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 投稿番号:100018 投稿日:2000年07月21日 17時00分52秒  パスワード
 お名前:服部 明子
岡山の服部氏関連

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu21.htm

の服部寺が出ていました。
文字化けが凄いので私のでは見られませんが・・・

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 17時03分34秒 ) パスワード
  

「ソガ氏」関連で出てましたね。


1999.11.25更新

古代吉備を探る

大地からのメッセージ(21)
 寺院の建立
 文/岡山県教育庁文化課 松本和男

(グラフおかやま1998年12月号より転載)

 


服部廃寺の金堂礎石(長船町教育委員会提供)



 日本で最初に本格的な寺院が建立されたのは、西暦588年(崇峻天皇元年)に造営が開始さ
れた飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)であります。その後、畿内およびその周辺の氏族によっ
て寺院が造営されますが、地方での造営は7世紀第U四半期頃からであり、その数は少ないの
です。その数が徐々に増えてくるのは7世紀中葉頃からであり、数多く造営されるようになる
のは7世紀末頃になってからということが明らかになってきています。

 県内では奈良時代までに造営されたと推定される寺院跡が50か所ほど確認されています
が、その内訳は備前国20か所、備中国17か所、美作国13か所であります。これらの寺院のう
ち、国が建立した官寺である備前、備中、美作の各国分僧寺と尼寺の6か寺を除く44の寺院跡
は氏寺跡と考えられています。

 寺の範囲は最小でも1町四方(1万平方メートル)の広い面積をもつため、発掘調査によっ
て寺の範囲や伽藍(がらん)の配置を明らかにしたものは少ないのが現状であります。寺域全
体にまで発掘調査が行われたものとしては、氏寺では備前国は服部廃寺(長船町)、吉岡廃寺
(瀬戸町)、賞田廃寺、幡多(はた)廃寺(岡山市)、備中国は栢寺(かやでら)廃寺(総社
市)、関戸(せきど)廃寺(笠岡市)、英賀(あが)廃寺(北房町)、美作国は大海(たいか
い)廃寺(作東町)、楢原廃寺(美作町)、久米廃寺(久米町)、五反廃寺(久世町)などが
あります。一方、官寺は備前と備中の国分尼寺以外は発掘が行われています。調査の結果、氏
寺の伽藍配置については、服部廃寺、栢寺廃寺、五反廃寺が四天王寺式、吉岡廃寺は法隆寺
式、賞田廃寺は川原寺式ないし薬師寺式、英賀廃寺は法起寺式ないし観世音寺式、大海廃寺は
法起寺式が想定されていますが、久米廃寺のように独自の伽藍をもつものもあり、地方の寺院
は中央の寺院と同じ伽藍配置をもたないことと寺院に使用された瓦からみて七堂伽藍は長い期
間をかけて完備されていたことが明らかになってきました。

 最後に全国的にも数少ない初期に造営された県内の寺院跡と瓦についてみてみたい。初期に
造営された寺院跡は、いずれも立派な七堂伽藍をもつものはなく、仏像のみを安置する小規模
なお堂のような建物であったとされています。このような初期の寺院として、秦原(はたば
ら)廃寺(総社市秦)、箭田(やた)廃寺(真備町箭田)、宿寺山(しゅくてらやま)遺跡
(山手村宿)があります。瓦は津寺遺跡(岡山市津寺)、加茂政所(かもまどころ)遺跡(岡
山市加茂)の2か所で出土するとともに、山手村宿には瓦窯(末の奥瓦窯跡)が確認されてい
ます。特に加茂政所と津寺遺跡出土の瓦は蘇我氏と傍系氏族の寺と推定される奥山久米寺(奈
良県高市郡明日香村)の瓦と大変よく似ているため、蘇我氏との関係が想定されます。時期は
奥山久米寺の創建が7世紀前半と考えられているため、加茂政所遺跡出土の瓦も7世紀前半と
推定され、現在のところ、中国、四国地方で最も古い瓦といえます。

