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 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100079 投稿日:2001年01月15日 16時21分51秒  パスワード
 お名前:皇竹
平知盛伝説・子孫友森氏
キーワード:平知盛
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

昨年の暮、゛ふるさと三重の語り部゛中谷碩男(伊勢平氏会)さんより、
平知盛について、10年も前に雑誌歴史研究等に発表したものだが、
ということでお話を伺いました。
平知盛は壇ノ浦後、ここを脱出し伊勢の前山にしばらく隠れ棲み、同地
矢持で平家再興を企てた。それには源義経とも手を結んでいたのでは
ないかというのである。
知盛の生存説、脱出ル−ト、又隠れ棲んだという場所については諸説
(機会があれば又後述しますが)ありますが、矢持の知盛伝説には、
平家は壇ノ浦で敗れたが二位の尼と安徳天皇は平保道に護られて播磨
中津港に上陸し、山づたいに鳥取県東柏郡中津へ入り、そこで知盛は
一行と別れて伊勢の船江につき奥地へと一行八人が落ちていった。
そして伊勢前山にしばらく隠棲した。この前山は外宮の神領で特別の
人がかくれるのに最適な場所であった。当時この前山には世義寺があり、
(現在は伊勢市勢田町に移転)この跡地より安徳天皇誕生に関係があるか
も知れないという重文指定の陶経筒が出土している。

そして一方安徳天皇護衛役伊賀平内左衛門のご子孫からの資料、宇佐神宮
の宇佐家の備忘録(安徳天皇の身代わり説で有名)、又角谷隆平氏のひとり
口伝(当時新聞にも紹介された知盛より代々伝わる口伝)等により、
ますます興味の湧いてくる話となる。(機会があれば又後述します)

さて義経との関わりであるが、何故義経は平時忠の娘との縁談を承知
したのか。「平家物語」巻11゛平大納言の文の沙汰のこと゛に関係
しているのであろう。
義経から自分の娘を通じて取り戻し即焼き捨てたというこの文書、何が
書いてあったのか。
安徳天皇、知盛の所在や、機会を見て平家再興を計るというようなことが
書かれていたのか。頼朝に見せる前に義経は中身を知った上で時忠にこの
文書を返したのか。興味はつきない。

尚角谷隆平氏口伝では平家の決起を伊勢から指令を発し、各地の平家
残党に伝えていたらしい。情報収集と連絡役は伊賀平内左衛門の手下達が
活躍したであろう。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年01月15日 21時35分17秒 ) パスワード
  

ロマンを感じます。
是非是非機会をお作りになって書き込んで下さい。

昨日私は青森出身の方から
ウチは元々平 将門の娘を妻に貰い
平家が敗れてから青森に逃れ名を隠して「鹿内」姓に変えた。
先祖は青森市平新田にずっと住んで来た
と知らせて頂きました。



[2]皇竹さんからのコメント(2001年01月15日 22時56分24秒 ) パスワード
  

●参考
−一人口伝について−角谷隆平氏(当時千葉市在住)の語った内容。
平成元年7月20日の新聞記事の切り抜きを抜粋します
新聞名は失念いたしました。

「一人口伝」は平家が壇ノ浦で滅亡した3月24日から
はじまる。平清盛養子平清国の目を通して語られる伝承。
清国は海中に落ち、気がついてみると救われていた。
救助者に案内されるままある家の地下に入ると、地下道の
奥に大きな部屋があった。
そこには平知盛を中心に10人程の武者がいた。清国も
その座に加わり今後の方針を話し合い、脱出して再起を
図ることに衆議一致。
翌朝三そうの船で、先頭の船に知盛ら、真ん中の船に
安徳天皇、女官ら、最後尾には平家の郎党が乗り込んだ。
一行は潮の流れに苦労しながら播磨に上陸し、丹波に
逃れ再起の機会をうかがったが、2ケ月ほどして源氏方に
知れるところとなったことから、丹波をあきらめ、安徳帝は
日本海へ逃がした。
この後知盛らは平姓を捨て、角谷と呼ぶことにし、知盛は
伊賀を経て伊勢へ移った。
一方の清国は能登の山中に入り、以降互いに連絡を取り合い
再起計画が知盛を中心に練られることになった。
伊勢で知盛は側近4人と共に、安徳帝の逃走経路消去、
ニセ情報の流布、替え玉作戦などを立案、指揮をとった。
知盛は伊勢に住んでから三人の側室をもち、最初の人との
間に二人の男子をもうけ、いずれもカクタニ姓、二人目の
人との間に男と女の二人をもうけ、男の子はカドヤ姓三人目の
人には女の子をもうけたが、他家に嫁いだ。

角谷隆平氏は父から母にも家族にも一切他言無用として伝えられた。
この「一人口伝」は安徳帝、知盛が生きて壇ノ浦を脱出したことを
伝えるのが目的で、万一の場合伊勢の知盛側を守るため
能登の清国側の責任として清国側だけに伝承されてきた。
父の代までは能登、伊勢とも交流があり父は何度か知盛側の
子孫カクタニ家を訪れているが、自分は一度も訪れることなく
父の死を迎えた。

>確かに伊勢には角谷姓は多い。伊勢の角谷家に能登側の資料が
極秘のうちに保存されている由。この平家伝説の謎を解く鍵は
伊勢の角谷家にあり。角谷隆平氏は「伊勢の角谷とつく家を
一軒一軒当たり、資料の公開を説得しなければ真実は分からない。
生きている間にそれをやりたい。」と結んでいるが、はや長い年月が
経ってしまった。どうなったのでしょうか。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年01月16日 09時43分00秒 ) パスワード
  

ありそうなお話でございますねぇ。

「平家物語」はこしらえモノですから
真実を伝えている訳ではありません。

伊勢は平家の本貫地ですから
匿う人は多かったでしょうし
今でも平家の子孫だろうな
というような雰囲気の人が山奥にいらっしゃいますね。

震えました。
[4]皇竹さんからのコメント(2001年01月16日 11時36分43秒 ) パスワード
  

つづき
兵庫県城崎郡余部村御崎には、門脇宰相教盛卿と伊賀平内左衛門家長の
霊を祀った平内神社があり、そこの古文書によれば主上ヲ兵船ニ還シ奉リ
右少弁藤原経房卿、門脇宰相教盛卿之ヲ奉シ侍リ大将ニハ伊賀平内左衛門家長
・・・とある。他にも一族郎党落ち延びた一団があった。悪七平衛景清の名も
みえる。
子孫の伊賀平内左衛門氏より中谷氏のもとへきた手紙によると、知盛と一緒に
海に沈んだはずの自分の先祖が、壇ノ浦から脱出しているのだから、知盛卿も
脱出した可能性があると言っている。
伊賀平内左衛門家長は平家系図には家貞の子とある。

それぞれ奥地へ落ち延びたが、平家への落人狩りも厳しく、それでも隠し
おおせたのは家長の知謀と配下の伊賀者達の活躍によるところが大きい。
山陰地方には伊賀姓が多い由。
安徳帝崩御後は目的を失いそれぞれ分散していった。
家長死去のあと、その子光長は伊賀に帰還し姓を千賀地(チガチ)と改め、
予野に隠棲した。その子孫は半蔵人(ハンクラウド)を代々名乗る。
半蔵人の半は平家の平を分解したもの。それが縮まり半蔵となる。

現伊賀平内左衛門氏の書かれた「壇ノ浦源平八百年」に詳しく書かれて
いる由。どなた読まれた方がおられたら内容を詳しく教えて欲しいと
思います。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年01月16日 21時59分47秒 ) パスワード
  

私も読みたいものです。

千賀地には一昨年「彦島」のオフ会のあと
行きました。
本当は予野の桜の子孫を見に行きました。

半六の半は「平」を崩したものでしたか。
これは知りませんでした。
[6]皇竹さんからのコメント(2001年01月17日 09時01分46秒 ) パスワード
  

予野の桜、暖かくなったら一度見にいってきます。
ずっと前に明子さんからご紹介された花垣神社も
予野でしたね。いっしょに見てきます。
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年01月17日 09時57分23秒 ) パスワード
  

予野の桜は八重桜なので時期がちょっと遅いのです。
桜はむずかしいですね。
うまく会えると良いですね。

それに予野の桜は「子孫」ということで
若い苗木でした。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年01月17日 10時00分00秒 ) パスワード
  

レスを頂きました。
これは北伊勢の友人のお話で
北伊勢の平家の子孫のことを紹介したところ
話が進展し

北伊勢の山奥の平家の落人は男女共に美男美女だと書いたレスでございます。



宮城県は黒川郡大和町の落合という地域、平家の落人の郷と言われています。
って言うか、「落合」って、「平家の落人の郷」ですよね。
で、この「落合」田舎なのですが、近隣の地域とかなり違うのです。
美男美女が多く、学力的にも段違いにレベルが高い(伝統的にそうらしい)
生まれも育ちも落合で「中学までそう」と言っていた美人と一緒に仕事をした事があります。
彼女は、高校から仙台市に出てきて、仙台で1番難しい女子高に入学し、仙台で2番目に難し

公立大学に入りました。物凄い美人です。彼女は後にNHKの契約アナウンサーになりまし
た。
この「落合」女優の鈴木京香の出身地でもあります。
彼女も、高校を仙台の街中のレベルの高い高校に進学。高校生になったばかりの4月の中頃、

台駅前でスカウトされたのがデビューのきっかけでした。
(鈴木京香と高校の時同級生だった人に聞いた話でした)
青森の祖母も、祖母の兄も、すごい美男美女でした。
大伯父なんか、明治生まれなのに、身長180cm近くあるハンサムなんです。
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年01月17日 11時11分53秒 ) パスワード
  

その友人の書いて来た最初のお話:



私の母方の祖母の実家は、平将門の娘を嫁にもらった鹿内の家です。
平家が負けた時、青森の今のところに逃れて、新しく土地を開いたそうです。
住所も「青森市平新田」…そのままじゃ!(笑)
鹿内の名も、「平」はまずいってことで、信仰している「鹿頭観音」から「鹿内」にしたそうです。(本家の敷地にお社がある)
大伯父(祖母のお兄さん)から家系図を見せられましたが、ちょっと眉唾です。(*^.^*)エヘ

