。
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・江上の踊り念仏については、吸い殺し田の由来を聞いた時から、歴史から見た裏
付けが欲しいと思った。・・・、・・・、・・・、などは資料がてに入り易いが、★悪七兵景
清となると首をかしげたくなった。宮崎氏の★生目八幡宮で、壇ノ浦から宮崎までの
逃亡道順を調べたがなかなかわからない。しかし隣町の大木の八丁牟田付近に戦
前まで祈祷師をしていた人が※景清を祀っていたと言うことを聞いて尋ねたが、本人
は死に家族まで行方知れずだった。その頃、江上氏について調べていたので、※平
家とのかかわり、※境・酒井・坂井★堺氏などの系図を念頭におきながら、物語を
組み立てた。(伝説 おどり念仏)
・境重之氏方に秘蔵されている「念仏踊りの遺品」は「高砂の面と手に持つ鈴」である
。面は私達がつけるには小さく、操り人形の面である。鈴は神楽や漫才で使う手で振
る鈴である。堺氏方には九品寺の本尊といわれた仏像も残っている。石原家記など
には江上の操り座公演のことが記録してある。江上地区は歴史的にもまだ調査を待
つ未開の宝庫である。是非あなたの手で、歴史の扉を開いて欲しい。
(文化財専門委員古賀知勝)
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・かっぱ(河童)の手
夏はカッパの季節である、五月の水天宮祭りの頃から、この地方では川祭りが始まる
。ワラヅトにご飯や魚など、かっぱの好物を入れて、川辺や堀岸に竹につるしたり、
流したりする行事である。昔の城島の中心地である札の辻から、橋を渡って久留米
往還から左へ折れ、山の井川沿いに酒倉や瓦屋の軒下を抜けると、柳やヨシ草が
道をふさいで気味悪い土居道となる。ここばかりは潮の干満にかかわりなく、いつも
よりよどんだ淵に出る★平家の落武者が水天宮の祭神である安徳天皇を護(まも)
るためカッパとなって、筑後川の要所々々に配置されたという。そのひとつ城島は
下流の中心地であるので、★平入道カッパが守護の任に着いたという入道淵である。
幕末城島の芦塚の江頭某という医師がいた。中々の名医で往診の依頼も多く、いつ
もたくましい馬に乗って患者を見舞っていた。ある日、城島の商家に往診を頼まれた
が、下田の渡しは馬は乗せないので、仕方なく自分の馬は下田に置いて、浜の百姓
から駄馬に借りて乗った。ところが※入道淵まで来るとどうした事か馬が動かなくなっ
た。どんなにせかしても馬は悲しそうに後ずさりするばかりである。不思議に思ってよ
く見ると、後ろ足が葦(よし)野の中に引き込まれている。そして水の中から奇妙な手
が伸びて馬の足をしっかり掴んでいる。さては、とすべてを察した江頭は力を込めて
馬の横腹に一鞭くれると、馬は驚いて飛び上がった。馬の後ろ足を掴んだままカッパ
が姿を現すと、抜打ちにて手練の早業でカッパの手を斬り落とした。ギャーと悲鳴を
あげてカッパは水中に逃げたが、片腕は馬の足を掴んだままであった。この話は
評判となり、(久留米有馬の)殿様にも聞こえ、秘仏として今に伝わっているとか。

→源三・これって平入道カッパの仕業かな?それか平家の落ち武者達は好んでこん
な草深い筑後川の葦原近辺に身を隠して代々暮らしていたのだろうか?
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・平安時代、藤原氏の権勢と栄華は全盛を極め、京の都は平和と文化を誇っていた
が、地方では東に源氏、西に平氏(家)が密かに力を蓄え時の来るのを待っていた。

平清盛は九州大宰府の大監となり対外貿易の業務を掌握するや、肥前神埼に港を
開き、筑後川から有明海を経て中国「宋」と密かに貿易をし、巨利を蓄え、航海術と操
船術に巧みな人士を育成していた。清盛の子★重盛の娘は漢の高祖の流れを汲
む大蔵春実の子孫・原田種直の妻となり、種直の弟四郎種光が筑後江上に分家して
江上氏の祖になった。大宰府を中心とした北九州の諸豪族は殆ど平家の一族から
恩恵を受けた家臣であった。
・江上の躍り念仏の伝説に出てくる悪七兵衛景清と堺の平太が、小舟で筒江に流れ
着いた話も、★平家に関係ある人達の子孫が「躍り念仏」の業で暮らしを立てていた
事も納得できる。※大善寺夜明の朝日寺の※神子栄尊禅師の伝説は有名だが、
久留米の水天宮由来を調査しているうちに、重要な資料に出会った。※境春雄先生
から提供して戴いた★「安徳帝御遺跡に関する書」である。
・古来、日本の伝説で全国津々浦々まで語り継がれている話や遺跡で双璧をなすの
が、弘法大師の功徳話と平家伝説落人哀話である。

城島(福岡県南西部久留米市のすぐとなりで筑後川をちょこっと下った下流の佐賀
県と筑後川を挟んで接する酒とうなぎの蒸篭蒸し(せいろ蒸し)が美味しい町)には
「エツ(魚)の由来」など弘法大師の話もあるが、※平家伝説もある。江上の「躍り念仏
の由来」である。筑後地鑑や石原家記などにも記録されている。「操り人形座」の事で
徳川時代には一座を組んで興行して回ったらしい。(←平家の落人の子孫なのかな
?)その源流が壇ノ浦合戦の悲劇につながるのである。※悪七兵衛景清だ壇ノ浦から
江上の※筒江までどうして小舟で逃げてこれたか疑問に思ったが、久留米の水天宮
伝説、浮羽の「カッパ」伝説などを検討して見ると納得出来る。歴史的に見て平清盛
が大宰府にいた頃、肥前神埼から有明海を経て宋と密かに貿易をして、蓄財した事
は史実である。清盛の娘※徳子が安徳帝の生母「建礼門院」で、筑後地方に広大な
荘園を有していた事も史実である。清盛の子※重盛の娘が原田種直の妻となり、筑
前原田の庄を領した事はさきに述べた。大蔵氏は中央に在るときは財務の長官、大
宰府では大監という職は財政の長である。これらの史実だけでも九州における平氏
(家)の勢力がわかる。
大善寺夜明の朝日寺の伝説に出てくる三池長者藤吉種継の「朝日さす、夕日輝くそ
の下に、七つ並びが七並び、黄金千両朱千両」と歌われた莫大な財産がどうして出
来たか想像がつく。種継が平清盛の信任厚い筑後川河口の領主であり、直接貿易に
たずさわっていたからである。※鹿ヶ谷事件で鬼界ヶ島に流罪となった※平康頼が許
されて帰京の途中、種継の館に立ち寄り、姫と一夜の契りを交わし、生まれた子が、
神子栄尊禅師だという話は三潴地方の人は皆知っている。遺跡としての朝日寺や
仏像・栄尊像(指定文化財)も存在している。ところが水天宮の由来を調査しているう
ちに、大変な資料が出てきた。≪安徳帝御遺跡に関する書。附古文書写添付≫という
もので、佐賀県史跡調査員の久保ケ源六氏の報告書の抜粋が、不思議な因縁という
か平氏の流れを汲む※江上氏の子孫である境春雄氏から提供されたのである。
私は一読して非常に興味を覚えた。数多い平家伝説を知っているので、この資料す
べての内容が真実だとは信じないが、※筑後地方の平家伝説と深いかかわりがある
事は確かである。私はすぐ現地である※佐賀県鳥栖市下野に粋、古文書の持ち主で
ある立石光雄氏を訪ねた。光雄氏の父・松次郎氏が、先祖伝来の古文書を久保調査
員に公表されてから五十余年経っている。ことが歴史と皇室に関する事柄だけに当時
の行政の対応も慎重を期したのか現地には掲示板もない。
・古文書の内容は、壇ノ浦で入水された安徳帝や二位尼は♀身替りで、真実は鷺野
ヶ原(さぎのがはら・今の鳥栖市下野)まで落ちられ、藤吉種継が密かに守護し、十八
才の折り、種継の娘千代姫との間に男子をもうけられた。この方が〓神子栄尊禅師
である。
⇒古文書は一、壇ノ浦の合戦。一、下野水天宮の由来。一、帝の身替りの事。
一、下野の川神祭。一、御病気平癒の祈願文。一、崩御の御日時並に御陵。
一、宮屋敷の事。一、水天宮の御神体並御守札。一、水天宮の御宝物。
一、※平知時の墓。一、経塚。一、※神子栄尊禅師の事。一、建礼門院自言自筆→
(安徳幼帝母、平清盛娘、高倉天皇中宮)。一、小竹の由来。一、立石家据置記。
一、平氏一族御陵秘密。一、立石家遺言書。等で、「此書他人に持出し話事出来ず、
もし持出したる時は立石家は全滅す立石家全滅は覚悟の事とは申す者の大君には
申迄(もうすまで)もなく一族に不忠先祖に不孝なれば我の子孫は遺言をよく守り常に
忠孝を重んずべし、→しかし後年に天下花咲きその時は大君水天宮神社に時機登来
(じきとうらい)せば開くべし。子孫注意を以(も)って申送(もうしおくる)べし。此(この)
書原本は何十回の大洪水のため大破損なし、その後判明の分を書す。※忠孝の道
を忘れざるよう頼む者也(なり)。」(遺言秘密原本侭(まま))

・私は既にコピーした資料を読んでいたので、気持ちの整理はできていたが矢張り少
なからず興奮していた。そして立石光雄氏に案内して戴いてまた驚いた。下野の集落
全部が※平家の遺跡である。昔、鷺野ヶ原と呼ばれていた場所は筑後川の左岸(鳥
栖市下野)で、今は川を隔てて久留米市の篠山城を望み、旧本流(対岸は久留米市
小森野)と現本流(放水路)の合流点である。過去幾百何千回の大洪水が襲来して当
然と思われる河川敷の低地である。鷺(さぎ)が群れ遊んだであろう葭野(あしの)で、
※落人達が隠れ住むには格好の地である。
・私の歴史散歩(現地調査)は安徳帝(八歳)御一行が筑後生葉(浮羽)から逃れて、
筑後川を渡られた「※御乗越」から始まる。川添いの堤防を村に近付くと水天宮があ
る。字名(あざな)を大槙木(マキ)といい、土地の人は「宮屋敷」という。昔はこの一帯
は高地で東方は筑後川で深淵に臨み断崖絶壁が削立していて、楠や松・杉等の大木
が繁茂していたらしい。※帝が一時ここに御住所を御定めになったので「宮屋敷」とい
う。現在「水天宮」を祀っているが、水害を被ることしばしばなので、文化年間に下流
の堤防の所に遷座したが、筑後川の治水工事の完成により元の「宮屋敷」に奉祀した
ものである。この「宮屋敷」の中に※「霊地」と称する草木不毛の地がある。とにかく帝
は此処(このところ)に御隠棲になり、御歳二十五歳で崩御(お亡くなりになること)遊
ばされたという。帝の御陵は源氏の追及を恐れて密かに集落の中央に築き、敵を欺く
ため頂上に※老松宮(天満宮)を祀っている。周囲に堀を巡らした円墳で二人塚・三
人塚・他人塚などに囲まれている。→死して尚(なお)主上を守護する平家の忠義の
士の墓である。塚の上の像は仏像ではなく※衣冠束帯姿の神像である。更に村の四
方の出入り口にあたる場所には四人塚・六人塚が配置され、→建礼門院の墓、平知
時の墓、二位の尼の墓(堂上(公家)平氏・平時忠妹で平時子、武家平氏の平清盛室
)(通善寺跡)が、竹薮の中や小高い丘の木立の中にある。河川工事や圃場整備(ほ
ば・はたけば)の際に出土品もあったらしいが現存しないのは残念である。村の西出
口を船頭口という。帝の御陵造営に際し長門の国から青石を運んで来て荷揚げした
場所という。対岸が久留米市長門石である。共に元の筑後川本流の舟着場である。
此処(このところ)から下流・大善寺の藤吉種継の館まで二里(約8`弱)の距離であ
る。夜明の朝日寺の事は先に書いたが、同じ神子栄尊禅師⇒の創立になる肥前水上
山万寿寺は平清盛が開いた神埼の庄近くにある事を思えば因縁の糸の不思議を感
ずる。
・古文書によれば、追討の源氏を欺くため、鷺野ヶ原の対岸にある小笹山(現在の久
留米市篠山)に行在所を建築し★平知盛自ら追討軍と戦い折りを見て、行在所に火を
はなち落城と欺き源氏の追撃を受けつつ福島街道から肥後国八代まで落ち、主従は
肥後の山深く世を忍ばれたそうです。また平宗盛は遠く対馬に渡り同地に帝を迎える
準備をしているうちに同地において死去せられ、その子孫が同島主となり宗氏を名乗
り今に及んでいる。(源三→おかしい、これは宗盛の弟・知盛の子で当時幼少の平知
宗が乳母・惟宗氏に抱かれて対馬に逃れたのが対馬の宗氏じゃないのか?それとも
二人とも対馬に逃れたのかな?)
徳川時代久留米藩主有馬二代忠頼は慶安三年(1650)水天宮(当時は尼御前社とい
った)を瀬の下町に社領を与え社殿を造営して移転した。古文書は忠頼の命令で家
来が下野村に探索に来て、遺跡を破壊し寺を焼いた事を記録している。(忠頼は明歴
元年千六百五十五年、参勤途上、備前塩田浦海上で家臣の手にかかり不慮の死を
遂げている。)文政元年、九代頼徳は江戸芝屋敷に水天宮の分霊を祀った。海難海
運守護神として全国に名声は高い。
・筑後川の流域に「カッパ」伝説は多い。特に※浮羽の「カッパ」は有名である。
平家の家臣豪勇の士達が川筋に住み、異様な服装で人目を欺き帝を守護した名残
であろうか。
----------------------------------------------------------------------
以上です。服部加州守・平明子さん、隈さん、中西さんいかがでしょうか?
御無沙汰です。またネタ仕入れておきますね・・・。(^_^)ヽ(^o^)丿(-。-)y-゜゜゜(-_-)zzz
See You!

