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 投稿番号:100070 投稿日:2000年12月16日 23時10分10秒  パスワード
 お名前:服部 明子
「江戸川柳で読む平家物語」

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「江戸川柳で読む平家物語」

著者:安部達二
出版:文春新書

なかなか面白そうです。
読んだ方は感想などお書きになって下さい。

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年12月16日 23時11分15秒 ) パスワード
  

註:下記の記事は「平 忠度」のスレッドにフクソウします:


************************************

以下は多分朝日新聞の「論説委員室・窓」からの記事だと思います。


<薩摩守>

電車などに運賃を払わずに乗ることを「薩摩守」という。
平家の武将、平 忠度が薩摩守だったことからくる。

名前が「ただのり」だから「だた乗り」である。


ひと昔前までは「薩摩守御用」と言えば
無賃乗車犯が捕まったことだ、
と注釈無しで意味が通じたように思う。


「江戸川柳で読む平家物語」(安部達二著・文春新書)という本がある。
すでに江戸時代から篭の乗り逃げを薩摩守と呼んでいたという。

本の中で著者の安部さんは
これが死語になりつつあり、忠度のことも知る人がいなくなった
と嘆いている。



薩摩守忠度は、すぐれた歌人でもあった。

源氏に追われて都落ちする際、
歌の師である藤原俊成に
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山ざくらかな」
の歌を託した。


討ち取られた時は、
矢を入れるえびらに
「行きくれて 木の下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし」
の1首を結びつけていた。


江戸川柳で平家物語が豊富に扱われるのは
「当時の庶民には常識だったからです」
と安部さんは言う。


薩摩守は歴史的な「おやじギャグ」だと言えば叱られるだろうか。
それが成立したのも
江戸庶民が忠度に共感していたからでもあろう。


とはいえ、そんなことを知る人が少なくなっても心配あるまい。
平家物語のような古典は少数であっても
いつの時代にも必ず読まれるものだ。


壇の浦で平 知盛が入水した時の
「見るべきほどの事は見つ」は
破綻した企業の関係者に重く響くのではないか。


朝日新聞データベースには1985年以降
能・狂言の紹介などで
薩摩守が十数件、忠度は約60件の記事がある。


しぶとく生きている。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 12時38分23秒 ) パスワード
  

買って読みました。
面白いですよ。

義母が救急車で入院したので待時間潰しに持って行って読んで失敗しました。

笑いをこらえるのに大変でしたから。


でも中には難し過ぎて分からないのも沢山ありました。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 12時45分07秒 ) パスワード
  

平 忠盛:


こんな笠 よせよと忠盛 叱りつけ
(忠盛が妖怪を退治しに行ったら
坊主が雨よけの藁をかぶって
手に明かりと油壷を持ってたことを発見し
その勇気を讃えられたお話から)


喰いかけの 芋忠盛に 下さるる
(喰いかけの芋とはお手付きの女性の事)


院の子 院の子と 忠盛は抱き上げる
(院の子=清盛)
昔は子供を寝かせる時に「犬の子・犬の子」と言ったのだそうです。←いんのこ
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 12時57分04秒 ) パスワード
  

義朝の最期


義朝は逃げて
愛知県の知多半島の内海(野間の近く)の長田忠致の館を頼って
お風呂場で殺されましたが

この時37歳だったそうです。
1160年1月4日の事だったそうです。


婿殿や 過ごさっしゃいと 長田いい


恐ろしい初湯は野間の内海なり


ふとどきな 初湯を 長田 立てるなり


末期の湯 呑んで義朝 最期なり←これはちょっとひどい!


義朝は ゆかんを先へ してしまい←これもひどい!