今は普通のおうちですが、元々はかなり古くからの旧家で、昔はかなりの大地主だったらしいので、「夢を見るのも良いかな?」と思っております。(@^-^@)
[10]皇竹さんからのコメント(2001年01月17日 18時13分47秒 ) パスワード
  

津軽にも安徳天皇陵があるように聞いていますが、
その流れでしょうか。
旧家でしたら何か出てきそうですね。

さて中谷さんとの話のつづき
義経 謎の行動
文治元年(1185)3月24日 壇ノ浦で平家滅びる
同 4月24日義経宗盛、時忠ら捕虜を連れて都へ凱旋
捕虜のなかに廊の御方がいる。
5月7日宗盛親子を連れて鎌倉へ
10月18日 義経、頼朝追討の院宣を受ける
10月19日 頼朝挙兵
11月3日 義経都落ち
文治二年(1186)2月 18日 義経多武峰に潜伏の風聞
3月 15日 太神宮に剣を奉納
6月7日 義経、伊勢 大和にあり
(以上吾妻鏡より)

●義経の親平家へ向う要因。
1.義経は都へ上る船の中で、廊の御方と対面したであろう。
廊の御方の母は義経と同じ常磐であるため、平家の女房達から
白い目で見られていた。
肉親の愛に飢えていた義経はこの異父妹に、親近感を抱いた筈。

2.「平家物語」巻11・平大納言文のこと
゛よそに持ち出されて人に見られてはならない手紙を一箱、判官に
とられてあるということだ。これを鎌倉の源二位頼朝に見られたら、
人も多く処刑され、我が身も命が危ないであろう。どうしたらよいか゛
と息子の時実に相談したところ、
あなたには娘がたくさんいるのだから、その内一人を義経のお嫁に
やって、その娘から義経に文書を返してくれるようしては。
ということで時忠は自分の娘を義経に娶わせ、無事文書を取り戻し、
焼き捨てた。
この文書は平家にとって、頼朝に見られてはまずい非常に重要な
ことが書いてあったのであろう。
又義経は都へ凱旋した日から、鎌倉へ立つわずか13日の間に何故
急いで時忠の娘と結婚する気になったのか。
将来を見越して時忠という有能な政治家を味方につけておく必要が
あってのことだろう。
この時すでに義経は頼朝との最悪の状況を予想していたのか。

3.文治元年から文治二年にかけての義経の行動は、京都、伊勢、大和と
渡り歩いて逃げまわっている。このようなことがどうして出来たので
あろうか。明子さんご指摘のように義経を援助する人々がいてこそ
出来たわけである。そこに知盛の頼朝打倒の挙兵計画との接点があった
のではないか。

中谷氏曰く「我々はアマチュアの歴史愛好家、勝手に推測し仮説を
たてて楽しくやろうではないか」とのこと。

>私も同感だ。義経は平家残党狩りには余り熱心ではなかったし、
そういうことも有りうると思うようになった次第です。<






[11]服部 明子さんからのコメント(2001年01月17日 21時43分00秒 ) パスワード
  

あの手紙の話は本当に不可解ですね。
何のことだろう?
と思ったのですが結局は忘れていました。
[12]さんからのコメント(2001年02月01日 11時36分06秒 ) パスワード
  

皇竹さん、初めまして。
安徳帝や平知盛、伊賀平内左衛門の生存説、大変興味深く拝見させていただいてます。
というのも、筑後地方(福岡県南部)にも彼らの生存説が伝わっているらしいので。
なんでもそれによると、一行は壇ノ浦を脱出して九州上陸後、大宰府から落ち延びて山伝いに田主丸町竹野という所に達したのですが、平家に代わって筑後守に任ぜられていた草野氏の襲撃に遭い、伊賀平内左衛門家長は平知盛の身代わりになって戦死した、というのです。
その隙に、知盛は平宗清らとともに帝を守護して久留米に落ちたということだそうです。
一方、残された家長の妻子は現在の福岡県八女市新庄今山に落ち着いたとか。
子供達は母方の「服部」姓を名乗って子孫を残し、今も八女の服部家では田主丸町竹野の「平知盛の墓」(知盛の身代わりになったので表向きはそう呼ばれている)に先祖参りに行くらしいです。
[13]さんからのコメント(2001年02月01日 11時38分24秒 ) パスワード
  

「久留米市史」には数箇所、具体的な帝の潜行先が記されており、現在の佐賀県鳥栖市下野〜福岡県久留米市長門石町と筑後川沿いに移動し、さらに同市大善寺に移られて28歳で崩御された、とあるそうです。
御成人された安徳天皇って、私は想像つかないですけど。壇ノ浦後も生き延びていて欲しい、という気持ちはあるのですが。
さらに、大善寺の隣の白口地区には「安徳」姓の家が多く、帝の子孫と伝えているとか(子孫がいるって、やっぱり想像できない!)。

その後、平知盛や平宗清も帝と別れて八女へと落ちていったそうで、八女には子孫と伝える家もあるようです。

ところで、宇佐家の備忘録=安徳天皇の身代わり説とは、具体的にはどういった内容のものなんでしょう?
是非、その辺のお話も詳しくお聞かせ下さい。
[14]さんからのコメント(2001年02月01日 11時40分28秒 ) パスワード
  

余談ですけど、久留米市大善寺はウチの主人の故郷です。しかも「久留米市史」が参考にした資料の一つは「朝日寺縁起」といって、隈家の菩提寺(大善寺町夜明〜ウチの本家から徒歩2、3分)に伝わる記録らしい。
こんな身近なところに安徳天皇の伝説があるなんて、と驚いてます。
ちなみに、この間義父に「この近くに安徳さんって家、あります?」と訊いたら、「あ〜おるおる、同級生に居た」と言っていました。
どんな顔の方なんでしょう?一度お会いしてみたいものです。
[15]服部 明子さんからのコメント(2001年02月01日 21時27分56秒 ) パスワード
  

八女でしたっけ?
ここには「平 宗清」の宗清寺というのがあります。

家長が生き延びた、というお話はここで知っただけですが
「宗清」も俗姓は服部姓ですから関連を感じます。

宗清は捕らえられて頼朝の命を助けた恩人ですから
壇の浦の後も無事でいます。

宗清は頼朝から伊賀に土地を貰って
そこに「柘植」の木を植え
この木が育ったなら「柘植」と名を変えよう、
ということで柘植姓に変えています。

伊賀に柘植という土地があって後世忍者で出て来ると思いましたが。
[16]さんからのコメント(2001年02月02日 09時56分54秒 ) パスワード
  

平宗清は八女市の西隣の筑後市に逃れた様です(ちょっと訂正、どうも失礼しました)。
宗清寺は現在では筑後市鶴田にあります。
家長所縁の八女市新庄及び、知盛の御子孫がいらっしゃるという八女市『平』(たいら・・・それこそ、そのまんまな地名)から、ほんの1km程の距離です。
「筑後市史」によれば、もともとは同市尾島に宗清が平家人の霊を弔うために建てた庵が1570-1573年に寺になり、さらに1612年に鶴田に移築されたものだとか。
この「尾島」は多くの平家残党が捕まえられて斬首された場所で、かつては数十墓の塚があったということです。
江戸時代に宿場町としてここを開発するため塚を掘り返すと、たくさんの朽ちた甲冑刀鏃がでてきたそうです。
[17]服部 明子さんからのコメント(2001年02月02日 11時49分42秒 ) パスワード
  

壱岐は知盛さまの3男が乗っ取って宗家を建てたという言い伝えがありますから
平家の一族が筑後に逃れたというのが納得行きます。
どうして壱岐だったのか?
そういう部分もちょっと分かる気がします。

知盛さまの次男は伊賀に逃れて(後に蜂起に失敗しますが)

3男さんの関わりとか経緯とか
安徳天皇生存説など
かなりの説得力を感じます。
[18]皇竹さんからのコメント(2001年02月04日 10時43分39秒 ) パスワード
  

隈さん
いろいろ情報聞かせて頂きありがとうございました
安徳さんもみえるのですね、びっくりしました。

さて宇佐家の話ですが
1990年に宇佐神宮の宮司、宇佐公康さんの書かれた
「安徳天皇はすり替えられていた」木耳社刊
を入手しました。
まだ読んでいませんが、その宇佐家の系図をみますと
宇佐公通の息子公仲の母に高倉天皇中宮徳子とあり、
公通の妻に清盛の娘浄子とある。
本当の息子公仲は安徳天皇の身代わりとなり、壇ノ浦に没す
安徳天皇は公仲になりすまし、宇佐神宮の宮司となり
生涯を全うした。

よく貴種願望による源氏や平氏を名乗ることがあったらしいが、
宇佐神宮のような伊勢神宮と並び称される名門神社が、
系図に貴種を入れるようなことはさらさら必要なかった、
と思われます。
[19]皇竹さんからのコメント(2001年02月04日 12時40分05秒 ) パスワード
  

先ののコメントにことば足らずのところがありましたので
付け加えます。
貴種願望についてですが、
地方へ落ち延びた豪族の中に、もっともらしい話をデッチ上げ
源氏や平氏等を名乗ることが有ります。
宇佐神宮にはしいてそういうことをする必要がないのではないか、
それ以上に格のある神社だということです。
ということは逆に真実に近い話ではないかと思われます。
[20]服部 明子さんからのコメント(2001年02月04日 21時27分16秒 ) パスワード
  

神社でなく神宮ですからね。
格が全く違いますよね。

どんなに立派な神社でも
小さな小さな神宮には格で劣りますからね。


宇佐神宮のような立派な神宮に
というところに謎が。
[21]さんからのコメント(2001年02月06日 11時15分47秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2001年02月06日 11時33分50秒
[22]さんからのコメント(2001年02月06日 11時30分54秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2001年02月06日 11時38分54秒
[23]さんからのコメント(2001年02月06日 11時45分17秒 ) パスワード
  