おまけ
http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/kaido/nagasaki-kubota.htm
長崎街道久保田 平家僧俊寛の墓

俊寛は堂上公家の村上源氏の出身。妹、娘が平頼盛(清盛弟)室になっている。
〜1179)僧都、法勝寺執行。後白河天皇の近習となり、鹿ヶ谷で平家討伐の謀議をし
て発覚、薩摩国鬼界ヶ島に流せれた。中宮徳子安産祈願の恩赦に漏れ、一人島に残さ
れ死んだ。
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年12月11日 11時51分26秒 ) パスワード
  

たくさんありがとうございました。
忠清など、他の独立したスレッドなどにも移させて頂きますね。
埋もれてしまうのが惜しいので。


私は「吸い殺し田」のお話が恐かったです。
本当にあったように感じました。
背筋が何度もぞくぞくしました。

非常に有り得そう。



不思議なのは平知盛3男・知宗は対馬を何故攻略したのか?
これが謎ですけど
源三どのの書き込みで宋との貿易があったから元々平家にとってはなじみの無い土地ではなかったという事に思い当たりました。

ありがとうございました。
[8]さんからのコメント(2001年12月11日 12時13分30秒 ) パスワード
  

源三さん、お久しぶりです、(^_^)/ どうも。

これは久留米周辺の平家伝説を網羅していますね。
わたしも久留米市民図書館に依頼して一部資料を取り寄せたのですが、
何しろ膨大で、まとめづらくて・・・

代わりにスッキリまとめて頂いたという感じで、大変助かりました。
感謝です。 m(_ _)m

出ましたねぇ、平清盛カッパ伝説。
そうか〜、落ち延びた安徳天皇をお守りするために、
筑後川沿いに平家武者を配置したために生れた伝説と考えると、頷ける。

他のスレッドにも書いたのですが、最近主人の母の法事で浮羽に行ってきたばかりなんですよ。
主人の実家(大善寺夜明)で、菩提寺である朝日寺のお坊さんを呼んでお経をあげてもらって、その後親戚一同で筑後川温泉(浮羽)に行くという、まさしくタイムリーなコース(笑)。

大善寺から浮羽ヘ行く途中、久留米市大橋町常持に庄前神社ってあるんですけど、
そこには安徳天皇に付き添って遁れてきた二位の尼が、無事に落ち延びたことを感謝して鏡を奉納したという言い伝えがありますね。
常持を通った時、それらしきお社が遠くにちらっと見えました。


水天宮発祥地の下野や長門石周辺は、いつも我々が大善寺に帰省するときに車で通る場所なんです。
「国道よりも信号が少なくて早いから」と、主人が好んで川沿いの道を通るからなのですが。
今でも畑の延々と続く、長閑な所です。

大槙木(マキ)…今でも下野の近くに真木町って地名がありますね。
水天宮宮司家の真木家の名の由来は、この地名かな?


江上の吸い殺し田伝説は、初耳でした。
しかし何とも残酷な最期・・・(怖)

江上氏ってもともと原田氏の系統だったんですね。
やっぱり三潴庄には平家の家人がたくさんいたんですね・・・

つくづく、平家に縁の深い土地です。
[9]さんからのコメント(2001年12月12日 09時34分55秒 ) パスワード
  

下記の文章は「筑後地区郷土研究」に収載された、庄前神社と平家カッパ伝説についての話です。

***************************

『筑後志』によると水天宮の祭神は三座。
中は二位尼安徳天皇を抱くの像、一体は建礼門院の像、一体は新中納言知盛戍衣を被、弓矢を持するの像であるという。

筑後の伝説によると、安徳天皇は天然痘で亡くなられたというから疫神の性格があったと考えられるが、主たる神格は水神である。
社伝に「河童を伏するに奇験あり」とあるが、まさに河童そのものと考える。
一門みな河童なのだ。

筑後川はいまでもしばしば氾濫する。
『北筑雑藁』によると、筑後川の支流で、浮羽郡を潤している巨瀬川の水神「九十瀬(こせ)入道清盛」が、尼御前社(水天宮の旧名)の水神「二位尼時子」と、夫婦相逢う時、必ず筑後川は荒れて洪水を起こすとあり。
この時遊泳でもする者がおれば、たちまち二神の崇りに触れて溺死すると述べている。

「九十瀬入道清盛」を祀る庄前神社は巨瀬川と筑後川の合流点にある。
水天宮の故地と信じられており、ここでも「護文字」の神符を発行していた。
いつぞやその「護文字」が浮き彫りされた神殿の扉を押して、私が拝見した清盛像は、七寸ばかりの河童の像だった。
村人たちは、旱魃の時この清盛像を巨瀬川に沈めて雨を祈る。

また村の子供たちは、不思議なことに皆片目が歪んで生まれるが、それを目印に、河童は村の子に悪戯はしない。
氏神様である庄前様が恐ろしいからである。
お陰で子供たちはどの夏も無事だという。

***************************

うちの主人が子供の頃、よく近所の子供達も水天宮で水難除けのお守りをもらって身に付けていたとか。
紐に通した小さな「ひょうたん」型のものを、首につけるそうです。
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年12月12日 22時02分12秒 ) パスワード
  

>そこには安徳天皇に付き添って遁れてきた二位の尼が、
>無事に落ち延びたことを感謝して鏡を奉納したという言い伝えがありますね。

これもゾクゾクしました。
言い伝えだけではないモノを感じます。

隈さんありがとうございました。
[11]源三さんからのコメント(2002年02月04日 01時19分04秒 ) パスワード
  

隈さん、服部さん書き込みありがとうございます。
隈さん僕は、城島町北部から筑後川を挟んで肥前佐賀の地名しか知らない
ので、城島町南部から筑後地方の地理にかなり暗いので隈さんが書かれている
こととかかなりわからなかったものでチンぷんカンプンです。
先の書き込みは、本に載っていたものを書き込んだだけです・・・。
よって文字だけでわからないので「地図」を載せます。

マピオン地図 福岡県三潴郡城島町下田付近75000no1kouik

http://www.mapion.co.jp/c/f?el=130/26/06.529&scl=250000&coco=33/16/54.120 ,130/28/39.137&pnf=1&sfn=all_maps_00&uc=1&grp=all&icon=mark_loc,0,,,,&nl=33/16/21.314&size=500,500


それと隈系図は佐賀県立図書館の郷土資料室にあると思います。検索してくれますよ。他に「佐賀県史料集成 古文書編O佐賀県立図書館編・刊a5 p281実相院文書・
(続)願正寺文書・鍋島家文書写・堤家文書・★隈家文書収載。(昭和50年15,000円
)などもあります。

Welcome to 佐賀県立図書館

http://www.lib.pref.saga.jp/

それと筑後川周辺に潜んでいた平家の落ち武者は平入道カッパって言われてたこの
呼び名は蔑称なんでしょうね。何か平家の落ち武者の人のその後の生活は、それ
こそ塩を舐め地を這う様な厳しい過酷な日陰者としての生活だったんでしょうね。
それに名乗ることなんてできないし。庶民の末端まで地位を下げて暮らしていたこと
でしょう。源氏の世の中で。
朝日寺、大善寺、浮羽、真木なんのことかわかりませんでしたが、なんとなく少し
理解できた様な気がします。
確か佐賀にも佐賀藩出身の軍人・真木長義がいます。多分同族でしょう。
彼は佐賀藩海軍電信丸の艦長として戊辰戦争に参加、のち日進丸船長、海軍中将。
貴族院議員。
他に幕末の尊王攘夷派に久留米のどこかの神官・真木和泉がいた様な・・・。
隈さんのどこかの書き込みで確か、平家の落ち武者・平某の子孫だそうですね?