板の間と 長田異名をつけられる
(風呂場泥棒を板の間稼ぎと言うことから)



長田は恩賞に壱岐守を与えられたので不満を言ったら
重盛から「相伝の主を殺して何を言う」と叱られたそうです。
一説には重盛でなく、貞家とも私は聞いていますが。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 13時10分25秒 ) パスワード
  

常盤についての川柳は性にまつわるのが多くてちょっと気の毒でした。


久安6年(1150年)13歳の時
藤原伊通の娘呈子が近衛天皇の中宮になったとき
伊通は都の美女1000人の中からトップに常盤を選んだのだそうです。
常盤は13歳だったそうです。

16歳の時、義朝の愛人になったそうです。
今若・乙若・牛若の3人の子を生んだのです。



千人に 1人の後家を 入道しめ
(1000人の中からたった1人選ばれた常盤を清盛が手に入れた)


後家を手に入れて 子孫の骨がらみ
(骨がらみとは梅毒で骨まで冒されること。平家が滅びたこと)


貞女 両夫にまみえたで 源氏の代


入髪をした入道にぬってみせ
(頭は剃ってる清盛だからカツラをつけて
常盤も結構年だから厚化粧を塗ったのだろう)



義朝は裸 常盤はうづみ着る
(うづみ着るは厚着のことだそうです。
義朝は裸で死んだが常盤は衣装に困ることはなかっただろう)



常盤の川柳には女性への差別が多いので気の毒です。
結局は常盤という女性は江戸時代の人達には好かれていなかったのかも。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 13時21分42秒 ) パスワード
  

厳島神社


女神だけどふでも赤い方をひき
(これも難解でしたが
「女神だけ どうでも 赤い方を 贔屓」と読むのか?

厳島神社の祭神は市杵島姫命+田心姫命+たぎつ姫命の3神なので
いずれも女神だけに赤い色が好きだから
平家を贔屓にした
の意味らしい)
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 13時45分11秒 ) パスワード
  

兵庫港の改修工事


清盛の偉業の1つに大輪田の泊(兵庫港)の改修工事がありますが
1161年改修に取りかかったそうです。

この時の清盛は難工事に人柱を立てようという人々の言を退け
経を書いて埋めたという美談も残っています。
この島は「経の島」と呼ばれたそうです。

「それは罪業なりとて石の面に一切経を書ひて築かれたりけるゆへにこそ
(経の島と名付けられた)」


安部氏がこう書いていらっしゃいます:
清盛という人はなかなかの人道主義者であり合理主義者であった、と。



今少しで完成するという時に日が暮れかかったので
清盛が扇を開いて夕日を返した伝説から


1日に 2度 日の暮れる 平家の世
清盛も その日に夜食 2度喰はれ
日を招き 諸国の時計 みな狂い(当時は日時計だったから)
暦博士 ある日びっくり 平家の世
宮島の 大工をや 又 日が出たぜ
月をお招き遊ばせと 祇王祇女(←清盛の寵愛した女性2人)

清盛の 扇の欲しき 花の山
(寛永寺領の上野の山は桜の名所だったが日の入りとともに花見客が追い出されたから)


夕日をば 招き 朝日に 逃げるなり
(朝日=木曾義仲)


養和元年(1181年)2月、清盛が死ぬと骨は経の島に納められたそうです。


築島は げに入道の キズに玉
(欠点は多かった人だけど経が島のことは良い事の1つという意味)


築島のあとは奢りに非を招き
(非=火
清盛が熱病で死んだこと)



江戸時代の人達は清盛のことを悪人とは思っていなかったようですね。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年04月16日 23時46分27秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


ずっと以前に義経の長時間ドラマがありました。
その中で義経曰く、

「子供を助けるために、自分を売った母親(常盤)に抱かれたくはない。
私(牛若)からみれば、例え私の存在が絶えられても、義朝のために
死んでほしかった。」

という部分があります。

これって、日本人の代表的な思考ではないでしょうか。
だから、常盤は嫌われたのでは。

結果として、常盤がいたから平家は滅びたのですが。
「立場」って、その場になったら難しいものです。
[9]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 05時55分06秒 ) パスワード
  