確かに宇佐神宮でしたら、家系に関して偽りを言う必要が無いでしょうね。
すり替えられた安徳帝が潜り込むのに適当な家系だという気もしますし、有り得ることですね。

そう言えば、私が先日書いた安徳帝の潜行先である鳥栖市下野及び久留米市長門石は、久留米水天宮と筑後川を挟んで対岸に位置しますが、この辺りは按察使局伊勢(建礼門院に仕えていた官女)が落ち延びてきた所で、実際の水天宮発祥地です。
按察使局はもともと大和国(現奈良県)石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘だったそうです。
大善寺の朝日寺も古い寺院ではあるし、すぐ近くには大善寺玉垂宮もあります。
宇佐家に伝わる話からしても、帝は神官・僧侶達の手に託されて余生を過ごされたということでしょうか。

なお、按察使局は肥後にいた知盛の孫(従四位少将 平知時の四男 右忠)を引き取って養子にしたそうで、彼が現社家の真木氏の祖先だそうです。
[24]さんからのコメント(2001年02月06日 11時47分11秒 ) パスワード
  

それと最近思い出したのが、5年程前に朝日寺を訪れた時のことなのですが。
ウチの菩提寺なので、主人といっしょにお盆のお墓参りに行った訳です。
変わっているなぁと思ったのは、境内の真ん中にでんと2mぐらいの御座船が置かれていて、幟か何かで賑やかに飾られていたんです。
お盆に戻ってきた先祖の霊をこの船に乗せて『川(海?)に帰す』ということの様です。
水天宮のお祭りにも似ている様な・・・、やはり平家と関係あるのでしょうか?それともこれって、他でもよくある風習なのでしょうか。

ちなみにこの辺りの土地はかつて三潴(みずま)荘といい、平家の荘園だったそうです。
そのせいか、この辺りの人々は滅亡した平家に密かに同情を寄せ、落人達に手を差し伸べた形跡があります。
その他にも、久留米市の高良大社(かつての筑後一の宮で、玉垂宮もここから分かれたらしい)に落人が盲目の僧侶に扮して隠れていたとか、種々の伝説があるそうです。
[25]服部 明子さんからのコメント(2001年02月06日 22時25分21秒 ) パスワード
  

これまた凄いお話ですね。

御座船

平家を連想しますね。
[26]皇竹さんからのコメント(2001年02月18日 09時49分27秒 ) パスワード
  

隈さんへ
いろいろ興味深い情報、ありがとうございました
私の仲間達との話題にさせてもらいました
そしたら
●「安徳」姓を名乗るお家にはきっと何か伝承があるのではないか
●「朝日縁起」についてもう少し知りたい
ということでした
何かお分かりになれば、教えて下さい。

[27]さんからのコメント(2001年02月19日 10時20分41秒 ) パスワード
  

実はネット検索等で調べた『又聞き』情報なので、私も現時点ではこれ以上詳しく分からないのです。
でも、私自身もっと詳しく知りたいと思っていますので、久留米市立図書館にレファレンス依頼してみようかと考えています。
ちょっと時間がかかるかも知れませんが(2、3ヶ月位?)、何か判ったらまたお知らせしますね。
[28]皇竹さんからのコメント(2001年02月21日 14時47分53秒 ) パスワード
  

有難うございます
楽しみにお待ちしています
[29]源朝臣堤貞之さんからのコメント(2001年06月10日 14時15分00秒 ) パスワード
  

佐賀の杠(ゆずりは)氏は1442年阿波から佐賀山内にきて平清盛末裔を名乗ってます。佐賀神崎の落人伝説やゆかりの人、民俗。色々ありますいまも。
あと佐賀の鹿島の奥の平家の姫伝説と一族、今も子孫、辻。久間氏。や話。
これをみても話や子孫は山間部に多いかな?!平家ゆかりの土地、西国一の平家のドル箱てき領土、神崎庄。のち源氏の武将何百人に小さく切り取られ恩賞に。
[30]服部 明子さんからのコメント(2001年06月11日 00時57分37秒 ) パスワード
  

堤さん

ありがとうございました。
佐賀神崎は歴史にたびたび出て来るところですね。
具体的には分かりませんがかなりの土地だった事は想像が出来ます。

また新しいスレッドなどお立てになって話題を提供なさってください。
[31]堤貞之です。さんからのコメント(2001年06月20日 05時30分49秒 ) パスワード
  

●服部さん今日は。確か、二年前くらい前にどこかの掲示板でお会いしましたよね。
あの時、女性で、フルネームで投稿してらっしゃるので記憶に残ってます。
だんなさんのパソコン使ってるとか、表示の文字の小さくて困ってるとか言ってまし
たですね。ポインターを表示にもっていって文字のサイズ変えられますよって答えた気が
・・・。あれってどこの掲示板だったでしょうか?よかったら教えてください。

神崎荘は元冦のあと、源氏方の武将四百人に恩賞としてあたえられたそうです。
あっとここは、知盛のレスですね。
[32]服部 明子さんからのコメント(2001年06月20日 13時08分50秒 ) パスワード
  

>神崎荘は元冦のあと、源氏方の武将四百人に恩賞としてあたえられたそうです。


実は母方が伊予の河野氏なのです。
私は母方では84代目になります。

現在の「北条時宗」のお話同様の事が我が家にも起こりまして
私の直接の先祖は河野通忠で
河野通有の長子でした。
河野通有17歳の時の子供です。

14歳の時に父に従って元冦の戦いにも参加し怪我もしましたが
父親の遺言で正妻の北条氏出身の女性が生んだ末子に家督が譲られました。

私の先祖がどんなに腹を立てたか
伊予の北条市の熊野神社の所にあった柚之木谷の城に隠居して
欝々として過ごしたのはお分かりいただけると思います。

その後、子孫は悔しさのあまり、南朝方になりました。
(父方の服部家も南朝方です)

その後の母方のお話は太平記に書かれています。
(父方のお話は浪合記に書かれています)


私が聞いてる元冦参戦の理由は河野は神崎荘に土地を貰っていたから
それで動員された、
と。

我が家は承久の変で後鳥羽上皇方だったので
どうしても元冦で頑張らなくてはいけなかったのです。
失地回復というのですね。
「河野の後ろ築地」
などと言う言葉も当時はあったそうで。。。
とにかく北条氏の心証を良くしようと頑張ったようですね。


それだけに通有と通忠親子としては、元冦さまさまだった、と。


その後、「時宗」の子供?の時代あたりに平頼綱の恐怖政治を押さえる為
クーデターに動員されて平頼綱を殺すのに我が先祖父子は徴集されてますね。
霜月騒動でしたっけ?


という訳で「神崎荘」は無縁の地では無いのです。
[33]服部 明子さんからのコメント(2001年06月20日 13時31分21秒 ) パスワード
  

>神崎荘は元冦のあと、源氏方の武将四百人に恩賞としてあたえられたそうです。

今、ふっ、と思ったのですが
ひょっとすると北条家は御家人達に神崎を少しずつ餌として与え
元冦対策に利用したのかしら?と。

土地を貰えば動員に否やは唱えられませんものね。

それで後に恩賞問題でこじれにこじれて鎌倉幕府滅亡に行ったのかしら?と
思いました。
う〜ん・・・
戦後処理に御家人に与える土地が元々無かったんですものね。

この神崎荘というのは鎌倉幕府滅亡のキイワードになり得るのかしら?と思いました。
(^^)
[34]さんからのコメント(2001年08月09日 11時42分57秒 ) パスワード
  

堤さん初めまして、このページに時々お邪魔させて頂いている、隈です。
自分の先祖に興味を持ったのがきっかけで、平家落人伝説について調べています。
うちの主人の姓「隈」も平氏系の名前かも知れない、ということで調べたのですが、なかなか詳しいことが分かりません。
主人の郷里は久留米市南部の大善寺。佐賀県神埼郡とは筑後川を挟んで対岸になります。
この地の豪族だった隈氏は南北朝期以降、大善寺玉垂宮の大祝部を務めていたそうです。
玉垂宮は筑後一の宮である高良大社と関係が深いので、高良山座主家の流れという説はありますが、定かではありません。

一方、平安末期より肥前・手熊村(現・長崎市西部)の地頭を務めていた隈氏は平氏系。
平家滅亡後に嫡男が喜界ヶ島(現・鹿児島県硫黄島)で討死したらしく、弟の福田氏が後を継いでいます。
堤さんが落人伝説の例として挙げていらっしゃった久間氏も、この系統らしいと聞きました。

そこでなんですが、「久間氏の伝説」についてもし何かご存知でしたら教えて頂けないでしょうか?

大善寺の隈氏と肥前の隈氏の関係は今のところ不明ですが、最近いろいろと調べているうち、意外と繋がりがあるのでは、という気がしてきたのです。
肥前・隈氏の後を継いだ福田氏の子孫は、元寇の時の褒章として神埼庄の一部をもらい、少なくとも南北朝初期まではその土地を守り続けていたようです。
今も神埼郡や久留米市(特に高良山西麓)には、福田姓の方がたくさんおられます。
福岡県南部には「久間」姓の方も多いようですし、全く無関係とは思えないのですが。
[35]清智さんからのコメント(2001年10月11日 13時11分16秒 ) パスワード
  

こんにちは

最近、母の田舎の土地を処分しようといろいろ調べていくうちに、
このHPに行き着きました。母は益永・稲用流宇佐家の出身で、
その実家は古くは宇佐神宮政所惣検校でした。
安徳天皇が本当に宇佐公仲であるかどうか、今になっては定かな
ことは分からないでしょう。しかし先祖のことでもあるし、この
HPを拝見しながら、わたしももう少し深く調べてみたいと思い
ました。
何か面白い話を見つけたら、書き込みします。
[36]服部 明子さんからのコメント(2001年10月12日 00時59分03秒 ) パスワード
  

よろしくお願いしますね。

最近朝日新聞に安徳天皇の身代わりの話が出てましたね。

[37]源三さんからのコメント(2001年10月13日 16時20分57秒 ) パスワード
  

K池hp筑後氏族譜より。

稲員氏
筑後国高良山社家。永正七年主計頭良維はじめて大友義鑑の幕下となる。

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こんにちは稲員さん、源三と申します。確か宇佐大宮司家は平家方だったが、
当時の当主は源氏からの養子が入っていて、お構いなしでしたよね。
確か、源義家の弟の賀茂次郎源義綱の子孫から養子がはいってますね。
[38]源三さんからのコメント(2001年10月13日 16時23分28秒 ) パスワード
  

●隈さん、長いこと気付かなくてごめんなさい。僕の知る限りのことを今後書いていきたいと思いますね。ところでここは平知盛レスですので★隈さんの4つのスレッドのいずれか好ましいところに書き込みますね、内容は僕の知ってる範囲で事象羅列で写実的に飾らず書き込みます。(p_-)こうご期待。(^^)m(__)mペコリ。(^^ゞ◎源三

●服部さん、皇竹さんこんばんは!