 このように、7世紀前半において吉備の中枢部で蘇我氏関連の遺物をみいだせることは、蘇
我氏のもとでの造瓦を考えるうえにおいて重要であります。
[2]服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 17時06分59秒 ) パスワード
  

http://www1.harenet.ne.jp/~gs-msmz/norit.htm

には武田関連で載ってました。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 17時09分11秒 ) パスワード
  

婚姻関係ですね。
服部家から嫁に来て、
ということだそうですね。



則武家
津高郡尾上村(岡山市尾上)



則武(のりたけ)家の先祖は甲斐国の武田氏です。武田左京太夫信虎が駿河国に隠居して後、その地で生
まれた上野介信友を祖とします。信友は晴信入道信玄の末弟ということになります。武田家滅亡の後、永
禄年中に諸国へ修行に出た信友の子勝三郎宗勝が、備前に来て則武太郎左衛門信久と名乗って宇喜多家に
仕えています。信久は関ヶ原の戦で戦死、その子與一郎久勝は帰農して村の庄屋を勤めます。久勝の孫秀
勝は、延宝6年に備前国御野郡福島村(現在の岡山市千鳥町)に14町余の新田を開き、大庄屋に任命さ
れています。

秀勝の子保之、保春は岡山の城下、富田町で尾上屋という屋号の材木商を始めています。秀勝の跡を継い
だ貞勝の妻は隣の一宮村の庄屋寺尾家から来ていますが、寺尾家の相続人が居なくなり、貞勝の長男九郎
左衛門が継ぐことになりました。しかし、九郎左衛門も、のちに則武姓を名乗り、尾上村の則武家の分家
と云われるようになったそうです。両家は共に「武田菱」を家紋として同苗ですが、尾上は「源」姓、一
宮は「藤原」姓です。このちょっとした違いに両家の歴史が表現されていて面白いと思います。この違い
は、清水家と間野家の関係によく似ていて興味があります。九郎左衛門としては、母の実家を相続しては
みたものの、則武姓の方が偉そうに出来るので、改姓したのだろうと思います。

貞勝の曾孫與四郎勝善には2男、2女がありました。長女宇野は都宇郡津寺村の旗本榊原家の代官職をし
ていた服部家に、次女峯は、賀陽郡八田部村で備中松山藩の御用達をしていた西戎屋亀山仙右衛門博綱に
嫁いでいます。勝善のあとは長男與四郎勝英が継ぎましたが、勝英の3人の子は何れも他家に嫁いだり養
子に行って、弟の勝文が勝英の準養子となって相続し、勝長、達治勝順、正太郎、寧(やすし)と続きま
した。寧は昭和19年に中支で戦死し(享年32歳)、男子の相続者はいなくなりました。

勝英の長女は播州赤穂(兵庫県赤穂市)の藤本家に、次女は窪屋郡生坂村の間野家に、3女は賀陽郡八田
部村の北戎屋亀山久蔵の妻になっています。久蔵は西戎屋博綱の実弟です。

達治の妻知能は窪屋郡三輪村の大庄屋神々(みわ)和太郎の娘で、和太郎の妻は備中足守藩の佐伯瀬左衛
門惟正の長女です。佐伯惟正の実弟は日本に種痘を広め、大坂に適塾を開いた緒方洪庵です。こういう親
族関係ですから、則武知能は、岡山県で最初に種痘を受けた一人だそうです。

則武家が代々保管してきた文書は現在岡山県立図書館(岡山市天神町)に所蔵されています。

この則武家の周りには多くの則武姓の家があります。一族郎党、協力して乱世を戦って生き抜き、泰平の
世になってからは、力を合わせて農耕に励んだという歴史的背景が目に浮かぶようです。江戸時代に村の
庄屋をしていた旧家を訪ねると、たいてい周囲に同姓の家がたくさんあります。こういう家々の関係はほ
とんど戦国時代にさかのぼるようで、墓碑や過去帳などをもとにしてお互いの関係を考証することは不可
能な状況です。