祇王・祇女・仏御前


清盛の専横・据傲の蔭で泣いた女性たちとして知られていますが
江戸川柳からは、あやかりたいよ清盛さんに、というやっかみが読めました。



月は祇女・花は祇王と ひとさかり
(ひとさかりとは青春の楽しい日々のようでございますね)


祇王・祇女 庇の下へ つき出され
(仏御前の出現で 姉妹2人が追い出された)


祇王・祇女 田舎娘に おっぺされ
(田舎からぽっと出て来たのに2人が負けた)


入道の ご帰依増します 生き仏
清盛は仏をねやに安置する
六波羅の 和尚も迷ふ 生き仏
清盛は 仏のために 迷はされ


うつり気な 坊主と嵯峨で 悪く言い
(祇王・祇女の姉妹が清盛の悪口を言ってるさま)


嵯峨の奥 3本不用な舞扇
舞扇 3本嵯峨で 毛受けにし
(出家する時、本当に落飾の髪を扇で受けた、と安部氏はお書きです)


この頃は 後家狂ひだと 嵯峨で言い
(常盤に夢中)


始皇から見れば 清盛 小僧なり
(秦の始皇帝は3000人の女性を持ってたから清盛なんて)



江戸時代の人々は清盛のことをやっかみこそすれ
悪業の人物とは思ってないですね。
あやかりたいよ、清盛さんに、とは
清盛は地下で以て冥すべし?
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 06時10分08秒 ) パスワード
  

小督のことも江戸川柳では笑ってしまいます。

安部氏の解説がまたまたおかしいのですよ。
是非購入してお読みになって下さい。
24ページから26ページです。
川柳って安部氏の解説を拝見してると江戸庶民が「どうだ!」って言ってる様子が
浮かんできます。



仲国は笛で迷子をたづね出し
(普通は、鉦や太鼓を叩いて探すのだが・・・)ですって!


琴の手で 火を引く 嵯峨の 釜の下
(帝寵愛の局も、嵯峨では自炊だったろう)と安部氏。


仲国は 西八条へ 不首尾なり
(西八条とは清盛の屋敷のあった所ですね。
仲国は西八条からはさぞ憎まれただろう、と川柳子は心配するが
「平家物語は彼のその後を伝えてはいない)と安部氏。



もう、本当に、平家物語をこういう風に読んじゃったのですか?と
ありゃぁ〜
の連続です。


結局は「平家物語」なんて源氏=徳川の先祖側の話じゃないか、と
江戸庶民はカッパしてたのかな?


是非是非あなたもお読みになって感想をお書きになって下さい。
710円+税です。

この内容で710円は安いですよ。
[11]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 06時20分37秒 ) パスワード
  

鹿ケ谷


ここでの密議が多田行綱の裏切りで発覚しますが
禿の活躍と吉原の禿を引っ掛けて
江戸川柳が作られています。


江戸時代ならではの川柳面目躍如!
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 06時32分35秒 ) パスワード
  

重盛の諌言


重盛の諌言は歓迎されたのかというと
江戸庶民はそう取って無いのですよ。

はぁ〜
っと驚いてしまいました。



重盛の異見 入道うんざりし


小松殿 立たれて みんな のびをする
(重盛が死んで一族がほっと喜んでいる?)


非を示す 小松 入道 煙たがり
(示す=湿らす)


入道の 相談相手 二男なり
(二男とはここでは宗盛だから平家は滅亡を早めてしまった)

基盛さまは若死にしてるし
知盛さまは宗盛より若いし
仕方ないか。。。
[13]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 06時44分51秒 ) パスワード
  

小松殿が仏教に深く帰依し
宋に使者を派遣したことなどもボロクソ。

さらに

小松菜にも引っ掛けてボロクソ。

納豆のこともボロクソ。



一門をしみ 唐土へ 3箱やり
(一文を惜しんで を引っ掛けて
宋のお寺に大金を寄進したのに何の甲斐もなかった)
黄金3000両ですって。


小松菜を何と売ったか平家の代
小松菜を呼ぶに困った平家の代
[14]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 07時01分42秒 ) パスワード
  