それと服部さん平の悪七兵衛景清の家来で身替りになり源氏軍に捕われて生きたまま田んぼに埋められた(吸い殺し田)堺の平太の話は、とてもむごいです。その娘・堺
の小菊の話もなんだかとても僕の心に迫ってきてせつなく悲しいです。
小菊が吸い殺し田で父を弔い躍った「躍り念仏」はいまでも見ることができるんでしょうか?見てみたいような見いてはいけないようなそんな気持ちです。
隈さん、服部さん先の地図でだいたい地名で場所はわかります。
[12]源三さんからのコメント(2002年02月04日 01時23分23秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年02月04日 01時24分13秒
[13]源三さんからのコメント(2002年02月04日 01時40分46秒 ) パスワード
  

よかったら見てください。最初はこのスレッドとは関係ないけど。気分転換になる
と思います。他のことも見ることで。

〈「朝霧に架かる橋」〉

以倉紘平著

現代文学と古典の間を自由に往還、さまざまな時代を生きた人や作品への
思いを語る詩人のエッセー集。
「平家物語」に関する散文詩を書き続けている著者は、その理由を日本の現
代詩が古典に対して冷淡であるから、と説明する。本書には、平清盛論など
平家をめぐる数多くの興味深い論考が収められている。「たたき売り」の口上
から大阪弁を考察するエッセーも楽しく、土地に息づく言葉の豊かさを再認識
させてくれる。(編集工房ノア=大阪市北区中津3の17の5=2200円)
家の姫たちを美しく描く〉   佐賀市 小森タカエ

平家全盛期の絵巻物のような物語から滅亡までの時代の大きな流れにどっ
ぷり浸り、こんな美しい小説を読んだのは初めてだった。吉屋信子著の「女人
平家」(朝日新聞社)。美しい姫たちをより美しく、優雅に素晴らしい文章で表
現されている。
平家物語は、男たちの戦の世界で、滅亡のあわれは歴史上有名だが、その
陰に八人もの女人がいたとは初耳だった。その姫たちの生い立ちから結婚
への過程、老いいく最後までを切ないほど美しく書かれている。姉妹たちが
優しく仲良く、助け合い励まし合う姿がとても印象的だった。それに、目を見
張る大きな驚きは平清盛についてである。こんな大悪人はいないと学んでい
たが、その人柄のよさ、人情厚く部下をいたわり、敵をつくらずだれからも信
用される。真の武士らしく直情径行で、お人好しで心温かい男と、大いに見直
した。源平合戦も終わり、源氏の血筋絶えた後も、清盛の娘たちは生き長
らえ、平家は女系によって今も滅びずというのが最後の結び。あわれを思う
私の心をホッと救ってくれた。

「平家物語」のクライマックス、壇ノ浦の合戦で自害直前の平知盛が口にした
言葉が何度も浮かぶ。「自害はしない。まだ体力とやる気は残っている」

終りみだれぬ    東郷隆著

歴史の面白さは表舞台で活躍した人間だけにあるわけではない「平家物語」
にわずかに登場する人物を主人公に、歴史にほんろうされた人間を描く短
編集。つまらぬ成り行きから、木曽義仲討伐の総大将となった平知康。あだ
名は鼓判官。れっきとした北面の武士なのだが、刀より鼓の腕がこれまでの
出世の理由だった。そんな気弱な男を描く「鼓」。仏師慶派の長老として尊敬
を集める運慶。彼には若いころの秘密があった。仕事に身が入らず、無頼
の日々に出会った女性との思い出を描く「開眼」など四編を収録。
(文芸春秋・一五○○円)

〈「『平家物語』を生きた人々」出版〉

佐賀市の西岡常博さん(78)が「『平家物語』を生きた人々」(近代文芸社刊)をこのほど出版した。西岡さんがライフワークとして取り組む「平家物語」の時代を生きた無名に近い人物を、血の通った一人の人間として描いている。
同書は@阿波民部重能A女人平家(その1)B土肥次郎実平C源十郎蔵人行家D多田蔵人行綱E女人平家(その2)―の六話構成。@では当時の最高権力者・清盛に重用されたにもかかわらず「壇ノ浦合戦」で平家を裏切った阿波民部重能を取り上げ、源氏に寝返らざるを得なかった彼の足跡をたどる。このほか西岡さんは豊富な資料を基に、今まで脚光
を浴びることの少なかった人物たちの実像に迫っている。西岡さんは「私たちの隣人のような身近な存在として描いたつもり。この本から戦乱の世の人々の勢いを感じていただければ幸いです」と話していた。(二八七n、二五〇〇円)

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■徳島県出身の漫画家竹宮惠子さんの書き下ろし漫画「まぼろしの旗〜平家落人伝説」0886(21)2711へ。

世の中にバカは多いが今度は京都大原の寂光院に放火した者がいる。苔さ
びたこの小さな尼寺の由来を知っていて火をつけたのか。それにしても保険
金殺人、通り魔殺人、宗教詐欺、いじめ殺人、親殺し、子殺し、バスジャック
、放火と恐ろしいことが、よくもこれだけ立て続けに起きるものだ。本当にこれ
は末法の世かもしれない。▼一一八五年三月二十四日、平家一門は八歳
の安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んだ。その時、安徳帝は従二位の尼時子に
抱かれて入水した。後を追ったつもりの建礼門院徳子(同帝の母)は源氏に
助けられ、京都東山の長楽寺を経て人里離れた寂光院に世を捨てる▼平家
物語の「大原御幸」のくだりは、平清盛と長く対立関係にあった後白河法皇が
、寂光院に徳子を訪ねる名場面だ。「亡くなったそなたの父清盛と予とは険
悪な仲であった。が、はや平氏一門は滅び、かくいう予も源氏からうとまれ権
力を剥奪され、いまはもう何もない」と、涙にくれる老法皇▼「思えばすべてが
、ただもう夢のようです」と、死んだわが子や一門たちを思い悲嘆にくれる
徳子。壇ノ浦で勝ったはずの源義経までがもう世にいない。人生の勝ち負け
は刹那の間。往時茫漠、この世は夢のまた夢。かつての敵味方が抱き合って
泣く寂光院のくだりは、人生の諸行無常をしみじみと語りかける▼洛北をさら
に離れた大原の里はなお静かだ。ここで余生を送った徳子の生涯は厳しい。
死にきれぬ自分、それどころか華やかだった昔を懐かしく思い出したりする
自分へのうとましさ。そんな複雑な思いに苦しめられ、涙と読経三昧の日々
▼文化財は一度焼いてしまったら元には戻らない。復元してもそれは本物で
はない。昔、うらぶれた寂光院の畳に座って感じたあのなんともいえぬ歴史
の重みが消えた。


能「俊寛」平家討伐を謀議した僧、俊寛が鬼界ケ島に流される物語で、能二
百番の中でも最高の悲劇とされる。多久島さんは佐賀市嘉瀬町の法勝寺に
俊寛の墓が存在すること、また、「俊寛を謡う会」があることなどを知り、佐賀
にもゆかりのある「俊寛」を取り上げた。また、大槻文蔵さん(大阪)は「楊
貴妃」、人間国宝の茂山千作さん、千之丞さん兄弟(京都)は狂言「素袍落
(すおうおとし)」、井内正浩さん(佐賀市)は「安達原(あだちがはら)」を演
じる。

平家を滅ぼすものは平家
俚諺(りげん)

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「平家は源氏に滅ぼされたのではなく、みずからの栄耀(えいよう)栄華によって滅びたのだ。つまり、自業自得なのだ」と、きょうの言葉は語りかけている。
われわれはだれも、自分にとって不都合なことを、自業自得だと認めたくない。なんとか、時代や他人のせいにしたくなってしまう。だから、失敗の原因や責任をほかに転嫁して、生きのびようとする人たちも多い。
きっと、世渡りというものは、そういうものなのだろう。この世を生きていくには、そういった知恵も必要なのだ。
ただ、自分一人になったとき、そこにあるマイナスの結果を、自業自得なのではないのかと考えてみるだけのキャパシティーがなくては、その人は自滅する。
言い訳はいくらでもある。都合のいい理屈をつけようと思えば、いくらでも考えられるだろう。しかし、いくら他人のせい≠ノしても、目の前にある現実は変わらない。その人はその不都合な現実のなかで生きていくしかないのである。
そこを生き抜く気力や知恵は、自分の失敗≠認めることによってわいてくるのではないか。

〈貧者に盛衰なし〉

俚諺
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「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」というのは、『平家物語』のよく知られた冒頭の部分だ。
たしかに、この世は諸行無常であり、盛者必衰といえるだろうが、おごれる平家を底辺で支えていた庶民の盛衰は、平家の盛衰ほどドラマチックではない。
「山高ければ谷深し」というが、社会的な地位がなかったり、経済的に貧しい人にとっては、「盛」にしろ「衰」にしろ、そこに大きな落差はない。
この世に無常を感じて、清貧、隠棲(いんせい)を求める人もいるが、彼らは人の世の浮き沈みの大きさから逃れたいという願望によるところが大なのであって、決して「貧者」になることを願っているわけではない。その意味で、彼らも選ばれた人なのだ。
貧者とは、そのような選択の可能性もほとんどなく、目立たず消えていく人たちだ。もともと「盛」はなく、「衰」しかないのだ。
人それぞれで、何が幸福であるのかは、究極のところわからない。しかし、人間が不平等を生きていることだけは確かであろう。



〈人の行動には潮時がある。うまく満潮に乗りさえすれば、運はひらける〉

「ジュリアス・シーザー」シェークスピア
----------------------------------------

源氏と平家が戦った壇ノ浦の合戦は、源氏の勝利で終わった。しかし、戦い
の最初のうちは、平家が優勢だった。というのも、潮の流れが西から東へ向
かっていたからだ。ところが、戦いの後半から、潮の流れが逆になることによ
って、平家は西海の藻屑(くず)と消えていく。サッカーやラグビーでも、風上
に陣取った方が有利とされている。また、ホームグラウンドの利点ということ
も、よくいわれている。こういうことも、波に乗りやすいというか、客観情勢を味
方にすることによって、潮に乗るのと同じような効果が得られるといっていい。
潮に乗るとは、状況や情勢を味方につけることだ。「天の時、地の利、人の和
」というが、そのいずれからも後押ししてもらうことができれば、鬼に金棒。
そこで、具体的にどのようにしたら、「天の潮、地の潮、人の潮」に乗ることが
できるかを考えることが、戦略・戦術となる。カモの水掻(か)きではないが、
運がいい人は、見えないところで戦略・戦術家だったりするのだ。
シェークスピア(一五六四―一六一六年)はイギリスの劇作家。


〈誠の契りは親子のなかにぞありける。子をば人の持つべかりける物かな〉

平教盛

----------------------------------------
現在の婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立することになっている。
とはいうものの、その結婚そのものが政略的である場合も、決して少なくない。例えば、A企業の社長の子供と、B企業の社長の子供の結婚は、「愛」によるものかもしれないが、結果的にA社とB社との関係を深めるものになる。
というのも、人々に血のつながりに対する信仰≠ェあるからだ。このことは平安貴族も、戦国武士も、江戸の商人も、明治の政治家も、現代のわれわれも、たいして変わっていないのではないか。
つまり、あらゆる人間関係のなかで、もっとも信頼できるのは親子の関係、すなわち、血の関係だと信じているのだ。
だから、平清盛の弟で平安末期の武将である平教盛(一一二八―八五)の「何よりも信じられるものは親子の関係であり、子供は持つべきものだ」という言葉に異をとなえる人は いないだろう。
動物にも本能的な子供への情愛はみられるが、それが「血」への信仰≠ノつながっているわけではない。そこが人間との違いだ。
人間は、無意識的、意識的にその信仰≠フなかに生きている。

もえ出(いづ)るもか(枯)るゝもおなじ野辺の草/いづれか秋にあはではつべき
祇  王

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短歌の意味は「春になって萌(も)え出る草も枯れる草も、みな野辺の草であってみれば、どれも秋にあわないですむはずがない」ということであろう。
秋は春夏秋冬の「秋」とともに、同音の「飽き」に通じて、男女の愛に飽きがきたことを連想させる。
そこで「秋は来ぬ紅葉は宿にふりしきぬ道踏み分けて訪う人はなし」(『古今集』読人知らず)などというように、ダブルミーニングという技法の一つとして使われてきた。
それはさておき、祇王というのは、『平家物語』に登場する人気絶頂の白拍子(舞姫)で、平清盛に寵愛(ちょうあい)されていた。
そんなある日のこと、そのころ都で、次第に人気が出てきた仏御前という白拍子が自分の芸を見てもらいたいと、清盛を訪ねてきた。
清盛は、招きもしないのに押しかけてくるとは何事だと、追い返そうとしたが、そばにいた祇王のとりなしで、仏御前はその芸を披露することになった。
ところが、仏御前を見た清盛は彼女にぞっこん惚(ほ)れてしまい、祇王は追い出されることになった。祇王は、冒頭の歌一首を襖(ふすま)に書きつけて、家を出ていったという。




長崎街道〈松原〉(長崎県大村市)