岡山の旧家の系図を紹介した或る本に、尾上新田を開発して大庄屋格となった尾上村則武家の家系図が掲
載されています。その本には、私が上記に紹介した家とは全く別の則武家が掲載されていて驚いたことが
あります。

系図を調べるのは先祖を純粋に慕う気持ちで行っていただきたいと思いますが、一方では、お金を積んで
も自分の家系を飾ってみたいという人があり、またそれを手助けして金儲けをしようと企む人が居ること
も事実です。系図の公開については、偽系図のネタにされないように充分注意することが必要です。

私が繰り返し主張している広範囲に親族関係を調べることは、こういった系図の信憑性や親族関係の真偽
を確認することにも応用が出来ます。

信久――久勝――勝吉――秀勝――+――保之
                |
                +――貞勝――――+――九郎左衛門(一宮へ)
                |  (室寺尾氏)|
                |        +――展勝――勝屋――――+
                +――保春          (室屋葺氏) |
                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――勝善――+――勝英――+――登喜 赤穂藩藤本家へ
   寛政9 |(母服部氏)|
   室池田氏|      +――婦喜 生坂間野家へ
   室服部氏|      |
   室平井氏|      +――喜野 八田部村亀山家へ
       |      |
       |      +――岩次郎 児島郡尾原村古市家へ
       |
       +――勝文――勝長(室安原氏)――達治勝順(室神々氏)――――+
        (母平井氏)                        |
        (室堀家氏)                        |
                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――正太郎勝正――+――寧勝善
|  昭和19   |  昭和19
|         |
|         +――萬寿重
|         |
|         +――千恵 和気家へ嫁
|         |
|         +――信子 板倉家へ嫁
|         |
|         +――範子 檜垣家へ嫁――まり子――+――みどり
|                           |
|                           +――さくら

+――耕治――泰一――+――りか
           |
           +――信弘


一宮則武家は、明治になってから相続人がいなくなり、親族の大守(おおもり)家から養女熊を迎えまし
た。しかし、熊が平川貞五郎と婚姻を結び、その一人娘英(ひで)も婿養子を迎えて平川姓を名乗り、英
の子の代に則武家が復活しています。大守家は一宮の吉備津彦神社の神官大守大藤内(おおとうない)家
の分家筋になりますが、もともと寺尾家から別れたようですです。また、貞五郎は賀陽郡美袋村(総社市
美袋)の田邉寿太郎の次男で、母の実家になる川上郡備中町郷の平川家を一旦相続した後に離縁となりま
したが、そのまま平川姓を名乗っていました。貞五郎と熊夫婦は長年美袋に住み村長を勤めています。田
邉家ゆかりの人として美袋に住んだ最後の人ではないでしょうか。墓碑も田邉家墓地と一宮則武家の墓地
両方に建てられています。
[4]服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 17時12分24秒 ) パスワード
  

「ウキタ」が引っ掛かって来ましたね。




服部家
都宇郡加茂村津寺(岡山市津寺)



花房職之は宇喜多家の内紛から、佐竹氏に預けられますが、この時に家康のはからいで、次男職直は江戸
に残されました。職直は、家康の四天王の1人と云われた榊原康政の口添えで旗本に列し、その恩に報い
るために榊原と改姓しました。その後、上杉征伐や大坂の陣で活躍し、関東に800石、また、元和3
年、父職直の死後、備中都宇郡内に1000石を分与してもらい、三本木に津寺知行所を設置しました。
この知行所陣屋跡は「代官屋敷」と呼んでいますが、この責任者(代官)が服部家の先祖です。家紋は
「丸に剣酢草」、宗旨は日蓮宗で、岡山市津寺の宗蓮寺に代々の墓碑が所狭しと並んでいます(写真)。
寺には位牌も相当遺されているようですが、下記に述べるような次第で、家伝の系図、過去帳がありませ
んので、各々の仏様を線で結んで系図に仕立てることが出来ません。