重盛の死


35ページでは
清盛=悪
重盛=仁者+賢者
と描かれていて

江戸時代の庶民には
資盛の「天下乗合事件」での悪人は清盛だったと信じられていた
と安部氏はお書きです。

本当の悪は重盛なのに
江戸庶民は平家物語の記述を鵜呑みにして清盛だと信じてた、と。




親にまさる子 ムツ鰊 小松どの
小松殿 以後一門は 海のもの
(壇の浦で滅びたの意味)
汐風に もまれぬ内に 小松枯れ
小松菜が 枯れて まごつく 蝶の群れ
(蝶は平家の紋)
[15]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 07時05分17秒 ) パスワード
  

福原遷都


勝手に清盛がまだ出来てもいない福原(神戸)に遷都したために
社交上手な公家達も海の景色しか褒めるものがなかった
ことから



都を移す わがままな おぢぢさま
(安徳天皇は清盛の孫)


新都では 海ばっかりを 諸卿ほめ
[16]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 07時09分05秒 ) パスワード
  

平家西海落ち



平家一門寿永4年(1185年)3月24日滅亡


福原ののち わたづみへ 連れ申し
(福原遷都の後は 海に・・・)

安部氏は「川柳にhしてはこわーい句である」とお書きです。
[17]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 07時24分15秒 ) パスワード
  

清盛の死



養和元年(1181年)閏2月
清盛熱病に冒かる。



清盛の医者は裸で脈を取り


裸で入る清盛の医者


入道は 冷えた女を 女をと


清盛の病気見舞いに竜吐水


病気までおごりがましい火の病
(奢りとオコリをかけている)


入道は真水を飲んで先へ死に
(一門の末期の水は塩水だった)


清盛の幽霊不動かと思い
(不動明王は背に火炎を背負っている)


入道の病気もろせが出ぬばかり
(もろせとは江戸火消しの2番組のことで
彼らが出動してもおかしくない
との意味)

3年忌きりで清盛無縁なり
(清盛の死後2年で平家は都落ちし
更に2年で平家が滅亡してしまったから
1回忌・3回忌までは法要を営んで貰えたろうが
あとは無縁仏同様になってしまった、の意味)



一の谷の合戦で
源氏方は2月4日は清盛の命日だから開戦を避けるという優な振舞いをしたそうです。


建久9年(1198年)維盛の子六代が斬られた。
「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」
こうして清盛の後世を弔う人は誰一人いなくなってしまった。
[18]服部 明子さんからのコメント(2001年04月17日 07時26分55秒 ) パスワード
  

以下
源三位頼政
源 頼朝
木曾義仲
一の谷
屋島
壇の浦
戦いのあとに
義経記の世界
英雄の死
が続きます。


是非ご購入の上ご感想を願います。
[19]皇竹さんからのコメント(2001年04月26日 11時50分36秒 ) パスワード
  

私も実は買って積んであるのです....、
もうひとつ「平家物語と俳句」(暁 萌吾)と2冊買ったので、
こちらは読んで江戸の川柳の方は読んでいません。
早速読みます。

「平家物語と俳句」は余り面白くなかった
それより「平家れくいえむ紀行」(中石 孝)を紹介します

病に侵された奥様と二人で平家の縁の地を訪ねる紀行文ですが、
奥さんを思いやるやさしい気持ちと、
滅亡した平家の人達を思いやる気持ちとが重なり合って感動しました

゛仙の戸を叩き給うな冬牡丹゛
寂光院に咲く牡丹に、高貴な女人の面影をみたのでしょう
中石さんの奥様の俳句です





[20]服部 明子さんからのコメント(2001年04月26日 21時51分59秒 ) パスワード
  

是非お読みになって新スレッドをお立てになって下さい。
そしてもっと沢山の方に「平家物語と川柳」に関心をもって頂きたいと
願っております。

「れくいえむ」のご紹介
ありがとうございました。
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