右手に大村湾、左手に多良山系を眺めながら国道34号を進むと、線路越し
に松原の町並みが見えてくる。注意していないと見逃してしまいそうだ。地名
の由来となった松原はとっくの昔になくなっていた。ただ、車がやっと離合で
きるくらいの通りには落ち着いた構えの旧家やこけむした石垣、白壁があり、
往時の雰囲気を漂わせる濃密な空間があった。
松原宿は松原川(葭川)、変配川に挟まれるこぢんまりとした宿場で、ここを
通る街道の長さは約六百四十b。本陣はなく、長崎奉行や諸大名たちは宿
のほぼ中心に位置する八幡神社前の茶屋で休息を取ったという。むしろここ
は当時から鍛冶が発達していたことで知られる。
■切れ味鋭い松原鎌
松原鍛冶の起源は文明六(一四七二)年にまでさかのぼる。平家一族の名
刀匠・並衡行泰の子孫が松原に移り住み、宿内の八幡神社境内で刀鍛冶を
始めたのが興りとされる。その後、地元農民の要望にこたえて月型の鎌を作
ったとされ、それは今も切れ味と頑強さに優れた松原鎌として近隣の佐賀や
長崎などの農家で今でも使われている。通りを歩くと鋼を打つ音がある時は
勢いよく、ある時は子守歌のようにやさしく聞こえてくる。そのリズミカルな音
は日本人が昔から暮らしの中で培ってきた熟練の技のハーモニーのようだ。
菱屋平八もシーボルトもこの槌音を耳にしたに違いない。この町はそんなこと
を思わせる風情にあふれている。江戸後期には十七軒あった鍛冶屋も、今
では六軒にまで減少。その六軒が協同組合という形でこの伝統工芸を守る。
後継者不足や高齢化など松原鎌を取り巻く状況は厳しい。しかし、その中の
一軒、田中鎌工業の事務所の一隅には修理の順番を待つ鎌やはさみなど
が山積みされている。「常に最高のものをという思いで作り続けている」という
田中昇社長(63)。職人としての真しな思いが松原鎌の伝統を支えている。


〈真手野の舞浮立6年ぶりに奉納〉

武雄市 武雄市武内町に伝わる県重要無形民俗文化財「真手野の舞浮立」
が五日、武内神社の春祭りで六年ぶりに奉納された。
真手野の舞浮立は、武雄領主が平家の落人を住まわせ、雨ごい祈願に奉納
したのが始まりとされ、東真手野地区の六集落で伝承されている。六年に
一度、春祭りの当番の年に奉納している。満開の桜の前で、色鮮やかな衣
装を着て、「荒踊り」「三番叟(さんばそう)」など演目を五時間以上にわたっ
て披露した。はやしの音が鳴る境内では、地区の人たちが花見を兼ねて楽し
んでいた。

西川登小矢筈分校(武雄市)

一日中ウグイスのさえずりが聞こえ、草花や畑の世話も一緒。平家の落人伝説が
残る矢筈地区の分校は自然に満ちていた。


〈方言いろいろ〉

伊万里と佐賀は同じ県なのに方言が微妙に違う。
以前、平家の里に行った折、伝説館の中に、五家荘の方言として百五十語余りが
展示してあり、その中に「とぜんなか」「せからしか」「よそわしか」「ひだるか」などな
ど七十語余り、現在佐賀で使われている言葉があった。
五家荘といえば、平家の落人が追手を逃れて山深く隠れ住んだ所。どうして佐賀と
共通の方言が使われているのか不思議だった。
先日★蓮池(佐賀市東南部・旧鍋島支藩五万石の城下町、平家落人伝説や踊り、
習俗を今に伝える、平家ゆかりの人も多い)の酒蔵での薩摩琵琶(びわ)を聴きに
行った時、その謎(なぞ)が解けた。頂いたリーフレットに平家と蓮池の歴史的な関
係が書かれてあったのだ。八百年の昔、京の都で平家の公家たちが使っていた言
葉が佐賀の方言として語り継がれてきたのかと、感無量。曲目の壇の浦
敦盛≠フ悲話も余計に心に泌(し)みた。三十年ばかり前、朝のラジオで、今は
亡き池田彌三郎先生が古語について語っておられた時、ひだるい≠ニいう言葉
は死語になっていると言われたが、佐賀ではひだるか≠ニ日常使われていたの
で、先生にお知らせしたいと思った記憶がある。吉田兼好の徒然草≠煢ケ読み
すればとぜん≠ネかに通じる。いろいろな文化に触れて、佐賀の方言の奥深さに
あらためて感心した次第です。

こげんとこあるばい=

おしん観音の樹(田代公民館) (佐賀県鳥栖市)

元田代中学校の敷地(現・田代公民館)の隅に、珍しい樹(き)があるのをご存じだろ
うか。名は「おしん(み)観音の樹」。樹齢百年前後とされるこの樹はタブ、クロガネ
モチ、シイの三種四株の樹が歳月を経るうちに絡み合い、一本の樹のように見える
。そして、この樹には多くの伝説が残されている。一つは、源平の合戦に敗れ、平家
の落人とともにこの地に流れつかれた安徳天皇にまつわる話。当時、帝(みかど)
に仕えていた女官「おしん」が、幼くして亡くなられた帝をしのび樹を植えたという。し
かし、当時植えられた樹はすでに枯れ果て、そのあとから新芽が伸び、現在では
何代目かの樹が生えているという。また「間引き」の風習の犠牲となった子供たちの
亡骸(なきがら)を、この樹の根元に埋めたという話もある。死んだ子供の命をおしみ
、観音さまをまつったという。そのほかには、旧代官所の刑場跡にこの樹が植えら
れたという話も残っている。戦後、田代中造成に伴い、雑木林だったところが切り開
かれ、この樹だけが残ったらしい。伝説ゆえに樹を残したのか、あるいは樹が残っ
たことで多くの説話が生まれたのか定かでないが、確かにこの樹、間近で見る者に
不思議な気配を感じさせるのである。


その後の九州戦国末期。
源氏方征服組の九州三人衆の少弐本家はすでに滅びかけで、少弐家の家老の龍造寺氏
が肥前で台頭し、大友氏と島津氏は鎌倉時代より戦国末期まで共に生き残ってることがわかる。
●九州地方
勢場ヶ原の戦い 天文3年(1534) △陶興房・晴賢〈大内軍〉×△吉弘(源)氏直・
寒田(源)親将〈大友軍〉
石垣原の戦い 慶長5年(1600) ○黒田如水×●大友吉統 >関ヶ原の戦い
戸次川の戦い 天正14年(1586) ○島津家久×●仙石秀久・長宗我部元親・
十河存保ほか〈豊臣軍〉
耳川の戦い 天正6年(1578) ●大友宗麟(源義鎮)×○島津義久
高城の戦い 天正15年(1587) ○豊臣秀長×●島津義久
木崎原の戦い 元亀3年(1572) ○島津義弘×●伊東義祐
立花城の戦い 永禄12年(1569) △大友宗麟×△毛利元就
岩屋城の戦い 天正14年(1586) ○島津義弘×●高橋紹運〈大友軍〉[籠城]
筑紫の戦い 永禄10年(1567) ○戸次鑑連(立花道雪)・斎藤鎮実〈大友軍〉
×●筑紫(少弐一門)惟門・広門
田手畷の戦い 享禄3年(1530) ●杉興運〈大内軍〉×○龍造寺家兼・家門父子
(少弐氏家老、家門は龍造寺隆信叔父、家兼は祖父)
今山の戦い 元亀元年(1570)○鍋島信昌(直茂)〈龍造寺軍〉五千×●大友親貞八万
沖田畷の戦い 天正12年(1584) ○島津家久・有馬連合軍一万二千×●龍造寺隆
信軍五万
[14]源三さんからのコメント(2002年02月04日 01時43分57秒 ) パスワード
  

・服部氏言−私にとり佐賀は特別な所です。
小学校の時のクラスメートが東松浦郡鎮西町に引越して行ったり
最近の友人は「後藤新平」家のすぐです。 →源三−江藤新平のことですね?
2人とも、これで郵便物届くよ便利。 →佐賀市の鍋島町か八重溝ですね。
ここは丁度、佐賀本藩の佐賀城の八丁畷のあたり。
服部さん、江藤は桓武平氏千葉氏族の出で本名は江藤新平胤雄です。
彼は典型的な佐賀人です。実直で真面目で頭がきれ融通がきかなくて馬鹿
な人間を見下す。でも尊敬すべきとこも多い人物です。文部省を作ったりして
彼は佐賀藩出身で初代文部卿として現在の教育制度を作った大木喬任(宇都
宮氏族、初東京府知事)と共に江戸遷都を岩倉卿に建白し実現させたり江藤は
初代司法卿を務め廃藩置県、三権分立、議会の開催など司法制度の基礎を
作りました。のち佐賀の不平士族が蜂起した「佐賀の乱」で佐賀は戦火になり
その頭目の香月、朝倉、島や江藤は今、佐賀で行われている、バルーンフェスタ
(熱気球大会)の会場の嘉瀬川河川敷で大久保らにより問答無用で斬首にされ
る。→辞世の句「ますらおの涙を袖に、しぼりつつ、迷ふ心は、ただ君が為」彼は
佐賀の国元の不平士族達をなだめる為に佐賀に下ったが彼らには今政府高官
になっている江藤をうってつけの人物として自分達の頭目にすげたのが真相。
何か、西南戦争の時の西郷どんに事情が良く似ていますね。所詮多勢に無勢。
まっ征韓論を政府に聞きとげられなくて下野したあとだから国に帰ったのは間違
いかな。
また大隈重信は菅公の子孫で早稲田大、二度の総理大臣、外務大臣
や伊藤博文と日本初の鉄道を横浜品川間に敷いたり、大阪の造幣局をつくった
り、日本の通貨単位を「円」に決めたりしました。また立憲改進党、憲政党など
つくり日本の政党政治の基礎をつくりました。他に少弐氏一族で佐賀士族の
島義勇は二年かけて蝦夷樺太探検をし、鍋島直正公が初代・北海道開拓使
長官となった副官として蝦夷開拓使主席判官として、札幌を道都に決め札幌
市街の建設などや小樽の基礎など北海道開拓に貢献、今も札幌に銅像が
あります。特に佐賀藩民は佐賀藩領のある釧路近辺などの道東に移住した
模様。 他に佐賀支藩小城藩士・波多野敬直は大審院判事から、司法大臣、
宮内大臣になり、東宮大夫になり有名。伊東玄朴は長崎に行きオランダ語学び
シーボルトに師事し医学を修め、藩主鍋島直正に牛痘苗の実施を献言しその
接種に力を尽くした。また幕府が蘭方医の禁を解いたので、安政四年江戸に
種痘所を創設、のちの西洋医学所、東京大学医学部の基礎をつくる。安政五年
には幕府の奥医者に召され、戸塚、坪井と共に蘭学者の三大家と言われた。
弟子は数百人にも及びその塾・象先堂からは著名な医者学者政治家が送り出
されている。また相良知安は佐賀藩の藩医の家に生まれ維新後藩主に従って
上京、明治二年医学取調御用掛の職を命じられ、日本にドイツ医学を採用し
今日の医学の基礎を生んだ功績者である。東京医科大創設者。伊東と共に
東大医学部の前身、西洋医学所をつくる。菊池常三郎、小城藩医、陸軍軍医
軍医総監、陸軍中将、晩年大阪で回生病院をつくる。
江藤を描いた小説は司馬遼太郎●「歳月」p716(講談社文庫)895円がかなり
面白いです、司馬さんって幕末は薩長とか新選組などだけかと思ってましたが
我が佐賀藩(62万石、幕末実質)のことや江藤殿のことなど書いておられると
は彼の見識の深さには改めて感服つかまつりまする。他に彼の小説で佐賀藩
を描いたものは、「アームストロング砲(講談社文庫)」「酔って候(文春文庫)の中の
肥前の妖怪」彼以外では高橋克彦の「火城(PHP出版)」で日本赤十字社の父
で京都観光化の父、日本海軍の生みの親の佐野常民を描いてます。他に
(中公新書)の江藤新平、鍋島閑叟の二冊。(吉川弘文館・人物叢書)の大隈
重信、江藤新平の二冊など。(新潮文庫)関ヶ原(下)のp27〜37の鍋島の項。
(教育社)の「葉隠(上)(中)(下)」や(鳥影社)の「翹葉の紋−新鍋島騒動記」
や(佐賀新聞社)の「あるある佐賀の底力・上巻・歴史編」など。
話が本線から大きくそれたので戻しますね・・・。
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隈さん、まず初めに言っておきたいことは、どうも肥前藤津郡久間・辻氏と平姓
兼盛流隈氏=福田氏とは同じ出自かどうか今回は確認できませんでした。
このことをふまえて書かせていただきますね。私見ですが私は同じ平氏(平家)
の出と考えたとしてもどうも違う様な気もします。では一筆献上・・・。
あと佐賀藩士に福田氏も何件かありますね、真木氏も系図を今度、県立図書館
などでコピーしてきますね。隈氏もあれば。それと佐賀藩士に隈氏はいるのだろ
うか?今度知り合いから隈氏系図手に入れよう・・・。
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●久間・辻氏について
この両氏は、平家の落人伝説のある今の佐賀県藤津郡塩田町久間の丘陵地帯
に館があった小領主である。戦国末期は平安以来の武雄領主・後藤貴明の家臣
として、治乱記に登場する。祖先は明らかでなく領内の平家伝説に因んで、平清
盛の孫維盛が隠棲した維盛さんの一堂の伝説に由来する。この維盛の子・六代
妙覚(三位禅師)は密かに久間村の岡田丸に隠棲して一子・六之介が生まれる。
六之助には男子が二人あって兄が久間氏、弟に辻氏を名乗らせたのが始まりで
ある。 戦国末期は後藤氏を離れて竜造寺隆信家来鍋島信房(鍋島藩祖の直茂
兄)の率いる藤津衆(過激武断派)八人衆の一人。辻氏は藤津郡辻村城主。