武藤氏は代々平家の家人でたしか武藤資頼は初め平知盛の家人で、のち一の谷後に梶原の陣地に降り、梶原のとりなしと彼が朝廷の有職故実に精通していることもあり頼朝は彼をお構いなしにして源氏の家臣にしてますね。これは彼の先祖の武藤(検杖)頼氏が昔、頼朝公の御先祖・八幡太郎(源)義家公の奥州征伐(前九年役・1062、後三年役・1083

前者は陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義、義家親子が安倍氏の反乱を鎮めた、後者は清原氏の反乱を源義家が鎮め、彼の武名は高まりこの戦いに従軍した東国武士の中には義家と主従関係を結ぶものが少なくなかった。また、義家に土地を寄進してその保護を受けようとする者も多くあらわれ、政府は命令を下してこれを禁止したほどであった。こうして東国における源氏の基盤はきわめてかたいものとなった。)

のとき、朝廷から検杖(お目付役)として従軍させられた。★武藤頼氏は、奥州に至って合戦のとき、敵城の大城戸を一番乗りで打ち破る戦功を立てたので(源)義家公がこれを賞して、その城戸の形を武藤家の子々孫々まで家紋にせよと仰せられて以来、寄懸目結(よせかけめゆい)の紋は(武藤)少弐氏の紋になったという。

◎ある姓氏苗字事典から−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

●武藤(ムトウ)−苗字ランク161位全国に八万人、由来は武者所(むしゃどころ・上皇の御所を警備する武士の詰め所)に仕えた藤原氏と、武蔵国に居住した藤原氏との二説がある。武者所の藤原氏は藤原秀郷の子孫近藤脩行から出た流れで、後に北九州と山形において大族に成長した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(後藤則明 、源頼義郎従で前九年役で活躍 、源義家七
騎武者、奥州安倍貞任攻め抜群軍功) ●大友
↑ ┌行景(惟峯)−景親(惟重)−貞成(景頼)−能成− 能直
┌●後藤公則(兄)−則経−−則明(章明)− −資茂(肥前佐賀の武雄後藤祖、富岡、中野祖)
| ↑ ↑ | (後三年役、奥州清原攻め功肥前塚崎庄賜る。)
| ↑ ( 坂戸判官、前九年役従軍) └公広(秀郷流佐藤氏から養子、秀郷流後藤祖)
|(備後肥後河内守となり後藤祖、文徳天皇後裔
|・源章経の養子となり文徳源氏とも、交わる。)
| ┌進藤為輔 ┌以房−以家(鏡斎藤祖)
├為延(弟)−為頼(疋田氏)−為永−為盛−以成−以頼−時頼(★平重盛に仕えたが中宮の雑仕横笛に恋して
| 斎藤祖 成らずこれを嘆いて出家、滝口入道と称す。後高野山
| で屋島を逃れた★平維盛と会い、維盛の熊野入水を見届けた。)

| ┌宗景(赤塚斎藤祖)
| ┌孝則−助実(吉原斎藤祖) ├成実−実信−実景(勢多斎藤祖)
├則光(弟、斎藤嫡流)−則重−助宗(河合斎藤祖)−実遠−実直−★実盛−宗貞(斎藤五、平家滅亡後弟と共に
↑ | 平維盛の遺子★六代を守った)
| └宗光(斎藤六)

| ( ★(斎藤)実盛・〜1183越前から武蔵の長井に移り、長井別当と称した。初め源氏に仕えたが平治
| の乱後、平宗盛に仕え、平維盛に従って北陸で木曽義仲と戦い、加賀国篠原で討死にした。このと
| き老体を恥じ、白髪を染めて奮戦したことで名高い。)


景廉(子の景朝は遠山祖)−−−┐
↑ 伊豆の狩野茂光に仕え源為朝の首を討
つ、源頼朝挙兵応じ山木兼隆攻め石橋山
↑ に敗れ甲斐に逃れ後、富士川合戦、西海平
氏追討、奥州戦功。親友梶原景時が背いたた
↑ め所領没収後、比企能員追討功、源実朝横死
に伴い出家。 ↑
↑ |
| −景員(頼朝挙兵参加)−−
| |
| −−景清(伊勢目代)−−−
| ↑
|天慶三年藤原純友討伐で武蔵守源経基にしたがい戦功以来父祖子孫共に彼に属して功を立 ↑つ。 ↑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−伊博(越前国押領使)−−−− ↑
| |
(斎藤) ├重光−(三代略)−加藤景道
┌−鷲取−藤嗣−高房−時長−利仁−叙用−吉信−忠頼(林、富樫祖)
| 鎮守府将軍

| ┌兼光(大田、足利、佐野、小山、
| 下野大掾 | 下河辺、結城、下妻祖)
藤原鎌足−不比等−房前−魚名−藤成−豊沢−村雄−●藤原秀郷−千常−文脩−文行−−−−−−−−−−−−→◆
北家祖 左大臣 鎮守府将軍 (〃) (〃)

(@藤原鎌足(614〜69)A不比等(659〜720)B房前(藤原北家(嫡流)の祖、681〜737
G●秀郷−田原藤太又は俵藤太剛勇をもって鳴り、一時罪を犯して配流されたが、のち、許されて下野掾押領使うとなる。平将門の乱のとき、いったんこれに呼応したが、将門の行動が軽はずみで共にことをなすことができないと判断、平貞盛と共に将門を討ち、その功により下野、武蔵の両国主、鎮守府将軍となった。近江三上山の「むかで退治」で有名。)

┌忠綱
┌景家├忠光
┌基景(伊藤祖)−基信−景綱−忠清−平景清(平家の侍大将、上総七郎
|(伊勢に住み、 (上総守)と称し伯父大日坊を殺し悪七兵衛と
| 平家に仕えた) 呼ばれた。★平維盛、知盛に従って源義仲
┌公澄−尾藤知基−知昌−知忠 、行家と戦い、のち平家一門と共に西走し各地に転戦
| した。屋島の戦いでの美保谷十郎とのしころ引きの話は名
| 高い。平家滅亡後、源頼朝をうかがったが、ついに降伏し
| 八田知家に預けられ、断食して死んだといわれる。)

| ┌鎌田通清−政家(初名正清、源義朝郎党。平治の乱後、義朝刺されてから
| | 殺害される。)
├助清(首藤祖)−親清−山内義清−俊通−経俊(滝口三郎、刑部丞、♪伊勢伊賀守護)
|(主馬首となり首藤称
|源頼義従騎七人の一人)
┌佐藤公光−公清−季清−康清−−−−−−−−−−仲清−能清
| (弟) | └季喜(龍造寺祖) └義清(♪西行)
| | (源為朝に従い九州に下り (鳥羽上皇の北面武士、左兵衛尉となったが、23才で出家
| | 肥前国龍造寺に土着) 以後全国を流浪、源頼朝、藤原秀衝に会い、藤原定家、
| | 俊成らと交遊名利を離れ自然と芸術の世界にさまよった
| | 歌道に精進し奔放自在な歌を詠んだ。家集に「山家集」
| | があり、小倉百人一首にも名を連ねている。晩年は河内
| | の弘川寺に住みそこで死んだ。)
| |
| | ┌佐藤忠信−−−−−−−−−−−−−義忠
| | |(母乙和。兄と共に義経四天王として活躍、義経
| | |失脚後吉野山で追手に追われ自刃しようとした
| | |義経を諌めて奮戦のち京都に潜伏したが発見
| | |されて室町館で自害、1161〜86、26)
| ├公脩−公輔−師清−師文−師信−師治−元治−−−−佐藤継信−−−−−−−−−−−−−義信
| | 陸奥信夫庄司↑ (母藤原↑秀衝イトコ俊衝女乙和、奥州平泉にいた源義経
| | に仕え源氏旗揚げ後、義経四天王の一人として活躍、屋島
| | の戦で義経の身代わりとなり討死にした。1158〜1185、28)
| |
| | 藤原中清は冬嗣の子の長良の子・清経五世。
| | なお清経妹は清和天皇女御・高子で陽成天皇母。入内前在原業平と
| | 交わり出奔、長兄・藤原基経(時平、忠平父)にらに連れ戻された。
| ├★波多野経範−−経秀−−−−秀遠(母藤原中清娘で中清は紫式部母のいとこ、父同志兄弟)−┐
| |(公俊、前九年役功)(後三年 役功 波多野庄賜る) 1060〜1121 |
| | ┌−−−−−−−−遠義(母藤原重経娘)1082〜1155−−−−−−−−−−−−−−−− ┘
| | ├−●義通(二郎、母鎮守府将軍藤原師綱女、義朝家令1108〜1169)
| | | |(1156源義朝に従い保元の乱に活躍、乱後、源為義の子四人を斬る。)
| | | |(1159源義朝に従い平治の乱で活躍、が、義朝軍敗れる。)
| | | |(1159年12月28日波多野義通、義朝からいとまを与えら
| | | | られ相模国へ下る)
| | | ├●義常(右馬允、1176・10義経 )−●有経
| | | | ( 流人頼朝と奥野で狩を行う) |(★松田次郎、松田祖)−松田有忠
| | | | ↓ | (母伊東祐継女)
| | | | ↓ └高経(大槻、小磯祖、子四人)
| | | |(1180年 7月10義常、頼朝挙兵の命を拒否する、10月義常松田亭で自殺)
| | | |
| | | ├忠綱(小次郎、義定と共に伊勢で源氏方で平家と戦う、和田の乱先登)
| | | |(伊勢国飯高郡真弓御厨、遠義以来、波多野領、畠山重忠討伐参加)
| | | ├義行(美福門院蔵人、源仲政次男・頼行へ養子)
| | | | (後白河上皇の女御・平滋子こと建春門院に判官代として仕えた)
| | | ├義和(渋沢余一)
| | | ├実方(広沢余三)−実高(弓を引く)−略−和智実成−略−広世(備後和智氏)
| | | └義職(源光定の子、伊勢守母は遠義娘)−義定(宇治蔵人三郎)−(朝定、義典、義康三子)
| | |
| | ├経家(四郎、●大友)−実秀(継嗣なし)
| | | └三女(養女●九州守護大橋肥後守平貞能娘)−●大友能直(大友郷継ぐ)
| | ├坊門姫(源義朝妾、頼朝兄で義朝次男・源朝長の母)
| | ├義景(相伝、波多野五郎、平家追討西国攻め、子男四、女二人、義景子ら和田合戦
| | | ├信景(佐藤三)−略−真直(長門波多野氏) で失脚)
| | | └泰景−略−景則(甲斐伊勢波多野氏)
| | ├実経(菖蒲七郎六郎)−実盛−実時(石見波多野菖蒲氏)
| | └家通(沼田七郎)
| |
| └公季(伊賀木工頭)−公助−文郷−◆伊賀朝光−光季(−1221妹の縁で北条氏に重んぜられ、左衛門尉
| | 検非違使、伊賀判官称、源実朝死後に京都守護となり
| | 後、鳥羽上皇の討幕計画に召されたが応じず上皇軍に
| | 襲われ自害す)−光綱(父と共に自刃)
| ├光宗(1178‐257鎌倉幕府侍所司政所執事将軍九条頼経
| └女(北条義時妻)廃し女婿藤原実雅を擁立しようとし発覚
| 所領没収信濃幽閉後許され評定衆に)

