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 投稿番号:100024 投稿日:2000年08月06日 22時25分01秒  パスワード
 お名前:なかにし
安徳天皇陵・熊本県清和村

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

 熊本県の山奥に安徳天皇陵があるという情報を頂きまして(実は、一部のガイドブックにも紹介されているほど有名らしい・・・)、さっそくお参りに行って来ました。ページをきちんと作成する前の速報という感じで写真を紹介します。

 場所は、熊本県清和村。九州自動車道の松橋インターチェンジから、およそ1時間。観光地として有名な通潤橋から車で2、30分です。

 付近はこんな感じ。


 やはり、ここも、車1台分ぎりぎりしかないような、林道を延々走らなければなりません。

 安徳天皇陵は山の中腹にあるのですが、そののぼり口に神社があり、山道を登ることの出来ない方は、こちらでお参りすることも出来ます。この神社は、林道からはずれたところにありまして、カローラクラスの車ですと、神社の直前まではいることが出来ますが、こんな山の中で脱輪してはシャレにならないので、私は念のために、林道の離合所に車を止めて、15分ほど歩きました。





 この神社の脇に、安徳天皇陵へののぼり口がありまして、長い階段が続いています。階段はきれいに整備されていますので、危険はありませんが、かなりキツイです。



 ここが安徳天皇陵で、写真の全体が円墳で、正面には石組みがあり、祭事を行うスペースがあります。壇ノ浦の合戦後、落ち延びてきた安徳天皇は、この地で17歳で崩御されたそうです。下の神社と、御陵には17歳の頃の安徳天皇の御尊影があります。原典はわからないのですが、いわゆる、鞠遊びをしている安徳天皇しか知らない私には衝撃的でした。

 ちなみに、この地は、椎葉からはかなり近いです。

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年08月06日 23時06分36秒 ) パスワード
  

なんとも凄い山の中ですねぇ。

円墳・祭事場がある・鳥居がある・ホコラがある。。。

ふぅ〜ん。。。
[2]なかにしさんからのコメント(2000年08月06日 23時16分44秒 ) パスワード
  

 それが、写真を見てもおわかりの通り、田んぼがまわりには広がっていまして、農作業をしておられる方とか、道路工事? の作業の方とかおられて、結構にぎやかでした (^^;)。

 一番近い集落まで、車で10分程度でしょうか。今年の春の、秘境ルートの林道よりははるかに、人の生活の場に近いです。

 それから、二位の尼の墓も熊本にあるらしいですね。宇土花園というところだそうです。現地の案内板に書いてありました。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年08月06日 23時26分19秒 ) パスワード
  

>それから、二位の尼の墓も熊本にあるらしいですね。宇土花園というところだそうです。現
地の案内板に書いてありました。


これまた不思議ですねぇ。


[4]ハンスさんからのコメント(2000年08月06日 23時54分16秒 ) パスワード
  

>壇ノ浦の合戦後、落ち延びてきた安徳天皇は、
>この地で17歳で崩御されたそうです。

壇ノ浦で入水したっていうのは事実じゃなかったのか…。
歴史って本当に不思議ですね。
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年08月07日 01時33分14秒 ) パスワード
  

円墳が作られた、というのが凄いですよね。

伝説の枠内ならせいぜい塚とかホコラとかは作られるでしょうが
人手もお金も掛かる本格的なモノは
かなり<有力な人>がいないことには出来ませんから。

では誰が一緒にいたか?
という謎も出てきます。


二位の尼は安徳天皇崩御の後にご動座あって熊本に墓があるのか?
という疑問も出て来ますし。



あの凄い山の中に、円墳がある、ということが実に不思議です。。。
[6]なかにしさんからのコメント(2000年08月07日 07時52分05秒 ) パスワード
  

 ハンスさん、おはようございます。

 もちろん、壇ノ浦で入水したのがウソだったとは言い切れません。

 安徳天皇が逃げ延びた伝説はたくさん、たくさんありますね。日本中の人が死んで欲しくないと思った、あるいは、祟りをおそれて生きていると信じたかった、ということなのでしょうね。

 源義経の伝説に関しても、「逆説の日本史5」の中で井沢元彦氏は、当時の日本人は「祟り」を何よりもおそれていて、義経のように、無念の死を遂げると、祟りも非常に恐ろしいものになるそうで、そのために、生存伝説がたくさんうまれるのだと書いておられました。

 安徳帝の生存伝説についてもそうかもしれませんね。

 服部明子さん、おはようございます。

 宇土には、また改めて足を延ばしてみようと思っています。

 ここの安徳天皇陵は、ごく最近(去年とか、今年とかというレベル)の天災で、周辺の山の斜面が崩れたか何かで、修復作業と、あわせて、休憩所のような施設の建設が行われておりました。

 で、現場の脇に、折れた由来の四角柱がころがっていたのですが、御陵はこの付近の開田の際に見つかったそうで、「石棺と一字一石(ってなに?)が出土したが」だそうです。「出土したが」の下で柱が折れていまして、続きを探したのですが見つかりませんでした。

 1年後くらいに行くと、周辺も整備されているかもしれません。

 さらに、伝説によると、17歳で崩御された際は確かにここに埋葬されたそうですが、追っ手が迫ったので、宇土花園に再埋葬された、という意味のことが書いてありました。

 安徳天皇崩御後、二位の尼はこの地で御陵を守っていたが、追っ手が来たので、安徳天皇の御尊骸と共に宇土に逃げ、後年二位の尼もその地に埋葬されたと言うことでしょうか?? 「なんで、人目に付きやすい宇土に?」という気もしますが。
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