●久間・辻にについて
肥前国藤津郡の久間と辻の両氏は、もとは同一の姓の祖先で、祖母は平安末期
の大納言藤原成親卿の娘で、平維盛との間に生まれたのが六代(妙覚)である。
一時、妙覚は京都高尾にある神護寺の住職で、文覚の弟子となり三位前司(禅師)
と号した。その後、正治二年(1200)密かに肥前国の藤津郡久間村に移り岡田丸家
の人となり、在野にて一男一女を生むと伝えられる。その裔・男子・六之介の子息
兄弟達がそれぞれ、長男が久間氏、次男が辻氏を名乗り藤津郡北部に分家独立
する。しかし系図にある久間某氏の裔が史書に著れるまで三百有余年を経過、そ
の間の記録らしいものは伝わっていないのが現状です。久間宿の辻丘(藤津郡塩
田町)に「維盛さん」の落人伝説が伝わっている。これは平家没落の後、肥前の塩
田庄に一庵を結んで隠棲した平家の落人で、ただし正史が伝える平維盛は、従三
位のとき兵十万を率いて北陸で戦い敗れ、その後、安徳天皇を奉じて西海に奔り、
元暦元年(1184)一の谷で敗れ★熊野の那智の海に身を投じたこととなっている。

そして、西肥前国藤津郡において戦国平家の末裔と伝えられる久間薩摩守盛種
は、始め藤津郡久間村に居住した。盛種の子、盛貞のときの永録七年(1564)、
武雄の後藤貴明は籾岳城主★渋江公師、原直景の注進によって惟明を総大将
にして籾岳に向かった。これに途中の志田原から参加した久間盛貞と辻右近大
夫善明の二人が、以後、後藤貴明の幕下となって仕え、藤津、杵島郡の中久間
、志田、楢崎の地を分領するようになる。のち武雄後藤家謀反の動きをいち早く
当主に注進し久間、辻両氏は後藤貴明の信任を得る。
天正四年(1576)龍造寺隆信の横沢城攻め(鹿島市)辻左近大夫は鍋島信房
加わり、辻甲斐守豊明、久間刑部少輔盛貞、原山城守直景、渋江豊後守公師
らは隆信に謁して本領を安堵する。龍造寺隆信、政家の幕下知行は「六十町、
久間権太郎盛種、藤津郡久間村城主」

また天正八年(1580)竜造寺政家の柳河攻めに鍋島信房(佐賀<鍋島>藩祖
鍋島直茂兄)を頭にした藤津衆は久間盛周、辻権太、犬塚播磨守盛家(柳川の
宇都宮蒲池一族で、姓の始まりは一説に平家貞からきているとも)、上滝志摩守
盛員(渋川探題と共に下向した甲斐武田一族秋山氏が肥前藤津の上滝に住んで
姓を上滝に変える)吉田左衛門大夫(少弐一族)、永田備前守純晴(梶原源太景
季裔)、嬉野越後守直通(松浦党)、の一族が肥前塩田から船に乗り込み筑後
柳川に出陣する。また秀吉の朝鮮の役には平安以来の武雄の領主・後藤家信
に従い渡鮮する。久間盛周の館は塩田町久間の字館中の説がある。のち彼は
杵島郡武雄の川古に移り、のち武雄の八並の諏訪社に屋敷を賜り隠棲した。

「平氏正衡流系図」(略)
平清盛−重盛−維盛−妙覚(六代、三位禅師)−某(六之助)−某(久間)
└某(辻)
「久間氏系図」(略)
某(久間)−盛種−盛貞−盛周(始め久間村、武雄の川古村、八並村に隠棲)

尚、塩田町の牛坂には久間城跡あり。

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敏達天皇−難波皇子−大俣王−栗隈王−美努王−橘諸兄(684〜757)−−
↑(祖父・継体、父・欽明天皇、弟・用明天皇でその子が聖徳太子)
−−奈良麻呂−島田麻呂−真材−峰範−広相(837〜90文章博士贈中納言)
−公材−@橘好古(大納言)

@−橘好古(諸兄八世の孫、逆臣藤原純友を四国の日振島で討ち取り、勲功と
して伊予国宇和島郡<四国の愛媛県>を賜って在住す。)−為政−行資−
−行平−行順−公盛(鳥羽院より、公の一字を賜り、以後一族は公の一字を
取り、門名としました)−公長−★公業A−

┌公行−公茂−木崎公方(五郎太郎)
├公貞(兄公員に秋田の領を譲り受ける)
|↓(兄に続きのち肥前長島上村に下向)
一時称 小鹿島├橘公員−公綱(宮裾)−公代−公継
|(一時、秋田郡湊領主)
├公泰(宇和庄三間領主)
橘渋江系図(略) | ┌牛島公義 ┌大崎公次
橘諸兄−奈良麿−島田麿−・★A公業−公義−★渋江公村−公遠−公経−公重
(潮見橘氏祖) ├中村公光
└中橋公蔵
(掛橋、土橋、中尾、深沢、田島、井石祖)

−公治−公親−公朝−公匡−公代−公忠−公勢−公親−★渋江公師−公種

鎌倉時代の嘉禎三年(1237)橘諸兄を氏祖とする公業は、肥前国長島庄の地頭と
して下向する。戦国乱世に杵島郡潮見川の北岸に峻立する潮見山を砦として、
度々合戦に登場して興亡を繰り返す名族である。今も潮見城跡と潮見神社あり。
(祭神橘奈良麻呂、公業)

左大臣橘諸兄裔、橘公義左衛門尉公業の公の字は鳥羽院から賜る代々の通字
で、橘一族が用いる。*公業ははじめ公成と称し鎌倉に上り、源頼朝の旗揚げに
参加して仕えた。父祖以来の伊予国宇和庄から肥前国長島庄に移り潮見山に砦
を築いた。頼朝公から与えられた、出羽秋田郡の小鹿島郷は、末子の公員に譲る
。ここは頼朝の奥州藤原討伐の戦功を立てた軍功の土地で、一時、小鹿島を姓
として名乗っていた。のち公員も公貞に出羽秋田郡の土地を譲り肥前長島に下向
してくる。 橘公義と公員の兄弟は鎌倉に在番中、三浦泰村が幕府に反旗を
翻したので討伐に従事する。(肥前橘一族他、井手、林田、桜木など)
-------------------------------------------------------------------

●平 妙覚(たひらのみょうかく)**********************************************

平家の落人久間氏

妙覚は平維盛の子で六代という。元暦、文治の乱(1184〜89)で平家一門が壇ノ浦
で敗れたとき、三位前司と号していた。平家物語では母は大納言成親卿の女で
ある。これは北条時政が京都遍照寺に隠れていたとき捕われたが、神護寺の僧・
文覚が嘆願して救出する。そのとき高雄文覚の弟子となる。

頼朝が死亡するに及び、文覚は獄に繋がれ、妙覚は密かに肥前国藤津郡久間
村に落ちてきた。岡田丸家に隠れて住み、後に同家に一女との間に男子六之介
を生む。薩摩の禰寝氏、家譜は六代(妙覚)の子孫となる。

肥前では六之介に兄弟がいて、兄が★久間氏を、弟が★辻氏を名乗るようになり
、その子孫は平安以来の武雄(現佐賀県武雄市)領主の後藤家の後藤貴明に仕
え忠勤を励む。

ある説には平維盛が密かに六代を訪ねて隠れ住み、辻の家宅の地名に烏帽子
を置き、この地を烏帽子岩という。烏帽子岩は久間村にある。

「桓武平氏」高望流(略)

平清盛−重盛(嫡男)−維盛(嫡男)−妙覚(六代丸)−六之助−某(久間氏祖)
└某(辻氏祖)

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●平 維盛(たいらのこれもり)**********************************************

落人伝説の維盛社

平重盛の長子で従三位に叙せられる。右近衛少将の頃容姿端麗であることから世
に、桜梅少将という。源頼朝の追討使となって駿河富士川に陣したとき、水鳥の羽
音に驚き戦かわずして奔る。兵十万を率いて北陸に遠征して、源(木曽)義仲と砺
波山で合戦して大敗する。一の谷の戦いで敗れると紀伊に逃れ高野山で剃髪
して静円に改る。元暦元年(1184)三月二十八日二十五才のとき熊野に往き那
智の海に投じて没する。佐賀県藤津郡塩田町久間に維盛社があり、次の様な伝
承が伝えられている。「昔、三位中将維盛落人となり久間村光武の山中に来る。
乗っていた牛が倒れ、その牛を葬ったところが牛石神社である。中将の立ち寄る
地点に植えた松を中将松と呼んでいたが、先年の大風で倒れた。維盛は竹薮に小
庵を結び世を忍ぶ。村人、その風姿にただならざるを敬い日々食を運んで饗する
。たまたま両三日食を運ぶものがいなかったら、中将は飢えて隣人を訪ねる。隣
人がいうには途中草深く毒蛇が多いので恐れて来ることができなかった。中将は
これを聞き、その害を取り除く約束をした。それ以降、毒蛇は断ち人々はその害
を免れた。今も蛇(マムシ)除けに土地の土を遠くから持ち帰る人があるという」
この維盛社は下久間の小高い丘にあり、平維盛の旧跡の表示がある。それによ
ると文政六年(1823)十二月吉日明学坊琳仙代の側書が刻まれている。
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●平 重盛(たひらのしげもり)
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水堂さんの宝塔

平重盛は太政大臣平清盛の嫡男で、久安六年(1150)十二月に従五位下蔵人に
叙任する。保元の乱、平治の乱では父・清盛に従い戦功を重ね左近大将となる。
英邁温厚な人柄は声望を集めて、後に内大臣に任じられる。
父清盛としばしば意見が対立して、三年にして内大臣を辞任する。法名を浄蓮と
改め間もなく病に伏せる。高倉天皇が薬を賜い、法皇親臨して小松第に見舞う。治
承三年(1179)七月二十九日四十二才で没する。重盛は居間の四方に各々十二
仏像を安置し、像ごとに長明灯籠を懸け、処女四十八人に仕えさせた。故に灯籠
大臣とも称する。