| (兄) (貞成)┌★近藤(古庄、近藤太郎)能成−★大友能直−親秀−★頼泰(蒙古豊後下向)
→◆近藤脩行−行景−景親−景頼−●武藤頼平(養子)−●資頼(初★平知盛に属し一の谷で捕らえられ許され源頼朝に仕え、奥州征伐の功により鎮西奉行、肥前、筑前、豊前の守護にとなり、太宰少弐に任ぜられた)−●少弐資能(1198〜1281、初めて少弐氏を称した。肥前、筑前、豊前、対馬、壱岐の守護。文永五年高麗の使節が元の国書を持って来朝したときこれを鎌倉幕府と朝廷に取り次ぎ、その後再度にわたり元の使者を追い返し、九州の豪族と共に海岸を固め、元の来襲に備えた。文永、弘安の両役に奮戦、ついに負傷し、これがもとで死亡した。)−−−−−−−−→

→−●経資(1226〜89太宰少弐(西方)鎮西奉行。肥前筑前守護。文永弘安役諸軍統率善戦好防元軍全滅させた)→
└−●景資(資能三男〜1286文永役敵将劉復亨討ち弘安役に暴風に乗じ敵船に進攻、大いにこれを撃破した。)

→−●資時(弘安の役で★壱岐を守り討死に、時に年13という。)
└●盛経(筑前筑後守護)−●貞経(1272〜1336筑前対馬守護。元弘の乱護良親王の令旨に応ぜず九州探題北条英時を助けたが、後形勢をみて南朝方に帰順、英時を襲って自刃させた。その後足利尊氏に呼応したが、菊池、阿蘇両軍の猛襲にあい有智山城で敗死した。)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→●頼尚(1293〜1371太宰大弐、豊前筑前肥後対馬守護。父と共に北条英時を破り、その後、足利尊氏の西走を迎え、筑後川に菊池武敏を破って尊氏東上に従い湊川の戦で功をたて京都に入った、帰国後、菊池武光らと戦い敗死)→

→−頼澄−貞頼(筑前守護)−満貞(筑前守護)−嘉頼−為頼−政資(肥前守護)−資元(肥前守護)−−−−−−→
└●冬資(筑前守護。九州探題斯波氏経と父・頼尚の軍が菊池武光に敗れてから、上洛して九州探題の交代を要請、新たにその出自と経歴はもちろん、人物は有能にしてしかも慎重であり、九州探題としてまさに適任である今川了哲を探題に迎えることに成功したが、了哲の菊池本城攻めに参加しなかったため、酒宴の席で了哲の弟・今川仲秋(肥前今川氏祖、蒲原、持永祖)に刺殺された。)

→−時尚(本名冬尚。大内義隆に太宰府を追われ、肥前千葉氏の助けによって筑前を回復、更に龍造寺家兼を佐賀に破り、一時勢力を拡大したが、のち龍造寺胤栄に敗れて急速に勢いを失い、千葉胤連、龍造寺隆信の連合軍に晴気城を攻められ、自害、少弐氏は滅んだ。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
●(一番上の武藤の説明つづき)武藤頼平が武者所に仕えて武藤氏の祖となる。その子・武藤資頼は初め平家に、後に源頼朝に属して奥州攻めに功をあげ、出羽国大泉庄地頭職、更に九州に派遣されて鎮西奉行・太宰少弐を兼、子孫は太宰少弐を世襲して★少弐氏を称した。最盛期には筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬の守護職をも兼ねた。支流の朝日武藤氏から筑紫氏がでている。室町期に至って大内氏に押され、やがて龍造寺氏に滅ぼされた。
一方、出羽には頼平の弟・氏平が赴任し、大宝寺城(今の鶴岡市)に拠って大宝寺氏または大泉氏とも称し、山形県庄内地方及び秋田県南に勢力を持った。戦国期・義氏−義興のとき衰えて滅亡する。

次に武蔵の武藤氏は藤原北家道長の子孫を称し、武蔵国(埼玉)幡羅郡成田から起った成田氏の系という。
また前記近藤氏系の武藤頼平を藤原北家・藤原道長の流れを汲むとする系図があるが、この系では藤原道長の曾孫・★頼氏が関東に居住したとみえ、その四世が武藤頼平である。

他に遠江(静岡)から藤原南家相良氏族、美濃(岐阜)に土岐氏一族舟木などの分流武藤氏や甲斐信濃越前などに栄えた武藤氏など多岐である。尚、甲信では武田氏族大井氏の流れや真田氏族がみえる。(→その多くが、おそらく土地の有力氏族から武藤家に養子が入り名跡などの家名と養子の血流の違いが各地でそれぞれおこったであろう。後世その養子の血脈の違いから、養子の血筋の家の血脈を名乗って色んな武藤家がおこったと思われる。)
家紋・下り藤、井桁、五三桐、巴、寄せかけ目結。文献・武藤系図(群書・東大史)「太宰少弐武藤氏その栄光と没落」渡辺文吉。

・群書系図武藤系図+アルファ
┌魚名(武家藤原祖先)
藤原鎌足(大織冠)(春日大明神二十一世孫、内大臣)−不比等(淡海公、右大臣)−房前(宰相)−眞楯(中納言、北家始)−内麻呂(右大臣)−冬嗣(閑院左大臣)−良房(摂政、太政大臣、忠仁公)−---------------●基経(長良子、養子)−−→◆
└ 真夏日野八代祖先| (太政大臣藤原氏の地位を不動のものにした)└−明子(清和天皇母)
├順子(仁明天皇女御、文徳天皇母)
├良相(右大臣)−多美子(清和天皇女御)
| └多賀幾子(文徳天皇女御)
├良門−利基
| |
| 高藤
└長良(長兄)

┌−−−−−−−

| ┌●基経(良房へ養子)
└−−−−−├国経(大納言)
├遠経−良範−◆藤原純友
| (太宰少弐) (伊予掾 )
├高経−惟岳−倫寧(娘に道具五代目の菅原孝標の娘で更科日記作者の母と蜻蛉日記
├清経−元名−文範−為雅−仲清−女 ★波多野秀遠妻 作者藤原道綱母の二人いる。)
└高子(清和天皇女御、陽成天皇母)

→◆ 忠平(摂政太政大臣)−師輔(右大臣)−兼家(関白太政大臣)−●道長(摂政、関白、太政大臣)−@長家(正二位・御子左祖・大納言)−忠家(嵯峨大納言)−俊忠(権中納言)−俊成(皇太后宮太夫)−●定家(権中納言・冷泉家祖)

@長家−長頼(左中将軍・尾張守・号武藤中帳)−★武藤頼氏(検校→一番上の★のマークのとこ記述あり、若狭武蔵国戸政御被伝知行居住常国)−頼家(奉公源義親承和年中被討○)−頼兼(新中納言●平知盛卿舅・永久二年太宰少弐○)−−−−→

→−女子(★平知盛卿北方、武蔵守★平知章母、号大蔵太夫)
└−●武藤頼平(頼兼子、関東政所執事、大膳太夫広元後より平家之比者。平知盛為国司代官、武蔵国居住、墓所師岡郷に有り
しかるに頼朝公武蔵国御勢調之時。自ら八幡殿給わる。寄せ掛け紋の旗を指て馳せ参。○召仕了上手之間。参陣所的。之御的
之始也。)−●資頼(号筑後守、窮弓箭之奥儀間。依仰下。建久年中鎌倉右大将家源頼朝朝臣将軍内裏御参之時 懸御調度之。
始は★平知盛卿に奉公。一の谷合戦之時。梶原と為同意。始て御方参。為召人間。梶原景時依被領之。婿に取りて。奥州合戦
之時。依先祖頼氏之忠蒙御免。御鎧御馬を給て被召具了。依是錦戸太郎を討て。頸を取て見参に入時。依彼忠大泉庄拝領了。
建久二年被宛賜太宰府守護・岩門少卿種直跡。三千七百拝領了。嘉録元年に宇佐八幡の依還宮。任◆太宰少弐。始めは武藤
小次郎と号。)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−→T