徳右衛門宗玖、元和5
九右衛門賢清、寛永7
藤左衛門、寛文3
甚右衛門、寛文10
甚左衛門、元禄14
七郎兵衛、享保17
又兵衛、元文3
次郎七宣恭、明和1
甚左衛門、明和3
九右衛門、明和2
友蔵、寛政6
源蔵宣之、寛政4 室井手氏
九右衛門信好、文化8 室則武氏
繁右衛門、嘉永3

寛永7年に死去した賢清は、都宇郡加茂村上新庄畑田(岡山市新庄上)で庄屋を勤めた西田家から養子に
入った人です。古戦場備中府誌によると、もともと、新庄上の帝釈山城主に服部善兵衛尉という人が居
て、これが服部家の先祖のようです。善兵衛尉は、高松城の水攻めの際に、両陣営の連絡係を勤め和議に
持ち込んだ裏方だったようです。とすれば、江戸時代の服部家代々が住んだ三本木という所は、生坂清水
家の先祖が行動を共にしていた生石家の旧領でもあり、戦国時代にさかのぼる縁故の家ということになる
かも知れません、また、服部家と岡山市三手の渡邉家も縁戚関係になるそうです。寛政4年に死去した源
蔵の義兄弟になる井手和平宗信が西田如竹と号しているのも、西田、服部両家の複雑な親戚関係を証明し
ているようです。
西田家の先祖は阿保親王26代後胤左衛門四郎大江常祐が永禄9年に新庄造山に住んだのに始まるそうで
す。はじめ新庄氏と称し、次いで西田に改姓しています。

八郎治――友蔵――文平―――+――八郎治道集――八郎右衛門==琢士==保太郎――さの 白井家へ嫁
安永9  文化7 文化10 |  天保10   明治18       都志氏
              |         室都志氏
              |
              +――喜三治――仙左衛門――+――勝三郎――+――準太郎
                 文久2  明治4   |       |
                            |       +――正次
                            |
                            +――和三郎――+――和三郎
                                    |
                                    +――万亀治
                                    |
                                    +――高芳――晃――・
                                    |
                                    +――敏雄


明治維新当時の代官は八郎右衛門です。その後、琢士、保太郎と養子が2代続きますが、保太郎は離縁復
籍し、娘さのも白井家に嫁いだので、本家は絶家となりました。
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 17時15分46秒 ) パスワード
  

いかがでしょう?
この方に連絡をお取りになっては?

[6]さんからのコメント(2000年07月22日 12時45分38秒 ) パスワード
  

そうですね、向島とも縁のある家の様ですから、繋がる可能性ありますね。

ただ、私の容量の低い頭は系図で”ふにゃふにゃ”になりそうですので、頭を整理してから連絡を取りたいと思います。
[7]服部 明子さんからのコメント(2000年07月22日 23時28分23秒 ) パスワード
  

岡山の「服部駅」はソガ氏関連の服部氏のようで
私個人も個人的な思い入れは感じませんでしたから
別のグループでしょう。

伊賀には古代帰化人を住まわせたそうですから
ソガ氏関連の服部氏とは思いますが
伊賀の豪族服部氏と上総から流れて来た平氏が合流して始まったのが
私の先祖だろうと解釈しています。


長船の場所を調べたら岡山の東ですね。
服部駅は岡山から総社に行く途中ですから北西ですね。
ということは岡山でかなりの力を持っていた勢力だったようですね。


服部氏の母体の秦氏は当時最高の職能集団だったそうで
(機織りだけではなく土木技術とか金山関係なども含む)
古代の日本では莫大な経済力を有していたから
聖徳太子のパトロンもしてたし(最愛の妻は秦川勝の娘)
桓武天皇が平安京を造った時に全財産を投げて協力して
歴史から消えたと読んだことがあります。