佐賀県杵島郡橋下村芦原の村社若松神社の由緒に、次にような記載がある。
「治承三年(1179)三月、平重盛杵島郡永島庄医王寺の静覚法師の下に住す。養
元年(1181)に熊野大神を分祭し、寿永二年(1183)には日輪山安福寺(通称・水堂)
月輪山勇猛寺を建立し、文治二年(1186)に卒す。年五十」

長秋記に長承二年(1133)平忠盛(清盛父)、肥前の神崎荘で宋船と貿易を行う。
また平清盛は杵島郷に大功田が与えられ、教盛は鹿瀬荘に領地があり、領内の
千住に治承三年(1179)経島寺を建立する。自ら金泥で法華経を浄書して、これを
石棺に納め霊場として埋めたのが経の島であるとされている。今も経島寺の門前
に小さな濠を巡ぐらした小島が残っている。

若松神社の由緒は重盛の没年が異なるが、安福寺には「重盛の塔」と呼ばれる宝
塔がある。基壇には元応元年(1319)七月建立した銘がある。

他に杵島郡北方町芦原3003医王寺山中腹の★歓喜寺(曹洞宗)の寺伝によると
★平重盛草創になるセンケ寺(遷化・千華・千軒)の焼失後に、焼け残った薬師
如来を本尊として建立されたと伝えられている。銅像薬師如来立像(県重文)は
像高54.5cm、左手に薬壷をもった一般的な薬師如来であるが、技法的には槌で
たたいて成形した銅板を鋲(びょう)どめにして組み立てて作成してある。肩はな
で肩で柔らかく、面相は柔和な童顔であり、衣紋などは平安時代末期の特徴が
ある。なお背面に「承安二(1172)年十月 日」の紀年銘があるのは貴重である。

「桓武平氏系図」(略)
平正衡−正盛−忠盛−清盛(太政大臣)−重盛−維盛−妙覚(六代丸)
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●平家貞(たひらのいえさだ)
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日向太郎誅伐の功で藤津郡司

佐賀県鹿島市の祐徳稲荷(日本三大稲荷・鎮西日光とも) 神社史によれば
平治の乱(1159)後に、肥前国養父郡綾部荘の日向太郎通良を誅伐した功で
筑後守(平)家貞が藤津郡の庄司となる。家貞の働きは源平盛衰記や歴代鎮西
誌にあり、平清盛の命を受けて西府に下向、日向太郎の綾部白虎城の押し寄せ
合戦に及ぶ。この★家貞は容貌美麗の武者で、類党三百三十五人を討ち取り、
通良ならびに子息・通秀、親良以下の首七つを携え京の七条河原の獄門に晒
し鳥羽院の御幸を仰いだことが肥前旧事に記載されている。
また能古村誌(佐賀県鹿島市)の語るところによれば「奢る平家は久しからず
して破れ西海の藻屑と消え去った時、その落人が藤津郡にもやって来た。一体
平治の乱後は、平家貞が(肥前国)藤津郡を治めていたが、平家が滅んでから
★平維盛が久間村の熊野に逃れたきた、★古枝村の山間なる一小邑(村)が殆
ど平氏姓を名乗っているのも必ず平家の落人と関係があると断じていいだろう。
郷社三岳神社も当時の勧請になると云うから荘司・平家貞に関係があるに違い
ない」とある。


「桓武平氏系図」高望王(略)
┌平高棟−惟範−時望−真材−親信−行義−範国@
| @−経方−知信−時信−平時忠(1127〜86「平家に
|あらずんば人にあらず」 └時子(清盛室、二位の尼、
|弁で有名。) 安徳天皇抱き壇ノ浦入水)
桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望−国香−貞盛−維衡−−−−−−

−正衡−正盛−忠盛(伊勢平氏祖)−清盛−重盛−維盛−六代(妙覚、六之介)
├維盛
├季衡−盛光−盛行−頼宗(伊勢氏祖)
├貞衡−貞清−清綱(安濃、桑名祖)┌家次(平田冠者、平家滅亡後、伊賀で
| |源氏に対する反乱、伊賀三日平氏の乱
| |を起こした。)
└貞季−範季(筑後守)−●平家貞−−◎貞能(筑後守、平清盛郎党として鹿
┌----┘ ↓ ↓ヶ谷事件鎮圧◎九州平定に活躍
|( 筑後守、保元・平治の乱殿上の闇討ち ↓平家都落ちの際出家し肥後入道
| で勇名をはせた◎北伊賀所領の代官) |と称した。後、宇都宮朝綱の縁で
| ↓源頼朝の罪を許された。)


├正季−範季−季房−季宗−◎平宗清(通称弥平兵衛、平治の乱に敗れ東国
| に逃れる途中、父・義朝のはぐれた
| 源頼朝を尾張国で捕らえた。)

└兼季−盛兼−信兼−◎平兼隆(検非違使となったが父に訴えられて、伊豆国
山木郷に流され、山木判官と呼ばれた。
やがて伊豆の目代となったが、源頼朝旗揚
げの血祭りとした討ち取られた。)−−T
−T−山木(八巻)兼盛(高野山へ、のち甲斐へのち武田家家臣。
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●平敦盛(たひらのあつもり)
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敦盛は武将・平経盛(つねもり、清盛三弟)の子で従五位に叙せられていたが
官職をもたなかったので、世に無官大夫と呼ばれていた。
元暦元年(1184)二月七日十六歳のとき、一の谷の戦いで源義経の将・
熊谷次郎直実に斬られて没する。
★佐賀県藤津郡塩田町の常在寺の境内に天正年間(1573〜91)に造立した銘
の宝筺印塔に平敦盛の供養塔(石塔婆)がある。

「桓武平氏(高望流)系図」(略)


正盛−忠盛◎−清盛−重盛−−−−維盛−六代(妙覚)−六之助?−久間?
| | | └清重 └辻?
| ├基盛−行盛├資盛−盛国(北条氏に仕う)−関実忠
| ├宗盛−清宗| └長崎盛綱
| | └能宗├清経
| | ├有盛
| | ├師盛−勢観
| | ├忠房
| | └大炊御門宗実(大炊御門経宗へ養子)
| ├知盛−知章
| | ├知忠
| | └知宗−宗重尚 (対馬守護代)
| | └宗助国(同上・元寇奮戦戦死)−・・・
| ├重衡(母時子、源頼政挙兵後、頼政に通じた東大寺
| | (興福寺を焼き払い仏敵とののしられた。備中
| | 水島で源義仲を破り武功をたてたが、一の谷
| | の戦いで生け捕られ鎌倉に送られる。一時助命
| | の動きもあったが奈良衆徒の強い要求で畿内に
| | 戻され木津川で斬られ、奈良坂で晒し首にさる)
| ├知度
| ├清房
| ├=清貞(中原師元子)
| ├=清邦(藤原邦綱子)
| ├徳子 (高倉天皇中宮、安徳天皇母、建礼門院。
| | 安徳天皇入水後投身したが源氏方に
| | 助けられ、洛北大原寂光院で幼帝の菩提
| | を弔いつつ余生を過ごした。母平時子)
| └女(他六人省略す)
├家盛
├経盛−経正 −・(生嶋)
| ├経俊
| └敦盛●
├教盛−通盛−通衡
| ├教経
| ├業盛
| └仲快
├頼盛−光盛
| ├保盛−頼満−保清
| | └保教−保定(塩崎)
| └為盛
└忠度−忠行




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最後に紀伊国色川に平維盛の末という豪族清水家があり、小松系図に<平維盛、
紀伊国有田郡保田山中に隠れ、清水清左衛門の家に潜み、その女を娶る>とある
。これも肥前藤津に隠れ棲んだ話と酷似していますね。岡田丸家に身を潜めた所
なんて一緒ですね。父親・維盛は紀州に、息子の妙覚(六之助)のほうは、紀州か
ら西国目指して肥前国藤津へ・・・なのかな。どちらも元平家の地盤ですね。
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●杠 治部少輔(ゆずりはじぶしょうゆう)
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神代三人衆

杠氏の祖は平清盛の末裔とあるが嘉吉二年(1442)阿波国の杠日向守が、
肥前国神崎郡三瀬村の山内野波に来て野波神社の氏子を領民にしたのに
始まる。野波神社は日向守が奉供した弓絃葉権現(譲葉権現)で、領内の
高所に奉祀して宗社と定めると、この地に館を築いた。
日向守の子・種満の次男・清右衛門は神代勝利の娘を嫁に迎えて勝利
に接近、神代勝利の時代になると神代三人衆と呼ばれる三瀬氏(祖先は、
文永元年・1264年・関東の野田周防守大江清秀で、一族を率いて肥前国
神崎郡山内(地区)の三ッ瀬村に杉屋敷を構えた。五代後の房家のときに
三瀬を称した。)松瀬氏、杠氏が肩を並べるようになる。治部少輔は種満
の孫にあたり、伽葉山清流寺を開基した。天正十年(1582)四月十日卒、
法名は宗伝清心と号す。

「杠氏系図」(略)
平右衛尉阿波守−日向守−種満−平右衛門−紀伊之助−盛満
└清右衛門 ├治部少輔−種満
└民部少輔

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●平清澄(たひらのきよずみ)
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寛助僧正の代の藤津郡庄司

長秋記によれば元永二年(1119)十二月二十七日「藤津庄の庄の平清澄の
不正が発覚して仁和寺の寛助僧正が京都に召還し、代わって範誉という僧
が藤津庄司に任命されて下向した。平清澄の子・直澄は、そのまま藤津庄に
残り、新しく赴任してきた庄司の範誉に仕えた。ところが直澄は京都の父へ
時々米を送っていて、三、四回この米が差し押さえられたことがある。怒った
直澄は、庄司の範誉と、その妻や家来を島に閉じ込めて食料を与えず、また
範誉の家来五、六人を斬ってしまった。そこで平正盛(清盛祖父)が朝廷の命
を受けて藤津郡に下向して、直澄を捕らえて処刑した。その首は京都に送られ
七条坊門の河原にさらされた。平正盛はこの功労で一階級の叙勲を受けた」
とある。
藤津郡の平直澄を抽伐した平正盛は、処刑した首を携えて京に帰った。
この正盛の子・忠盛、孫・清盛は、一家二代にわたって太政大臣に昇進、
平家一族の全盛期をつくった。

この直澄の事件は、藤原純友の孫・直澄の大村入部説を否定するもので、
この平直澄が藤津大村の始祖にあたる人物に見直されている。

長秋記によって寛助僧正の代に平清澄が、藤津郡の庄司であったことが
伺える。
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●平直澄(たひらのなおずみ)
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有馬・大村の祖先は藤津郡

長秋記によれば白河院の元永二年(1119)十二月二十七日、藤津の荘園を管理
する庄司の平清澄に不正が発覚した。仁和寺の寛助僧正は清澄を京都に召し、
代わって範誉という僧が藤津庄司に任命されて下向した。ところが清澄の嫡男・
直澄は、そのまま藤津郡に留まり新たに赴任してきた範誉に仕える。

この直澄は都にいる父を哀れみ、藤津郡から京都に送る租米の中に紛れて、密
かに米を送り届けていた。これが三、四回発覚して差し押さえられ、怨心を抱いた
平直澄は荘司・範誉の館を襲撃して、範誉やその妻、家来を島に閉じ込めて食事
を与えなかった。また範誉の家来五、六人を斬った。この事件が京都に伝わり、
朝廷では平直澄追捕の宣旨を、平正盛(清盛祖父)に下した。この平正盛は、
後年に太政大臣となる平清盛の祖父にあたる人である。