●≪資頼兄弟紹介≫⇒兄・頼忠(号・武蔵太郎、為大力。依好悪事。源頼朝御代之始。被仰付舎弟・資頼被討了。依之彼・頼忠向こう子孫成敵間。号荒人神。而間此一門太郎之不付也。(頼堅、号・監物太郎不知子孫東鑑九)
⇒弟・頼茂(右衛門尉。関東奉公。此次有数多・資頼の次男。系図在奥。)
⇒弟・氏平(左衛門尉。大泉。在子孫系図奥。武蔵国居住
⇒宗平・後右衛門尉。此人在奥)●

→T−資能(前少弐豊前守)−経資(太宰少弐西方鎮西奉行肥前筑前守護文永弘安役諸軍統率善戦好防元軍全滅す −U
├ ●景資(弘安蒙古出来時。蒙古大将百道原射留らる。其の後城殿一所に。岩門城腹切り)
├盛資(豊前次郎) (↑大河「北条時宗では川野太郎が演じていますね。)

−−−−U−−盛経(太宰少弐、筑後守)−−−−−−−つづく。
├盛氏

→−●資時(弘安の役で★壱岐を守り討死に、時に年13という。)



●称平知盛後裔・対馬守護代・宗氏と守護家・少弐(武藤)氏の関係

●対馬守護代−●宗氏は平清盛の裔とも、秦氏の一族の惟宗氏の裔ともいう。
同氏の始まりは太宰府府官惟宗氏から発している、そして家系譜には

(清盛の第三子)平知盛の子、知宗を惟宗右馬助が保護して筑前に逃れ
その後、少弐氏(もと平家の家人で武藤資頼)が知宗を養い、その子
重尚に至って対馬の守護代となり、領主化したという。鎌倉、室町を
通じて少弐氏を何回も大内氏から助けてカクマッテることから、大変、少弐
氏と密接な関係があったことは事実であろう。まんざら清盛後裔も信憑
性がないこともないだろう。(宗氏一族、大石、大浦、大江、佐護、比
田勝氏)宗氏家紋(五七桐、五三桐を両用し対州桐という。一方、「
丸に隅立て四つ目」も用いる。この紋は宇多源氏の定紋であるが、当時
、山陰、北九州には佐々木氏流の族が多く、一般に流行した紋であった
。宗氏もこれに影響されたとみるが、一説に婚姻によるともいう。
また繋馬紋”つなぎうまもん”も用いるが現在はあまりみない。これは
平氏流の出をあらわすためというより対馬の国主の「馬」にかけたもの
と思う。馬は大陸から対馬を通って日本列島に来た動物である。
[39]服部 明子さんからのコメント(2001年10月14日 01時26分30秒 ) パスワード
  

源三どの

ありがとうございます。
系図がうまく出ないのが残念ですね。
[40]さんからのコメント(2001年10月15日 09時07分20秒 ) パスワード
  

源三さんへ
どうも有り難うございます!(^^)
久間氏のお話、楽しみに待ってます。

清智さんへ
どうも初めまして。安徳天皇関連の情報、見つかりましたらぜひともお知らせくださいませ。
>稲員氏 筑後国高良山社家。永正七年主計頭良維はじめて大友義鑑の幕下となる。
ということは、うちの主人の先祖と御縁があったのでは。
筑後の豪族・隈氏も高良山と関係深いし、大友義鑑に仕えて筑後の徴税役を務めたと記録に残っていますので。



[41]清智さんからのコメント(2001年10月16日 14時18分48秒 ) パスワード
  

こんにちは、みなさん

 寿永2年8月から10月にかけて、平家一門が太宰府を緒方氏らから追われて
屋島へ渡るまでの2ヶ月間を調べています。出典は「宇佐神宮史」を中心に、口
伝などを参考にしています。

 今私が把握しているほぼ正確なところは、
   ・9月11日ごろ宇佐神宮へ行幸
   ・9月13日月夜の歌会
   ・10月20日、太宰府陥落で屋島へ渡った
 ということです。
 この間を繋ぐ真実が見つけられればよいのですが。

 この間の疑問点は、それぞれの書物で日付が若干前後している
点を除いて、次の通りです。

 ・柳ヶ浦という地名にまつわるもの
   それが北九州市門司区大理の柳町か、それとも宇佐市柳ヶ浦のことを
   示しているのかということです。この2個所は100kmも離れてお
   り、当時の交通事情からしては同じことだと無視できない。
   私の推測では、遠賀郡山賀から柳に着き、そこから一方は柳ヶ浦へ、
   別働隊が長門で船団を集めていたのではないでしょうか。(国東の
   山香町という言い伝えもある・・・)

 ・安徳帝は行幸後、柳に戻ったのか、それとも大宰府に戻ったのか。ある
  文献では10月20日に太宰府陥落後屋島に渡ったとあり、平家物語で
  は凄惨な脱出劇で柳ヶ浦まで陸路を行ったことになっています。(ここ
  ら辺は他文献と場面が前後するところもあり、ちんぷんかんぷんになり
  そうです。)

 ・安徳帝の身代わり工作は、本当に行われたのか。これは勿論正史「吾妻
  鏡」には出て来ません。他の文献でもそうです。しかしわざわざ宇佐か
  ら100kmも遠い門司まで戻ったのか。仮に緒方勢に追われての行幸
  であれば、緒方勢は久留米−太宰府−遠賀−門司と進撃するはずで、そ
  こに戻る方が危険ではなかったか。遠浅の周防灘でも、沖合いで長門の
  宋船に移乗できるはず。(一刻も早く宇佐から引き上げたということは
  どういうことなのか、それも高瀬舟で)

  変な疑問

 ・この年、緒方勢は国東半島の六郷山を焼き討ちしている。そこはヤマガ
  という地名だった。遠賀郡芦屋の山鹿との関係。平家一門を守護した山
  鹿秀遠は本当はどこにいたのだろう。


 寿永2年の秋、調べれば調べるほど深みにはまりそうです。柳から柳ヶ浦
まで、歩いてみるとしますか。

 因みに私の先祖の家系は、安徳帝の伝説が本当なら

  宇佐公通−宇佐公仲(安徳帝)−宇佐公成(第2子庶流)−
          宇佐公邦−宇佐公豊・・・ となります。

  宇佐公通の正室が清盛の娘 平浄子


[42]服部 明子さんからのコメント(2001年10月16日 23時26分33秒 ) パスワード
  

>宇佐公通の正室が清盛の娘 平浄子

ああ、なるほど。
それで。

宇佐神宮がどうして出て来るのか今ひとつ理解出来なかったのです。
どうして身代わりを立てたのか、とか。

従兄弟同士の関係だったのですか。
でしたら似てるでしょうし
ニ位の尼が抱いて入水もするでしょう。
[43]服部 明子さんからのコメント(2001年10月16日 23時31分38秒 ) パスワード
  

清智さん

このスレッドの下の方に埋もれさせては惜しいので
是非新しいスレッドで安徳天皇生存説をご紹介下さい。
[44]さんからのコメント(2001年10月17日 12時25分33秒 ) パスワード
  

安徳帝の従兄弟だから身代わりに・・・それは確かに頷けますよね。
宇佐から急いで門司に移動・・・身代わりを使った陽動作戦?
う〜ん、さすがに奥が深いですね。とても興味深い話です。
[45]原 康久さんからのコメント(2005年12月18日 13時16分05秒 ) パスワード

矢持と言う地名について教えていただけませんか?
伊勢の矢持、伊賀青山の矢持、平家の落人と関係があるんでしょうか?
平家の落人と矢持の地名は関係あるのでしょうか?
矢持 どこから来て、どんな意味で付けられたのでしょうか?
[46]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月19日 02時02分21秒 ) パスワード

まず、全然分かりませんが。
家紋研究家の小林先生が書き込んでくださると良いですね。


想像を書きます。

まず
弓矢は当時の3大武器の1つ。
射程距離が長いので刀や槍より効果のあった武器と思います。(戦国時代に4つ目として銃が登場)
武士にとっては弓矢は命の次に大事だったと思います。

矢持さんとは
矢作りを職業とした人達の集団とは違い、
矢をたくさん所有している金持ち
そういう意味じゃないでしょうかねえ?
現在の「軍事大国」みたいなニュアンスがあったのでは?


2つ目に武士の家は矢を家紋に取り入れている家が多い。
それは「武を尊ぶ」武家では当たり前ですよね。
清和源氏頼光の鏑矢
桓武平氏服部の矢車


伊勢や伊賀の「矢持」と聞いたら(ああ、平家ゆかりの地名なんだ)と連想がいきませんか?
[48]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月19日 02時17分04秒 ) パスワード

蛇足

戦乱が終わり江戸時代に平和が訪れ戦いが無くなると刀は武士の魂としてシンボル化した。
ここから逆算して他の武器が衰退した理由をちょっと考えてみました。


弓矢をエッチラオッチラ運ぶというか
矢を箙に入れて外に出て歩くというのは余りにも実用的じゃないですものね。
こうして弓矢は平和な時代には時代錯誤になった。

槍は屋敷の長押に掛けておく飾りになった。

鉄砲は余りにも戦いにおける効果的な武器として徳川幕府が所有を制限した。


それで武士のシンボルとして刀は残った。


かな?
[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月19日 02時33分04秒 ) パスワード

というわけで江戸時代という歴史的フィルターを通して「刀」は残ったけれど
「矢」はわたくし達、現代日本人にはもうちょっと前の時代に終わったと思うのです。

でも平安時代に大鎧を着て優雅だった武士の時代には弓矢というのは華やかな武士の武器だった
というイメージがあります。

平安時代の著名な武士
源頼光さん
源為朝さん
伊賀の服部家長さん
那須の与一さん

こういう人って皆さん武器は弓矢で有名ですものね。


  刀は昔はまっすぐで突いて使用した
  それが実用のために後世「反り」をつけた。
  馬の上から振り下ろして切るために。


戦国時代の猛将でも形容詞は「東海一の弓取り」なんて言いましたよね。
今川義元とか。


強弓を引くことが出来るというのは豪傑に対する誉め言葉ですし。
何人張り、なんて表現もありましたし。


それぐらい昔は「弓矢」の名手というのは特別な存在で
特別な存在の人を「○○一の弓取り」と呼んだんじゃないかと思います。


弓に番える矢というのはこれまた当然に非常に大事な武器で
「矢持」という地名は歴史があるということじゃないでしょうか?
[50]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年12月19日 02時41分44秒 ) パスワード

まともなお話:


伊勢とか伊賀の地名って古い日本語だと思いませんか?
私には読めない地名が多すぎます。
まるで万葉仮名の世界だなあと思います。


郷土史に地名の由来が書かれているんじゃないでしょうか?
または
県や市の教育委員会の歴史編纂課にでも問い合わせなさってはいかがでしょう?