日本の国作りの時代に力を持っていた豪族の末裔ということでしょうね。
[8]さんからのコメント(2000年07月23日 11時37分50秒 ) パスワード
  

服部さん、私、今ひどく胸騒ぎがしているんですけど・・・。

今は時間が無いので、理由は後で説明しますね。
[9]さんからのコメント(2000年07月23日 17時01分13秒 ) パスワード
  

すいません、上の文面、変に思わせぶりになっちゃってますね・・・、
子供が目を覚ましただけです。
失礼しました。

昨日”岡山の服部氏について書かれたHPに連絡を取ります”と書いてい居る間、傍のTVで「開運!!なんでも鑑定団」を放送中だったのですが、ちょうど私が書き終わった時、
「さて、次の依頼人はあの服部半蔵の子孫の方で・・・」
というのが聞こえたんです。

TV画面を見ると、現れたのは現在埼玉県在住の60〜70才ぐらいの女性でした。
徳川家に仕えた服部半蔵正成の説明が簡単に流され、

「その後、子孫は今治藩に移って松平家に仕え・・・」

という説明を聞いて、私はギクリとしました。


私は常々、向島・服部家がどこから来たのか考えていて、主として二通りの説が考えられると思っていました。
一つが岡山、もう一つが今治です。

岡山であれば平氏とは無関係、今治なら関係あるかも。

正直いって今治説の方に期待してたんですけど、まあ、岡山方面から来たと考えるのが自然かな、と思っていた訳です。
・・・たまたま名前が「服部」だっただけか、と少しだけがっかりしながら。

なんだか、そんな私の気持ちを見透かした様にその女性は現れました。

これって何かの暗示でしょうか、それとも単なる偶然かな?

私の祖先がどちらから来たにせよ、これが先祖発見のきっかけになるような気がするのですが。
[10]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 22時59分50秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2000年07月23日 23時25分13秒
[11]服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時40分34秒 ) パスワード
  

家紋のHPのリンクに岡山の家紋というのがあり
そこに「女紋」について出ていましたのでコピー致しました。


因みに私の使っているのは母方の女紋で「覗き菊」というものです。
○の中に8弁の菊が覗いている
というのです。


一応母からは「菊」である理由は聞いていますが
私には納得がいかないので調べなくてはと思っています。



***********************************



家紋には、定紋、替え紋、表紋、裏紋などの名称がありま
す。これは主にその家に結びついた家紋の対外的な使用順
をあらわしているのですがそうでないものもあります。そ
れが女紋です。今まで女紋は辞書によると替え紋や裏紋の
別名称を指しているような記述がほとんどでしたが(その
際ペアーになる紋は男紋という名称を付与しています)、
正確にはそれは日本全国であてはまるものではありませ
ん。日本のある地域では女紋をそのような場合で使ってい
るようですが、少なくとも岡山県では違います。では女紋
とはなんでしょうか?


【女紋の歴史と機能】


女紋は、代表的な女紋が丸に揚羽蝶であるように、元は女
系をたどれば平家に繋がる(平家の男系統はご存知のよう
に壇の浦の合戦が最後で絶えた)という血統の表示であっ
たろうと推測されています。女紋は江戸時代のものは確認
できるのですが、それ以前から使用されたかどうかは?で
す。ただ、女紋を受け継いでいる家の方は代々使用してい
ますと称していますから、もっと古くにさかのぼれるのか
もしれません。

ですから近藤雅樹先生が著書で指摘されているように女紋
が揚羽蝶の家は、昔は大地主であるとか庄屋の家があるの
です。(つまり女系は数百年たぐれば平家の姻族かも?
!)ただ、現在それが直接かんむ天皇に繋がるかどうかは
保証の限りではありません(^^;自分(女性)→母→母
の母(つまり祖母)→祖母の母とさかのぼれても江戸時代
ぐらいでしょう。