平正盛は郎党を従え肥前に下り、平直澄を捕らえ処刑すると、首を都に送って
上洛した。平正盛は京都四条河原で検非違使が立ち会って、直澄の首の受け渡
しをしている。四条河原に晒された首は、父のもとに米を送った子の情愛も絡
んで、都の人々には衝撃的な事件となったらしい。この事件を記した★長秋記
は左大臣・源俊房の第二子・師時が著した日記で十三巻からなる。一般には
水月記又は権日記で知られている。

まず肥前国藤津郡で捕らわれ処刑された平直澄について、姓氏家系大辞典の
著者太田亮は、覚鑁(かくばん)上人の父■伊佐平次兼元の伊佐氏(常陸国伊佐
から起った平国香曾孫の平為賢が称す)が絶えていることから、この平直澄の
反乱は伊佐平次の後裔と考えられると断言している。更に高来郡(島原半島)の
有馬氏祖先は藤原純友と称し二代目の直澄は純友の子としている。藤津郡の
伊佐氏は明らかに平氏であるため、平将門の裔とするより後世に藤原純友の
裔に誤り伝えられたものである。これは直澄の澄が、純友の純と音が通じている
からである。このような例は、単に肥前だけに止まらず、薩摩においても同様に
見受けられると云っている。

これは肥前国彼杵郡の大村氏の系図も同じで、藤原純友は東国の平将門と
呼応して天慶の乱(941)を起こした謀叛人である。朝廷では直ちに追討の宣旨
を勅し軍団を発したが、藤原純友は伊予国(四国愛媛)に逃れた。その孫の代
になり罪を許され正暦五年(994)伊予大洲から肥前国の大村に下向して、
大村氏と有馬氏の祖先となるのである。また純友は藤原氏、将門は平氏である
ことから、自分たちの澄みの通字から純友の純と混同し、また藤津郡で発生し
た平直澄事件とダブり合わせて、後世子孫が混同し、大村氏や有馬氏の藤原
純友起源説が生まれたとしている。

■伊佐氏−常陸国新治(にいはり)郡伊佐発祥は桓武平氏平繁盛の孫・為賢に
始まる。(弟の為幹は大掾氏(だいじょう)の祖。★肥前の伊佐氏は刀伊(とい)
入寇に功をあげた平為賢後裔が土着したもので同系。(その他宇多源氏佐々木
定綱−行綱を祖とする長州の伊佐氏、秀郷流結城氏族など。)

桓武天皇−葛原親王−高見王−高望王(平高望)−

−平国香−貞盛−維衡−正度−正衡−正盛−忠盛−清盛−重盛−維盛−六代
| ┌兼忠−維茂(余吾将軍、有名)−茂貞(城氏祖) (妙覚)
└繁盛−維幹−為賢●(伊佐氏祖、兄)−・・・(孫)伊佐平次兼元
| (肥前藤津住)└覚鑁上人
└為幹(大掾氏祖、弟)−・・・
「平氏系図」長秋記(略)
平清澄(藤津荘司)−平直澄(同左、斬首)−・・・・有馬経澄(相馬中務)

平(伊佐)為賢−・・(孫)伊佐平次兼元−・・・平清澄−平直澄(→大村直澄?)
−・・・有馬経澄(相馬中務荘司)(有馬氏・大村氏祖?)


・・・・−大村氏、有馬氏祖だと太田亮
氏や最近の学者達の定説になっている。
大村氏有馬氏の祖先は藤原純友ではなく平姓であるという資料がぞくぞく
出てきている。


●伊佐平次兼元(いさへいじかねもと)
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平為賢が伊佐氏の起こり

伊佐平次兼元は興教大師覚鑁上人の父で、歴代鎮西志には平為賢の孫と記され
ている。承徳元年(1097)は異国の軍船、百余雙が松浦の沖や玄界灘の海岸に押
し寄せた事件がある。
蓮厳院由緒云々によれば兼元は九州の探題(一定の広い地域の政務訴訟軍事を
つかさどる要職)で、もとは豊後国に住んでいた。異国船が襲来した時、肥前藤津
(今の佐賀県南西部)の荘の総追捕使で能美庄の行政村に隠棲していた。兼ねて
から武勇の誉れが高い兼元は、大宰府の軍令に従い肥前藤津の郡士を率いて出
陣したとある。異国の船は九州沿岸に接岸して、陸に上がった賊兵は各地で狼藉
を働きひるむ気配がないそこで鎮西の武士、伊佐平次、菊池、大友、宍戸、松浦
党が兵を出して撃退した。→(この記述明らかにおかしい?)
覚鑁上人の蛍蝿抄には、伊佐平次兼元が強弓の使い手として知られている。この
異国船の撃退では、いつも敵陣の前を駆け、矢を次々に繰り出して射る。まるで弓
を離れる矢は「飛煎空に乱れて雨脚よりも果多し」とある。ひるんだ隙を見て、敵の
虚を衝くのである。味方の陣が一斉に馬を乗り出して異賊を追い詰めると、蜘蛛の
子を散らす様に船に逃れる。これを兼元が矢で射る。あわてて乗った船が傾いて
沈没、中には波に呑まれて溺死するものが続出した。兼元活躍は都に注進されて
、叡聞に達し太宰の少弐の役職に補されて褒賞を授かったとある。
(↓こちらが正しい!)
しかし異国の船の来寇は、実際は承徳元年を溯ること七十八年前の寛元三年★
(1019)のことである。沿海州(今のウラジオストック辺り)、黒龍江(ハルピン、ハバロ
フスク辺り)地方の女真(人)族である刀伊国が、軍船を連ねて我が国の対馬、壱岐
、筑前(博多辺り)の海岸に押し寄せた★刀伊の乱である。このころ東国の武士達
も防人として九州に派遣されている。常陸国伊佐から起った●平為賢もその一人
で常陸大掾国香(平国香)の曾孫にあたる。所領は常陸国真壁郡伊佐庄にあり、遠
く九州の大宰府に警固の任に来ていた。

その平為賢が刀伊の乱で、勲功を挙げたことが小右記に記されている。
「散位の平為賢、前大監の藤原助高、大蔵光弘、藤原友近、紀重方の五人」である。
平為賢は抜群の働きをして女真人を撃退した。よって豊後国に所領を賜った。これが
承平二年(935)の平将門の乱とすり替わった。将門の乱は歴史の記憶に深く膾灸し
た事件であり、これと為賢の軍功を合体して伊佐平次兼元の武功が生まれたと推察
できる。伊佐平次兼元の武功は、実際は平為賢(伊佐氏祖)の武勲ではないかと思
われる。
以上のことから伊佐平次兼元の祖は、桓武平氏の流れを汲む平為賢をもって始
まり、その功により太宰少弐補に任ぜられ肥前国藤津に大庄田四ヶ処を賜り、家門
を繁昌させたと考える。能美庄(今の佐賀県鹿島市内)を含めていま大庄田の所在
は不明である。伊佐平次兼元の夫人は藤津の豪家橘氏の娘で、能美庄行政村に
城郭を築き寓居する。村人は兼元に畏敬の念を払って接し、その人となりは「郷梓
の長幼常に畏敬をなし、路頭にては腰を折り、面前に膝を屈す。」とある様に、村人
の尊敬を集めていたことが伺われる。
二人の間に覚鑁(ばん)上人の弥千歳が誕生したのは、嘉保二年(1095)である。
「ある夜、夫人に胎内に宿った明星が夢を孕(はら)み、やがて満月の様に満ちて
男子を出産した。」とある。(覚鑁上人誕生地は現・佐賀県鹿島市納富分行政)
兼元の四人の男子の第三子の弥千歳のことである。この頃、兼元の家に出入り
していたのが浄土山の八百比丘尼(びくに)の斡旋で、蓮厳院住職覚成阿閣梨
(あじゃり)のもとに弥千歳を預けることになった。
しばらく病に伏せていた伊佐平次兼元が急逝したのは長治元年(1104)四月十二
日で、弥千歳が蓮厳院に修行に入った十歳のときである。幼い頃から父の様にな
りたいと願っていた弥千歳は、ある日、訪ねてきた国司からひどく叱られている無
残な父の姿を見て、仏心に目覚めて発奮修行するのである。幼い胸に父への
憧憬は、やがて大きな夢となって成就する。その後、藤津郡に伊佐の姓は絶えて
、行政村に覚鑁上人の誕生地のみが語り継がれるようになった。
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●相馬中務庄司(そうまなかつかさしょうじ)
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七浦音成に秀岡城を築く

祐徳稲荷神社史によると建保年中(1213〜18)に藤津郡七浦村字音成の天子社の
由緒に、相馬中務庄司が社の近くに小城を築いたと伝えている。現在、鹿島市音成
にある天子社はてん天平年間(729〜48)に、日向国高千穂の大神を勧請したと伝え
る鎮守社である。
この由緒の語る城は秀岡城というが、城主の相馬中務庄司は間もなく上洛して廃城
となり、今の「城の上」の地名である。
有馬氏系譜によれば⇒有馬の祖・経澄と大村忠澄は兄弟で、二人を乗せた船は建保
年中(1213〜18)に口之津の宮崎鼻に着船して、経澄が高来郡(島原半島辺り)、忠
澄が肥前国藤津、彼杵両郡を領したとある。この有馬経澄は遠江守、遠江権守、
または有馬左兵衛尉を称える。
一方、長秋記の百練抄には肥前国藤津は荘司★平清澄の子の平直澄の末孫が
大村、有馬の始祖とされている。このことから山口良吾は相馬中務庄司は、有馬中務
経澄であるという。
また天正四年(1576)有馬は竜造寺隆信に追われて藤津郡から撤収したが、七浦郷
についてはその後も固執したことが伺われる。天正十五年(1587)二月に七浦郷五十
六人に咾(おとな)達は、駐在していた有馬の代官五十六人を襲撃して殺害、佐賀の
支配下になる様に竜造寺隆信に請願している。また西葉(さえ)の竜安寺は有馬代官
の菩提所で、植松藤左衛門の開山である。
以上の関連から七浦と有馬氏との関係は深く、相馬中務の存在も否定できない。尚
天子社は七浦郷中(西葉浦、母ヶ浦、塩屋浦、宮道浦、音成浦、嘉瀬浦、竜宿浦)の
鎮守守である。また相馬中務が築城した秀岡城は、境内背後の丘を称す。

「平氏系図」(略)
平直澄(藤津荘司)−直澄(処刑)・・・有馬経澄(★相馬中務)
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●大村直澄(おおむらなおすみ)
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肥前国彼杵郡大村に下向

佐賀県鹿島市松岡神社は、寛弘年中(1004〜11)に大村遠江守直澄が社殿を創建
したと巷俗は伝える。直澄が浜町の仁八田山に日本武尊(やまとたける)の遺跡を
たずねて、その威徳を慕い神殿を造営して奉祭したとある。
・直澄は大村家覚書で★藤原純友の孫、永延二年(988)朝廷は祖父純友の罪を許し
て、従五位下の遠江守に任じた肥前国藤津、彼杵、高来の三郡を賜り、純友の霊を
慰めたという。その為、伊予国(四国愛媛県)大洲から彼杵郡大村に下向して来て
定住、※ 彼杵大村氏の祖とされている。
大村に下向してきたのは正暦五年(994)で代々、師澄、永澄と続き、八代目・幸澄の
長男が島原半島の高来郡に※ 有馬氏を起し、次男・忠澄が、肥前彼杵、藤津の二
郡を相続する。
・この藤原純友の乱とすり替えられたとされるのが同じ※平氏で、元永二年(1119)
十二月に、「藤津庄司・★平清澄 男直澄首入洛云々」の事件である。
直澄の首が京都の賀茂川の河原に晒され、たくさんの野次馬に紛れて☆源師時が
見物に来たと、★水日記は事件のあらましを記している。
・その為・大村直澄の存在が異なって、大村家記や将門純友東西記をベースにした
従来の※ 彼杵大村系図が偽者扱いを受けている。
更にこれを証左するのが南北朝に発生した彼杵郡の※ 小地頭の一揆である。この
連判状の署名は彼杵郡全土に及ぶ※ 七十二名が列記されているが、※大村氏を
名乗る地頭の名前は存在しない。→これ以降に藤津大村氏が大村に移住して、
大村氏を称えるようになったと見られている。
また大村氏から分かれた※ 有馬氏についても、同様な趣旨で有馬晴信伝が記され
ている。最近では吉川弘文館の国史大辞典も同様である。
・ところで島原半島史が伝える鹿島の長谷場系図に、直純(澄)は延長七年(929)
に生まれ、弥四郎左衛門尉を名乗る鹿島越前守とある。鹿島郡司弁済取納使を
仰せ付かっている。