>平家の落人

伊勢国・伊賀国はもともとが平家の本貫地ですから「落人」という使い方は合わないと思います

鎌倉時代になっても鎌倉からの権力と戦ってますから。
ずるずるやってる内に南北朝の戦いにズレ込んで南朝方として鎌倉勢や北朝方と戦ってますから。

「平家の落人」じゃなくて「平家本拠地の人々」って呼んで(爆笑)
[51]陶山さんからのコメント(2005年12月29日 02時05分52秒 ) パスワード

国の名前は、昔々奈良時代のことだったと思う。当時中央政府の指示で全国の国の名前を漢字二文字に切り替えてます。

陸奥とか加賀とか、薩摩、大隈とかの二文字に。この時、元々一文字の国も強引に二文字にしてます。例えば「泉」は「和泉」に改めてます。

飛騨とか木曾についての面白い話があります。東南アジアの言葉で「hida-giso」というものがあり、元々森林を意味していたらしいが、それが後々飛騨と木曾になったというものです。

大体日本語の地名は元々当て字が多いから、、、北海道の地名が大体当て字なのは、大昔からこの島に住む人達はそういう感じで遣って来たからみたい。日本語は漢字の意味から読み解くということとは逆に、漢字の意味を少し忘れて、音韻から読み解くべしという逆説的なアプローチが面白いと思う。

飛騨とか木曾とかの地名は、漢字からその意味を読み取れますか。難しいと思う。もちろん伊勢も伊賀も。加賀、薩摩も分からないな。
[52]矢持さんからのコメント(2009年07月27日 22時16分07秒 ) パスワード

昔、おじいちゃんに矢持の先祖さまはすごいぞと言われました。

でも、戦いに負けて三重の山奥に逃げたと聞きました。
あのとき先祖さまが勝っていれば、うちも金もちやったかもと言ってたんですけど本当ですかね・・?
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月28日 01時32分40秒 ) パスワード

ホントでしょ。


<矢持>という名字は初めてですが   (金持とか倉持とかは一般にありますよね)

伊勢市や伊賀市にそういう地名があるんですよね。伊勢市の矢持小学校とか。
ということはバリバリの平家の一族なんでしょうか?


伊勢市や伊賀市の教育委員会の歴史編纂課に問い合わせて歴史資料を頂いたら載っているのでは?


名字の由来は矢をたくさん持っていた一族?
家紋はどういうのでしょう?
矢が2本だったら服部氏系?
藤でしたら藤原姓伊藤氏系?
[54]播磨さんからのコメント(2009年08月15日 00時12分01秒 ) パスワード

初めまして。
盆休みで先祖の墓参りをした中で、今まであまり考えた事もなかったんですが、ふと、自分の苗字について知りたくなって、検索していたらこちらのサイトに辿りつきました。^^;

私の苗字は”角谷”カクタニで、住居が播磨地方と、前の記事を読んでて、興味を覚えたので投稿させてもらっています。
あまり歴史には強くないので、諸説登場される方々の名前がよく分らないのですが、苗字繋がりで何となく親近感わいてます。

推測の話しでも同じ苗字が登場すると、歴史のロマンに触れられたようでとっても嬉しいです。
もっと、いろんな事が分ればいいな、と興味が広がりました。
[56]友森さんからのコメント(2011年05月27日 23時58分45秒 ) パスワード

はじめまして。
自身の苗字ルーツをたどるうちにこちらを見つけました。
山口/周南エリア出身の友森(トモモリ)と申します。

船弁慶を観劇の度に、もしかしてどこかで関連するのかな?と思っていましたが、
ずばり、この姓は「知盛」に関連しているのでしょうか!?
調べるにもどこから手をつければよいのかさっぱり分からず、、
ご存知の方がいらっしゃれば是非ご教授いただけば幸いです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 01時44分26秒 ) パスワード

全く分かりませんが

7000傑さんからレスがあると良いですね。


さてわたくしが検索した結果によりますと(えっへん!)笑

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%8E%E6%B4%A5%E6%9D%91

鳥取県米子の
葭津というところが舞台で
以下コピペ:

弓浜半島中央部の内浜に位置し、南は中海に面する。地名の由来は葭が多く生えていたことにちなむ。

天正年間平知盛の末裔を称する平清重の孫(友森氏)が当地に転住し、4代目観蔵が高松村・河崎村までを開発したと伝えられ俗に『観蔵開き』という。



元祖の氏名と履歴

友森家元祖・助左衛門

門江村より出た。
平知盛の庶子清親〈高曽子丸〉の後裔であるという。

高曽子丸は壇ノ浦より逃れ出雲片江浦に着き石見五郎清親式部と号す。
清親の末裔、平清重は天正5年(1577年)没する。助左衛門、当地に転住し次代観蔵の代に百姓となる。

初め知盛と言ったが明治維新の際現姓(友森氏)に改めた。

南波冀志著『鳥取県の平家部落』に153-154頁によれば、「当主は義元といい、その先祖は平知盛(重盛の弟)で、廉子高曾子丸(五才)は、元暦二年(一一八五)三月下旬壇の浦合戦後、一族とともに船で出雲国島根郡門江の浦(片江浦)にのがれたが、その後現在のところにうつったのは、いつのころか明らかでない。

家紋は、鍬形に蔦の葉という珍しいもので、墓は葭津地内にある」という。


家紋は1家に1つとは限りませんので
鍬形に蔦の葉でなくてもガッカリなさることはありませんよ。


是非葭津にいらっしゃってみてください。


詳しくは教育委員会から史料をいただいたら良いと思います。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 01時48分15秒 ) パスワード

任宗寺毘沙門堂資料
あ、こんなのもありますね。


明治二十一年十月二十五日
奉請延命地蔵願王尊開眼専祈當村中善男善女
願主…友森豊重(家道興隆・子孫長久之処)・・・・・・← ここ
導師大祥現童梅芳謹誌之
當庵現住…金山龍山・・・・・・・・・・・・・・・・・← ここ
用係…長谷川伊勢格
世話人…阿川荘一郎・渡部栄治郎

訪ねるきっかけになりますね。



[59]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 02時11分14秒 ) パスワード

http://ci.nii.ac.jp/els/110006608207.pdf?id=ART0008576988&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1306515990&cp=

これ、開けられますか?

もし開けられなかったら


「大和国平野殿荘の悪党:下司平清重とその一類」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006608207
の右端のファイルをクリックなさってください。
読めますから。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 06時22分27秒 ) パスワード

「大和国平野殿荘の悪党:下司平清重とその一類」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006608207

30ページに及ぶファイルですがお読みになれましたか?
我が家のPCでは読み難くて拾い読みしただけです。恥

奈良の教育委員会からも中世〜近世の史料を頂けると良いですね。


大和国なんて書いてあるから、壇ノ浦後、伊賀に逃げたのかな?
その後鎌倉幕府と関わりがあって
南北朝後
何らかの事情で米子に引っ越して
そこからまた山口に引っ越したのかしらね?


御自分から遡って明治の初めの御先祖さまの除籍謄本が手に入ると良いですね。

明治の初めにどこにいたのか?

山口には結構まとまって住んでいらっしゃるから江戸時代には既にここにいたのかもね。

本家が分かると良いですね。
本家の御主人にお訊きできたら良いですね。


機会があったら米子の方にもいらっしゃって
ヨシヅという所にいらっしゃって
友森一族の方や
延命地蔵の開眼供養したお寺さん?が
分かると良いですね。


時間とお金のかかることですから、ライフワークになさってください。
御先祖さまはお喜びと思いますよ。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時06分18秒 ) パスワード

以下は清重の子孫が世に出られなかった話です。

同じ立場でも筒井氏・古市氏・越智氏は室町時代に
大和国の支配者であった興福寺・春日大社の支配を内側から崩していったのに
清重の一族は旧態依然の感覚に縛られていた
ということです。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時10分57秒 ) パスワード

下司職清重が悪党でしかなかった背景:


大和国はもともとが興福寺と春日大社に支配される国であった。
そこに各荘園がいろいろな力によって支配されていた。


舞台となった平野殿荘は小さな土地であったのに
もともと皇室のもので
それが仁和寺に寄進され
さらに東寺に寄進されるという


何重にも支配者のいる土地であった。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時14分06秒 ) パスワード

永仁4(1296)年7月
東寺の尚慶が平清重を訴えた。
惣追捕使は平清永(願妙)


   同じ平姓。


この2人はともに時代を乗り越えられなかった。
他にも一族の平姓の者たちもいたが、やはり、乗り越えられなかった。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時17分49秒 ) パスワード

乗り越えられなかったのは何重にもかけられた支配と、また、それに守られる身分・役職に甘えたから。



正応元(1288)年9月に  清重 vs  清永  の争いが勃発した。
東寺が2人の所領を召し上げた。


ここへ興福寺が清重を自分のところの家来だと介入して来た。


ところが院宣では東寺の勝ちとなった。


次に東寺と仁和寺の争いが起きた。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時19分33秒 ) パスワード

1291年3月
清重が下司職に復帰。


1288年以降の争いが収まった。

    ように思われた・・・・だけ
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時23分37秒 ) パスワード

平野殿荘の東寺による支配体制が確立していくが
下司職を廃止したので清重が怒った。

その後、清重は下司職に復帰。


       正応6(1293)年〜永仁6(1299)年にかけて東寺が単独支配を目指して
       清重は東寺と争って本物の悪党になって行く。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 11時29分27秒 ) パスワード

正安年間・嘉元年間にいよいよ清重一族は自滅していく。


息子の十郎が一乗院末寺の和尚に怪我を負わせて興福寺から監督が入る。興福寺と対立。
清重自身は下司職を賭博のカタに取られて東寺と対立。



こうして清重一族は興福寺と東寺を相手に本物の悪党になって歴史の舞台から消える。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月28日 14時28分57秒 ) パスワード