村のハイソサエティな家が女紋を使うものですから、それ
がだんだんと一般の家でも真似して使うようになりまし
た。今では、清和源氏であろうが、藤原氏であろうが岡山
県内の昔のちょっとした家柄(辞書に名門、旧家と出てい
るような家が該当)の家では珍しくありません。女紋を昔
は嫁入り道具に入れて嫁がせていたのですが、今は洋風化
したため、他人は結婚式の衣装と墓地でしかみることが出
来なくなりました。嫁入り道具に使った為、女紋は女性の
所有権、財産権の表示とも見て取ることができます。

一説には騎馬民族系統の文化を継承したとおもわれる源氏
系の家は、軍隊の統率の為、男性優位社会だったとおもわ
れます。そういった社会では女性の地位、権利を重視しよ
うとする努力があまり払われなかったため、女紋が発達す
る余地は無かったのではないでしょうか?(私見)


【女紋はどこにある?】

大名家墓地では、はっきり見ることができますし(備中国
岡田藩伊東家墓所を参照)、一般の家でもお嫁に行かない
ままなくなった女性や、出戻って実家で残りの人生を過ご
した女性の墓には彫られています。ですから岡山県内で墓
石から家紋を調査される人はその墓が女性墓かどうかを確
認する必要があります。他の都道府県のようにその家の正
式な紋ではなく、女紋の可能性も否定できないからです。

【女紋のグレード】


揚羽蝶が一番です。蔦などは子孫繁栄で好まれ、一般庶民
の家では、蔦が使われる他、オールマイティーな五三桐
は、結婚式場ではたいてい用意されています。でも、自分
のうちの女紋があるときは結婚式ではそちらを指定しまし
ょう!そのほか、私の調査ですと花や植物紋がよく使われ
ているようです。 ちなみに著者の家の女紋は丸に蔦(女
紋で庶民の家とわかってしまう(^^;)です。

【女紋の分布】


女紋が日本全国すべてで使用されているかどうかといえば
そうではなく一部の地域に限られているようです。近藤雅
樹先生によれば、女紋は関東地方ですと千葉県、それ以外
は瀬戸内海の沿岸各府県で見られるとあります。京都では
使用されていると聞いております(注1)が、それ以外の
そういった習慣のない地域の人たちにとっては、『女紋?
なんやそれ?』ということになります。結婚して姓も変わ
るのだから、紋も嫁ぎ先のを付けないの?という疑問を抱
く人もいますが、岡山県の場合それは女紋で、由緒がある
のだということを頭の隅にでも入れておいて頂ければ幸い
です。

女紋のより詳しい内容は近藤雅樹先生の著作を図書館でご
覧ください。



注1)京都では自家の家紋の付加された輪の部分を取って
女紋と称していると紋屋さんに聞いたことがあります。
例)家の家紋:丸に五三桐ならば女紋は五三桐、家の家
紋:丸に三つ柏なら、女紋は三つ柏という風に。
[12]服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時51分48秒 ) パスワード
  



これで出るでしょうか?
私の母方の関ヶ原敗北以来の紋は3つですが
もしかすると一族かも。
[13]服部 明子さんからのコメント(2000年07月24日 04時53分14秒 ) パスワード
  

やっぱりでませんでしたね。
[14]さんからのコメント(2000年07月24日 09時43分46秒 ) パスワード
  

「岡山の家紋」の女紋の説明は詳しくて、とても参考になりますね。
有難うございます。

うちの家紋もやはり「ひょっとしたら平家系かもね?」ってところでしょうか。
女の系図を千年辿って確証を得るのはやはり無理ですもの。

尾張周辺というより、千葉県や瀬戸内沿岸で見られる、と書かれていますね。
向島は瀬戸内海ど真中ですものね。

山口県ではあまり見られないらしく、実際うちの母は留袖に「対い蝶」を付けて、変な顔をされたこともあるようです。
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