「大村直澄の検証」
大村直澄 永延二年藤津、彼杵、高来の三郡を賜う(肥前叢書)
遠江守直澄、彼杵郡大村に住す(大村家覚書)
伊豫(予)掾純友、後反誅而(して)死、遺種尚存為大村氏(大日本史)
純友霊、赦与覚罪、直澄遇赦、任遠江守(野史)
元永二年藤津荘の荘司平直澄の不正が発覚(長秋記)

→※最近、三城の北の出丸から発掘された五輪塔の碑銘に「大永三年(1523)
七月十二日孝子敬白、★平朝臣前勢州太守純伊」とある。これは大村十六代目
の大村純伊の名前で、明らかに大村氏が当時、★平姓を称していたことが伺える。
[15]服部 明子さんからのコメント(2002年02月05日 07時25分40秒 ) パスワード
  

失礼しました。
江藤新平さんでしたっけ?
犬養道子さんのご先祖の後藤さんと混乱してしまうのです。


人名については新たに他のスレッドに転載しようか、と思っています。

隈さんがひょっとすると六代の子孫?
面白いお説が出て来ましたね。
[16]さんからのコメント(2002年02月05日 09時57分09秒 ) パスワード
  

源三さん

久間氏に関する詳しい情報、どうも有難うございます!

肥前・藤津郡の久間氏は、平維盛末裔と伝えられているのですね。

姓氏家系大辞典によると、江戸幕臣の久間氏は寛政系譜に「平忠度流」と載せ、元は隈と称していたそうです。
すると幕臣の久間氏は、藤津郡の久間氏とは別の系統なのかも・・・

隈氏系図は佐賀県立図書館にあるのですか。
私は久留米の図書館の方にしか問い合わせていなかったものですから、
分かりませんでした。

>朝日寺、大善寺、浮羽、真木なんのことかわかりませんでしたが

源三さんは九州の歴史に詳しい方なので、
久留米周辺の落人伝説についても既にご存知なのでは、と勝手に思い込んでいて、
説明を省略してしまいました。
どうもすみません。m(_ _)m

三潴郡城島町から筑後川を遡ったところ、久留米市周辺には、安徳天皇が壇ノ浦から平知盛らに護られて落ち延び、隠棲されたという伝説が残っています。
以前下記のスレッドに紹介させていただきました。

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100085_7.html

真木和泉は久留米水天宮の神主でした。
水天宮縁起では、真木家は平知盛の孫の「平右忠」に始まる、とされています。

久留米水天宮のHPより;
http://www.suitengu.com/info.html
[17]源三さんからのコメント(2002年03月07日 07時38分21秒 ) パスワード
  

隈さん読んでいただけましたでしょうか。
一様、隈氏に関しての客観的、間接的な事柄をより多く並べ立てることにより
外堀を埋め立て、以後の隈氏の出自、真相という本丸攻略をより可能にしてくれる
こととして、肥前筑後の豪族の出自や歴史行動を記載しました。
今後は隈氏に関する直接的アプローチとふせてこの問題を解決により近づけたいと思い
ます。それに加えて平安から筑後と肥前の歴史関係などを含め人的交流などもその
範疇内と見なして同時に見ていきたい。
その上で、隈さん独自が推理推考できる形かベストかと思います。
第三者の僕が並べられた隈氏関連情報を推理解釈して強引に話しを帰結する形
よりも、あーだこーだ話を帰結解決するより一歩手前で話を膨らませている方が
楽しいかなって思っています。最後に自分自身何を書いているかわからなくなって
きましたがざっとこれが僕の私見です。では行ってまいります。そんな完全にわかる
よりは一歩手前で自分なりに並べ探求した歴史を推理解釈し思いを馳せることが
一番大切なことだと思います。
[18]西海大寺さんからのコメント(2004年03月07日 18時46分08秒 ) パスワード
  

こんにちは!僕は現在は福岡市に住んでますが、父の代まで佐賀県小城郡小城町大字松尾(俗称:三間寺)で代々生活してきたと聞いております。現在でも墓はそこにあり、供養もそこで行っております。
小城と言えば、かつての天領であり、その昔は、九州千葉氏の本拠として築かれた地です。
平家物語を語る場で、源氏の流れを汲むと思われる九州千葉氏について語るのは少し気が引けますが、少し我慢して聞いて下さい。
僕の先祖の家系は代々小城町三間寺にある円通寺という寺の守護を職業としてきたらしいのですが、寺侍というのでしょうか? その円通寺に今も残る千葉氏から寄贈されたという鐘があります。千葉氏のお姫様のお墓もあります。しかし、不思議な事に、その寺侍であった我が家の家系を自分なりに調べてみたのですが、家紋、苗字ともに平氏の流れを汲むものだと聞かされました。家紋は梅鉢、しきたりとして、男は梅鉢に丸囲いを着け、女は梅鉢のみで囲いを着けることが許されていないのです。
さらに、本寺の円通寺の歴史をみると、時代により、宗派をコロコロと変えるなど、とても興味深く、しかし、整理して理解がつかないようになります。
皆さんの中でもし、この小城町三間寺という地について知識をお持ちの方がおられれば、是非とも教えてください。本気で自分のルーツを探しています。
またこのサイトには立ち寄らせていただきますが、仕事で時間が限られているので、よければ僕の携帯のEメールに送っていただければ光栄です。
アドレスは howlong-they-moan-me@ezweb.ne.jp か takuyaiba@hotmail.comにお願いします。
追加情報ですが、今付き合っている彼女が、元々は神崎郡の大地主で、姓を鴨池と名乗っていた一族の末裔らしいです。現在は、井手という姓ですが、先祖代々、祐徳神社と深い繋がりがあるらしく、ずっと神道の神官の一族であったと聞いています。神崎郡の大地主で、神官一族の末裔、更には、鹿島の祐徳神社との深い関係・・・まさかと思いこのサイトに足を進めました。平氏の血を引く者でしょうか?  もしそうであれば、なお更自分のルーツが知りたい。我が家も元々は小城と三日月町の大地主であった事実と、小城が千葉氏(源氏)の流れを汲む地であるという前提・・・
別に事実や史実がどうであれ、僕の気持ちは変わりませんが、もし、遠い昔からの縁があると思えれば、そこにロマンスを感じます。先祖代々の地を去り、福岡で産まれた僕にとって,佐賀県と、遠い昔の先祖が住んでいたであろう小城は魅力で一杯です。無機質なコンクリートの中で育ち、故郷をしらない最初の世代なので、(父の代までは小城)自分の先祖の遺伝子が視覚や聴覚や嗅覚から得た情報の裏付けを知り、後世に伝えるのが僕の義務だと感じてます。
やはり、僕にも佐賀人の血が濃く流れています。理屈を追い求め、事実を追求し、善悪をはっきり見極める、そして、理解した上で、初めてものを言う。それが出来なければ、自分は意味が無い。そうして自分を律する事が日々の勉強であると考えてしまいます。自分自身の出所を知らないと言う事は、自分としての正体(identity)が無いという事だと思い、更には、identityが無い者はこれから先の国際化、多元化される時代に生きる人間としてあまりにも魅力が無いと思い、悲しくなります。
仕事柄、外国人とよく接するのですが、自分が日本人であり、日本人はどこから来た人であり、自分の先祖は日本の中のどこどこのどこから来たひとで、祖父さんがいて、父がいて、そして自分が今存在するという説明内容が無いととても苦労します。一般的なアメリカ人みたいに、自分は自分で今生きて互いに接している者同士の事を分かり合えればそれだけで良いとはどうしても思えません。
例え自分の先祖が河原乞食であったとしても、「僕の先祖は〜川の土手で〜時代に〜をして生き抜いた」と「生き抜いてきた先祖達」を誇りに思いたいのです。アメリカ型追及のこの時代にこんな話しをすると馬鹿げているとよく言われますが、日本の歴史上で重要な役割を果たしてきた佐賀県の方にならご理解いただけるのではないかと思いました。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月08日 03時47分52秒 ) パスワード
  

西海大寺さん

初めまして。

>家紋は梅鉢、しきたりとして、男は梅鉢に丸囲いを着け、女は梅鉢のみで囲いを着けることが許されていないのです。

丸をつけるのは「武士」という意味だと聞いた事があります。
もちろん丸をつけない家もありますが、そういう話を我が家のホンヤから聞いたとこがあります。

このレスを新たに新スレッドとして立てさせて頂きますね。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月08日 03時49分44秒 ) パスワード
  

それから九州千葉氏も千葉の千葉氏の流れでしたら
坂東平氏から源氏方になったのでもともとは平氏ですから御安心を。
[21]吉 富 正 和さんからのコメント(2006年02月24日 14時59分21秒 ) パスワード
URL=http://www3.ocn.ne.jp/^yositomi/

 久間村上久間の生まれです。宜しくお願い申し上げます。

 久間の地たるや、藤津郡に一隅に介在せる、一小天地過ぎるとも、之を遠く神代の大昔にほうらむか、須古、錦江(杵島)歌垣杵島山を中心として、所謂その名クマ『神』の示すがごとく、日本最初熊野の地なることは、日本書紀をはじめ、諸種の文献に之を徹して、明瞭に立証するを得るものなり。

  太古は熊野の里 鎮西八郎の去来 平重盛の杵島落 平惟盛久間村に来る 隅口の合戦 龍造寺胤直久間冬野に戦死す 久間盛貞籾岳で戦う 龍造寺冬野原古戦場にて苦戦。     と、、。久間村郷土志の巻首あります。
 久間村郷土志を何冊か在りますので希望の方は連絡ください。
  少弐豊前守貞包1333年 子孫千葉三浦一族の吉富です。貞包新左衛門久間城主鍋島茂治に仕える。  2006-2-24 横浜市港南区港南3-17-18
[22]nakaiさんからのコメント(2006年03月14日 17時08分45秒 ) パスワード
URL=http://rizardon.com/~nakai/

大宰府まで逃れてきた安徳天皇が,
ついに超えることのできなかった大津山の関(松風の関)周辺の
平家伝承(プロトタイプ)をやっとつくりました。
参考になれば幸いです。
[23]ワカさんからのコメント(2006年12月12日 20時31分32秒 ) パスワード

出利葉≠ニいう苗字について調べています。
筑後のうきはという土地に多い苗字らしいのですが、
落人伝説と何か関係があるのでしょうか??
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月13日 01時51分38秒 ) パスワード

全く分かりませんが・・・


読みは「でりは」「いでりは」が見つかりました。
確かに福岡に多いようですね。
浮羽は千枚田(棚田)で映画に使われたりしてますね。


http://homepage3.nifty.com/giboshi/index.htm
この人にメールなさってはいかがでしょう。
どうやら「壇ノ浦」に関係のある落ち武者が係わってるようですね????

分かりましたらこちらにもちょっと書き込んで知らせてください。
[25]くましろさんからのコメント(2008年02月16日 11時38分56秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年11月29日 13時31分05秒
[26]うらうらさんからのコメント(2008年04月16日 23時05分32秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2011年11月20日 17時36分20秒
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