あ、清重の父上は  清宗  とおっしゃいます。
[70]友森さんからのコメント(2011年05月28日 22時11分56秒 ) パスワード

空の青海のあをさま!
一晩でこんなにコメントを頂けるとは!感激です!ありがとうございます。

歴史にも疎かったのですが、まずはこれから、頂いた情報をゆっくり理解したいと思います!
歴史上の人物が、急に身近に感じてきました。^^ゞ
とり急ぎ御礼まで。解読(?)頑張ります!
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月29日 03時31分34秒 ) パスワード

解読頑張ってください。
また検証しなくてはね。


年号なんかは西暦のいつなのか調べてください。

平清重は2人いたのかも。

ファイルからでは
清重は13世紀あたりの人で東寺との争いで鎌倉幕府の役人が介入したりしていると書いてあるのに

最初に書いた話では16世紀の戦国時代
「清重の孫が天正年間に引っ越してきて」と書いてあったり


ヲイヲイ、300年もの時差がありますよ〜笑


ということで、またまた調べて来ました。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月29日 03時35分39秒 ) パスワード

<60>の書き直し:


万治2年の藩の記録には吉津と書かれてあり、
そのころ9戸の家があったと言われる。

阿川氏、石橋氏、友森氏、山口氏、吉岡氏、(長谷川氏? )、渡部氏、安田氏、松本氏などである。



各家の元祖の氏名と履歴

阿川家元祖・善左衛門
讃岐高松の浪士であると言い伝う。「葭津村庄屋善左衛門」と社帳書上げに記載あり。


石橋家元祖・多郎兵衛
雲州廣瀬尼子氏の浪士であると言い伝う。〈上手〉石橋家の祠の前にあるムクノキは米子市3位の大きさのムクノキとして成長している。


友森家元祖・助左衛門
門江村より出た。平知盛の庶子清親〈高曽子丸〉の後裔であるという。高曽子丸は壇ノ浦より逃れ出雲片江浦に着き石見五郎清親式部と号す。清親の末裔、平清重は天正5年(1577年)没する。助左衛門、当地に転住し次代観蔵の代に百姓となる。初め知盛と言ったが明治維新の際現姓(友森氏)に改めた。
南波冀志著『鳥取県の平家部落』に153-154頁によれば、「当主は義元といい、その先祖は平知盛(重盛の弟)で、廉子高曾子丸(五才)は、元暦二年(一一八五)三月下旬壇の浦合戦後、一族とともに船で出雲国島根郡門江の浦(片江浦)にのがれたが、その後現在のところにうつったのは、いつのころか明らかでない。家紋は、鍬形に蔦の葉という珍しいもので、墓は葭津地内にある」という。


山口家元祖・山口道弥の後室 初代は道三
道三は豊臣家の医官〈眼医〉山口道弥の一子。母は古澤備中守の娘也といい伝える。山口氏の本姓は大内氏。 
文政6年(1823年)山口良哉は寺子屋を開き、明治4年(1871年)には男子40人を教え明治6年(1873年)まで続いた。


吉岡家元祖・與右衛門
雲州大根島より出たと称する。一説に雲州能義郡出かともいう。


長谷川家元祖・又兵衛
雲州塩冶村より塩冶氏の浪士であると言い伝う。


渡部家元祖・又右衛門
雲州大根島より出たと称する。波入村門屋という。吉兵衛が天明年間(1781年〜1788年)、宗旨庄屋を務め文化13年(1816年)から文政5年(1822年)まで大庄屋を務めた。


松本家元祖・次郎助
雲州大根島より出たと称する 幕末期、多次郎が庄屋を務めた。


安田家元祖・吉左衛門  
米子城主池田由之の末裔を称する。万治年間(1658年〜1660年)安田氏の祖日野郡二部より米子に再住し紺屋を営んだが後、葭津に移住し農耕をなす。二部屋と称す。麦垣新田と称した当時上記先住者8戸に相次ぎ入住した。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月29日 03時40分31秒 ) パスワード

明治37年(1904年)の『伯耆国実業人名鑑』によると、代表的商工業者の1人に

葭津の繰綿繭仲買業者の 友森栄七 の名がある。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月29日 04時34分50秒 ) パスワード

参考文献

『米子市史』
南波冀志 『鳥取県の平家部落』 1970年
森納 『夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 1975年


これらが手に入ると良いですね。


鳥取県教育委員会や米子の教育委員会に問い合わせて入手法をお訊きになると良いでしょうね。

または鳥取県の図書館など大きな図書館や米子の古くからの本屋さんが頼りになると思います。



南波冀志 『鳥取県の平家部落』

この本は必読ですね。

まさにあの9名字の家は平家の子孫かも。


日本は島国で、顔を見れば身内かヨソ者か、なんていうのが分かりますから
詐称というのは厳しいものがありますから
友森氏が知盛の子孫というのはそうだと思いますよ。


明治の初めに戸籍を作った時に「知盛」としたかったのを「友森」にしたのは
平知盛の庶子の子孫という「分」からで   ← 分限とか分際の「分」ね
周りの平家の子孫の皆さんへの「配慮」や「遠慮」からかも。

明治の初めの御先祖さまはとっても謙虚な方だったのかも。


今なら今年のお盆に間に合いますから
是非今年のお盆は御先祖さまの慰霊をなさってあげてください。


こうして入力していると、御先祖さまが友森さんにとても感謝なさっていらっしゃるのを感じます。


奈良の教育委員会の編纂史料には下司職平清重の項があると思いますよ。
そこに平知盛さまの庶子だった清親〈高曽子丸〉のことも書かれているのでは?と思います。


とにかく小さなツテを頼って資料を集めまくり、読みまくることです。


そうしますと御先祖さまが情報をバンバン送ってくれますよ。
毎日毎日向こうから情報が雪崩のように押し寄せてきます。

例えば
テレビを見ていると関連の話が放送されたり
本屋さんに行くと参考になる本が向こうから主張して来ますよ「ココ!ココ!私を読んで!」って。


山口と鳥取なら結構近いですから行ってみるとか
東京近辺にお住まいなら国会図書館を利用するとか
とりあえず行動してみてください。


今年のお盆には親戚一同に集まってもらいましょう。

そして皆さんに御先祖さまのことを訊きましょう。

誰か必ず情報を持っていますよ。
だれそれが系図を持っている、とかね。
どこそこがホンヤだ、とかね。


そういう話を御存知の方は既に80代ぐらいかも。
早くしないと皆さん鬼籍に入ってしまいますよ。


南波冀志 『鳥取県の平家部落』 の南波さんは  平家一門の備前の難波さん の子孫かな?
それで御先祖さまに引っ張られて平家の落人に関心があったのかな?


実はわたくしは最近、吉備国に興味がありまして  平家一門の備前の難波氏・備中の瀬尾氏について、スレッドを立てたい
と思っていたのです。

なるほど、こういう引っ張り合いがあったのか、と納得です。



清親が鳥取に取り敢えず落ちたのは母の里が鳥取だったのか、乳母の関係者が鳥取出身だったのか?

その後、伊賀あたりに移って(伊勢・伊賀は平家の本貫地ですから安全ですから)

鎌倉時代には大和国のちょっとした家で
ここでいろいろあって
南北朝の戦いがあって
戦国時代になって天正年間には鳥取に落ち着いて
長くそこに居て
1部が山口に引っ越した

こんな流れかな?


ムカシの所領地というのは  
    弱小の武士は文字通り「一所懸命」で少しの土地を必死に守ったけど
    有力者はアチコチに土地を持っていましたから

知盛さまは鳥取にも土地を持っていたのかもね。

清親の生母という人はそこの出身か、乳母の夫の出身地か、家来か
なにかそういう関係で、
壇の浦での敗戦後、頼って落ち延びたと思いますよ。


だから天正時代にも鳥取に住んだのかも。
その時にも命からがらの事件があったのかも。

頼りになるのは鳥取というのがあったのじゃないかな?


落ちて行く先は身の安全な所です。
ムカシっからのね。


ムカシは落ち武者狩りがありましたから
平家関係者は草の根分けても捜して殺せ、って。
戦国時代は百姓達に狩られましたからね。

だから身の安全な所に逃げたのですよ。途中はいつ見つかって殺されるのか、ビクビクでした。


お盆まで時間がありますから
鳥取の友森さんとか
ネットや電話帳で探して返信用封筒を入れて
お手紙を書きまくるとかなさってはいかがでしょう?

お手紙を貰った方も御先祖さまについて知りたいと思っていらっしゃいますよ。
[76]友森さんからのコメント(2012年04月21日 16時22分12秒 ) パスワード

ご無沙汰しております。友森です。

アドバイスいただき、少しずつ調べてみましたが、鬼籍に入った親類も多く、なかなか歩みは進みません。

・除籍謄本では、江戸末期には山口にいた模様でした。
・この連休、出雲経由での帰省を計画しています。「葭津」地区は米子空港のすぐ傍、遠い先祖がいたかもしれない土地を少し歩いてみたいと思っています!

[77]友森2さんからのコメント(2012年10月15日 00時10分17秒 ) パスワード

友森様
わたしも、父が山口周南出身の友森姓をもつ者です。
しかしながら、事情もあり父と田舎との縁が遠のいているものですから、
家のことを詳しく知りません。
何らかのつながりがあるのかと、非常に興味を感じ勉強になりました。

もし、更なる情報があるようでしたらお聞かせいただきたいです。
[78]しかちゃんさんからのコメント(2013年01月21日 23時35分20秒 ) パスワード

はじめまして。
自分の旧姓<鹿内>と家紋九曜星に何か由来がある筈と思いながら過ごして来ました。なんとなく検索していたら、このページに出会えました。
祖父は、青森から上京し親戚は青森に沢山いるものの私は会ったことがありませんでした。このページで、平家のなにかをしていた為?鹿内といる名前をもらい、九曜星だったのですかね・・・。
さて暖かくなったら東北の旅でもしようかしら。
まず何に何から手を付けたら良いのでしょうか?
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